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ジョーくん私論番外
ここのところ、毎日戦争と反戦のニュースが続いている。
 
コドモのころから、反戦というのはもう絶対の正義というか、それ以外の道など考えられない…のだと思っていた。それはそれでいいんだろうと、今も思っているのだけど。
でも、反戦と一口に言っても、いろんなレベル(?)があるわけで…
 
目の前で銃口向けられても、戦わない。
 
ぐらいのレベルから、
 
戦争したがってる国と利害が一致しないからとりあえず戦争に反対しておく。
 
ぐらいのレベルだってあったりするのだった。それは反戦とは言わないぞ、という考え方もあるかも(悩)
 
「009」はそれはもう昔から「反戦」を色濃く背負ったマンガで。
で、ジョーくんの反戦レベル(?)はどれくらいなのか…と考えてみると。
一つの答えが、原作のヨミ篇にある。
 
ヘレンがスパイかどうかを試そうとする004に、009は言う。
 
そんなひどい試し方をする権利が君にあるのか?
 
004が答える。
 
お前に、俺たちを危険にさらす権利はないはずだ。
 
ちょっと面白いな〜と思うのは、009は、目の前の女の子(美少女)別に強調しなくても>自分(汗)を助けるとき、そのせいで自分及び仲間がヒドイ目に遭うかもしれない…というのは度外視する…というか、そっちに考えを向けない人なのだ…ということで。
 
今、目の前にある、危機にさらされている命と。
将来、危機にさらされるかもしれない命と。
 
それを比べてみる…ということは、009は咄嗟にはしない…のかもしれない。
彼はとにかく、今、目の前にある、危機にさらされている命のことしか考えない。
 
もちろん、一方で、009はこんなことも言うのだ。
 
彼ら(ブラックゴースト)を放っておいたら、いずれは僕たちだってただではすまなくなる。
 
だから、戦う。
今、自分たちが攻撃されてるわけではなくても。
将来危機が訪れるから、それを防ぐために戦うのだ。
 
ヘレンの場合と違っているのは、もちろん、
 
相手が敵であるとハッキリしているか否か
 
…ということだったりする。
で、当然だけど…
 
ブラックゴーストという悪い敵
 
物語によって定義されている。
ジョーくんがブラックゴーストと和解することはあり得ない。あってもいいんだけど…でも、「009」はそこまでは踏み込まない作品だし、踏み込まないことによって、ある種の純粋さを保っているわけで。
 
ただ、実際の世の中に、このように絶対悪と定義されている存在などない。
 
新ゼロ開始のころ、アニメージュに石森さんの言葉として、サイボーグたちは幸せなやつらでもある。戦う力を持っているから。というコメントがあって、なるほど〜!と思ったことがある。
 
ジョーくんたちは強い。
で、中でもジョーくんは最強。
…だとしたら。
 
物語によって縛られている部分をのぞけば、ジョーくんは危険をさけるための戦いなど、してはならない…のだと思う。
ジョーくんは強い。
だから、ジョーくんがあらかじめ避けなければならない危険などない。
 
もし、眼前の美少女が敵なら…ジョーくんたちはいずれ窮地に陥るだろう。
でも、陥っても、そこを乗り越える力をジョーくんは持っている。
 
ジョーくんは、いつかは戦う。
でも、ぎりぎりまで戦わないように心がける。
そのために危険が倍増していっても、ジョーくんは耐える。
 
アルベルトさまはジョーくんより好戦的、というわけではない。
ただ、アルベルトさまはジョーくんより、戦う力がない。
サイボーグの能力として…と、単純に考えてもいいし、かつて恋人を守りきれなかった過去を思ってもいい。
 
その差の分だけ、アルベルトさまの方が、ジョーくんより早く、戦おうという決心をする…というだけで、実はアルベルトさまもジョーくんと考え方そのものは同じだと思う。
他のサイボーグも基本的には同じ。
 
そう考えてみると、反戦というのは、相当のリスクを覚悟した上でないとできないものなのかもしれない。
特に、その時点で、自分が相手より確実に強いと予想できるときには。
 
アメリカが原爆投下の正当性を言うとき、必ず主張するのが、原爆投下がなければ、本土決戦になり、もっと膨大な数の犠牲者が出ただろう、ということで。
 
その数の出し方がそもそも怪しいという反論も十分できるのだけど、仮に本当にアメリカの計算が正しかったとして。
だったら、原爆投下は正しかった、と言っていいのだろうか、と思う。
どうなんだろう。
 
正しかった、と私は言えない。
言えないのは、理屈ではない。何かもっとどうしようもない部分で、言えない。
 
じゃ、膨大な犠牲者を本土決戦で出す方がマシだったというのか。
それは、もちろん違う。
とても困る。
 
ジョーくんなら、何て言うだろう。
 
原爆を投下してはならない。本土決戦も防ぐ。
 
…というのかもしれない。
それがとてつもなく難しいことであっても。
 
じゃ、そうやって、本土決戦が防げなかったとき、ジョーくんはどうするのか。
 
たぶん…ジョーくんは、戦うのだ。
絶対に死なず。誰も殺さず。
そして、終戦の決断を阻むモノだけを排除する。
 
できるかっ!!!!そんなことっ!!!!!>ジョーくん(怒)
 
…いや、できるのだ。
そこが、009の強さであって、私たちの夢でもある。
 
でも、現実世界に、009はいない。
絶対にいない。
 
だから、悪人だけを倒す兵器などありえない。悪人だけを倒す兵器のように見える兵器はあっても。
そもそも悪人を定義することができないわけだし。
 
009のいない現実で反戦を唱えるとき、私たちはそれが多くの犠牲を払う可能性があることを覚悟しなければならない。
 
1945年9月の戦いで死ぬはずだったアメリカの若者は、原爆投下のおかげで命を拾った…のかもしれない。
原爆投下に異を唱えるなら、アメリカは彼の死のリスクを受け入れなければならなかった。
それは、たしかに難しい。
 
ただ。
8月6日、彼はまだ生きていた。
そして、ヒロシマの人々も、まだ生きていたのだ。
 
私たちに、009の力はない。
でも、せまりくる9月の恐怖と戦いつつ、それを回避するべく努力することなら、できるのかもしれない。
 
ヒトの知識は、危険を予測する。
それは、すばらしいことなのだけど。
でも、ヒトは、予測された危険を避けるだけでなく、その危険に向かっていく自由も持っている。
 
その自由を選び取る力が、勇気だと思う。
 
私たちに、009の力はない。
でも、ジョーくんの勇気だけはかろうじて与えられている。
 
この世には、ブラックゴーストなどいない。
009も、またいない。
完全な悪も正義もなく、私たちは常に危うい選択をしなければならない。
 
そして、私たちは、なるべく苦しみたくない。
私たちを苦しめない指導者を、私たちはいつも望んでいる。
 
でも。
より苦しい選択をする自由は、いつも私たちの手の中にあるのだ。
 
勝つあてのない、ジョーくんの無謀な戦いを、ヒトの知識は愚かなことと判断する。
それは正しい。
ジョーくんは勝つけど、それは物語だからだ。たぶん。
 
でも。
愚かなジョーくんに心うたれるとき、私たちは、私たちが持つ本当の自由を、手の中に握りしめ、確かめている。
ヒトがヒトであるただ一つの証を。
 
戦争は正義ではない。
反戦も正義ではない。
いかなる正義も地上にはない。
 
私たちにあるのは、苦しむ自由だけだ。
正しいと保証してくれるものは何もない中で、選択し続け、間違い続ける。
それでも私たちは、正しいと信じることに向かっていく自由だけは持っている。
 
ヒトが積み重ねてきた膨大な知識は、私たちに未来のようなものを見せてくれる。
よりすばらしい未来を予測し、そこに向かって進めと教えてくれる。
その教えは尊いし、重んじるべきだ。
でも、それは未来の予測であって、未来そのものではない。
 
私たちは009ではない。
眼前の美少女の存在が、私たちにとって危険だと予測されるのならば、結局、彼女を救うことはできないのかもしれない。
でも、今、彼女はまだ生きていて、私たちも生きている。
 
より苦しむ自由を私たちはいつも持っている。
それを選び取る勇気を、持ちさえすれば。
 
更新日時:
2003.03.26 Wed.
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Last updated: 2015/11/23