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日常的009

Escape
 
楽しいか、と聞くジェットの声はのんびりしていた。適当に返事をしておいてから、携帯のスイッチを切り、フランソワーズはため息をついた。
「何か、言ってた?」
「ううん…ゆっくりしてこいよ、ですって…もう」
声を立てて笑う彼を軽くにらみ、グラスを両手で包むようにとる。
琥珀の液体に目を落しながら、もう一度、今度はこっそりため息をついた。
 
「脱走…のつもりだったんだけどな…」
「だったら、着のみ着のまま、裸足でこなくちゃな…お前がやってるの、どう見ても、ただの里帰りだぞ」
「わかってるわ…だってほんとにそうなんだもの。ねえ、フィル…いい子だから、そんなに笑うの、よしてちょうだい」
「はいはい…」
フィリップの目はまだ笑いを含んで光っている。フランソワーズも思わずくすっと笑った。
 
新女王の戴冠式にわくモナミ王国。
ホテルの窓から、華やかな街を見下ろし…これ以上ここにいたくない、と思った。
 
「こんなに近くまで来ているから…少しだけ、うちに寄ってみたいわ…」
お友だちにも会いたいし。幼馴染が、仕事でパリに来ているんですって。
 
「たぶん…ここはもう大丈夫だけど…」
ジョーは、熱心に見ていた書類から顔も上げず、曖昧にうなずいた。
ついさっき、女王側近から届けられた書類の束だ。
 
そりゃ、幼馴染…としか言わなかったけど。
でも、もう少し何か聞き返したってよさそうなものじゃない?
「そうでしょ、フィル…どう思う?」
 
フィリップは苦笑した。
「どう思うって…俺にきくのか、フランソワーズ?…それって反則だと思うけど…」
「どうして?」
「やれやれ…こんなところで愚痴ってないで、そいつに言ってやればよかったんだよ」
 
グレートのおどけた身振り。戦いの前の緊張をほぐしてくれるはずだった。
「おお、キャサリン…!美しい君を想うと、僕は…!」
ジョーにそんな科白が言えるはずない。逆立ちしたってムリだわ。
だから、みんな楽しそうに笑ってたのに…
 
黙りこんだフランソワーズを、フィリップは覗きこんだ。
 
「…なぁ…やっぱり、苛められたんだろ?」
フランソワーズは思わず彼を見上げた。
「フィル…」
笑いながら首を振る。
 
「ダメ…ダメよ…もう子供じゃないんだから…それに、仕返しなんて絶対無理!…あなたじゃ、全然かなわないわ」
「返り討ちにあうのはお約束のうち…それに、やられたら、お前が慰めてくれることになってるしな」
 
いや…今度はそうじゃないのかもしれないけど…
 
店を出ると、外はひんやりとしていた。
「じゃ…送るよ」
「大丈夫…帰れるわ」
「そうだった…お前のほうが俺より強いんだっけな、今では」
沈黙が落ちる。
「…意地悪ね…フィルは…ちっとも変わってない」
「どうせ許してくれるってわかってるもんな…っと、ジャンに告げ口するなよ…」
フランソワーズは呆れたようにフィリップを見つめ、やがてくすくす笑い始めた。
 
呼び出し音を20回数え、ジョーはスイッチを切った。時計を見上げる。
…眠っているのかな?…
一瞬ためらい、リダイヤルした。また呼び出し音が続き…諦めて切ろうとしたとき。
「はい…ええと…フランソワーズ、今ちょっと手が離せないんですが…少し待っていただけますか?」
ジャンの声ではなかった。
 
やがて電話口にでたフランソワーズは屈託なく、何かあったの?と尋ねた。
「今の…人は?」
「あ…フィル…フィリップよ…幼馴染なの…ごめんなさい、驚いた?…大丈夫、彼…私たちのことも知ってるから…」
「知ってる…って?」
 
小さくごめんなさい、とつぶやいたきり、フランソワーズは黙って立ち尽くしていた。
「フランソワーズ?」
電話が切れているのに気づき、フィリップはハッと彼女に歩み寄った。
「…おこられちゃった…」
「何を…?」
それには答えず、フランソワーズは首を振り、彼に背を向けた。
「帰らなくちゃ…いけないわ…」
 
「アタマおかしいぞ、お前…?今から行ったって、飛行機なんか…」
「迎えにきてくれるの…大丈夫よ」
「迎えにって…今の…感じ悪いヤツが?どこに?どうやって?」
「ヒミツ…ね、フィル…悪いけれど、お兄ちゃんが戻るまで留守番しててくれる?」
「ちょっと待てよ」
 
フィリップはフランソワーズの肩を掴んだ。
「行き先は?…ジャンに、何て言えば…」
「モナミ王国…そうだわ、お兄ちゃんに心配しないで、って伝えてね…念のため、王宮が本当に安全かどうか、調べ直さなくちゃいけないんですって…」
「モナミって…仕事は終わったんじゃないのか?」
「だから、念のため…」
「お前がいなくたって構わないはずだ!!」
 
フランソワーズは大きく目を見開いた。
「…どうしたの、フィル…?」
「…逃げるぞ」
「え?」
 
フィリップは肩を掴んだまま、真顔でフランソワーズの目を見つめた。
「逃げるんだよ、一緒に…仕返しは無理でも…それぐらいなら、俺でもできる」
「何を…言ってるの?」
「それはこっちのセリフだ…お前、逃げてきたんだろう?」
「……フィル」
「そんな顔して、逃げてきたんじゃないか…!」
 
フランソワーズの手首を掴み、引きずるようにしてフィリップは足早にアパルトマンの階段を駆け下りた。
「どっちだ?」
「どっち…って…?」
「どっちに逃げればいいんだよ?どこからくるんだ、そいつ?」
「……」
「ああ、もういい!…こっちに行くぞ!マズかったら言えよ!」
ぐいぐい引っ張られ、走りながら、フランソワーズは遙か遠くの耳慣れた音に気づいた。ストレンジャーだ。ポケットで、携帯が鳴る。
 
「あ…?」
フィリップはフランソワーズの手から携帯をひったくり、力任せに川へ放り投げた。
 
「な、何するの…!!」
肩で息をしながら、フィリップは振り返った。
穏やかな褐色の瞳が、ほんの一瞬、強く輝くのを、フランソワーズは見た。
 
『フランソワーズ?…どうした、何があったんだ?…フランソワーズ!!』
『大丈夫よ、ジョー…電話を、落としちゃったの…川に』
『川…?』
『ほんとに、大丈夫なの…でも…』
『フランソワーズ、一体…』
『…ごめんなさい』
 
フランソワーズは、通信を切った。
 
 
「なんだ、キミか…ってのは、お互いさま…かな?」
 
ジャンは帰宅したばかりのようだった。
テーブルには紅茶が半分ほど入ったカップが二つ。
 
「キミが連れていったのかも…と思っていたんだけど…」
「…あ、あの…フランソワーズは…」
「見てのとおりさ…結構慌しく出ていったみたいだね…キミの仕業じゃないなら、そのうち帰ってくるだろう」
「…でも…」
 
ジョーは彼女が電話を「落とした」と言ったこと、通信にも答えないこと…を説明した。
「もしかしたら、何かあったのかもしれないんです…もし、心当たりがあったら…」
「心当たりか…ありすぎるくらいあるなぁ…なに、心配いらないよ、009…いや、失礼…名前を忘れてしまったんだが…」
「ジョー…島村ジョーです」
 
ああ、そうだった。
妹の話にたびたび出てくる名前。
忘れていたのは…今回、聞かなかったからだ。その名前を。
 
「妹は、友達と一緒だと思うよ…そいつが、昔からせっかちなヤツで…何か急いでいたんだろう…大したことじゃないさ…もし大変なことが起きたのなら、キミに何か言うはずだろう?」
「それは…そうですが」
 
彼女が帰るのを待っている時間はなかった。
ストレンジャーに戻り、もう一度辺りを見回し…通信を送る。
応答はない。
 
「朝まで、どうするかなぁ…ホントに着のみ着のままで来ちまったから…」
二人はゆっくりと川岸を歩いていた。俺の泊まってる部屋にいくか?と尋ねるフィリップに、フランソワーズは首を振った。
「帰っても大丈夫よ…ジョーはいないから」
「いない…って?」
「もう戻らないと、明日の任務に間に合わないのよ…だから…」
「戻ったのか?…モナミに?」
うなずくフランソワーズに、フィリップは眉を寄せた。
 
「なんだよ、ソレ?」
「やっぱり、王室って…打ち合わせとか、いろいろ面倒だから…早めに戻っておかないと…」
「そうじゃなくて!…帰ったってことは、やっぱりお前がいなくたって全然構わない…んだろ?だったら、どうしてわざわざ迎えにきたんだ?」
「…その方が安全だからよ…こういう任務には私がいた方がいいし…それに、万一まだ事件が「終わって」いないんだったら…私がこうやって一人で動くと危ないかもしれないもの」
「危ない?」
「ええ…私一人なら、殺すのも捕まえるのもカンタンでしょ?…狙われやすいのよ」
まじまじと見つめられているのに気づき、フランソワーズは口を噤んだ。
 
「…殺すのも…捕まえるのも…か」
「ごめんなさい、フィル…ホントはそれほどじゃないの、みんなが…いつも守ってくれるから…ジョーだって…」
「でも、帰っちまったじゃないか」
「だから、それは…多分大丈夫だからで…」
「つまり、王宮がやられる確率の方が、お前がここで敵に狙われる確率よりずっと高いから…そういうことか?」
 
そういうことだ。だから?
フランソワーズは黙って橋の欄干にもたれた。
街灯が川面にきらきらと映っている。
「ホテル…この近く?」
「あ?…ああ、そうだけど」
「眠くなっちゃった…フィルも、明日仕事なんでしょう?」
せっかく、着のみ着のまま逃げてきたのに、3時間で帰っちゃうなんて、おかしいわよね…と、彼女は笑った。
 
入れ替わりにバスルームに入ろうとするフランソワーズを、フィリップは呼び止めた。
「お前…どこに寝るつもりなんだ?」
「どこって…」
フランソワーズが不思議そうに見返す。たしかにどこ、も何もない。ベッドは一つしかない。もちろんそんなことは分かっているのだ。フィリップは彼女の言葉を待った。
「大きいベッドだもの、大丈夫よ…少し向こうに寄っていてくれれば…」
「大丈夫って…お前な…」
「窮屈なのは嫌…?それなら、ソファに寝るけど…そうね、フィルは明日も仕事だし…ゆっくり休んだ方がいいわね…私は平気なの…どこでも眠れるようになったから」
そういう話でもないのだが。彼女の背中を見送り、フィリップは無言のままベッドの端に寄った。
 
結局どういうことになるか、自分でもうすうす分かっていたような気がする。シャワーの音を聞きながら、いつの間にか眠りに落ち、気づいたときにはもう夜が明けていた。烈しく揺さぶられるような感覚の後、頭部を殴られ、フィリップは飛び起きた。
 
「…ってえぇ…な、なにするんだ、フランソワーズ…!!」
「何時だと思ってるの、フィル?…いくら呼んでも揺すっても起きてくれないんだもの…たたいたって全然ダメだし…!」
フランソワーズは身支度を整え、やや息をはずませていた。いつのまにか毛布もシーツも剥ぎ取られている。言われてみると、なんとなく背中や肩に痛みが残っていた。ぼんやりと彼女の右手に目をやり、フィリップは思わず声を上げた。
「お、お前…まさか、今、ソレで…?」
 
悪い?とフランソワーズは落ち着きはらってゴミ箱をバスルームに戻しにいった。
「俺はサイボーグじゃないんだからな…!」
「ちゃんと手加減はしました…!それより、時間は大丈夫?」
「…大丈夫というか大丈夫じゃないというか…いいや、俺もサボる」
 
…その、「も」っていうの、やめてほしいんだけど。
 
 
 
目を覚ました001は「大丈夫」としか言わない。
003がどこにいるのか、聞いても「知る必要はないだろう?」の一点ばりだった。
「とっても元気だし、楽しそうだよ…心配はいらない」
 
キミは何がそんなに心配なの?と聞かれ、ジョーは躊躇った。
何が…心配なんだろう。
心配することなんか何もない。
 
それでも、このまま日本に帰る気持ちにはなれなかった。
ジョーは仲間たちと別れ、フランスに向かった。
 
…僕は…何をしているんだろう?…何が、気に入らないんだ?
ストレンジャーを走らせながら、ジョーは自分に問いかけた。
フランソワーズは「休暇」に入っているだけだ。
ちょっと入り方が彼女らしくなかったけれど。
 
君は、通信を切り、約束の場所にこなかった。
きっと、もう少しだけ、あの「友達」と一緒にいたかったから。
自分がサイボーグであることも、僕たちのこともうち明けることができる…心を許しあった、大事な幼馴染み…
 
君にそんな人がいるなんて、考えたことなかったから…驚いた。
僕はたぶん…嫉妬していた。
君が、僕の持たないものを…たくさん持っているということに。
君は…みんなに愛されて育った、幸せな女の子だ。
僕とは違う。わかっているつもりだったのに。
 
でも……君は、このごろずっと、何だか…とても疲れた顔をしていたから。
故郷で、懐かしい人とすごすのは、いいことだと思う。
どうしてもつれ戻す必要なんてなかったし、危険もないと判断した。
だから、僕はそのまま帰った。
 
君が帰ってこない…なんてことはあり得ない。
 
待っていればいい…研究所に戻って。
どうしてそうできない?
 
答は、おぼろげながら、自分の中にある。
あの夜、パリからモナミに戻る途中、不意に気づいた。
 
初めてだ。
君を迎えにいって…一人で帰るのは。
 
 
 
毎朝フィリップが手渡してくれる新聞。
モナミ王国は平穏そのもののようだった。
「きっと、みんな研究所に戻っているわね…」
ぽつんとつぶやくフランソワーズを、フィリップはじっと見つめた。
 
パリから少し離れた小さな町。二人が一緒に育った町だ。彼らが生まれる前から変わらない古い家に、今は彼が一人で住んでいる。
 
昼の間中、フランソワーズは楽しそうに働いた。
家具にはたきをかけ、庭の手入れをして…
彼の母親がよく作ってくれたケーキにも挑戦した。
 
休暇にならないじゃないか。
口の中でつぶやきながら、フィリップは彼女の後を追うようにして手を貸した。
 
「だって、懐かしいの…どこを見ても懐かしいわ…!何もかもあのころのままにしておいてくれてるのね…」
「何も手入れしてないだけだよ」
「すぐそういう言い方するんだから…」
 
つるバラ、ラベンダー、ワスレナグサ…忙しく手を動かし、ブーケを作りながら、フランソワーズは笑った。思いがけない木の陰にふっと体を潜らせ、スズランを摘む。
 
「ふーん…さすが、目がいいんだ、お前…」
「違うわよ…ここは、隠れてるけど、スズランがたくさん咲くって…おばさまに教わったの…知らなかった?」
「…ああ。花を愛でるココロはなかったからな」
母は体が弱かった。もう一人子供が、できれば女の子がほしいと、口癖のように言っていた彼女は、フランソワーズをわが子のように可愛がっていた。
 
客用寝室の古びたカーテンもベッドカバーも、彼女が幼いフランソワーズのために作った。
小さな花瓶はフランソワーズから彼女へのプレゼント。
花瓶敷きは彼女に教わって、フランソワーズが作ったもの。
 
愛しそうにブーケを花瓶にさすフランソワーズをフィリップは戸口に立って眺めていた。
 
ほんの子供のころから、君はそうやって花を飾るのが好きだった。
君がくると、家中が花の香りでいっぱいになった。
 
ため息に、フランソワーズは振り返った。
「フィル…?」
いや、なんでもない…とフィリップは首を振った。
「それで、気がすんだか?…すっかり前と同じ部屋…かい?」
「ええ…素敵だわ…夢みたい…」
 
それなら、俺は君の夢を護ろう。
君は逃げてきたんだから…やっと、逃げてこれたんだから。
 
夜になると、フランソワーズはふと電話を見つめる。
しかし、それに触ろうとはしなかった。
 
 
町外れに立つ菩提樹は、フランソワーズの古い親友だったという。
 
とうとう、ここまで来てしまった。
来てはいけないと思っていたのに。
月のない夜。
木の下に入ると、闇はいっそう重苦しくジョーを包みこんだ。
 
ギルモア研究所の近くにも、菩提樹がある。
目を輝かせて駆け寄り、見上げたまま動かないフランソワーズに、首をかしげた。
 
君は…木と話ができるのかい…?
おどけて聞こうとした言葉が、咽喉の奥で凍った。
 
私の木に似てるの…
振り返ったフランソワーズは微笑んでいた。
でも、確かに見た。
確かに、その頬に、光るものが散った。
 
…これが…君の木…君の親友。
 
見ることはないと思っていた。
彼女の思い出に、足を踏み入れることなど。
 
お前は、何もかも知っているのか?
理不尽な運命を嘆き、呪う彼女。
僕には一度も見せたことがない泣き顔。
彼女の、本当の心。
 
…帰ってくる。必ず帰ってくる。
彼女は帰ってくる。
 
暗い梢を睨みつけながら、ジョーは心で繰り返した。
彼女は…帰ってくる。
 
風が通り過ぎる。
葉ずれの音がジョーに降りかかり、あっという間に消えた。
 
そうとも、彼女は帰る、お前のもとに。
今までずっとそうだった。
これからも。
…だから?
 
ジョーはぎゅっと両の拳を握りしめ、遠く瞬くささやかな町の灯りに背を向けた。
 
宿に戻り、研究所にいつもの連絡をいれる。
今日も、彼女からの連絡はなかった…と答えてから、ギルモアは躊躇いがちに付け加えた。
 
オマエも……もう、帰ってきなさい。
 
6 
 
呼んでも、ノックしても返事がない。
「フランソワーズ…ちょっと話があるんだが…入るぞ?」
 
灯りはついていなかった。
夜風がまともに吹きつけ、フィリップは眉を寄せた。
フランソワーズは、開け放した窓辺に立ち、背を向けている。
 
「…どうした…?」
思わず駆け寄り、後ろから両肩を抑えると、フランソワーズは小刻みに震えていた。
予感が、確信に変わる。
フィリップは荒々しく窓を閉め、彼女を部屋から引きずり出した。
 
「あいつに会ったのか…そうなんだな?…昼間、妙な車を見かけたんだ…ちらっと見ただけだったけど、栗色の髪の、東洋人っぽい男が運転して…」
フランソワーズは大きく目を見開いた。
「…本当?」
そのまま黙って考え込むフランソワーズに、フィリップは首をかしげた。
「…お前…?何を見ていた?」
「…木」
「木って…あの?」
うなずき、振り返る。
フィリップには壁しか見えないが、そのはるか向こうにはあの菩提樹があるはずだった。
 
「…行って…しまったわ」
つぶやく。
幻かもしれないと思った。
 
フィリップが熱いお茶をいれてくれた。
カップで両手を暖めるようにしているフランソワーズに、彼は低く尋ねた。
 
「…帰りたい…か?」
 
微かに亜麻色の頭が揺れる。うなずいたのか、首を振ったのか、わからない。
フランソワーズはふと微笑んだ。
「これ…私が好きだったカップね…?お兄ちゃんのと、フィルのと、お揃いで…」
「…ああ。もうそれしかないけどな…あとは割っちまった」
「そう…」
 
いつまでも同じではいられない。
あなたも…私も。
この懐かしい家も。
 
「ジョーがね…寂しそうなの。お休みから帰ってくると」
 
始めは気づかなかった。
でも、少しずつ…少しずつ、わかってくる。
彼の目を見ていると…自分が何をすればいいのか、わかるようになった。
 
話しかけたり。
お茶を運んだり。
黙っているほうがいいときも多かった。
 
そうしているうちに、だんだん茶色の瞳に輝きが戻って。
嬉しかった。
でも。
 
黙り込んだフランソワーズに、フィリップは長い息をつく。
 
「お休み…ってのは…たとえば、モナミの王女さまといちゃついてくる…みたいなことか?」
驚いたように青い瞳が揺れる。
「…私…そんな風に話した…?」
「と、思うけどな…イライラして、仲間にからかわれたって…愚痴ったじゃないか」
 
今度はフランソワーズが息をついた。
「フィル、私…ヤキモチやいてたんだと思う…?」
「そりゃそうだろ?…だが…そんなにおかしなコトじゃないと思うぜ」
「ううん…それは…困るの…どうして…」
 
どうして、変わらずにいられないのかしら。
 
命より大事なものを守るために、命を捨てて戦場を駆けるあなたが好き。
あなたのまっすぐな目に見えるものを、私も見てみたい。
私は、いつでもあなたの味方よ。
あなたが望むものこそ、
私の望みなの。
 
大丈夫、心配いらないわ、ジョー…
何も…心配しないで。
 
燃え上がる砂漠。
大切な人に裏切られたとき、あなたは…それでも彼女を助けなければならない、と言った。
私にはわかっていた。何をすればいいのか。
 
あなたの体を支え、一緒に操縦桿を取った。
私にしか聞こえない、微かな呟き。
 
…ス・マ・ナ・イ…
 
私の目はあなたと同じ所を瞬きもせず見つめ。
私の耳は震えていた。
今にも途絶えそうな鼓動。
乱れた呼吸。
崩れかけた心。
あなたの、命の悲鳴。
 
ジョー。
何も怖れないで。
信じたとおりに進んで。
もし…あなたが斃れたら…
私が、あなたの亡骸を抱きとめる。
 
最後まであなたと戦う。あなたの戦いを見届ける。
 
それなのに、どうして…
どうして、私は変わってしまうの?
 
あなたが守りたいもの…それは、あなたより大切なものなの?
いつからか、わからなくなった…あなたより大切なものなんて…本当にあるのかしら?
 
あなたが欲しいのは、ともに戦う仲間。
同じものを目指して、命を惜しまない仲間。
ただ、あなたを想う女の子…なんて、あなたはいらない。
 
私は変わってしまう、もうすぐ…どうしよう…?
ジョー、教えて。
 
私…どうすればいいの?
傍にいてもいいの?
 
「フランソワーズ…大丈夫なのか?」
「え…?」
「あいつ…お前を探しに来たんだろう?」
「そう…かしら…でも、ここには来ないわ、あの人…」
「…来ない?」
 
フランソワーズは再びジョーの姿を捉えた。
闇の中を少しずつ遠ざかる背中。
 
「…いつもそうなのよ…ジョーは」
 
静かに立ち上がったフィリップは、フランソワーズに歩み寄り、白い頬を両手でそっと包んだ。
短いキス。
「それなら、もう…どこにも行くな…行かせない」
耳朶に囁く。
 
「…ありがとう…大好きよ、フィル…」
「あいつより…?」
青い目が寂しく微笑む。
「比べられないわ…そんなこと」
 
フィリップは、不意に彼女を抱き寄せた。
「そう…だな…比べることなんかない…あいつが…来ないのなら…!」
 
 
 
――003…!!
 
あっ、と声がでかかり、フランソワーズは飛び起きた。咄嗟に通信機を確認する。
スイッチはあれ以来、切ったままだ。
わけもなく体が震える。肩にガウンを羽織り、窓を開けた。
満天の星空。
ふう…っと息をついた瞬間。
 
003……003…!
 
通信機は切ってある。
どんなに目をこらしても、あの木の向こうにも、誰も見えない。
 
003……003………003…………
 
声は次第に弱まり、消えた。
何も考えられなかった。フランソワーズは窓から飛び降りた。
 
裸足のまま、塗り込められた闇をただ走り続け。
「そこ」に駆けつける。
草の上に彼が横たわっている。
赤い戦闘服。ちぎれたマフラー。
 
「ジョー…?」
彼は動かない。
「…ジョー!!」
駆け寄ろうとしたとき、足元が大きく崩れた。
 
「――っ!」
ハッと目を開けた。
心臓が烈しく鳴っている。
フランソワーズはゆっくり身を起こし、震える指で、額にはりついた前髪をかき上げた。
 
「…夢…?」
 
いいえ。夢じゃない。
あれは…いつかくる未来。
 
カーテンを開けると、空は明るくなりかけていた。
どんなに目をこらしても、あの木の向こうにも、もう誰も見えなかった。
 
 
一瞬驚いたジャンは、すぐに柔らかく微笑んだ。
「やあ、フィリップ…脱走は終わりかい?…フランソワーズは?」
「…もう雲の上…お前の顔、見ていけって言ったんだけど」
「ふふ…いつものコトさ…だんだん慣れてきたよ」
 
コーヒーを一口すすり、深いため息をつくフィリップを、ジャンは面白そうに眺めていた。
「…なんだよ?」
「いや…ずいぶん、世話になったんだな…助かった…今度ばかりはまいってたんだ。元気がないし、何も言おうとしないし、泣くことすらしない」
サイボーグにされて、初めて帰ってきたときの方がマシだったくらいだ…と、ジャンは息をついた。
「まったくだ…タイヘンだったぜ…あ〜あ、それなのに…」
フィリップは口を尖らせる。
「こんなに大事にして、可愛がってやってさ…なのに、結局よその男と行っちまうんだよなぁ…」
「……それは、俺のセリフだ」
笑いを押し殺しながら、ジャンはカップを取った。
 
「…そうか…ジョーは…こなかったか」
「ああ」
「相変わらずだな」
 
お前は…いつでも、自分から闇に飛び込む。
遠ざかっていくだけの、彼を追いかけて。
その先にあるものを、彼とともに見届けるため。
 
それで…よかったのか?
それで、いいんだな、フランソワーズ…?
 
「…あれじゃ…フランソワーズ、幸せになんかなれないよなぁ…」
「まったくだ。アイツにだけは、渡せない」
「俺なら?」
「ちょっとは考えてやってもいいかな」
 
な〜に、ムナしいコト言い合ってるんだよ、俺たち…と、フィリップは肩を落とした。
声を立てて笑いながら、ジャンはふと窓を振り返った。
 
それでも。信じないわけにはいかないんだ。
お前は…幸せになる。
 
 
ソーサーの上で、カップがカタカタと鳴る。
ありがとう、とつぶやき、ジョーはグレートを見もしないでカップを受け取った。
「グレート?」
「な、何だ?」
「……フランソワーズ、何か言ってなかったかい?」
「さ、さ、さて…?その、彼女、帰るなり、すぐ寝ちまったから…我輩たちもゆっくり話してなくてなぁ…」
深いため息。
 
ギルモアとピュンマは向かい合い、それぞれ分厚い本で顔をかくしていた。
ジェロニモは小刀でひたすら何かを削っている。
ハインリヒは右手をためつすがめつ、「メンテナンス」に余念がない。
張々胡はキッチンから出ようとしないし。
 
ジェットはとっくに逃げ出してしまった。
 
「どうしたんだろう…?結局10日以上だよね…一度も連絡しなかったなんて、彼女らしくない…」
「そ、そうかな?…いや…その、彼女だって年頃の女の子だし…た、たまには自由に…」
 
部屋を揺るがすような咳払い。
グレートは飛び上がり、振り返った。
「ジェロニモ…?風邪…ひいたのか?」
「いや…ジョー、お前も…着いたばかり、疲れてる…早く、寝たほう、いい」
 
そうだな…と独り言のように言うと、ジョーは立ち上がった。
「おやすみ…」
仲間たちはそれぞれ曖昧にうなずいた。
 
「…ジョー、行ったアルか?」
張々胡がひょっこりと顔を出した。
「この、卑怯者!…今ごろ…」
「しっ…!!」
ピュンマが唇に指を立てる。
重苦しい沈黙。
 
「なぁ…どうする?」
「どうもこうも…これじゃ、こっちの神経がもたないよ…」
「ジョー…やっぱり、今までずっと、フランソワーズのこと、探してたアルよね?」
「…そうだろう…?…ったく…あいつら、何考えてるんだか…!気に入らないコトがあるんなら、ハッキリ言いあって、さっさとケンカでもしてくれちまった方が、こっちも気が楽だよなぁ…?」
「う、ううむ…とにかく、わしらは彼女から何も聞き出せなかったわけじゃし…このままでは、仲裁もできないのう…」
ギルモアは腕組みをしたままハインリヒをのぞいた。
「…今度ばかりは…あいつが正しいのかもしれないな…」
「あいつ…?」
「ジェットが…ってことかい、ハインリヒ?」
ハインリヒはうなずいた。
「そ、それなら、今のうち、ワイらも逃げるアル〜!あの二人、顔合わすトコになんて、いたくないアルよ〜!」
「…ああ…気まずいなんてもんじゃないだろうからなぁ…」
「でも…二人だけにして、大丈夫かな?」
「…まさか、殺し合いにはならないだろう」
 
そういう言い方は…マジでやめてくれって、ハインリヒ…
グレートは心でぼやいた。
 
10
 
眠りは浅かった。まだ夜明けには程遠い。
体を起こし、しばらくじっとうつむいていたジョーは、静かにベッドから下りた。
音を立てないように歩き、そのドアをそっと開ける。
 
薄闇の中に、うかびあがる白い肌。枕に広がる亜麻色の髪。
柔らかな息遣い。
 
ジョーはハッと唇を噛み、のばしかけていた手をそっと引いた。
ゆっくりと、堅く、拳を握りしめる。
やがて、彼はのろのろと床に座り込み、ベッドにもたれかかった。
 
…フランソワーズ……疲れたよ……
 
目を閉じる。
頭のすぐ後ろに規則正しい呼吸。
全身から力が抜けていく感覚に身をゆだねた。
 
「ジョー…?ジョー、ジョーったら…起きて…!どうしたの、こんなところで…?」
 
ジョーがベッドにもたれ、床に座りこんで眠っている。
目を覚ましたフランソワーズは困惑しきっていた。
ひざまずいたまま小声で何度も彼の名を呼び、肩をそっと揺する。
「ジョー…起きて…もう……!」
 
何がなんだかわからないが、このまま朝になって、仲間たちに気づかれたら…
フランソワーズはきゅっと唇を噛んだ。やるしかない。
立ち上がり、ゴミ箱に手を伸ばそうとする……が、立てない。
 
ジョーの手が、ネグリジェの裾を床に押さえつけていた。
 
「ジョー……?あなた…起きてる…の…?」
さっきより強く肩を揺する。
彼はうつむいたまま動かない。
裾を押さえつける手も。
 
フランソワーズはため息をついて、彼の横に座りなおした。
「…仕方のないひと……」
優しく彼の手を持ち上げ、そのまま軽く握りしめる。
 
「帰ってきたわ…私」
つぶやく。
…握り返す微かな力は…錯覚…?それとも…
 
でも、いいわ…もういい…帰ってこれたんだもの。
本当に…よかった…
 
フランソワーズはそっと彼の肩に頬を寄せ、目を閉じた。
 
11
 
張々胡飯店の明かりは消えていなかった。
店の片隅で毛布をかぶったギルモアが寝息を立てている。
不意に、張々胡が頓狂な声を上げた。
 
「イワン〜?目を覚ましたアルか?」
 
本当か?とゆりかごの周りに集まった仲間たちを、イワンは大きな目でゆっくり見回した。
 
「フランソワーズは?」
 
「そ、それを…聞きたいんだよ!…なぁ、イワン…ちょっと見てくれ、あいつら…大丈夫だよな?」
「…大丈夫って…何が?」
「その…ケンカ…ってか、修羅場になってたりなんか…しないよな?」
 
イワンは何度かまばたきした。
 
「ケンカなんかしてないよ…二人とも、フランソワーズの部屋で、寝てる」
 
――沈、黙――
 
「な、なに?…何だって、イワン…今…何か…」
「…だから、ケンカなんかしてないってば。仲良く並んで…」
 
最初に我に返ったのは張々胡だった。
 
「見ちゃいけないアル、001!…コドモの見るモノじゃないアルよ〜〜!!」
 
赤ん坊は小さくあくびをした。
「…キミたちが、見ろって言ったんだよ…?」 
 
更新日時:
2001.11.26 Mon.
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Last updated: 2013/10/17