ホーム 五段活用 卒業 ピンポン 敗北の五月

1    きずな(新ゼロ)
 
  1
 
 闇の中に、血のにおいが立ちこめていた。少しずつ大きく聞こえてくるうめき声を頼りに、009たちはようやく003を見つけた。
 「…大丈夫か、フランソワーズ?」
 暗がりの中に浮かび上がった003の顔は青白いまでに白く、009は思わず言葉に詰まった。そんな彼を安心させるように、彼女は微笑んだ。
 「ええ。私は大丈夫よ…」
 003は膝の上に一人の女性を抱きかかえていた。ライトを当て、ギルモアが目を見開く。
 「なん、と!たしかに陣痛のようじゃの…これでは動かせん。うーむ、ここで産ませるしかないが、しかし……」
 女性のうめき声がまた大きくなった。
 
 ほとんど息も絶え絶えに見えるその女性は、009たちの問いかけに一切答えなかった。名前も明かさない。が、その身なりから、先ほど政府軍の攻撃を受けた村の生き残りであることは間違いないと思われた。
 この、世界最貧国とも言われる某国では、ほとんど泥沼化した内戦が繰り広げられていた。その背後に見え隠れするネオ・ブラック・ゴーストの影を追う中で、009たちは、政府軍が、無抵抗に近い或る村を、容赦なく攻撃している現場にぶつかった。
 どんなに残酷な戦闘を目にしようと、彼らは、こうした内戦そのものには干渉しない、という立場を堅く守っている。たとえその時一旦、戦闘を阻止できたとしても、得体のしれない敵としての彼らの存在は、事態をより混乱させ、悪化させる要因にしかならないからだった。心を鬼にして、彼らはその現場から密かに立ち去った…はずだったのだが。
 いつの間にか、003が消えていた。
 
 003は、あっさりと通信に答えた。彼女の無事に大きく胸をなで下ろしながらも、009はすぐ合流するように、とやや厳しく指示を出した。
「とても苦しんでいる人がいるの。放っておけないわ」
「003、君の気持ちはわかるが、僕たちは……」
「このままだと死んでしまう!ここには、誰も彼女を助けてくれる人がいないの…みんな、殺されてしまったのよ」
「気の毒だが、それが現実だ。僕たちだって、その人を助けるわけにはいかない…戻るんだ、003」
「いや」
「…フランソワーズ!」
「だって!この人、赤ちゃんが生まれそうなの…!」
 思わず絶句し、009たちは顔を見合わせた。003はそれきり、どう呼びかけようとも、返事すらしようとしない。ついに009は根負けした。
「わかった。そっちに行こう。場所を指示してくれ」
 
 このままだと死んでしまう、という003の言葉は大げさではなかった。その女性は肩に銃弾を受け、頭部からも出血していた。うめき声が大きくないのも、それだけの力が残っていないから…ということのようだった。まだ若い女性だった。
「お腹の赤ちゃんは元気よ。博士、助けてください」
 目を閉じ、じっと耳を澄ませてから、フランソワーズは震える声で言った。
「しかし…助ける、と言っても…」
 ギルモアは口ごもった。一応、最低限の医療器具と薬品は揃えてきた。それでも、衛生状態がいいとはお世辞にもいえない現場だ。第一この女性の傷では……。
「赤ん坊だけでも、何とか助けよう。お願いします、ギルモア博士」
 008も押し殺した声で言った。
 
  2
 
 女性が隠れていた洞窟の入り口に、見張りのために立ち、009は大きく深呼吸した。胸が押さえつけられているように苦しい。女性のうめき声は、弱々しいながらも、大きく激しくなったような気がする。振り払うように顔を上げ、遠くの闇に目をこらした。動くものは何もない。
 003なら、さらに遠く、なおもどこかの村に火の手が上がるのを見るだろう。闇に絶え間なく響く断末魔の声も聞くだろう。なのに、その君が、なぜ。
 助ける、とはどういうことなのか。生まれると同時に母を失い、ふるさとの村も失い、貧困と混乱の中にひとり裸で放り出される。そんな生を与えることが、助ける、ということなのか。
 フランソワーズ、君の目に、希望は見えているのか。ほんの僅かでも。
 
 もし、みごもっていなかったら…あの女性は生き延びることができたのかもしれない。母親の命と引き替えに、望み薄い世界に生まれ落ちようとしている新しい命。それを助ける、と君は言うのか。助けるのなら……そうだ、むしろ、彼女の方を助けられないか。可能性は低くとも、子供さえあきらめれば、もしかしたら。
 009はハッと顔を上げ、振り向いた。暗い洞窟の奥に、獣じみた叫びが反響する。血を吐くようなその声を、彼ははっきりと聞いた。
「…殺して!」
 
 駆けつけた009の足音に、仲間たちは誰も振り向かなかった。女性の顔は既に土気色となり、その手を003が祈るように握りしめている。
「もう少し…もう少しよ、しっかり…!」
「いや…いや、殺して…おねがい…この子を、殺してください…!」
「何言うアルか、がんばるネ!」
「この子は、ひとり…ぼっち、だれも…いない…わたし…も…」
 彼女は苦しい息の合間に、必死の形相で訴え続けた。子供を自分と一緒に殺してほしい、と。
「だめよ、負けてはだめ!もう少しだから…!」
 003の声に、009はぐっと唇を噛んだ。震える手を静かに腰のホルスターに伸ばす。自分が何をしようとしているのか、はっきりとはわかっていなかった…のかもしれない。
「殺して!」
 女性がひときわ大きな声で悲鳴を上げた瞬間、009は反射的にスーパーガンを抜いていた。異様な気配に002がギクリと振り返り、叫んだ。
「何しやがる、009っ!」
 同時に005が女性の前に立ちふさがった。飛び出した002が、一瞬ひるんだ009の手から銃をたたき落とす。はっと我に返った009の耳に、割れるような赤子の泣き声が響いた。
 
「男の子…じゃ」
 ギルモアが震える声でつぶやいた。003は泣きわめく赤ん坊を、そっと女性の胸に抱かせた。
「…わかる?あなたの、ぼうや…こんなに、元気よ」
 女性は堅く閉じていた瞼をわずかに持ち上げた。唇がゆっくり動く。
「…てぃ、む…」
「ティム……?この子の、名前…?」
 003の問いに、彼女は微かにうなずいた。思うように動かない右手を懸命に赤ん坊の頭に置き、左手で003の手を握りしめ、もう一度祈るようにつぶやいた。
「…てぃむ」
 それが、最期の言葉だった。夜明けを待たず、女性は息を引き取った。
 
 3
 
 生まれたばかりの赤ん坊をその場に置いていくわけにはいかず、といって、ぐずぐずしているヒマも009たちにはなかった。彼らは赤ん坊をドルフィン号に連れて行き、すぐに出発した。
 ほどなくいくつかの基地を叩いたものの、ネオ・ブラック・ゴーストの本体に迫ることはできなかった。とはいえ、作戦を立てたときから、それはある程度予想できたことでもあった。少なくとも、内戦に少なからぬ影響を与えていたはずの、彼らの気配がまるで霧のように消えたことだけは確認できた。それでとりあえずは成功としなければならない。009たちは帰還することに決めた。
 赤ん坊をどうするか…については、議論の余地もなかった。もちろん研究所に連れて行くわけにはいかない。この国に、親を殺された生まれたばかりの赤ん坊を無事に育て上げるだけの施設などまずない。他国に連れ出すしかないのだが、009たちが、自分の身元なりこの赤ん坊との関わりなりを公に説明するわけにはいかない。となると、彼らにできることはひとつだった。
 
 003は赤ん坊に新しい産着を着せ、毛布で丁寧にくるみこむと、その中に彼の名前と生年月日を記した丈夫なカードを慎重にしのばせた。一人で行く、と彼女は言い張り、目立たない色のコートを羽織り、ネッカチーフで髪を隠し、眼鏡をかけた。
 遠ざかり、闇に消える彼女のはかない背中を、仲間たちは黙って見送るしかなかった。しかし、やがて、009が立ち上がった。
「様子を見てくる」
「003なら大丈夫。009…ここで待っていよう」
 008の言葉に、009は首を振った。
「彼女に決心ができるとは思えない。あんなに…かわいがっていたんだ」
 誰も反応しないのを確かめてから、009は003を追った。
 
「あんなに…かわいがっていた…か。ヤツにはそう見えたのかね」
「大丈夫じゃないのは、きっと009の方アル…」
「だろうな」
「俺達は、やはり間違ったことをしているのだろうか」
 008のつぶやくような言葉に、ギルモアは黙ってうつむいた。赤ん坊を、彼の故国の元宗主国へ連れて行き、孤児を養育する施設に「捨てる」…それが、彼らの出した結論だった。
 重い沈黙を004が破った。
「もちろん、間違っているさ…俺達の中で、正しいことをやろうとしたヤツがいるとすれば、それはただ一人、009だけだ。あの赤ん坊は、母親と一緒に死なせるべきだった。肉親もふるさとも失い、形見の品ひとつ持たず、自分が何者であるかすらわからない。わかるのは名前と生年月日だけ……それだって、確かなモノだという証拠はどこにもない。そうやって、あの子は生きていかなければならない。誰に守られることもなく、たった一人で、この異国で、だ。それに比べたら、何も知らず母親の胎内に抱かれたまま、ふるさとの土に還った方が、はるかに幸せだったろうよ」
「…004」
「ギルモア博士、あなたもそう思うでしょう?いや、みんな、本当はそう思っていた。003とあの子の母親をのぞけば、な」
 005が静かにうなずいた。
「…そうだ。あの子の母親、殺せと言った、アレはウソだ。最後、あの子の名、呼んだ」
「まあ、オンナってのは、愚かで残酷なもんだ……昔からそうと決まってる。いくら天使のように見えたって、003もオンナさ。例外じゃない」
「だが…もし003がオンナでなかったら、俺達はもっと愚かで残酷なヤツになりはてていたに違いない…とかなんとか。どうせ、そういうオチなんだろ、007?」
「お?珍しいじゃないか、002。おぬしも最近、やーっと我輩の言葉の奥深さが理解できるようになってきたたとみえる、はは、頼もしいね」
「…ぬかせ!」
 
  3
 
 少し走ったからといって、息切れするような体ではない。それなのに、一足ごとに鼓動が早くなっているような気がした。009は走りながら、何度も心で003に呼びかけた。君にはできない。できるはずない……と。
 003はまるで母親のように赤ん坊の世話をしていた。彼女の他は誰も呼びかけることのなかったティム、という名を甘く優しい声でささやき、あやし続けた。深入りすると別れがつらくなるだけだ、という仲間たちの忠告もまったく意に介さない様子で。
 
 そうだ、君はあの子を愛していた。あの子に向けた君の笑顔は、声は、仕草は、ウソじゃない。だから、あの子を捨てることなんかできない。できるはずない。君にはできない。本当に愛しているなら。そうだろう、フランソワーズ…?
 
 あたりは闇に閉ざされ、ひっそりしている。もちろん、人通りもない。夜明け前の時間を、彼女は選んだ。一番気温が下がる時間だが、一番人目がなく、したがってよけいな危険はむしろ少ない。そして、夜が明ければ、赤ん坊はほどなく施設の当直に発見してもらえるはずだった。
 
 前方で、小さな人影が揺れる。009は思わず足を止めた。003だ。彼女は素早く辺りをうかがい、そうっと腕の中の赤ん坊を建物の入り口に置いていた。そして、そのままさっと身をひるがえし、走り出したときだった。不意に、赤ん坊が泣き始めた。目を覚ましたらしい。
 彼女を慕い、赤ん坊はどこか哀れっぽく、やや細い声でひたすら泣き続けた。しかし、彼女は振り向かない。彼女の軽い足音は、まっすぐこちらに向かって駆けてくる。009は呆然と立ちすくんだ。
 
 なぜ。なぜだ。なぜなんだ、フランソワーズ?
 君には聞こえているはずだ。あの子が泣いている。君を呼んでいる。置き去りにしないで、と、あんなに一生懸命…小さい体いっぱいに訴えている。君には、聞こえているはずだ!
 
 母さん、いかないで、母さん、母さん、母さん……!
 
 ダメだ。振り向かない。やっぱりそうなのか。彼女は振り向かない。お前の声は届かない。泣いても無駄だ。どんなに泣いても、お前は……!
 
 走ってきた003が、ぎくりと足を止めた。大きく目を見開いて、009を見上げる。その目からとっさに顔をそむけ、009はほとんど衝動的に奥歯のスイッチを入れた。
 彼の姿が消えるのとほぼ同時に、003はハッと振り返った。
 
 まさか。ジョー、まさか、あなた…! 
 
 声にならない悲鳴を上げ、003は夢中で施設へと駆け戻った。
 
 泣きわめく赤ん坊の小さな唇に震える手をかざし、ゆっくり近づけていく。やがて微かに触れた幼い命の感触は、あまりに柔らかく、頼りない。そのことに思わずひるんだ瞬間、009はすさまじい衝撃を背中に受け、同時に突き飛ばされた。
 一瞬気が遠くなりかけたのを懸命にこらえ、どうにか体勢を立て直す。立ち上がり、顔を上げると、003が、銃を手にしたまま、赤ん坊をかばうように抱きしめて、足下にうずくまっていた。
 
「その子を…よこせ!」
 009は低く言った。003は更にしっかりと赤ん坊を抱き直し、黙って首を振った。
「なぜだ?どうせ捨てるんだろう?僕は知っている。その子は幸せになれない。決して」
「帰って、009。この子に、さわらないで!」
「命だけ助けて、それでどうなる?命だけ助けて、置き去りにして、それで助けたと、君は言うのか?いいか、その子は幸せになれない、絶対に!どんなに生きても、成功しても、誰を愛しても、幸せにはなれない。たった一つの望みがかなわないなら、何をしても同じコトなんだ!君にはわからない……わかるものか!」
 003は蒼白になりながらも、赤ん坊を離さなかった。赤ん坊は少しずつ泣きやみ、やがて穏やかに目を閉じると、彼女の胸に顔を埋めるようにして眠った。
「…あなたの言うとおりよ。私には何もわからない。あなたがそう言うのなら、きっとこの子は幸せになれないのでしょう…あなた自身がそうであるように」
 009は、思わず唇を噛んだ。003はじっと009を見つめながら言った。
「でも、幸せになれるかどうかなんて、関係ないの。この子の命は誰にも渡さない。だって、それだけが、この子がお母さんからもらうことができた、たった一つのものだから。だから…!」
 003は009の目から視線をそらすことなく、ゆっくり後ずさり、そうっと元の場所に赤ん坊をおろした。しっかりと毛布で包み直す。そうしてから、彼女はまっすぐ009に向けて銃を構えた。カチッと鳴った微かな音が、パラライザーモードから、レイガンモードに切り替えられたことを告げる。
「すぐにここから立ち去りなさい、009!」
「そんなモノで僕にかなうと思うのか、003?」
「あなたは、かなわない敵とは戦わないの?守らなければならないものがあるというのに…!」
 息詰まる時間が通り過ぎ、やがて、射るように003をとらえていた強い視線が、僅かにそれた。思わず003が身構えた瞬間、009は姿を消し、それきり二度と現れなかった。
 静寂の中、しばらくぼんやりと立ちすくんでいた003は、やがて、建物の中から聞こえる微かな物音で我に返った。いつのまにか、夜明けが近づいていた。
 
  4
 
 ネオ・ブラック・ゴーストとの戦いが決着し、サイボーグたちがそれぞれの故国に戻ってから2ヶ月後のことだった。ギルモアから、新しい研究所が完成した、と連絡が入った。祝いに…というのも何かおかしい気もしたが、とにかく仲間たちが集まるのだという。ちょうどお前の誕生日もあるし、とギルモアは遠慮がちにつけ加えた。
 
 真新しいドアを開けると、甘い香りが漂ってくる。やはりケーキを焼いているらしい。甘いモノはそれほど好きじゃない、と電話で釘を刺しておいたつもりだったのだが、彼女には全く効き目がなかったようだ。せめて、願わくば、あまり派手なデコレーションでないことを…と、009は祈りつつ、軽く肩をすくめ、台所らしき方向に声をかけた。
「フランソワーズ、いるかい?いきなり悪いけど、何か、花瓶みたいなもの、あるかな?」
 軽い足音が駆け寄ってくる。003は009が抱えてきた花束に感嘆の声をあげ、早速大きな花瓶を戸棚から出してきた。花の飾り方など見当もつかなかったが、009は適当に花束のラッピングをはがし、適当に長さを切りそろえ、適当に花瓶へ放り込んでいった。
「なに似合わねえことやってるんだ、009?003に頼めよ」
 既に昨日到着していた002が、ソファからあきれ顔で声をかける。009は笑った。
「下手なのはわかってるけど…自分でやりたいんだ。どうだい、これ、すごくおかしいかい?」
「さあ?…変なヤツだな。自分の誕生日に自分で花か?そもそも、お前にそういうものを飾る趣味があるとは知らなかったぜ」
 002は何度か訪れたことのある009の殺風景なマンションを思い浮かべながら首をかしげた。009はまた笑った。
「別に、趣味じゃないさ…それに、自分のために買ったわけでもないしね」
 カノジョに贈りたいんだったら、素直にそうすりゃいいじゃねえか、という、002のあるかなきかのつぶやきを黙殺し、009はいっぱいになった大きな花瓶を窓辺に抱えていった。
 
「あら、ジョー…?そこだと日が当たりすぎて、お花、長持ちしないかもしれないわよ」
「うん。飾るのは今日だけでいいんだよ。ここに置いておきたいんだけど…ダメかな?」
「そんなことないわ。でも、どうして今日だけなの?お誕生日は明日なのに…本当に、きれいね…」
 微笑む003にほっと息をつき、009は窓から差し込む日をあびた花々を満足そうに見つめた。
 
 母さん。
 今日は、あなたが最期の戦いに赴いた日だ。それはきっと、苦しい、哀しい、ひとかけらの希望もない、孤独な戦いだったにちがいない。
 でも、あなたは勝った。誰がなんと言おうと、あなたは戦いぬき、勝ったんだ。僕は知っている。僕だけがそれを知っている。
 だから、おそれないで。あなたは勝つのだから。僕がその証だ。そして、明日は。
 
 咲きこぼれる花々からふと移した視線が、003の青く澄んだ瞳とぶつかった。009はひそかにうなずき、心でつぶやいた。
 明日は、五月一六日。僕が生まれた日。それは、僕の戦いが始まった日でもある。あなたからうけついだ、永い戦いが。
 
 僕も勝つ。きっと勝ってみせる。
 あなたのように。



● BackIndexNext


ホーム 五段活用 卒業 ピンポン 敗北の五月