第一章 終わりのはじまり
完結篇の前提には、ヨミ篇がある。
ヨミ篇ラストとその後の「復活」がなければ、完結篇もなかった。
これについての考えは、以前「019ジョーくん私論」の終章で書いたとおりなのだった。
009は、ミュートス篇でも死んだ…ようなラストを与えられている。
が、それについてのフォローはまったくないまま、何事もなかったかのようにヨミ篇は始まったし、いまだに「マグマ島から009たちがどーやって生還したのか」については一切が謎なのだった。そのことにマジメに言及するファンもそれほどいない、と思う。
ミュートスとヨミでは何が違うのか。
前者の場合は、作者の構想というよりは雑誌の方の都合で、いってみれば「打ち切り」のような終わり方だったのだ、と言われている。なるほどなーと思う。
言うまでもないが、それに対し、ヨミでは石森章太郎がはっきりと意識的に009と002を死なせている。
二人の死は物語の中に組み込まれ、物語世界を支える柱としても成立している。
いや、ちがう、二人はどこかで生きているのだ!と読者がこっそり信じることもできなくはないのだけど、でも、仮にそうだとしても、あの物語そのものは何も変わらない。彼らの生死そのものは本当の問題ではないのだ。
注目すべきは、作者・石森章太郎が、明確にあのラストシーンを物語の「終わり」として書いた、ということなのだった。
ヨミ編ラストが「009」の「作品としてのラスト」でもあるとはっきり言えるのは、あの物干し台の少年と少女がいるからだ。
009&002の生死と、そのこととは関係がない。
生きていようが死んだのであろうが、いずれにしてもあの少年と少女は、009と002を「祈り」の中に見つめた。
つまり作中人物である自分たちとは違う、異世界の中にいるモノとして見つめたのだ。
そのようにして、009たちは極めてはっきりと「サイボーグ009」という物語の外へと送り出された。
そして、二度とそこに戻ることはない……はずだった。
石森章太郎が009たちを「復活」させた際の事情を、ここで繰り返す必要はないだろう。
それが、「ファンの涙に負けた」結果だということはあまりに有名だ。
実際、圧力はスゴかったんだろうな…と思う。
脅迫まがいの訴えもあった、などなど、当時のエピソードはよく目にする。
でも。
私がどうしても不思議なのは、どのような理由があろうとも、石森章太郎が、ヨミ篇のつづきを書いてしまった…というか「書けてしまった」ということなのだった。
なぜ書けてしまったのだろうか!
所々で見かける石森章太郎のコメントが本当なら(たぶん本当なのだと思う)ヨミ篇のつづき、というのを彼は書くつもりがなかったし、おそらく書きたくなかったのだ…とも思う。
プロの作家というのは、何らかの理由で、時にやむなく心ならずも作品を書くことがある…ものなのだろう。いや、むしろそういうことの方が多い、ということすらできるかもしれない。
石森章太郎のこれも、そのひとつの例にすぎない…そう考えることももちろん可能だ。
でも、何だか違うような気がするのだった。
何だか違う…そう思うのは、私が出会った「009」は既にヨミ後だった…ということとも関係しているのかもしれない。私が「009」に出会ったとき、作品から、心ならずも書かれてしまった…というような印象はまったく受けなかったのだ。
もちろん、「009」はヨミまで!と感じているファンも多い…のだけれど。
石森章太郎が、ヨミ篇のつづきを書いてしまったのは、ファンの声に動かされてのことだった、という説明でとりあえずはいいのだろう。
が、もうひとつだけ。
ヨミ篇でこの作品を終わらせようとした作者として、逆説的ではあるけれど、だからこそつづきを書かなければならなかった…という理由がひとつだけあるのではないか、と思う。
「009」は終わったはずの物語だった。
だから、どうしても終わらせなければならなかった。
そして、終わらせるためには、書き始めなければならなかったのだ。
作者が、自分で終わらせたはずの物語を「本当に終わらせなければならない」なんて思ってしまうのは、もちろん、物語が「終わってくれなかった」から…なのだ。
でも、作者が終わらせたのに、物語が終わらない、なんてことが、あるのか。
…と考えても仕方がないのかもしれない。
実際、「009」は終わらなかったのだ。
石森章太郎がつづきを書いてしまったから。
なんだかよくわからなくなってくるのだった。
それでも。
何がどうであれ、ひとつだけ確実に言えそうなことがある。
もし、「009」の作者が「石森章太郎」でなかったら。
まったく同じことが起きたとしても、結果として続編は書かれず、「009」はヨミで終わっていたような気がする。
どうしても、そんな気がする。
「石森章太郎」だから、続編が書けたのだ。
逆に言えば、作者が「石森章太郎」でなければ、書こうにもきっと書けなかった。
書けなければ、どんなに読者に求められようが、作品は生まれない。
ヨミ篇のつづきを書いてしまった石森章太郎に、書かないでほしかった、とひそかに落胆するファンはいるのかもしれない。
でも、問題は「書いてしまった」というところにあるわけではない、と思う。
続編を書いてしまった石森章太郎ではなく。
続編が書けてしまった石森章太郎に、私はより強い興味を持つのだった。
本当に、なぜ、書けてしまったのだろうか?
だから、そもそも、作者が石森章太郎でなければ、「完結篇」の必要などなかったのではないか。
書かなければ、そこで終わり、なのだから。
終わるしかない。それだけのことだ。
書けてしまう石森章太郎だったから、完結篇への道のりが始まった。
そして、書けてしまう石森章太郎だったから、完璧なラストであったはずのヨミ篇が実は「終わっていない」ということにも気づいてしまったのかもしれない。
第二章 本郷猛と島田歌穂
私にとって、石森章太郎とはまず「サイボーグ009」の「作者」ではなく、「仮面ライダー」の「原作者」だった…と思う。
で、なにぶん、子供だったので、当時は「原作者」というのがどういうモノなのか、ちゃんとわかってはいなかった…とも思う。
仮面ライダーシリーズだけでなく、キカイダーやイナズマン、といったいわゆる特撮系の番組も結構見ていたのだけど、そこに「原作マンガ」がある、とちゃんと知り、それを読んだのはオトナになってからのことだった。もちろん、それもまた「サイボーグ009」の影を追う中で…だったのだけれど。
そうした「原作マンガ」を読みながら、大学生だった私は奇妙な感覚をおぼえていた。
主人公がみんな「同じ」に見える。
少なくとも、その作品を読んでいる間は、本郷猛は本郷猛にしか見えないし、ジローはジローにしか見えない。イチローだってサブロウだってハヤテだって海城剛だって、それにしか見えない。
にもかかわらず、ナニカが「同じ」に見えるのだった。
マンガはデフォルメされた絵である。
だから、人物が似たような感じになってしまうのは当然のこと。
…なのだけど、それとこの感じとはどこか違う、という気がする。
というのは、これもずいぶんオトナになってから、「仮面ライダー」のビデオをレンタルして見たときに、いきなり気づいたのだけど……
藤岡弘も、石森章太郎の絵に「似ている」のだった!
…………。
そーんなはずはないっ!!!
実は、この「感じ」については、あまり自信がないのだった。
そんな風に見えてしまうのは私だけなのかもしれない、と真剣に思うわけで。
だから、この「感じ」を何かの考えの根拠にすることは、もちろんできない。
…が。
実際、藤岡弘が石森章太郎の絵に似ているかどうかはおいておくとして、そんな気がした…ということが、ひとつのヒントになったのだった。
石森章太郎の描く主人公というのは、なんというか…
輪郭がない。
ということなのではないだろうか?…と。
全部同じに見えた…のは、そのキャラクター同士が絵として似ているとか、描き分けができていないとか、そういうことではなくて。
本当に、全部同じだったから…なのではないだろうか?
もっと丁寧に言うと。
同じに見えた、というのはちょっとひねくれた見方であって。
正しく言うなら、そもそも石森章太郎の絵、というものはない…ということなのではないか、と思ったのだった。
ないものを、比較することはできない。
そして、比較ができないから、同じに見える。
本郷猛は、本郷猛なのだ。
石森章太郎が描いた、絵としての本郷猛というキャラクターではない。
もちろん、絵なんだけど、絵ではないのだった。
石森章太郎が描くと、本郷猛は、本郷猛の絵ではなく、本郷猛になってしまう。
藤岡弘は、本郷猛を演じる。
それは、大河ドラマで様々な役者が豊臣秀吉を演じるのと似ている。
役者が精魂込めて演じれば、どんなに違った解釈であろうとも、結局は「豊臣秀吉」に見える。どれも「豊臣秀吉」だ、と、観客は納得してしまう。
その、共通する「豊臣秀吉」という概念…というか、幻想を、石森章太郎は絵で描いてしまうことができる…のではないだろうか?
輪郭がない、というのは「本郷猛」を絵として定義する線がない、という意味なのだった。
私は絵を自分で描くわけではないし、鑑賞する目ももっていない…と思うので、かなり自信はないのだけど、石森章太郎の絵は模写ができない、という話は時々聞くのだった。
輪郭をなぞり、形をなぞることなら、きっとできる。
でも、石森章太郎の絵は輪郭ではなく、形でもなく、線、なのだと思う。
形を似せることはできるのだけど、そもそも石森章太郎の絵の形、というものはない。ないものを模写することはできない……のだと、私は思う。
なぜ線なのか…というと、マンガとして表現されるモノはつまり線だからだ、というしかない。
石森章太郎がどうやって、「本郷猛」という概念…幻想を紙の上に表現してしまうのかは、想像もできない。でも、結果として、それは表現されてしまっている。
だとしたら、やはり、そこにある「線」が問題なのだと、考えるしかないのだった。
だから、石森章太郎のマンガは、実写化してもなお、石森章太郎に見えるのだ。
実写化された石森作品を、私はそれほど熱心に見たわけではない…ので、これもちょっと怪しいのだけど…
こんなふうに考えていると、思い出すのが島田歌穂だったりする。
というか、ロビンちゃん、である。
ロビンちゃんはロビンちゃんにしか見えない。
島田歌穂には見えない…というのは、彼女が今はオトナになったから、というような意味ではない。当時の子供だった島田歌穂だって、ロビンちゃんには見えなかっただろうと思う。
島田歌穂がロビンちゃんになるとき。
島田歌穂の個人としての輪郭…形は消えてしまう。
そして、だからこそ、ロビンちゃんのあの異様な外観が、日常世界の中にあっさりとけ込むことができる。その結果、ごくありふれた日常を孕む実写映像が、そのまま架空の作品世界となるのだった。
それはつまり、優れた役者が役になりきった、ということであり、それ自体は珍しいことではないのだろう。
島田歌穂が島田歌穂のままだったら、ロビンちゃんは決して出現しない。
演じる、とはそういうことなんだろうな、と思う。
そして、石森章太郎の絵は、島田歌穂のようなもの…なのかもしれない。
そこにあるのは、石森章太郎の絵ではなく、あくまで本郷猛なのだった。
それはもちろん、スゴイこと…なのだけど。
島田歌穂が見えないように、たぶん、石森章太郎も見えない。
見えないから、石森章太郎なのだった。
いろいろ怪しいのだけど、そんなふうに思っている。
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