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記念品など

「星祭りの夜」考・下
3、ドラマCD「星祭りの夜」 
〜「003」の発見〜
 
この作品は原作と完全に違う方向を向いて作られている。
銘打ってあるとおり、この「星祭りの夜」はしまむー&お嬢さんのラブストーリーとして位置づけられている。
だから、当然のことなのだけど、お嬢さんは「相手役」として登場する。
求め求められる存在として登場する。
 
「きみは恋人であり母であり……」と、彼女を定点に置こうとするしまむーを、お嬢さんは拒否する。
そこから、新しい「星祭りの夜」は始まる。
 
実を言うと、お嬢さんその人は原作とほとんど変わりないのかもしれない。
始めにお嬢さんは
 
ジョー、もう行ってしまったの…そう。いい旅をね。
 
とつぶやく。
置き手紙でも見たのかな〜?という感じなのだけど。
何となく諦念がただよう穏やかな言葉だと思う。
そして、「お帰りなさい、ジョー」と迎える彼女も、あくまで穏やかで。
最後の「…え?」も無垢な声だと思う。
 
変わったところはひとつ。
 
お母さんに会えたの、009?
 
だ。
ここでお嬢さんは「009」と彼を呼ぶ。
 
原作のお嬢さんは「お母さんに会えたの?」とは聞かない。
しまむーは自然にあの童女を思い出す。
 
が、こっちのしまむーはお嬢さんに問われ、考える。
 
ぼくが出会ったのは、003だった。
 
しまむーはお嬢さんを「003」と呼ぶ。
そして、童女を思い出す。
 
だからなに…?ってことかもしれないけど。
でも、ここでしまむーの意識は「003」をとらえ、「童女」をとらえようとする。
「003」は母を求めるしまむーを他者として見つめ、問う存在なのだった。
 
恐らく、原作での003はそういう存在ではない。
彼女はしまむーの心に外から問いかけたりしない。
彼女はしまむーの心と完全に同化している。
 
ドラマCDのお嬢さんは、
 
私はあなたのお母さんじゃない…女よ!
あなたを恋するひとりの女。
 
と叫ぶ。
ディープ・スペースに似た言葉だけど、お嬢さんの立場は微妙に違っている。
「ディープ・スペース」では、しまむーにとっての「女」は強引に「母」に集約されていく。
そこにあって、お嬢さんは自分も恋人ではあるけれど、母と「同じ」女なのだ、だから受け入れて!と主張することになっていく。
しかし、ドラマCDのお嬢さんは、自分を「母」と切り離すために「私は女よ!」と主張する。
 
この主張では、しまむーはまだ動かない。
しまむーを決定的に動かしたのは、
 
もう一度抱きしめて、ジョー…!あなたのぬくもりを忘れないように。
 
だと思う。
忘れちゃうのだ。彼女は。
抱きしめてあげないと、離れていると、彼のぬくもりを忘れてしまうのだ。
しまむーは呆然と呟く。
 
フランソワーズ…003…!
 
それが、003だ。
もしかしたら、しまむーが初めてみる「003」なのだった。
 
母を恋い求めるしまむーの心のドラマ、それと重なっていた異星人たちの物語から、「003」が剥がれ落ちる。
彼女の声は、もうしまむーの中で肉声として響かない。
もちろん、宇宙艇の無線を通じての言葉だから当たり前といえば当たり前なのだけど。
この辺りはCDならではの演出で、うまいな〜と思う。
 
原作で、異星人のメッセージを叫ぶのはしまむーだった。
原作の彼は最後まで自分とお嬢さんのイメージをこの物語に重ね合わせて破綻を感じることがない。
 
しかし、「違う…」と、このしまむーはつぶやく。
違うのだ。
聞こえてくる声は誰の声なのか?
しまむーは混乱する。
 
「僕が会いたかったのは」誰だったのか?
そして、彼が会ったのは誰だったのか?
 
母親か。
「003」か。
 
どちらだったのか…というより、この二者が分裂していることの方に意味があると思う。
ここが、原作のしまむーとの決定的な違いになっている。
 
帰宅し、事件を知り、イワンによって精神を飛ばされたと知ったしまむーは考える。
あれは、自分の心の真実を知る旅でもあった。
普段は気づかない本当の自分を。
 
それじゃ…フランソワーズは…
 
しまむーは思い返す。
 
原作のしまむーは、あの童女が母親だったのか…!と思ったとき、次に見たお嬢さんのことはもう思い出さない。
おそらく、思い出す必要がないのだ。
お嬢さんと童女…は「母」として同化している。「愛」を体現する存在として。
 
しかし、ドラマCDのしまむーは考える。
あの女の子が自分の母親だった。
そうしたら、あの「003」は?
 
「003」との会話を振り返ってみる。
しまむーはこんなことを言うのだった。
 
夜になってようやくきみの住む星が見えても、ぼくはそれを眺めながら、手の届かないきみのことを考えながら、ただ泣くことしかできないんだ!
 
ホントですか(汗)と言いたくなるような台詞だけど、実はこれでいいのだ。
しまむーには泣くことしかできない。
「きみ」には手が届かないから。
 
手が届かない「きみ」と死んでしまった「母」は容易に一致する。
ここまでは原作と同じ。
むしろ、原作よりわかりやすい表現になっている。
 
でも、彼女は、自分は「003」だと言う。
彼を恋する一人のオンナにすぎない、と。
そのことに、しまむーは気づく。
 
彼女は母ではない。
ということは、手が届かない存在ではない。
 
しまむーが母を得ることができなかったのはしまむーの責任ではない。
しまむーは嘆き、ひたすら恋うしかないし、別の言い方をすれば、「それだけですむ」のだ。
 
でも、「003」はそのしまむーの世界からはみ出している。
抱きしめなければ、彼女は去ってしまう。
しまむーを忘れてしまう。
消えてしまうのだと言ってもよい。
 
抱きしめるか抱きしめないか、しまむーは選ぶことができる。
ってか、選ばなければならない。
泣いてる場合じゃないのだった。
 
ただし、この「私はお母さんじゃない!」と言ったお嬢さんもまたしまむーの心にいるお嬢さんなのだ。
しまむーはお嬢さんがいつも「私はあなたのお母さんじゃない!私を抱きしめて!」と叫んでいるのを知っていたのかもしれない。
知っててバックレていたのだった(踏み)
 
しまむーの中には「003」がいる。
抱きしめなければならないひとりの恋人としての「003」がいる。
でも、普段はソレを封印し、しまむーは普遍的愛の象徴として…動かぬ存在として、フランソワーズを捉えてきた。
だから、フランソワーズは容易にしまむーのイメージと同化し、しまむーの魂を鎮めてくれる存在となった。
 
ドラマCDでは、しまむーもお嬢さんも
 
愛だけは…永遠に
 
と、言わない。
 
そういう愛はあるのかもしれない…というか、あるのだ。
しかし、その愛の中に浸ることは、ひとりの人間としての恋人を見失うということでもある。
他者としてのひとりの恋人が永遠であることなどありえないではないか。
 
例えば、ディープ・スペースで、しまむーに迫る「女」は不定形生物だった。
 
「女」はしまむーに迫る。
しまむーが求める「母」の姿を借りて。
あるいは現実の恋人であるお嬢さんの姿を借りて。
でも、しまむーはそれが「母」ではないということを感じ、彼女を拒否する。
 
彼女が「母」であるはずがない。
「母」は恋い続けよ、生き続けよと囁く存在なのだ。
両手を広げて彼を抱きしめ、満たそうとするのは「母」ではない。
それは、「ひとりの女」なのだった。
 
しまむーは頑なに「ひとりの女」を拒否する。
どんな姿であろうとも拒否する。
もちろん、お嬢さんの姿であっても。
 
「女」は「ひとりの女」であることを許されず、不定形生物としてしまむーの前に立つしかない。
彼がただひとつ受け入れる可能性のあるキーワード「母」を手がかりに。
 
しまむーは、最後に「女」に身を委ねる。
が、それは、彼女を自分の「満たされない想い」と同化させることでもあった。
他者であるひとりの女を受け入れたのではない。
しまむーは「アンタもボクと同じ生き物なのかもしれない」という納得の仕方をしてしまう。
「ひとりの女」としての存在を奪われ、しまむーにのみこまれたのは「女」の方なのだ。
 
しまむーは絶対にひとりの他者を受け入れることがない。拒絶する。
それより、恋い続けることを選ぶ。
そこに永遠の愛があることを信じ、彼は追うことをやめない。
 
「星祭りの夜」では奇跡が与えられているけれど、「ディープ・スペース」には救いがない。
それでも、しまむーは求め続ける。
 
おそるべし、しまむー。
ってか、よかれ悪しかれ、それがしまむーなのだと思う。
 
しかし。
母を求め、「永遠の愛」を感じ取り、003を捨てた原作「星祭りの夜」に対し、ドラマCD「星祭りの夜」は母を切り離し、「永遠の愛」を捨て、003を見出した。
 
…のかもしれない。
 
そんなことしちゃってどーするつもりなんだ????
 
…という疑問が生じるのだった。
003を他者として抱きしめることがしまむーにできるのか?
できるとしたら、しまむーはどうなるのか?
それとも、やっぱり(?)できないのか?
 
そして、お嬢さんは…????
 
原作9&3の根底にありつつ、だからこそ作品がバックレていた問題が最後の最後に急浮上する。
大丈夫なのかしまむー?
 
「003」を発見したしまむーは選ばなければならない。
ひとりの女である現実の003か。
心に住む永遠の愛の象徴、フランソワーズか。
 
結論は、ひとつしかない。
それはもう決まっている。
だって、しまむーはしまむーでなければならないのだ。
選ぶことなんかできないのだ。
 
選ぶことができないのだから、原作はしまむーにそれを選ばせなかった。
だからしまむーは無自覚でいられた。
 
でも、ドラマCDはそれをしまむーの前に突きつける。
しまむーは、自ら手を下さなければならない。
自ら物語の幕を下ろさねばならない。
 
 
4、「ごめんよ、フランソワーズ」
〜003とフランソワーズ〜
 
踏んでも踏んでも飽き足りない現実だが、しまむーはしまむーである以上「003」を選ばない。
「003」に気づいたしまむーは、「違う…」と繰り返す。
 
僕が、会いたかったのは…
 
異星人の少女は「003」だった。
共鳴が崩れる。
 
少女は、原作の9&3と同じように、宇宙へメッセージを…!と呼びかけるのだけど、しまむーの心にそれは響かない。
彼女の声は見知らぬ異星人の声であり、恋人たちのドラマもまた異星人の恋物語にすぎない。
「奇跡」は起こらなかった。
 
しまむーは帰宅する。
研究所にはお嬢さんがいる。
お嬢さんは、原作のお嬢さんと変わらない。
穏やかで、優しくしまむーを受け入れる。
 
「お母さんに会えたの?」とお嬢さんは聞く。
しまむーは考える。
 
僕が出会ったのは、003だった。
 
…ってことはお母さんには会えなかった、としまむーは思っているわけで。
彼はお嬢さんの問に答えない。
 
お嬢さんは沈黙している。
問に答えないしまむーを更に問いつめることはしない。
沈黙してしまむーを見守っている。
つまるところ、現実のお嬢さんは、原作のお嬢さんと何も変わっていないのだ。
 
そして、しまむーはあの童女が母親だった…ということを知る。
あの童女に会ったことが、母親に会ったことだったのだ。
それなら、あの003は…?
 
しまむーにはわからない。
しまむーは、お母さんに会うつもりだった。
で、童女に会ったわけだけど、実のところ、平ゼロしまむーのような感動を、しまむーは味わっていない。
 
だから、しまむーは童女に会ってなお、「母」に会いたい、と思い続けていた。
だとしたら…なぜそこに「母」ではない003が現れたのか。
 
お母さんと003は違う、ということはさすがのしまむーにとっても当然のことなのだから、気づいた以上、しまむーの心には疑問が生まれる。
 
この疑問は、原作にない。
原作しまむーは、このことに気づかないで物語の結末を迎える。
 
でも、このしまむーは気づいてしまった。
童女と003は違う存在だと。
当たり前なのだけど、それにはっきり気づいたしまむーの理性は、当然この疑問にたどり着く。
 
どうして、自分は003を見たのか…と。
 
お嬢さんのコトバが謎を解く。
心の旅は、自分の真相に出会う旅。
いつもは気づかない、自分の本当の心に出会う旅。
 
しまむーの心に、異星人の少女のコトバは蘇っただろうか。
 
彼女は、死んではいけない、と言った。
それは、死んでしまったら何も生まれないから…なのだ。
 
しまむーは生き続け、母を求め続ける。
手が届かない星を見上げるように、届かない母を恋い続ける。
しかし、お嬢さんは違う。
 
お嬢さんは「もう一度抱きしめて!」と願う。
あなたのぬくもりを忘れないように。
 
お嬢さんも「母」と同じように、しまむーに生きよ、と言う。
でも、しまむーに、永遠に恋い続けよ、と言っているのではない。
ひとりの男、ひとりの女として抱き合い、ぬくもりを確かめ合い、新しい何かを生みだそう、と言っているのだ。
 
抱きしめなければ、ぬくもりは消える。
そういう儚いただの恋人同士として生き続け、愛し合い続けようと彼女は言う。
 
しまむーにはそれがわからなかった。
わからないしまむーに、お嬢さんは叫ぶ。
 
あなたは、そうやって自分の気持ちをぶつけるだけ。
私の気持ちなんて、ちっともわかってくれない。
 
「わかってる!」と反駁するしまむーに、お嬢さんはきっぱり首を振る。
 
しまむーにはわかっていない。
わかっていないしまむーは陶然とつぶやく。
 
君は、僕にとって、恋人であり母であり、故郷と同じなんだから。
 
しまむーは、永遠の愛の象徴として、お嬢さんを求め続けようとする。
手の届かないお嬢さんを。
でも、お嬢さんにとって、それは生きて相手を思い続けることとはいえない。
 
ただし、最終的にとる行動は二人とも同じなのだ。
しまむーもお嬢さんも、結局相手を愛し続けようとする。
一緒に死ぬのではなく、生き続け、相手を求め続ける。
 
だから、原作しまむーはバックレた。
異星人の少女の願いを、本質的に自分の母恋いとは異なるその願いを、お嬢さんのイメージを用いて自分の願いに同化させた。
お嬢さんは、しまむーにのみこまれ、しまむーと同化し、しまむーに救いをもたらす存在となった。
それは同時に、少女の…お嬢さん本人の願いを摘み取り、握りつぶす行為でもあるのだった。
 
ドラマCDのしまむーはバックレることができない。
 
しまむーは、異星人の少女にお嬢さんを重ね、愛は永遠だ、きみを愛し続ける。と誓うことができる。
それはもう、簡単にできる。
しまむーの心に、誓いに嘘はない。
でも、その誓いはお嬢さんの願いを踏みにじる誓いでもある。
 
しまむーが求める、満たされない想いの中に組み込まれたら、お嬢さんは新しいものを生み出したい、ぬくもりを与え合いたい…と願うことができなくなる。
 
しまむーが何を考えたのか、実のところ、よくわからない。
でも、しまむーが、自分の見たものは自分の心の真相だと知った…ことだけは確かだ。
そして、彼は言う。
 
ごめんよ、フランソワーズ。
 
お嬢さんは「え?」と怪訝そうに応じる。
お嬢さんにその声は届いた。
届くように、しまむーは言ったのだ。
 
ドラマは終わる。
しまむーはお嬢さんに答えない。
ここでドラマが終わる…のだから、しまむーはお嬢さんに何も告げないと決めた…ということだ。
ただ、「ごめんよ」とだけ告げ、ドラマは終わる。
 
しまむーがしまむーである以上、結論は決まっているのだ。
そして、お嬢さんがしまむーの唯一の恋人であるという事実も、決まっていることだ。
 
だから、しまむーは沈黙すればいい。
現実のお嬢さんは何も気づいていない。
お嬢さんはしまむーの惜しみない愛を受け、しまむーを惜しみなく愛し続ける。今までのように。
これからも、それが変わることなどないのだ。
 
ごめんよ、フランソワーズ。
 
しまむーは彼女を「フランソワーズ」と呼ぶ。
「003」ではない、永遠の彼女だけが彼の愛するフランソワーズだから。
でも、「フランソワーズ」と「003」は同じ女性なのだ。
 
しまむーは、「003」を見出した。
見出したけれど、受け入れることなどできない。だから、捨てるしかない。
 
愛が自己犠牲なのだとしたら、しまむーが選んだ道は愛と逆方向を向いている。
しまむーは、自分の願いを通し、お嬢さんの願いを握りつぶしたのだ。
もちろん、しまむーの胸は痛む。
痛むけど、しまむーは「003」を捨てる。
 
踏んでも踏んでも飽き足りないのだった。
 
もっと好意的に(?)見ることもできなくはない。
しまむーは、自分の心の真実を見て、反省して、「ごめんよ」と言ったわけだから、これからはココロを入れ替える決心をひそかにしたのだ…とか。
 
そうなのかもしれない。
でも、だからと言って、しまむーにこれから何ができるだろうか。
彼が変わることができる、という結末だというのなら、「ごめんよ」「…え?」で終わるのはちょっともの足りない。
余情を残す手段として切った、とも考えられなくはないのだけど。
 
いずれにせよ、奇跡は起こらなかった。
しまむーは母に包まれることのない自分の運命を悟り、それを救ってくれる唯一の存在であるはずのお嬢さんもまた、自分を離れていく可能性のあるただの女なのだと悟る。
救いはどこにもない。
 
ドラマCD「星祭りの夜」は、奇跡の物語ではなくなってしまった。
文字通り、しまむーの心の真相をしまむーに見せる物語…となったのだ。
 
しまむーは、自分の願いは決して叶うことがないと知っただろう。
そして更に、自分は「もう一度抱きしめて!」というお嬢さんの…最愛の女性のひとつの願いに、どうしても応えられない存在であることも知ったはずだ。
それでも、そのお嬢さんしか還る場所はない。
しまむーは「ごめんよ」とつぶやく。
 
お嬢さんは「え?」と振り向く。
お嬢さんは気づかない。
気づかないお嬢さんと気づいたしまむーは、これからもお互いを愛し続けるだろう。
それぞれが、自分のすべてをかけて。
 
救いがあるとしたら、この無垢なお嬢さんの姿なのだ。
しまむーは「003」を捨てた。でも、お嬢さんはそれに気づいていない。
それなら、しまむーにわずかな救いが残る。
 
このまま…このまま、彼女を守り続ける。
無垢な姿のまま。
それだけが、しまむーに残された道となる。
しまむーは「ごめんよ」とつぶやき、それ以上語らない。
 
そのようにして、ドラマCD「星祭りの夜」は終わる。
 
 
5、お嬢さんの「星祭りの夜」
〜凧上げ〜
 
ここまでをまとめてみると、つまり「星祭りの夜」とは、母を恋い求める…コトバを変えれば「永遠の愛」を恋うしまむーのドラマなのだ。
もちろん、それは本来手に入るはずのないもので。
しかし、それを永久に求め続けるのがしまむーなのだった。
 
平ゼロ「星祭りの夜」は与えられるはずのなかったものが、ほんのひとときしまむーに与えられた…という、奇跡の話…素朴なおとぎ話である。
原作「星祭りの夜」は、与えられるはずのないものを求めるしまむーが、しかし、それは必ず存在するのだ、と確信し、希望を見つける、これもまた奇跡の話といってよい。
そして、ドラマCD「星祭りの夜」は与えられるはずのないものを求め続けるしまむーが、そんな自分の姿に気づく…という話だと思う。
 
しまむーの求めるものは、「母」に象徴される。
平ゼロでは、それは素朴に母そのもので。
原作では、今腕に抱いている恋人の奥底にきらめく「永遠」。
ドラマCDの場合、それは手の届かない彼方に輝く星のようなものである。
 
そして、しまむーのお嬢さんに対する意識もかなり違う。
平ゼロでは、ほとんど意識されていない。
原作では、強烈に意識されているものの、それは自分の一部としてのお嬢さんの幻である。
ドラマCDでは、お嬢さんをはっきりとした他者として、そして恋人として意識している。
 
…が。
ちょっと視点を変えてみるのだった。
お嬢さん…というのはもちろん、お留守番している現実のお嬢さん…にとって、この「星祭りの夜」とはどういう話なのだろうか?
 
…すると。
これは当たり前のことなのかもしれないけれど、3つの「星祭りの夜」は、どれもお嬢さんにとっては同じ話…のような気がする。
 
平ゼロのお嬢さんは、物語の中でしまむーとコトバをかわすことがない…というか、顔を合わせることすらない。が、登場する。
どこにいるかわからないしまむーが、どこかで流星群を見るかもしれない、というコトバに「そうね…そうかもね」とつぶやく。
 
お嬢さんは、置いていかれてしまった。
これは、3つの作品どれにも共通している。
 
置いていかれたお嬢さんは、少し寂しそうな風情を漂わせるけれど、寂しい、とは言わない。
そして、しまむーの旅が「いい旅」であるように祈っているようである。
全然しまむーに思い出して貰えない、物語に全然絡むことのない平ゼロお嬢さんでさえそうなのだ。
 
原作・ドラマCDのお嬢さんは、どちらも帰ってきたしまむーを優しく迎える。
やはり、どこか寂しそうなのだけど…でも限りなく優しい。
 
お嬢さんにしてみれば、しまむーが一人で旅に出てしまった。そこに自分の入る隙間はない…
のがよくわかっているから、でもしまむーが帰ってくることもわかっているから、静かに待つ…ってところなのだろう。
 
もちろん、お嬢さんがしまむーの心のドラマに気づくこともない。
平ゼロお嬢さんは言わずもがなで。
ドラマCDお嬢さんも結局「…え?」だし。
原作ではちょっと思わせぶりだったりするけど、お嬢さんは素直に遠い星の恋人同士の話に感動しているだけだと思う。
感動して、でもっていつものようにしまむーに寄り添ったりする。
 
ドラマCDで「愛だけは…永久に」がないのは、しまむーの心にそれがないから…だと思う。
お嬢さんについてだけ言えば、引き裂かれた恋人同士の話をきいたとき、それぐらいの感慨は生じていただろうという気もする。
ただ、しまむーの様子がなんか変(?)だったから、そっちに気がちょっとそれてしまったというかなんというか。
 
お嬢さんは、しまむーが何かを探しに行ったことを、たぶん知っている。
そして、それは彼の手に入らない…ということも知っているのかもしれない。
だから、お嬢さんはちょっと寂しそうで…帰ってきたしまむーに優しいのかもしれない。
 
お嬢さんは「私も連れて行って」とは言わない。
旅の話を根掘り葉掘り聞くこともしない。
ドラマCDでは「お母さんに会えたの?」とあるけど、これは物語上のしかけというかスイッチみたいな働きをしている特殊な台詞だと思う。実際、お嬢さんがそれ以上しまむーにツッコミをいれることはしないのだ。
 
唐突だが、しまむーとお嬢さんは凧と凧上げする人…みたいだ、と思ったことがある。
しまむーはなんだかわからないのだけど、むやみに空の彼方へとぐいぐい向かっていこうとする。
お嬢さんは地上にいて、そんなしまむーを一本の糸でつなぎ止めている。
 
凧はお嬢さんのことなど見ていない。
ひたすら空の高みをめざし、とび続ける。
でも、もし糸が切れてしまったら。
 
糸の切れた凧はゴミだったりする(しみじみ)
 
そして。
お嬢さんは一生懸命凧を見上げている。
それでいいのだ。
だってそうではないか。
凧上げする人は、飛んでいる凧を見るのが何より楽しいのだ。
 
凧上げを終えて、お嬢さんはおうちに帰る。
凧を大事に胸にかかえて。
もちろん、そんな時間も二人にはある。
 
でも、凧と凧上げする人が一番幸せなのは凧上げしてるときなのだと思う。
 
しまむーは、いつもはお嬢さんのことなど考えない。
考えず、空の高みをめざす。
でも。
 
ある日、ふとしまむーは地上を見下ろすのだ。
そこに、お嬢さんがいる。
お嬢さんは張りつめた強い糸に指を傷つけているかもしれない。
 
お嬢さんは地上へとしまむーを引く。
引かれていることにしまむーは気づく。
 
こんなに引っ張られていたのか!
 
としまむーは不意に気づいたりする。
そして、傷ついたお嬢さんの指にも気づく。
 
ボクが、キミのもとに降りていけば、キミが傷つくことはない。
 
…でも。
 
でも、しまむーはとぶことをやめられない。
お嬢さんに心で謝りながら、それでもやめられない。
 
謝る必要がないのは言うまでもない。
 
凧上げしてるのに、凧が上がってくれなかったら、こんなにつまらないことはない(しみじみじみ)
だから、しまむーはコレでいいのだ。コレでお嬢さんは幸せなのだ。
 
お嬢さんの指はもう傷だらけなんだけど。踏み>しまむー(怒)
 
ドラマCDで、しまむーが見た「003」の姿もまた、しまむーの作った幻なのだと思う。
しまむーは、血を流しているお嬢さんに気づき、自分をひたすら地上へと引くお嬢さんに気づき、「私を抱きしめて!」と訴えられているような気になってしまったのだった。
 
だが、それは、オマエの勘違いだ>しまむー(しみじみ)
 
現実のお嬢さんは、しまむーに「私はあなたのお母さんじゃない…女よ!」なんて、絶対言わないだろう。
しまむーを愛することは、それはもう苦労が多いことに違いないのだけど(涙)でもお嬢さんは、そういうしまむーが好きで、そういうしまむーを見ているのが幸せで、そのためにどんなに傷ついてもきっと大丈夫なのだった(涙)
 
…と思うのだけど、せっかくだからこのまま勘違いさせておこうと思う。ざまーみやがれ♪>しまむー
 
 
6、オマケの米袋
 
これで大体終わったのだけど…
もちろん、今まで考えたことはひとつの方面から見た解釈にすぎないのだった。アラも結構あるし。
たとえば、全然別の方向…というか、完全に今までシカトこいてたこともあったりする。
このままシカトこいてた方がいいのかもしれないという気もしないではないのだけど…
なんかほっといても何となくコワイので(?)ちょっと追加してみるのだった。
 
オマケです。びくびく←いいから(汗)
 
それはその。
そもそも、しまむーはなぜあんなものを見たのか…という根本的なしかけの問題なのだった。
 
平ゼロは「アリス」がすべてを握っている…という風にとりあえず考えておくとして。
原作とドラマCDの場合、つまりはすべて米袋注:イワンのしたことだったりするわけなのだ。
 
シカトしていたのはそこ。
 
米袋はどーしてしまむーにあんなものを見せたのか????
 
という非常に根本的な問題があるわけで。
…いや。
一応、理由はお嬢さんが説明している。
しまむーがとてもお母さんに会いたがっていたから。
…と。
 
親切だよな米袋。しみじみ
オマエだってお母さんが恋しかったりしないのか米袋。しみじみじみ
ってかオマエのことだから死んだお母さんと会うのなんて実は日常茶飯事で、みんながそれに気づいていないだけで(汗)ほら怖くなってきた〜(涙)
 
ともかく。
米袋が親切でしたことなら、それはそれでいいのだ。
私は別にあの米袋がしまむーにそんなに親切にするわけないじゃないかとかそういうことを主張したいわけではない。なんか動揺。
 
ただし。
前述したように、しまむーが会えたのは、子供時代のお母さんだった。
 
なぜなのか。
しまむーはお母さんに会ったという自覚を、そのときは持てなかったわけで。
どうしてもっとわかりやすく…
 
…………。
 
好意的に考えてみる。なにそれ(汗)
 
つまり、それもまた米袋の親切だったのだ。
というのは、しまむーのお母さんは、大人になってからはなんというかもぉ、フォローのしようのない女性になってたりして、そんなお母さんに会ったりしたら、いくら覚悟はできてるしまむー注:アステカ編参照でも、あんまりにあまりというかなんというか(汗)
 
そういうことなのかもしれない(しみじみじみ)
 
でも。
それならそれで、よけいなことをしなければよかったではないか…という考え方もできる。
妙に勘のいいしまむーだから、後になってこのことを考えて、私と同じ結論に達してかえって落ち込むことだってあるかもしれないのに。実はそれがねらいだったのかもとか言おうとしているわけではないけど(おろおろ)
 
いや、もう好意的に考えよう。
たとえば。
しまむーの精神状態が実はとんでもないことになっていて、一刻も早く救いが必要だった…とか。
 
それは、アリかもしれない。
原作の場合なら。
しまむーは確かに救われたと思うし。
でも、ドラマCDの場合…(悩)
 
米袋のしたことは、しまむーにとって救いになったかというと…どうなんだろう。
もちろん、自分の真実を見るということが、何かを解決するきっかけになることは…ありうる。
 
…だから(涙)
それなら、原作と同じことをしてもよかったはずなのだ。
ドラマCDの米袋はなぜ…
 
…………。
 
「ごめんよ、フランソワーズ」としまむーはこっそりつぶやき、ドラマは終わった。
しまむーは、これからもお嬢さんに罪悪感を抱きながら、でもお嬢さんを手放さないだろう。
お嬢さんだって、しまむー以外に恋人ができることなんてありえないわけで。
 
…えと。
つまり。
 
ぶっちゃけ、しまむーにいやがらせしたわけですか?>米袋(こそこそこそ)
 
…それとも。
そうなのだ。
私はいつもうっかり忘れてるけど、米袋はゆーっくり成長するのだった。
だとすると。
 
もしも…もしも、成人した暁には是非お嬢さんを娶ろうという野望が米袋にあったりした場合。
そのためには、最大最凶誤字ではありませんのライバル、島村ジョーをどーにかして蹴落とさなければならない。
 
それは、いろんな人が試みては失敗している。
相手はなんたって、最大最凶なのだから、そう簡単にいくはずもない。
それは米袋もよくわかっているだろう。
 
でも、焦ることはないのだ。
時間はうんざりするほどある(倒)
 
米袋は、成人するまでの長い長い時間…ことあるごとにじわじわ、じわじわ、としまむーに精神的ダメージを与え続け、ついには「僕は彼女にふさわしくない男だ」と身を引く決心をさせるつもりでいる…とか。500年後ぐらいに(しみじみ)
 
…………。すいませんだからその(汗)
 
もちろんそんなはずはないのだけど。
 
つまらん因縁つけてすみませんでした>米袋(ふかぶか)でも応援してるからね♪←待て(汗)
 
更新日時:
2004.03.14 Sun.
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Last updated: 2015/11/23