序章 自己肯定の物語
「相剋」は、明るい。
…と私は思う。
それは島村くんがヒドイ目に逢うのが愉快だとか、そういう個人的な(こら)気持ちで言うのではなく。
特に明るいのは、島村くんとクワイトさま。
コイツら、オカシイんじゃないか?と思うくらい明るい。
例えば、クワイトさまが島村くんを苛めるのと、バイスが島村くんを苛めるのとでは、何か違う。
バイスの苛め方より、クワイトさまの苛め方の方が数段明るいというかなんというか。
…と言っても意味不明なので、「明るい」とは何か、説明しなければならないのだけど。
たぶん、それは島村くんもクワイトさまも常に自己肯定の態度を貫いている…ということなのだと思う。
クワイトさまは、一点の曇りもない心で島村くんを苛め。
島村くんは、一点の曇りもない心でそれに対抗する。
物語半ばで、島村くんは心ならずもクワイトさまに屈し、ブラックゴーストの幹部になり、仲間を裏切る…ような感じになるのだけど。
でも、そこに陰惨さはない。
たとえば、バイスを殺さなければならなくなった島村くんは、絶望の中で思う。
クワイトに逆らう事は出来ない。だが、だからといって正気を失う事が許されるのか? そうして罪の意識すら持たなくなる事が、許される事なのか? 苦痛に耐えてクワイトに抵抗し続ける事ができないのであれば、せめて、正気を失わずにいつづけるべきではないのか? 己の犯した罪と、これから犯すであろう罪を自覚する事からだけは、逃げてはいけないのではないのか? いつの日か、己の罪を贖うまで。(Act.5 交錯する想い SIDE A 友としてできること)
この島村くんの態度を、当然のことながら、クワイトさまはとても正確に理解している。
屈した自分を受け入れ、けれど過去の自分を否定もせず、自らの罪を認め、それを償おうと、再び抵抗を試みる。絶望的な抵抗を……。(Act.5 交錯する想い SIDE A 友としてできること)
クワイトさまのおっしゃるとおりで。
島村くんは屈した自分も過去の自分も自分の罪も否定しない。
それがどんなに苦しいことであっても。
その後、島村くんは自分が決めたとおりに行動する。
バイスを殺したという罪を、それをした自分を、彼は許さない。
決して手放すことのない、自己の名と信念において。
そして、クワイトさまも島村くんと同じで。
他人を攻撃し、自分の欲望を通すクワイトさまの自己肯定は、わかりやすい。
自分を痛めつけ、他人を守る島村くんの自己肯定はわかりにくい。
わかりやすさは格段に違うのだけど、この両者は、実はよく似ている…というか、ほとんど同じといっていいのではないかと思う。
そして。
「自分が苦痛から逃れる為に、お前は他人を攫ってきて私に差し出すようになる。そうさせてやる」
「不可能だよ、クワイト。他の誰かが苦しむくらいなら、自分が苦しんだ方がマシだ。僕がそう感じるのを変える事は…あんたにはできない」
それは、己の存り方そのものを賭けた、死闘の幕開けであった。(Act.9 決着)
物語のクライマックス。
自己肯定を決してやめないこの二人の強情者は、誰の邪魔も入らない場所で思う存分(泣笑)死闘を始める。
6ヶ月も(涙)
誰もいない場所で闘うのは正解。
つきあってられるかこんな奴ら〜っ!!!!!!(涙)
…と思わず逆上してしまいそうになるくらい、変な二人なのだった。
この決着がどうなったか…というと、島村くんが勝利したわけなのだけど。
なぜ島村くんは勝利できたのか?
島村くんとクワイトさまの差はなんだったのか?
島村くんは無敵だ。
どこまでも自己肯定できる者は、どこまでも明るく、無敵なのだ。
では、無敵の自己肯定とは、どういうことなのか?
それを考えてみようと思うのだった。
ほっといた方が安全だって気もするんだけど…こんな変な(以下略)
第一章 双生児
ということで、あらためて確認してみる。
009とクワイトは似ている。双生児のように。
これは、『相剋』扉にも暗示…というか、ほぼ明確に示されていると思う。
009が光。クワイトが闇。
もちろん、光と闇は相容れない。
そして、私たちはおそらく闇を退け、光を目指そうとする。しかし。
『相剋』は言うのだ。
光なくば闇もなく 闇なくば光もまたなし
…と。
光と闇は並び立つ。そうでなければならない。
どちらかがどちらかを呑み込む…ということではなく。
完全に拮抗して、並び立つものなのだ。
そのことを、009は物語の最後に確信する。
誰の心にも、闇はある。他人を憎む心。恐怖や欲望。それは、誰にでもあるのだ。
(そう…僕にも……)
それを見ないように、考えないように、そうしてきた。だが。
(それじゃあ、駄目なんだ……)
自分の中の闇を、弱さを、それを否定しても意味が無い。なくす事も出来ない。
クワイトは、009が目を背けて来たそれらを暴き、そして、それに直面する事を強制した。(Act.10 夜明け)
否定することはできない。
光の傍らに闇は立っている。どんなときも。
009は光。クワイトは闇。
両者はもちろん相容れない。
でも、009とクワイトには、決定的な共通点がある。
それは、自己と他者とのとらえ方だと思う。
前章で触れたとおり、まず、二人とも強烈な自己肯定者である。
そして、これと関係して、もうひとつは、二人とも他者を自分とは「違う」と思っている、ということ。
最後に、自己肯定と矛盾しているようにも見えるし、わかりにくいところもあるのだけど、二人とも自分より他者を第一に重んじて行動する、ということ。
自己肯定については、前章で述べたとおり。
他者を自分と「違う」と思っているのは、以下のような言葉から伺える。
クワイトの場合。
生き残る事を許されるのは、常に強者だ。お前は強い、だから生きる資格がある。逆らう者は殺せ。弱者になぞ構うな。自分の強さを忌避する事は無い。戦いの無い日々を望むのであれば、むしろそれを誇示すべきだ。刃向かう者は容赦無く殺せ。そうやって強さを示せば、誰もお前に戦いを挑んだりしなくなる。平穏に生きる事ができるようになるのだ。(Act.6 襲撃)
クワイトは、自分を「強者」と考える。他者は「弱者」だ。
自分と他者とは明らかに何もかも異質な者である。
その「弱者」である他者を、クワイトさまは容赦なく殺す。構う必要はない、と断言する。
一方、009は「弱者」を守ることに執着するのだけど…
自分と他者を「強者」「弱者」とはっきり区別し、そこに接点を見ようとしない頑なさはクワイトと同質である。
009にとって、世界には『弱い者』と『強い者』がいるだけなのだろう。そして、『弱い者』とはどういう者かといえば……自らを守れない者、助けを求めている者、泣いている者、困っている者、不幸な者…およそ、ありとあらゆる者がその対象に違いない。(Act.5 交錯する想い SIDE A 友としてできること)
タイラントは、009にとっては自分も「弱者」であると気づき、いらだつ。
当たり前だと思う。
009の他者に対する目は限りなく優しいのだけど、おそろしく冷たい。
現実問題として、彼と他者とはあまりに異質だから、仕方ないといえばないのだけれど。
クワイトは、自分とは異質の「弱者」たちを異質であるがゆえに無造作に殺していく。
009は、自分とは異質の「弱者」たちを異質であるがゆえに無条件に守ろうとする。
二人のやってることは正反対なのだけれど、本質的に酷似している…と思う。
そして、自分より他者を重んずる…ということについて。
009のそれを説明する必要はないと思う。
「監督挨拶」での理恵さまの言葉を引用すれば、
全ての人々を許し、受け入れ、愛し、ただただ守ろうとする、あまりにも度を越えた、馬鹿げた利他主義。
…ってことで。
それなら、クワイトの場合は…というと。
決着の直前、009とクワイトの会話ではっきりする…と思う。
「あんたの望みは何だ? 兵器売買で得られる莫大な富? 世界の支配? ……そうじゃないだろう…?」
クワイトが009の方に向き直る。
「……あんたの望みは、そんな事じゃない。兵器を開発したのも、Neo Black Ghost を復活させたのも、単なる手段。あんたの望みは……」
そこで009は言葉を切った。微かに肩が上下する。
「あんたの望みは、おもちゃを手に入れる事。好きなだけ苛み、苦痛と恐怖とを絞り取る……その為の人間を手に入れる事……。そうだろう?」
「…ああ……そうだ」
ニタリと嗤い、ぞっとするような声でクワイトは答えた。
「…だけど、人間はすぐに壊れてしまう。死んだり、発狂したり……だから、次々と新しい人間が欲しくなる。でも、人間を手に入れるのはそう簡単な事じゃあない。……だから、組織を作り、兵器を作って売り捌いた……」
「その通りだ」
「だから…もし、壊れないおもちゃが手に入れば……組織を作る必要も兵器を売る必要も、世界に戦乱を起こす必要も……あんたには、無い」
「そうだな。そんな事に興味は無い」(Act.9 決着)
ライは、しばしば「クワイトの性癖」について言及する。
ライの手術後、クワイトには人の苦痛を楽しむ性癖が芽生えた。
そして、クワイトの行動は、その楽しみを満たすことだけを目的にして展開していく。
常識はずれな力を発揮しながら、常識はずれの規模で。
他人の苦痛を楽しむ…というのは、他者に執着し、他者を見つめる…ということでもある。
クワイトは、自分のことは顧みず、他者に熱中する。
バイスの拷問よりクワイトの拷問の方が明るい…陰湿でない、と思うのはこの点である。
一応、クワイトは、009に「協力をしてもらいたい」とか言いつつ、拷問(というか尋問)を始めるのだけど…この言葉はもぉ、嘘っぱち。(涙)
クワイトの目的は「協力」そのものではない。
屈服するときの009の感情を見たいばかりに無理難題を言うわけで。
普通(?)拷問には「目的」がある。
拷問の陰惨さはそこにある。
人を苦しめる…が、その苦しみに普通の拷問は全く頓着しない。無視する。
「目的」を手に入れるための単なる「道具」として、人の苦しみは扱われる。
クワイトの拷問は違う。
普通の拷問で「目的」とされることの方がむしろ、手段であり道具なのだ。
クワイトは価値あるものとして他者の苦しみを見つめる。
何よりも…もしかしたら、自分自身よりも価値あるものとして。
009の憧れは、他者の幸せ…である。
ライを許してやってほしい、というのが自分の「望み」だと言う009に、ウィッチは叫ぶ。
「…それなのに……あなたは何を言ってるの。他人の心配をする前に、自分の事を考えなさい! 自分の為になる事を、望みなさいよ!」(Act.10 夜明け)
そのウィッチに、009は更に言う。
これ以上、何も望むものなんて無い。欲しい物は全部持ってるから。
「……望みじゃなくって、願いなら…あるよ」
そう言って、009は笑う。
「世界が平和になって、皆が幸せになる事……。でもこれは、叶えてもらう事じゃないだろ?」(Act.10 夜明け)
その「皆」の中に、自分は入っているのか…それは甚だ疑問だったりする。
クワイトも009も、他者を見つめて行動する。
それが生き方の根幹をなしている。
自分のことは後回し。
クワイトは009を屈服させるために、最後は自分の死を用いようとした。
その姿は、他者を助けるために自分の命をあっけなく投げ出す009に重なる。
もちろん、結果としての行動は全く逆方向に向いている。
しかし、009は生き残り、クワイトは死んだ。
完全に拮抗しているはずの光と闇が、自分の全てをかけてぶつかったとき、なぜ光は生き残り、闇は滅びたのか。
たとえば、新ゼロのガンダールと三兄弟…も、その結末は双方の滅びであった。
なぜ009とクワイトではそうならなかったのか。
双生児のような009とクワイト。
でも、決定的な共通点を持つこの二人の間には決定的な違いもある。
光であり、闇である…という違いの他に。
そのヒントは、先ほどの009の言葉にあるかもしれない。
「これ以上、何も望むものなんて無い。欲しい物は全部持ってるから。」
クワイトは…そうではなかった。
009の欲しいもの、既に持っているもの…とは何か。
「そう…だね……。僕には帰る場所だってあるし、待っててくれる人もいる。守りたいモノを守る為の力だってある。一緒に戦ってくれる仲間だって……。だから、あとは僕次第なんだ。僕が、この力をどう使うか。あとはもう、それだけなんだ。だから……」(Act.10 夜明け)
帰る場所。待っててくれる人。守りたいモノを守る為の力。一緒に戦ってくれる仲間。
このうち、確実にクワイトが持っておらず、ジョーが持っているものといえば…「仲間」かもしれない。
…やっぱり「仲間」か。
…なんて思いつつ、次にいってみる。
第二章 苦悩するドイツ人
変なヤツの周囲にいる人というのは、それなりに苦労するものなのではないかと思う。
クワイトさまの周囲にいる人たちは言わずもがなだけど…
009側の登場人物中、一番気の毒なのはなんといっても004だ。
真面目で善良で理知的で常識的なこの人が、こともあろうに009の代わりを勤めなければならなくなってしまったわけで。
今の自分の何と情けないことか。たった一つの決定をすら、自信を持って下せず、決定を下した後も、くよくよと迷い続け……。自分の判断ひとつに、009のみならず、ギルモアやライ一党を含む仲間達全員の命運がかかっているかと思うと、満足に眠る事すらできない。
一体どうやって、009はこの重責に耐えて来たのだろうか、と思う。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
ここで、「どうやって」と思ってしまうあたり、本当に004は気の毒なのだった。
「どうやって」という問題ではないのだと思う。
サイボーグにされてからの年月。平和な日々も存在したが、その大部分は戦いの毎日だ。その間ずっと、009は一同のリーダーを勤めてきた。ごく自然に。
そう、ごく自然に、なのだ。009は一度たりとも、自分がリーダーであると主張した事はなかった。しかし、009は紛れもなく指導者であり、その責務を放棄したことは一度も無かった。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
009が「どうやって」リーダーの責任を果たしたかというと、「ごく自然に」としか言いようがない。
でも、「ごく自然に」そうすることのできない004は、リーダーたる責任を「どうやって」果たすべきか、苦悩する。
もちろん、「どうやって」の答などない。
気の毒すぎ。(涙)
結局、彼は涙ぐましいとしか言いようのない方法をとる。
少しでも眠って、体力を貯えておかねばならない。少なくとも皆の前では、ふてぶてしく振舞えるように。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
004は、リーダーらしく「振る舞う」ことを決意するのだ。
さすがというか何というか。
このあたり、拷問に耐える009より、ある意味痛々しいかもしれない。
どれくらい痛々しいかというと。
こんなことになってしまうのだった。
一同をゆっくりと見回し、004が口を開く。
「ここに集まって貰ったのは、あんた達の今後の身の振り方について協議するためだ」
ちょっと言葉を切る。だが、誰も何も言わない。固唾を飲んで、004の次の台詞を待っている。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
004は「協議」という。
そうするしかないからそう言っているのに、誰もが004の次の台詞…リーダーとしての決断を待っている。
それも真剣に。
だから、004は口を開かざるをえなくなるのだけど、結局のところ状況説明をするのがやっとで。
その結びに、再びこう言う。
「……それを何処にするかを、協議して貰いたい」(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
実際、004にはそうとしか言えないのだと思う。
ライの部下達は、「協議」し、004たちと行動を共にすることを…死を賭することを「自ら」決断する。
「死ぬかもしれないんだぞっ?」
002が叫ぶように言う。それへ、カティサックは微笑んだ。
「人間誰しも、いつかは死にます」
そう答え、004を見る。
「…ここに居させてはいただけませんか? 004……?」
全員が、004に注目した。
「……………いいだろう…」
長い沈黙の後、004はそう言った。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
死を覚悟し、ここに残る…という「決断」を「承認」するだけ…といえばそれまでなのだが、それでも、004は十分に憔悴している。
彼がこんなに苦しむのは、もちろん彼の決断が他者の死を意味する可能性を秘めているからなのだ。
戦いの場に於いて、リーダーである…指揮官であるという事は、仲間の命を左右する権限を持つ、という事だ。目的を果たす為の『手段』として、必要とあらば、仲間を死地に追いやるような冷酷な判断をも下す。その権限を持ち、それを行使する責任を負うと言う事なのだ。
並の人間には、とても耐えられない。出来ないからと言って、責められるような事ではない。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
009が「ごく自然に」してきたリーダーの決断は、並の人間にはとてもできない。
できないから、009をもたないサイボーグたちは、誰かにすがろうとする。
それが、004。
009不在の間、004は何度となく、仲間達から「注目」される。
無言の視線を向けられる。
自分がそれを受け止めることができないことを004は知りつつ、それでも彼は受け止めようと…というか、受け止めているかのように振る舞おうとする。
ライは、009がいない今、それができるのは004だけだと考えた。
正しい。
全員の視線が自然に004に集中する。004だけに。
だから、004はそれをしなければならない。
振る舞うだけなのだとしても。
決断をしなくてはならなかった。
誰かが決定を下し、全員が動き出さなくてはならない。その、命を賭けて。
「…ハインリヒ…?」
002が問いかける。
(ちくしょう!)
何で俺なんだ、と思う。勝手にしてくれ! と言いたい。だが。
(……一人では出来ない…誰一人として、一人では……)
自分を含め、全員で事にあたらなければ勝ち目はない。いや、全員であたったとしても、勝てるのかどうか判らないのだ。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
繰り返しになるが、もう気の毒でたまらない。
004は「なんで俺なんだ!」とは叫ばない。
これが別のメンバーなら叫ぶかもしれない…というか叫ぶに違いない。
でも、004は叫ばない。
…だから、注目されてしまうのだけど。
004にはわかっているのだ。
一人ではできない何かがあるとき。
全員でやらなければならないことがあるとき。
誰かが、必ずリーダーの責を負わねばならない。
できなくても、それを放棄すれば、集団は集団でなくなってしまう。
そして、なぜそれが必要なのか、004にはハッキリわかっている。
(それは……)
必要ならば仲間を殺すという事だ。仲間全員の無事と、守るべきモノの無事とを、秤にかけなければならない、そんな時が来る危険をはらんでいるという事だ。仲間の誰かを犠牲にして、目的を果たさなくてはならない時が、来るかもしれないという事だ。
全員であたらなくてはならない敵と戦うという事は、そういう事なのだ。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
004が、できないとわかっていてもその責から逃げようとしないのは、彼がかつてヒルダを亡くしているから…だろう。
一人なら、いい。己自身の判断と力量で、生きも死にもする。どんなに困難な決断であろうが、それでも自分一人の事だ。後悔するもしないも、総ては己次第だ。
これが、守るべき相手が居るとなると、決断は難しくなる。己の判断が、相手の生死を左右するとなれば尚更。
(俺は……)
一度、それで失敗をしている。最も守りたかった相手を死なせている。あれが、避けようのない事態であったのかどうか。他の方法が無かったのかどうか。それは、今も、004には判らなかった。(Act.5 交錯する想い SIDE B 真実はどこに?)
ヒルダは「守るべき相手」として考えられている。厳密に言えば、「仲間」とは違う。
でも、「自分一人のこと」を超えてしまう決断の恐ろしさ、重さを、004は誰よりも痛切に知っている。
そして、その決断をするとき、それが正しいかどうかを教えてくれるモノは何もないのだ。
決断をする前にも、した後にも。
失敗するかもしれないから、決断できないのではない。
正しいかどうかを教えてくれるモノがどこにもいないから、決断は恐ろしいのだ。
ヒルダを失ったときの決断が正しかったのかどうか、004にはわからない。
わからないのは当たり前なのだが、正しかったのかどうか、彼は何度となく考えずにはいられない。生きている限り。
そして、そのように他の誰よりも、決断することの恐ろしさを知っているからこそ、004は逃げられないのだ。
自分がそんなことには耐えられないと知っていて、それでも、その恐ろしさすら知らず、それゆえ無邪気に自分を見つめる仲間達にその重荷を預けることなどできない。
004は、優しい。どうしようもなく。
こう考えてみると…なぜ009はその「決断」ができるのか。「ごく自然に」できるのか。
それがむしろ不思議になってくる。
もちろん、つまるところそれは、009が「凄い奴」だからなのだけど…
009は決断の全てを自分でしてしまう。
その責任も結果も自分で背負ってしまう。
それができるのは、彼が非常識なまでに凄まじい自己肯定の人だからだ…と私は思う。
自分が正しいと思えば、それだけを根拠に決断できる。
他に、彼の決断を支えるものが皆無であっても。
それが009の自己肯定の凄さなのだ。
…でも。
004の苦悩からわかることは、結構衝撃的だ。
009は、リーダーとしての決断をするとき、常に「必要ならば仲間を殺す」決断も下している。
004の苦悩から、それが明らかになる。
009は他者を守ろうとする。
それが彼の信念であり、彼の肯定する自己そのものであり、どんな圧力をかけられようと、決して否定されることのない思いでもある。
では、「仲間」を殺すことはなぜ平気なのか。
いや、平気であるはずはない。
…でも。
タイラントが感じたように、カティサックが指摘したように、少なくとも009にとって「仲間」は守るべき「他者」ではないのだ。
009は、リーダーとして何度となく、「仲間」を死に追いやる決断を下してきた。
そのことに間違いはない。
009は「ごく自然に」リーダーをつとめてきた。
もしかしたら、彼自身、その意味するところを本当には知らないのかもしれない。
でも、他者を守ろうとする009の信念には、「仲間」という亀裂がある。確かにある。
亀裂、というか。
出口、といった方がいいのかもしれない。
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