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非日常的009

伊勢物語・芥川
あうとばーんは終わりに近づいていた。ここまでは、誰にも見咎められていない。
大路の果てには暗い森が広がっている。
 
男は立ち止まり、肩で息をしながら、底知れぬ闇に包まれた行く手をじっと見据えた。
「…今なら…まだ…君だけなら…奴も…」
「言わないで!」
女は小さく、しかしきっぱりと言い切り、男の手を堅く握りしめた。
男は静かにうなずいた。
 
「…よし…一気に駆け抜けるぞ。何があっても、俺から離れるな」
「ええ…でも、あるべると…もし…」
「もし…?」
「もし、私が斃れたら…あなたは生きてちょうだい…約束して」
「何を、馬鹿な…!」
「約束して。そうでなければ、私…」
「ひるだ…!」
 
烈しく女をさえぎった瞬間。張り詰めた瞳が男を捉えた。
ふっと闇に吸い込まれるような感覚。男はゆっくり息をついた。
 
「わかった…約束する。だから、そんな顔をするな」
 
女は微笑んだ。
 
「行こう」
一歩踏み出したとき。あ、と女が小さい声をあげた。
 
「どうした?」
「なにか…光ってるわ…きれいね…何かしら…?」
 
鈴を振るような弾んだ声。
この前、彼女のそんな声を聞いたのは、いつだったろう?
女の指差した先を見やり、男は微かに眉を寄せた。
 
夜露じゃないか。僅かな星明りを集めて光っているんだ。
そう言おうとして、口を噤んだ。
 
露。
朝になれば消える運命。
はかない…命。
 
男はぎゅっと唇を噛み、無言のまま女の手を引き、あうとばーんを一気に走り抜け、そのまま森に駆け入った。
鬼の棲む森。
夜になると、誰も近づく者はいない。
だからこそ、ここしか道はなかった。
 
 
走っても走っても森は続く。
倒れそうになる女を励ましながら、男はひたすら走った。
どこまで続くんだ?このままでは、彼女が……
しかし、立ち止まるわけにはいかなかった。
 
不意に、冷たいものが顔にあたる。
「…雨…?」
つぶやくのと同時に、一気に滝のような雨が降りかかってきた。
「ち…畜生…!」
あっという間に道がぬかるむ。
足をとられ、二人はもつれるように倒れた。
 
「だ…大丈夫か、ひるだ…?」
「あ、あるべると…」
女は苦しげに肩で息をしながら、今にも途絶えそうな声で囁いた。
 
「ここからは…あなただけで…行って」
 
男は女を抱き上げ、ゆっくりと歩き始めた。
 
「あるべると…!お願い、私はもう…駄目…あなただけでも…」
「…君と離れて生きられるのなら…それができるのなら、とっくにそうしている!!」
 
 
長年、慣れ親しんだ最愛の妻。
男が逃げるように都を捨てたときも、彼女は黙って彼についてきた。
親も、生まれ育った家も、何もかも捨てて。
荒々しい東国での厳しい生活にも、彼女は愚痴一つ言わず、両親にかしずかれていた姫君だったころの愛らしい笑顔を失わなかった。
 
都から流れてきた美しい人妻のうわさは、たちまち小さな村に広がった。
そしてある日、隣国にはびこる豪族から、彼女を差し出せ、と使いが訪れた。村は既に豪族の武士たちに囲まれていた。
 
断るのなら…命は無い、ということか。
男は即座に覚悟を決めた。
それならば、俺は戦い、死のう。
命あるかぎり、彼女は誰にも渡さない。
 
夜、「森」を抜けて、二人で逃げようと言ったのは女だった。
 
あなたを殺した男のものになるより
あなたと死にたい。
 
 
雨はますます烈しくなる。
女を雨から庇うように抱きしめ、男は歯を食いしばった。
 
違う。
君と死のうとしているんじゃない。
君と生きるために…そのために命を賭けるのだ。
 
突然、辺りが沈黙につつまれた。
体を烈しく打つ雨の音さえ聞こえない。
無音の闇。
 
男が、呆然と振り返ったとき。
凄まじい雷光が閃いた。
 
次の瞬間、沈黙は破れ、轟音が堰を切って襲い掛かった。
雷鳴…地鳴り…雨音……咆哮。
 
男は我知らず絶叫した。が、その声もあっけなく掻き消される。
わけのわからない恐怖と混乱の淵に突き落とされ、男は意識を失った。
 
 
 
雨上がりの森は木漏れ日に輝いていた。
小鳥の鳴き交わす声。
 
男はうめき声をあげ、目を開いた。
しっかりと抱きしめているはずの女が、いない。
 
「…ひ…るだ……?」
 
ハッと飛び起きた。全身が烈しく痛む。
 
「ひるだ…?どこだ、ひるだ…!!」
 
木々の間をめぐり、草を掻き分け、男は女を捜した。
狂気のように彼女の名を呼び、走り回る。
 
男はやがて、それを見つけた。
蒔絵の櫛。
数本の長い髪がからまり、半分に折れたその櫛は、血に染まっていた。
 
……鬼だ。
 
何かが乾いた声で、男に囁く。
男は烈しく首を振り、膝を折ると、両手を思い切り地面に叩きつけた。
 
獣のような叫びが森に響き渡る。
咽喉を振り絞り、男は慟哭した。
 
 
どれだけ時間がたったか、わからない。
男は静かに顔を上げた。
片手で太刀の柄を抑え、一気に鞘を払う。
朝日を受け、太刀は鈍い光を放った。
男はふと、微笑んだ。
 
太刀を逆手に持ち、ゆっくりと両腕を振り上げた。
空を振り仰ぎ、咽喉を太刀先に曝け出す。
木々の間から差し込む陽光に灼かれ、目を閉じたとき。
 
…約束して…!!
 
鈴を振るような、透明な声。
男は大きく目を見開いた。
 
あなたは…生きてちょうだい…約束して…!
  
太刀を握った腕が震える。
やがて、心の奥底から這い上がる低い声。
男は慄然と身をこわばらせた。
 
…わかった…約束する。だから…
 
太刀は地に落ちた。
男は腑抜けたようにその場に座り込んでいた。
 
日差しは既に明るく、強く。
草に置いた無数の露が、吸い込まれるように消えていく。
 
「なにか…光ってるわ…きれいね…何かしら…?」
 
君が空に溶けていく。
あのとき…答えていれば。
あの、不吉な言葉を、恐れず口にしていれば。
俺も、君と消えることができたのか。
 
後を追えない俺の袖に、君はしばしとどまれ。
繰り返す夜明けごとに、この袖を濡らせ。
 
  
白玉か 何ぞと人の問ひしとき 露と答へて 消えなましものを
更新日時:
2001.11.30 Fri.
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Last updated: 2010/9/3