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009的国文

晩夏(シュティフター・藤村宏訳)
 
えーと(汗)こういう書き出しばっかりじゃないかこの頃(嘆)
 
これは、国文ではありません(しみじみ)当たり前だ!
 
シュティフターオーストリアの小説家で、絵も描く人なのだった。
 
最初にシュティフターの小説を読んだのはおそらく10年近く前で、岩波文庫の『水晶』が職場の図書館に異様な数置いてあったため何となく手に取った、というのがきっかけだった。
地味な本だなーというのが第一印象で、フツーだったら読んだりしなかったと思うのだけど、とにかく大量に置いてあったので(悩)読んでみたのだった。
そして、その短編「水晶」が強烈に印象に残った。
 
今思えば(?)旧ゼロのしまむらとお嬢さんみたいな感じの兄妹(こども)<こら(涙)の話なのだった(しみじみ)
 
やがて、その本が大量に置いてあるのは、ある同僚の推薦によるものだということがわかった。
そして、それから何年も過ぎて、再び図書館にシュティフターの、今度はかーなーりの分厚い小説上下巻!が入っているのに気づいた。それが「晩夏」。
もちろん、同じ同僚の紹介で入ったのだった(しみじみ)
 
たしかに「水晶」はよかったけど、さすがにこれだけ分厚くてしかも2巻……(汗)と、しばらく手をつけていなかった。
ところが、ある日、その本のカードを見ると、なんと借りている人がいた!(驚)<こら(汗)
 
…………。じゃー読んでみるか(悩)読めないってわけじゃなさそう(悩)<?
 
で、読んでみたら、やめられなくなったというか(遠い目)
 
この作品は「世界で一番退屈な小説」と言われることもあるらしい(しみじみ)
たしかに、スゴイ(しみじみじみ)
 
なーーーーーんにも、起こらない!!!!!!(倒)
 
……のだった(涙)
 
ちなみに、私が読んだのはちくま文庫で、本のカバーについている紹介文には、このような文句が書いてある。
 
「……旅の青年は、街道を離れ、雨宿りを求めて、丘の上の邸へ続く道を上り始める。青年の運命は、この時から、大きく変わって行くのも知らずに……。」
 
……とか言われたら、一応、おお、なんだろう?(わくわく)と思わせられる。
でも、その「丘の上の邸」で何かが起きる、というわけではないのだった。
もちろん、その邸は、主人公の人生においてものすごく大きな存在となるわけではあるのだけど。
 
登場人物もあまり増えない。
主人公の両親と妹、その「丘の上の邸」の主人と、彼にゆかりのある老婦人とその息子と娘、「丘の上の邸」の主人のところにいる職人さんというか、画家(悩)……ぐらいで。
 
一応、恋愛エピソードもある。
主人公と「ナターリエ」という完璧な少女とのなんというかこー(悩)
プラトニックなというかなんというかこー(更悩)
 
後になって、おお、実は恋のライバルとかもいたの?(汗)
ということがわかったりするのだけど、実際には何も起こらない(しみじみ)
 
更に、ナターリエのお母さんのマティルデと、その「丘の上の邸」の主人が昔やっぱりプラトニックな恋愛関係にあったのだけど、それもなんというかこー(悩)
 
要するに、その二つの恋愛がドラマティックに関わりあって……と、いえばいえるのだけどなんというかこー(更悩)<もういい(涙)
 
とにかく、さすが「世界で一番退屈な小説」と言われるだけのことはある、というストーリー展開なのだった。
#いや、あまり展開しないのですが<ストーリー(涙)<いいってば(嘆)
 
問題は(?)ストーリーが展開しないのに、なぜこんなに長いのか、というところで。
それは、その内容の多くが、主人公たちの膨大な蘊蓄で占められているから……なのだった。
 
主人公と、「丘の上の邸」……作品中では「薔薇の家」と呼ばれている……の主人であるリーザハ男爵と、その邸の家具工房にいる画家オイスタハ、時にはマティルデ、それから主人公の父親……たちが、絵に、彫刻に、家具に、建物に、園芸に、装身具に、宝石や貴石に……とにかく、生活回りの、工芸と美術の境目みたいな辺りのトコロを狙って、それぞれの見識や批評を延々と語り合い続ける(倒)時には科学も語っちゃったりする。
 
そして、当然ながら、それらは人生観とか哲学みたいなところにも微妙につながっていったりして(しみじみ)
 
小説の終わりは……読み進めているうちに、そういうことはかなりどうでもいいという気分になってくるのだけど……ハッピーエンド、大団円、そりゃーもーオマエ恥ずかしくないか(涙)というくらい!オマエって誰(悩)
 
 
…………。
 
 
で、それがなぜ「サイボーグ009」なのか、というと(悩)
 
…………。
 
 
えっと、似てますよね?(びくびく)誰に聞いてるんだ誰に(嘆)
 
 
「009」といっても、後期原作の、少年サンデーに連載されていたあたりのところを指している。
 
しまむらたち主要人物の間に、人間的な軋轢やドラマがほとんど起きない、というようなところも。
しまむらたちは物語を動かすというよりむしろ観察者・批評者の立場で、いろいろな事柄を描写している……というようなところも。
しまむらたちがみーーんな「いい人」たちで常に正しく振る舞い、他の登場人物も基本的には「いい人」であるというところも。
 
さらに、しまむらたち……特に主人公しまむらに、これといったゴハンを食べるための職業がなく(倒)強いて言えば壮大で崇高な理想(しまむらの場合は人類の幸福?)をひたすら追うのが仕事、みたいなところも。
そして何よりも(?)しまむらとお嬢さんの描かれ方が、もー、主人公青年とナターリエそのものというか!(倒)
 
たとえば、主人公青年はあるとき、リーザハ男爵に「去年ここでマティルデとナターリエにお会いになったのではないですか」と問われる。
その去年ここで、というのは、彼らがまだ知り合う前で、ちらっとすれ違う程度の出会い方だったのだけど、女性二人がそのときのことを覚えていて、たぶんあのときの方がそうだったのだろう、という話をしていたというのだった。
で、それを聞いたしまむらもとい青年はこう考える。
 
ナターリエをどこかで見たように感じたのはこのためだったのだ。あのとき、人間の顔こそ、絵の対象として最も高貴なものではなかろうかと考えたのに、どうしてよいかわからぬままに、自然物の方が人間よりまとめやすく、忘れてしまっていたのだった。
 
…………。
 
よーするに一目惚れした……ってことなんだろうと思うのに、このアプローチ(涙)ってかアプローチできてない!(倒)
で、結局「忘れてしまって」(嘆)いて、他に関心がむいてしまったりして(しみじみ)
 
そのくせ、そっか、あのとき彼女は、自分のことをそーやって覚えていてくれるぐらい印象にとどめていてくれたんだ!と気付いて、ちょっと顔を赤らめるぐらい嬉しかったり(しみじみ)踏むところだと思います!
 
あるいは物語後半、二人は大理石のニュンフ像のある洞窟で美しいモノについて語り合っているうちに、いつのまにか(倒)互いの愛情を確かめ合っちゃったりするのだが、そのとき、しまむらもとい主人公は、ナターリエが一年前この場所で自分を避けた、ということを語って、それでずっと心が痛んでいた、とか言うのだった。
 
そんな場面あったっけ????(汗)と、思わず戻ってみたら……あった。
……が、ソレはこういう場面だった。
 
散歩の途中で洞窟に行くと、ベンチにナターリエが座っていたので、主人公は声をかけることも中に入ることもできず、どうしたらいいかわからずにただ立っていた……ら、やがて彼女は彼に気付いて、黙って立ち去ってしまうのだった。
で、彼はその後で彼女が座っていたベンチにしばらく座ってぼーっとしていた……。
 
というエピソードで、少なくとも、そのとき彼が何を思ったか、というような説明はない。事実だけを淡々と述べた描写なのだった。
ちなみに、その後話はまったく別の方向へ向かい、彼が彼女についてあれこれ考えをめぐらすよーな場面もない。
 
で、そのときのことを彼はずーーーーっと忘れずにいて、心を痛めていたと(以下略)
 
だったらそー言えばいいじゃないかしまむらっ!(怒)せめて読者にだけでも(涙)
 
互いの愛情を確かめ合ったとき、二人は口々に「あなたが私を愛していたなんて全然気付かなかった」ということを言い合うのだけど。
そりゃーそーだろーよー(嘆)と読者も思うのだった(しみじみじみ)
 
ともあれ、最終的に二人はお互いの気持ちを確かめ合う。
こーゆー二人がそうできたのは、奇跡的……という気もするけど、ナターリエに言わせると、
 
私たちが心から愛しあっていれば、いつ、どこでということはわからなくても、結局は心が通じ合ったと思います。
 
と、ゆーことらしい。
……なんだかもう(涙)
 
そんなわけで、しまむらとお嬢さんの恋の行方……なんて、気を揉んだりすると、ずぇーったい馬鹿を見るに違いないのだった!!!!!(涙)完結篇も結局そーゆーことなのかも(しみじみ)<え(汗)
 
主人公はそういう非常に控えめな人なのだが、一応仮にも(?)よーろっぱの人なので、ここ一番となれば、さすがに日本男児しまむらよりは愛をすらすらと語ることができる。しまむらも故障で頭が半分イカレたときには若干すらすらしてましたが(悩)<結晶時間<やめれ(涙)
 
長いけど(嘆)こんな感じなのだった。
 
「あなたはすぐれた方、清らかで、素直な方です。私の前で、そのような生活を送っていました。あなたは空の青さと同じように明るく、あなたの心は空の青さと同じように深く思われました。知合になってから、もう幾年にもなります。立派なお母様や尊敬する薔薇の家のご主人にも増して、いつも大切に思われました。今日のあなたは、昨日のあなたと同じですし明日も今日と同じでしょう。そのような姿で私の心の中におさめていたのです。愛する父や母や妹とともに――いいえ、ナターリエさん、もっと深く、深く――」
 
で、その後彼は「何も言えなかった。ただ彼女を見つめていた。」というのだけど、これだけ言えばもう十分だろう(嘆)と思ったりもするのだった(しみじみ)
 
お嬢さんもといナターリエさんは主人公ほど多くの言葉で語りはせず、結局のところ彼が「飾るところのない、すぐれた方、そして真面目な方」だから愛するようになった、というのだった。
彼女の場合、愛を抽象的な言葉ではなく、彼の好ましい行動を並べて語っているのがちょっと面白い。当時の……というか、シュティフターの男女観なんだろうなーと思う。
その感じも、もしかするとイシノモリ的であるのかもしれないのだった。微妙に保守的なフェミニスト、というか(悩)
 
そして最後に二人は、互いを得た喜びをこのように語り合う。
 
「ナターリエさん、心が喜びで湧き立ちます。とても及びがつかないと思っていたあなたを自分のものにすることが、こんなにすばらしいとは予想もしていませんでした」
「私も、あなたが心を傾けていた大きなお仕事から、私の方に心を向けてくださるとは考えていませんでしたわ」
 
しまむらはともかく、このナターリエさんの言葉からは、何となくヨミ篇のお嬢さんを思い出したりする。
お嬢さんは、ホントは戦いたくない……のだけど、戦いにまっすぐ向かっていくしまむらの背中を追いかけていく。恋なんかより、大きな理想に向かってひたむきに進む彼を、それゆえに愛し、それゆえに報われないことも十分覚悟の上で、彼にどこまでもついていくのだ!(涙)
 
ナターリエさんは、長いプラトニック期間を経て、最後にはこうやってしまむらもとい主人公から愛の言葉をもらい、結婚することができたけれど、お嬢さんはというと、やっぱり相手が日本男児なので(嘆)完結篇でもあーなってしまうというか、しまむらから言葉はもらえない(涙)
 
でも、ナターリエさんがに喩えられたのと同じように、しまむらはお嬢さんを最後の最後でに喩える。
よーするに、しまむらも彼と同じことを言いたかったんだろう(言わなかったけど<踏み!)と思っておくことにするのだった(しみじみ)
 
そして、彼らもしまむらたちも、愛のクライマックスにはキス。
そこで終わり、なのだった(倒)いや完結篇の場合は、書かれてないトコロで結構やってたよーな感じもありますが(悩)<やめれ(涙)
 
ところが。
これだけではないのだった(しみじみ)
 
もうひとつの恋愛、つまり彼らの親世代、リーザハ男爵とマティルデの関係がまだスゴかったりする(しみじみじみ)
 
若い日のリーザハ男爵は両親と妹を亡くした孤独の身で(倒)マティルデとその弟の家庭教師をしているうちに、彼女と恋に落ちるのだった。
が、マティルデの両親は、彼らがまだ若く、今は恋よりも将来のために頑張る時期だろーということを心配し、娘との関係を一旦切ってくれ、と彼に頼む。
交際に反対したというよりも、もっと時間をおいて、お互い立派な大人になってからもう一度考えてほしい、みたいな話をするのだった。
 
彼は苦しみつつも、それを正しいこととして受け入れ、マティルデにそのことを告げる。が、マティルデはそれを彼の心変わりだとしか考えられず、絶望するのだった。
 
そのように二人が別れてから長い年月の後、マティルデは他の男性と結婚してしまう。彼もまた官吏として成功したり、伯父の財産を相続したりして財を築き、やがて結婚する。
ところが、二人の結婚はそれぞれ穏やかで尊敬に満ちたものであったにも関わらず愛情はなかったというのだった。
 
やがて二人はそれぞれの伴侶を亡くし、再会する。
マティルデには子どもが二人いて、それがナターリエとその弟グスタフで……グスタフ、というのはリーザハ男爵の名前だったりするのだった!!!!(倒)
 
…………。すごいですー(涙)
 
初老の身となって改めて互いの愛を確かめ合った二人は涙しながら抱き合う……のだけど、キスはなし。
あくまでプラトニックなのだった!
 
そして、リーザハ男爵はグスタフの教育を引き受け、自分の手元に置いて男親の代わりになろうと決める(しみじみ)
 
彼はそんな二人の関係をこう言い表すのだった。
 
マティルデと私の関係には、世の常とは異なったところがあります。愛の中には、男と女を結ぶ嵐のような情熱の日々のあとにあらわれる静かで誠実で甘美な友情関係があるのです。それは、あらゆる毀誉褒貶を超越し、おそらく人間関係のさまざまなあらわれの中で、鏡のような清らかさを何よりも多く持つものでしょう。このような愛が始まったのです。それは私心のない真実の愛なのです。相手と共にいることを喜び、日々の生活を楽しいものにし、それをいつまでもつづけることに努めるのです。それはこの世ならぬ優しい感情です。
 
……たしかにこの世ならぬモノになったのかも(呆然)<完結篇(しみじみ)
 
そう考えると、REの93はまだまだだな!(笑)<やめれ(涙)
ってか、トモエちゃんがソレ?(悩)<だからやめれってば(涙)
 
そういうような彼の告白を聞き終えた主人公は、マティルデと彼が結婚しなかったのはどうしてか、と疑問を呈する。
それに対して彼は美しく頬を染めながら(汗)こう言うのだった。
 
その時機はもう過ぎ去りました。そのような間柄はもう楽しくはないでしょうし、マティルデもおそらく一度も望んだことがないと思います。
 
…………。
 
いや、お嬢さんは、ジョーのおよめさんになりたいって言ってたぞしまむら(しみじみ)
でも実はコイツらの結婚ってどーもイメージわかないというのも事実(しみじみじみ)
 
ただ、なんとなーく納得できるのは、リーザハ男爵とマティルデとマティルデの息子グスタフとの関係で。
 
どうしてか、という説明はしにくいけれど、しまむらはお嬢さんの子どもなら自分の子どもだと自然に思っちゃうんだろうし、その気持ち自体はお嬢さんにも直接伝わるんだろうなーと。
 
が、実際にその子どもを産んだお嬢さんにしてみると、自分はしまむらを裏切ったのだ、という罪悪感がどーしてもどこかに残り、ヒドイ話だけど、しまむらはその罪悪感の苦しさをサッパリわからないんだろうなーとも思うのだった。
 
問題は、リーザハ男爵に子どもが生まれていた場合、彼はその子をマティルデの子だと思えるのか……というと。
それは難しそうなのだった(悩)
もっというと、実はその子どもを本当の意味での(?)自分の子どもだと思うことも難しいような気がしたり(更悩)
 
だから、リーザハ男爵には子どもができていない(しみじみ)
 
それはしまむらでもたぶんそうなんだろうと思ったりするのだった(遠い目)
しまむらは、どんな女性と結婚しても別にいいというか、不満はないというか、フランソワーズと結婚したかったのに!(涙)と思ったりはしないような気がするんだけど、彼が自分の子だと思えるのはフランソワーズが産んだ子どもだけなのではないかと思うのだった(悩)
 
ちなみに、その子どもの遺伝子上の父親は自分であってもなくても同じ(悩)
 
そんな馬鹿な(汗)とはたしかに思うんだけど、でも実際にそーゆー男がこーやって存在しているのだから、しまむらがそうであったとしても悪くはないだろうなーと(しみじみ)
 
ともあれ、ナターリエさんお幸せに!
まーがんばってください!
 
と思いつつ、でもその彼女が幸せになるはずのこれからの話は読んでも読まなくてもいいのかな(悩)と思ったり(しみじみ)
 
そして、身も蓋もないことを言えば、私にとっての「サイボーグ009」も、そういう物語……読んでも読まなくてもいいのかもしれないけど読んでるとなんか気持ちいい(しみじみ)
 
……ということなのかもしれないのだった(しみじみじみ)
 
 
 
本文は『晩夏 上・下』(ちくま文庫)より。
更新日時:
2013.06.10 Mon.
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Last updated: 2013/6/10