39の日の記念…に全然ならないと思ったりしつつ(汗)だったらやるな(涙)
えと、原作・平ゼロ・ドラマCDの「星祭りの夜」について考えてみようと思ったのだった。
実を言うと、私は長いこと「星祭りの夜」がよくわからなかった。
わからなかったというか。
原作短編の中ではかなり好きなエピソードだった。とにかく美しいし切ないし。
どうだ!と言わんばかりの石ノ森調♪
…でも。
話自体はよくわからなかった。
どうしてわからなかったのかがわかったのは、平ゼロの「星祭りの夜」を見てから…のような気がする。
そこで、とりあえずそこから始めてみる。
そして、ドラマCDに至り、やっと「星祭りの夜」がわかったような気がしているのだった。
そこで、そこに向かって進んでみる。
1、平ゼロ「星祭りの夜」
〜母恋いの原型〜
平ゼロ「星祭りの夜」では、原作の後半部分が完全にカットされている。
そして、代わりに「アリス」という時を跳ぶ少女が登場する。
なぜこうなったのか…という疑問への回答として一般的なのは、「平ゼロでは9&3がまだ(?)恋人同士ではない設定だから」という説明だと思う。
が、その実、3つの「星祭りの夜」の中で、一番すっきりわかりやすいのはこの平ゼロ版だと思う。
この物語は、しまむーの「自分を見つめる旅」である。
自分を見つめる、とはこの場合、自分が真に求めているものを自覚し、それを得る…ということだと言い換えてもよい。
具体的に言うと、しまむーのそれは、「お母さんに会いたい」という願いだった。
アリスはしまむーの「願いをかなえてあげる」ためにやってきた。
が、その願いとは「お母さんに会いたい」ということなのだ!としまむーがすぐ気づいたかというと…気づかなかった。
アリスとの旅は、それを探し、気づくまでの旅だと言ってもよい。
しまむーは何がなんだかわからないまま、アリスに導かれて時間を跳び、母親に会う。
3つの「星祭りの夜」で共通するのは、この母親との邂逅である。
で、凄く素朴な疑問が生じるわけなのだけど…
しまむーを自分のコドモだ…という想像すらしていないだろう童女である母親に会うことが、「お母さんに会いたい」という願いを叶えたことになるのか?
平ゼロしまむーは、その点非常に素直なのだった。
彼は「そうだったのか…!」と女の子を見つめ「おかあさん」とつぶやき、涙を流す。
どうやら願いは叶ったらしいのだった。
この辺、かなり怪しい気がする。
が、ともかくもしまむーが納得しているから、それでいいとする。
…が。
その記憶は消されてしまう。
これもまた、3つの「星祭りの夜」に共通していることなのだが…
しまむーは、結局、お母さんに会い、包まれる幸福を味わうことがない。
母親との邂逅はそのもののみのイベントとして見ると、完成できていない。
…のだった。
平ゼロについてのみ言えば、涙を流していたとき、しまむーはその幸福感を確かに感受していたのかもしれない。
でも、記憶は消される。
その後生きていくしまむーに、母の記憶は許されない。やはり。
目を覚ましたしまむーは駅に降り立ち、放浪する。
アリスに出会う前のしまむーのままで。
しかし、コレではなんというか、物語の意味がない(?)ので、ラストシーンでアリスは言う。
きっと、ここに刻まれたはずよ。
彼女は、そっと胸を両手で押さえる。
優しく、確信のこもった仕草だ。
しまむーは母親を恋い求める。
恋うのは、それに魂がどうしようもなく引き付けられるのを止められないからで。
だから、しまむーの魂はさまよう。
魂が母親を発見し、受容され、満たされれば、しまむーは安定を得る。
満ち足りた魂はしまむーのもとに戻り、しまむーには幸福感がもたらされる。
…が。
しまむーの魂は決して母親を見つけることがない。
見つけられないから、彼は恋いつづける。
恋いつづける…のが、たぶんしまむーなのだ。
しまむーのしまむーたるゆえんというか。
だから、彼には決して母の愛など与えられない。
「星祭りの夜」は、その彼の宿命を一瞬解放する物語でもある。
それは、年に一度、特別な夜の奇跡…とも言える。
夜が明ければ奇跡は消える。
結局しまむーには何も残らない。
しかし、ホントに何も残らないのなら、物語の意味はない…ので、しまむーのさまよう魂の納めどころみたいなしかけが用意されなければならない。それがなければ、物語は終わることができない。
「アリス」はそのしかけだと言える。
彼女は異世界に住む少女として、しまむーと接触し、導き、しまむーの記憶を引き受ける。
しまむーには何も残されないのだけど、世界の外側からアリスが「ここに刻まれたはずよ」と宣言することによって、ココロに残されないけど残された…という矛盾に満ちた結末が物語を収束させる。
この、ごく単純な奇跡のしかけを見ることによって、そして、このしかけが「恋人同士である9&3」の代わりとして用いられた…と考えることによって、原作「星祭りの夜」の後半の意味が何となく見えてくる。
つまり、しまむーの恋人であるお嬢さん…は、アリスの役割を果たしているのだった。
満たされない宿命の母恋いを叶える奇跡を起こし、さらにそれをしまむーの現実から切り離しつつ、消すのではなく受け止める存在。
それが、お嬢さんなのだ。
平ゼロではお嬢さんはそういう存在になり得ていなかった。
だから、アリスが創られた。
しまむーが童女である母親を母親だと実感し、「お母さん…」と涙を流すことができたのは、その事件がアリスという存在によってもたらされた奇跡そのものだからだ。
そうでなければ、前にも述べたとおり、そんな実感は起こり得ない。
実際、アリスのいない原作・ドラマCDでは、しまむーは童女が母親であることに、そのときは全く気づかない。
「星祭りの夜」には、しまむー&お母さん、しまむー&お嬢さんの二つが描かれているわけではないのだと思う。
描かれているのは、終始、しまむー&お母さんだけで。
平ゼロでは、それがハッキリとした形で描かれている。
お嬢さんとの場面はそっくり削られた。
でも、「星祭りの夜」は成立する。削っても成立したのは、必要がないからだ。
「星祭りの夜」は、しまむー&お嬢さんの恋愛を描いたエピソードではなかったのだ。
平ゼロ「星祭りの夜」を見ると、それがわかる。
2、原作「星祭りの夜」
〜満たされない想い〜
原作「星祭りの夜」に、ホントのお嬢さんは登場していない…も同然だと思う。
登場しているのはしまむーのココロの中にいるお嬢さんのイメージ…だけだったりする。
物語前半で、童女である母に出会ったしまむーは、何かを感じる。
それは、なんだかわからないのだけど。
でも、しまむーはつぶやく。
なんだろう、この熱いかたまり…!この子を見ていると、まるで…
…まるで。
そして、しまむーは跳ぶ。
…まるで。の先にあるのは、たぶん「おかあさん」なのだと思う。
それなら、なぜしまむーは跳んでしまったのか。
「おかあさん」は目の前にいる童女…ではないのか?
…ないのだと思う。
「熱いかたまり」とは、おそらく彼の願い。
「おかあさんに会いたい!」という強い願い。
しまむーの魂は激しく揺れ、求めるモノへと引き付けられる。
…それが、なぜ異星人の恋人たちだったのか。
最後に、しまむーは恋人達に「共鳴」したのだ…と種明かしされる。
共鳴。
…ってことは、異星人の恋人たちの想いと、しまむーの母恋いとは、同質の想いだ…ということなのだろう。
異星人たちの想いを確認してみる。
引き裂かれる恋人たち。
オトコは「一緒に死のう…!」と彼女に言う。
しかし、彼女は言う。
いいえ…死んではだめ!
死んではだめなのだ。
彼女はこれを重ねて言う。
生きて、生きて、生き抜いて…!
彼女はまた、言う。
それに…別れてもまた、会えるのよ!
そんなのは「会う」ことにならない、とオトコは叫ぶ。
私は、彼が正しいと思う。
この場合、出逢いは一年に一度…だというけれど。
たとえば、十年に一度よりはマシじゃないか、とかいう回数の問題ではない。
問題は「特別なとき」にしか会えない…ということ。
そんなのは「会う」ことにならない、と私も思う。
人間の恋人同士として、ごく普通の恋人同士としての域を、それは踏み越えている。
離れていても愛し合っていれば、愛は永遠だ、というのなら…
たとえば、恋人が死んだとしても、同じことだということになってしまう。
そんなことを彼は望んでいない。
彼は生きた抱きしめることのできる恋人が欲しいのだ。
しかし、その切なる願いは許されない。
彼が選ぶことができるのは、離れたまま相手を想い続けることのみ。
そうして生き続けること。
これでは救いがない。
救いになるのは、言うまでもなく「一年に一度の出逢い」なのだ。
それは、奇跡の出逢いとなる。
彼女は、その奇跡を信じて生き続けよ、と言う。
受け入れるしかないオトコはそれを受け入れ、奇跡を信じつつ旅立つ。
「フランソワーズ!」と叫び、彼女を激しく恋いながら。
満たされない想い。
満たされないから、生きている限り恋い続けなければならない。
そして、更に、彼は生き続けなければならないのだ。
「共鳴」するのはここだと思う。
とすると、しまむーが「フランソワーズ!」と叫びつつ恋うているのは、フランソワーズというよりは母親である…はずなのだ。
母に会うことは、しまむーにとって、どうしても叶えられない願いだ。無理。この世にいないわけだし。
オトコが、恋人を抱き続けることができないように。
しかし、オトコには「一年に一度の出逢い」がある。
ならば、しまむーにも何か救いがあるはずではないか。
それを信じることが、僅かな救いとなる。
その救いが「星祭りの夜」の奇跡であり、「永遠の愛」なのだと思う。
夢は醒め、しまむーは帰宅する。
しまむーを迎えるのはお嬢さんの笑顔。
種明かしがされる。
あの童女は母親だったのだ…!ということをしまむーは知る。
…が。
しまむーは驚くけど…
平ゼロしまむーのような反応はしない。
むしろ、無反応だといってよい。
アレが母親だった…としまむーが気づくのは、読者への種明かし…の意味合いが強いと思う。
これによって、読者は童女が一種のスイッチであったことを理解できる。
彼女が母親だったから、しまむーの胸に「熱いかたまり」が生まれた。
そのエネルギーがしまむーの真の切なる願いを引っ張り出す。
彼女はスイッチにすぎないから、しまむーにそれ自体として感動を与えることはない。
そして、お嬢さんなのだけど。
夢の中で、お嬢さんはしまむーに「愛の永遠」を説く。
お嬢さんが説くから、しまむーは納得する。
キミはボクの恋人であり母であり…故郷と同じなんだから!
としまむーは語りかける。
ホントにそうかどうかはともかくとして、しまむーの心で、お嬢さんはそういう存在なのだろう。
そのお嬢さんが言うことだから、しまむーは受け入れる。奇跡を信じるのだった。
そして、それを唯一の救いとして、しまむーは永遠に恋い続ける宿命を受け入れる。
生身の母に会えなくても、愛を感じることはできる。
愛は永遠だから。
…と、しまむーは信じ、ひとまず母恋いの物語は収束する。
幼い母の姿・異星の恋人達。
それらは限りなく非日常的な世界にしまむーの意識を飛ばし、いつもは見えないものを一瞬だけ照らし出す。
そして、しまむーの心に息づく唯一の奇跡であり、救いでもある「愛の永遠」を体現する存在として、お嬢さんが幻のように現れる。
お嬢さんが登場したのは、おそらく、現実のしまむーが知っている具体的な「愛」がお嬢さんとの愛しかないから…なのだと思う。イメージはお嬢さんの形をとるしかない。他のイメージをしまむーは持っていない。
しまむーがお嬢さんを強く求めているから、お嬢さんをイメージとして見たわけではないのだ。
むしろ逆だろう。
なぜなら、持っているものは、求める必要がないのだから。
しまむーが「フランソワーズ!」と叫びつつ求めたのは、今持っていない、満たされないモノなのだった。
異星の恋人たちは運命に引き裂かれ、相手を求めつつ満たされず、それでも求めることをやめない。その想いに、しまむーは母への想いを重ね、共鳴する。
お嬢さんの姿を借りた「母」は、しまむーに、彼を抱きしめることはできない、と宣言する。
でも、生きよ、と告げる。
どこまでも生きて、私を恋い続けなさい、と。
「母」はそう告げ、立ち去っていく。
そして、激しく恋いこがれ、揺れ動くしまむーの魂を鎮めるのも、またお嬢さんのイメージなのだった。
鎮めることができるのは、お嬢さんの存在がしまむーの中で極めて安定しているからだと思う。
お嬢さんはしまむーに奇跡を見せる。
永遠に満たされることのないしまむーの、唯一の救いとなるだろう、愛の永遠という奇跡を。
しまむーはそれを信じ、現実世界へと覚醒する。
さまよう魂は満たされないまま、しかし彼のもとに戻り、物語は終わる。
「星祭りの夜」は9&3の愛の物語ではない。
むしろ、9&3の愛には物語などない。
しまむーの心において、お嬢さんが「恋人であり母であり故郷と同じ」存在である、ということは無邪気なまでに自明のことであって揺るがない。全然揺るがない。
そういう場に、物語はありえない。
揺るがないお嬢さんを定点として、しまむーは恋い続ける。
それは決して満たされることのない想いだから、定点がなければ、しまむーは魂が帰る場所を失い、崩壊してしまう。
ということは。
しまむーの恋がお嬢さんに向かうことは決してない、ということでもあるのだ。
お嬢さんがいるから、しまむーは満たされることのない想いを抱き続けることができる。
お嬢さんが常に傍らにいて、愛は永遠だ、と微笑んでくれるから、しまむーは旅立つことができる。
その旅がお嬢さん自身に向かうことはあり得ない。
つまるところ、「サイボーグ009」の主人公はしまむーなので、この問題はそれほど真剣に取り上げる必要もないのだと思う。
しまむーの防護服に丸いのが四つくっついていることに疑問の余地がないように、お嬢さんがしまむーの傍らにいて、彼の恋人であることに疑問の余地はない。
疑問の余地がないところにドラマはない。
お嬢さんはしまむーにとって、まさしく絶対無二の存在なのだ。
それは何か尊いような気もするけど…
絶対無二であるがゆえに、ラブストーリーは存在しない。
そう考えると、お嬢さんはホントにしまむーのためだけに存在しているようなモノなのだ。
その存在意義が語られることなどない。それは主人公しまむーのひとつの前提なのだから、語る必要もない。
でも、お嬢さんは都合のいい記号的ヒロイン…といいきるにはリアルすぎる女の子でもあって。
リアルな女の子がなぜ、しまむーのためだけに存在している…なんてことに耐えられるのか。
それは、お嬢さんの愛が文字通り無償の愛であって、お嬢さんが常識では考えられないほど無私無欲の、慈愛の女神のような女性であるから…なのだ。
003至上主義者としてはそう考えるしかないと思う。
でも、お嬢さんがそういう女性であるなら、当然お嬢さんの愛は報われることがないし、しまむーに気づいて貰えることすらないのだ。
慈愛の女神の恩寵を、恩寵であるがゆえにしまむーは無自覚に受け取る。
無自覚でいられるのは彼女が慈愛の女神であるからだ。
それが原作9&3の逆説的宿命だと思う。
「星祭りの夜」では、かなりまわりくどいやり方ではあるけれど、揺れ動くしまむーの心に定点としておかれているお嬢さんの姿から、私たちは彼にとっての彼女の位置づけを確認することができる。
その位置にあることがお嬢さんにとって実際幸せなのかどうかというと、幸せであるはずないような気がするのだけど。
でも、普段はその位置づけの確認すらさせてもらえないわけで。
そういう意味で、「星祭りの夜」は、描かれ得ない宿命の9&3の愛の姿を一瞬照らし出してくれる。
003至上主義者にとっては、それもまた「星祭りの夜」の奇跡なのだった。
繰り返すが、それでお嬢さんは幸せなのだろうか…というと、幸せではないよな〜と思う。
でも、「星祭りの夜」はお嬢さんの幸せになど頓着しない。
現実のお嬢さんは何も語らず、しまむーに寄り添い、ともに星空を眺める。
しまむーの心の世界での姿そのままに。
しまむーは恋い続ける人である。
その苦しみに終わりはない。
しまむーの願いは叶えられなかった。
「星祭りの夜」は、それは叶えられない宿命なのだとしまむーに教えつつ、しまむーを救う。
お嬢さんの姿を借りて。
しまむーはお嬢さんを信じる。
無条件で絶対無二の女神であるお嬢さんのコトバだから、信じることができる。恋い続ける限り、愛は永遠であると。
それが、「星祭りの夜」の奇跡である。
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