ホーム 五段活用 卒業 ピンポン 敗北の五月

5    花園(原作)
 
  1
 
 この家は目立ちすぎるかもしれない。
 
 買い物から帰ってきたジョーは、ふと門の前で足を止め、春の花々が咲き誇る庭を眺めた。赤や黄色のバラ…ぐらいなら彼でもわかるが、あとは何度フランソワーズに聞いても忘れてしまう。彼女もこのごろは呆れて、いちいち花の名前を教えようとすることもない。
 冬の間、研究所に滞在していたジェロニモが、フランソワーズと仲良く土いじりをしているのをジョーは何度も見た。声をかけられて、手伝ったこともある。
 こうしてこの研究所で春を迎えるのも、いつのまにか片手では数えられないほどになったが、何度経験しても、あの寒々とした地面や枯れたように見える枝から、いつ芽が出てこんなに勢いよく茂り、花を咲かせたのか…毎日見ていたはずなのに、どうしてもジョーには合点がいかない。
 この家のバラをこよなく愛するのだという英国人に、一度、何気なくソレをもらしたことがあった。彼は至極まじめな顔つきでうなずき、ジョーをじっと見つめながら、人生もそういうものだ、と重々しく言った。が、ジョーがつい引き込まれて納得しかけたところを見はからい、この天性の道化師でもある彼は、いみじくもこう続けたのだった。
「人の心もまた同じ……いやはや、春の女神の奇跡たるや、まったくめざましいものさ…そうじゃないかね、ムッシュウ・シマムラ?」
 その妙な呼び方と妙な声色と妙な目つきから、この英国人がどうやらフランソワーズのことを何か仄めかしているらしいと気づいたジョーは、それなりにうろたえ、彼を大いに満足させた。
 
 たしかに、彼女と出会ったばかりのころ、どう話しかけていいのかわからず、なんでもない連絡をするときにさえ、密かに右往左往していたことを思い出すと、いつ、どんなきっかけで彼女と今のような間柄になったのか……やはりジョーにはわからない。同時に、この庭の花々にたとえられるほどの美しいモノが、自分と彼女との間にある…とも、ちょっと思えないのだった。
 とはいえ、もちろん、幼い子供だった頃の自分が今の自分を見たら、間違いなく羨望のため息をもらすにちがいない。いや、羨望などというものではない。ほとんど絶望的な視線を投げつつ、憎しみさえ抱いたのではないか。
 この家は目立ちすぎるかもしれない。ジョーはまた思った。
 ここは、本当に僕の家なのだろうか?本当に、この楽しげで美しい家が、僕の……
 
「ジョー!お帰りなさい……ウォールナッツ、見つかった?」
 
 明るい少女の声が、さまよいかけたジョーの意識を現実に引き戻した。といっても、およそ現実とは思えないような、優しく甘い幸福感を漂わせつつ、彼女は駆け寄ってきていたのだけれど。
「…ごめん、見つからなかった…クルミがあったから、それを買ってきたんだけど…やっぱりダメだったかな?」
「ううん、クルミでもいいのよ。どっちも大好きだもの。よかった、ありがとう、ジョー」
 なんとかナッツだのクルミだのが好きだなんて、なんだか、リスみたいだなあ…とぼんやり思っているうちに、フランソワーズはジョーの手から荷物を半分うけとり、それこそリスのように軽々と庭を駆け抜けていった。
 どう見ても、美しすぎる……目立ちすぎる、五月の庭の中を。
 
 その日、夕食の席で、旅に出ようと思う、とつぶやくように言ったジョーの言葉に、ギルモアは少しだけ顔を上げ、フランソワーズは目を丸くした。
「一人で…?」
「ウン」
「どこに?」
「まだ、決めていない」
 そう、とフランソワーズはうなずき、ジョーの前にふっくらした手のひらをそっとさしのべた。反射的に空になった飯茶碗を渡す。慣れた手つきでしゃもじを扱いながら、彼女はふと微笑し、旅行中でも、ちゃんとゴハンを食べなくちゃだめよ、と言いながらジョーを振り返り、軽くにらむようにした。
 食卓には、彼女が朝切った花が飾られている。花は玄関にも、居間にも、洗面所にもある。彼女が毎朝、手に小さいカゴとハサミを持って庭に出て行くのを、ジョーはいつも見ていた。
 僕がいなくても、君はいつものように花を摘みにいくんだろうな、と不意に思った。寂しいような、安堵するような、不思議な気持ちに包まれ、ジョーはふんわり湯気の立つ茶碗を黙って受け取った。
 
  2
 
 花を見ようと思ったわけではなかった。何となく北の方に心を惹かれて行っただけだったのだが、そういえば北国の春は遅い代わりに、何もかも一緒に訪れる、と聞いたことがあったかもしれない。
とにかく、どこを見ても花であふれている。
 平日の昼間だというのに、公園には大勢の人々がいた。若い母子や老夫婦だけでなく、どうみても会社員風の男性や、学生らしい男女たちも、楽しそうに花に見入っている。駆け回っている小学生は、たぶん遠足なのだろう。
 ふと思い出して、ジョーはベンチに腰掛け、ザックから小さい紙包みを出した。今朝、フランソワーズにおむすびを作ってもらっていたのだ。忘れるところだった。
 特に頼んだわけではなかったが、彼女はジョーが出かける朝、必ずこれを用意して、玄関に置いていてくれる。以前は見送るときに手渡してくれたのだが、このごろは、寝ていていいから、と見送りを断っている。彼が出発するのはたいてい早朝なのだった。
 彼の言葉に従い、見送りをしなくなったフランソワーズだったが、やはりおむすびは用意してくれる。これだけはたぶん何を言ってもきっと頑として用意し続ける…ような気がする。もちろん何も言ったことはないのだけれど。
 みんなでピクニックに行くときなどに、彼女が用意するランチはたいていサンドウィッチだった。おむすびを見たことはない。他の仲間に配慮してのことなのだろう。彼女自身も、特に米飯を好むということはないようだし、こうしておむすびを用意してくれるのは、もちろん、純粋にジョーの嗜好を思いやってのことに違いない。
 とはいえ、ジョーもサンドウィッチが嫌いなわけではなく、むしろ彼女のそれはかなり積極的に好きだったのだけれど、そう彼女に言って催促するのも何かおかしい気がする。それに……
 おむすびを一口にほおばる。ほどよい塩味の飯粒が口の中でほろっとくずれ、梅の強い香りが広がった。
 あの白い柔らかい手が、熱い飯を優しく手際よく握り、少しずつ桜色に染まっていく。その様をつぶさに思い浮かべ、味わうほどジョーの想像力は図々しくなかった。それでも、まあ、こういうときは、確かにおむすびの方がありがたいんだよな…と、彼はわけもなく、そんなことを思ったりするのだった。
 
 夜になると、ジョーは研究所に電話を入れる。
 連絡するようなことはお互い何もないのだが、それでもやはり心配になるのだった。彼が留守にしている、ということは研究所にはギルモアと001、003しか残っていないということで。
 心配するぐらいなら、一人旅になど出なければいいのだ、と、ジョーの理性は繰り返し彼を咎める。実際、彼の留守中に003が敵の攻撃に遭い、重傷を負わされたこともあったのだし。
 あのときもそうだったが、夜に電話で定期連絡をしたところで、緊急事態にはとうてい間に合わない。意味がないといえば、ないのだ。でも、ジョーは律儀に毎晩、無意味な電話を入れていた。
 
「あら、ジョー…!今どこにいるの?」
「北海道だよ…ええと、函館の近く」
「ずいぶん遠くまで行ったのねえ…あ、でもその辺りなら、今とてもキレイでしょう?春の花がたくさん…!」
「うん…そうだね、すごくキレイだ」
「うらやましいわ……」
彼女の嘆息が受話器を通して伝わってくる。ジョーもこっそり嘆息した。キレイな花…っていうなら、君の庭だって、相当なモノだぜ、と言おうとして、何となくやめる。
 彼女は最後に、ちゃんと寝るところはあるの、ゴハンは食べたの、と、昨日までと全く同じことを尋ねてきた。いいかげんに答を濁していると、またため息まじりの声が返ってくる。
「北海道なら、夜はまだ寒いでしょう?」
「平気だよ……わかってるくせに」
「そういうことじゃないの…もう…あなたは人間なのよ」
 そんなこと知ってるさ、と口の中でつぶやき、たぶん、とこっそり付け加える。これ以上言い争いを続けないために、ジョーは近くで見かけた旅館の名を適当に彼女に告げた。
「…あの、ジョー?」
 そのまま電話を切ろうとしたときだった。フランソワーズがためらいがちに呼びかけてきた。いつもと声音が違う気がして、ジョーは思わず受話器を持ち直した。
「…どうかした?」
「ええ……あの」
 彼女は逡巡してから、思い切ったように短く言った。
「いつ、帰るの?」
「…え」
 虚をつかれ、ジョーは一瞬絶句した。今まで、彼女にそう問われたことはなかった。どんなに旅が長引いたときでも。
「…何か、あったのか?気になるようなことが…」
「い、いいえ…そうじゃないわ」
 フランソワーズは慌てて彼の言葉を遮り、なんでもないの、と繰り返した。
 
 今、研究所に001と003以外の仲間はいない。この状態で、長く留守をするつもりは、はじめからなかったし、彼女もそれは暗黙のうちに了解していたと思う。実のところ、ジョーは明日の夜か、どんなに遅くとも明後日には帰宅するつもりでいたのだ。
 旅に出たのは、一昨日の早朝。たしかに三泊は長かったかな…と思いながらも、何かひっかかった。本当に、フランソワーズにこんなことを言われたのは初めてだったのだ。
 早く帰ってきてほしい、と言われたわけではない。でも、いつ帰るのか尋ねることは、それを仄めかすことにもなる…と、わからない彼女ではないはずだった。
 電話ボックスを離れ、考えるうちに、どうにも落ち着かない気持ちになってきて、ジョーはくるっと踵を返し、駅に向かって歩き始めた。もう最終列車はとっくに出てしまっていたが、せめて、さっき彼女に適当に告げた旅館に泊まることにしよう、と思った。ごく小さい旅館だったような気がする。素泊まりなら、まだ間に合うだろう…ジョーは少しずつ足を速めていった。
 
  
 ジョーは、炎の海にいた。
 それほど熱い炎ではなかった。ごく当たり前の…彼の鋼鉄の体を焼くには、ほど遠い炎でしかない。真っ赤な火は緩やかに彼を包み、うねっている。
 何が自分に起きているのか、わからない。そもそも、ここはどこなのか……ぼんやり辺りを見回し、ジョーは小さく息をのんだ。
 華奢なヒナギクにぽっと火が燃え移り、ちりちりと焦げていく。慌てて振り返ると、スイートピーの垣根も燃え上がっていた。向こうでは矢車菊の茂みが、足下のビオラが、ポールに絡まるクレマチスが、それ自体炎のように見えるヒナゲシが……木陰に守られていたはずの鈴蘭までが、みるみる炎に包まれていく。
 覚えられなかったはずの花の名が、次々とジョーの脳裏を横切り、横切るのと同時に燃え尽きていった。何度フランソワーズに聞いても覚えられなかったのに、こんなときになって初めて……
 ジョーは、ハッとした。
 そうだ!ここは、研究所だ…僕の、家だ!
 
 自分の叫び声で、ジョーは飛び起きた。心臓がすさまじい速さで鳴っている。びっしょりと汗をかいていた。
 夢……だとわかっても、震えが止まらない。
 何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくり顔を上げる。旅館の粗末なカーテンから、光は差し込んでいない。時計を見ると、まだ夜明け前だった。
 ジョーはのろのろと布団から出た。もう眠れそうもない。すぐ研究所に帰ろうと思った。始発列車を待つのももどかしい気がして、ザックを引き寄せ、一番奥にしまってあった防護服を手早く取り出し、着込んだ。財布を開け、宿泊代より余分の現金を卓上に置く。
 人目のないうちに、できるだけ急いで研究所に向かい、朝になったらすぐ電話をいれようと思った。先刻の、フランソワーズのどこか心細そうな声が、耳から離れない。
 
 僕は、いつもそうだ。ジョーは苦々しくそう思う。
 僕は、いつも、失ってから気づく。それを手にしていたということを…なくしてから気づくんだ。
 いや、そうじゃない。たぶん、僕はなくすことを恐れているから…だから、自分がそれを手にしているときは、必死でそのことを忘れようとしている。いつも……いつも。
 でも、花なら、あの庭にある。優しい人なら、あの家にいる。あの家は、僕の家だ。あの楽しげな美しい家は、紛れもなく僕の……
 
 窓を開け、飛びだそうとした瞬間だった。ジョーは突然、すさまじい爆風に包まれた。吹き飛ばされながら懸命に体勢を整え、振り返ると、小さな旅館は既に燃え始めている。人々の悲鳴が少しずつ大きくなり、周囲は騒然となってきた。次の瞬間、後ろから矢のように襲いかかる殺気に気づき、ジョーは咄嗟に加速装置を噛んだ。
 もしかしたら、という予感は、加速空間に入るのと同時に現実のものとなった。常人が入れるはずのないその空間で、一人の男がジョーにまっすぐ銃口を向けている。
 
 サイボーグか?
 
 本格的な戦闘から遠ざかって久しかったが、ジョーはすぐに自分を切り替えた。平時でも、気を抜いているつもりはない。岩や木々、時には砕ける波を相手として、彼は訓練を怠っていなかった。
 難なくその男を叩き伏せ、背後から新たに襲いかかってきた男も投げ飛ばし、ジョーは加速を解いた。
 あの旅館から少し離れた雑木林まで来ていた。サイレンの音が微かに聞こえる。唇を噛み締め、死傷者が出ていないことを祈った。祈るしかすべをもたない彼だった。
 
 敵が何者か、まだ全く見当がつかない。倒した男達は加速装置をつけていたものの、体の耐久性などは異様に低かった。おそらく、完全に009の虚を衝けば、運次第では暗殺できるかもしれない…という程度の目的で送られた、いわば捨て駒だったに違いない。
 ジョーは懸命に走った。ギルモア研究所にも、張々湖飯店にも電話を入れようとしたが、つながらない。電話線が切られている…というより、きっと建物自体が破壊されたのだろう。
 自分がここにいることを、敵がどうやって知ったか…もちろん、先刻のフランソワーズとの電話からに違いない。昨夜まで、ジョーは自分のはっきりした居場所をフランソワーズに告げなかった。
 ということは、敵は、以前から周到にギルモア研究所を狙っていて、彼…009が、そこを離れ、しかもすぐに駆けつけることのできない場所にいることを慎重に確かめてから、攻撃を決行した、ということだ。
 そもそも、あの家の電話を盗聴することができる…ということが信じられないし、加速装置付きのサイボーグを捨て駒にしていることといい、敵はかつてのブラックゴーストに匹敵する規模の組織と技術力、軍事力を有している可能性があった。
敵は、009暗殺のために捨て駒を使った。009の能力を熟知し、暗殺が困難であることを知っていたからだ。そして、暗殺が失敗すれば、009がすぐに研究所へと駆けつけることも予想しているはず。その上で、攻撃してきた…ということは、つまり。
叫び出しそうになるのをこらえ、ジョーはひたすら走り続けた。
 
 つまり、研究所は…ギルモア博士と、001と、003は…既に。
 
  4
 
 限界まで加速を続け、ようやくジョーがたどりついたとき、研究所は、既に跡形もなく焼き払われていた。覚悟していたとはいえ、衝撃に、ジョーはその場でがっくりと両膝をついた。
 日は既に高く昇っている。その明るい光の中、夢で見たとおり、フランソワーズが育てた花々は黒こげになって倒れていた。
 
 ここが……僕の家。
 
 胸の奥でうつろな声がする。ジョーはハッと頭を振り、立ち上がった。研究所の地下にはシェルターがある。そこに逃げ込むことができていれば、003たちは無事なはずだ。
 
 大丈夫……きっと、大丈夫だ。 
 
 ジョーは震えそうになる足を懸命に踏みしめた。がれきをかき分け、地下への入り口を見つけ出した…そのときだった。
 不気味な地鳴りと共に、地下から、弾丸のように何かが飛び出した。咄嗟に飛び退き、くるっと反転して地面に降り立ったジョーは、全身の血が凍るような思いに、身をこわばらせた。
 地下から飛び出してきたのは、まるでロボットのような装甲に包まれたサイボーグだった。それが、さっき倒したサイボーグたちとは比べものにならない性能を持っていることを、研ぎ澄まされた戦士としての直感がジョーに即座に告げていた。
 そして。
 その鈍く光る腕に、べったりとこびりついていたのは、まぎれもなく血痕だった。
 
「00…9、か。意外に早かったな」
 
 耳障りなざらざらした声に、ジョーは我に返った。同時に、すさまじい怒りが全身を灼く。ジョーは物も言わず加速装置を噛んだ。
 早かった、だと?
 
 どんな攻撃を受けても、痛みを全く感じなかった。特に、左腕の感覚が全くない。既にもぎ取られているのかもしれない。
 なんでもかまわない。腕がちぎれようが、足がもげようが、もうギルモアの手を煩わすことは永遠にないのなら。そう、永遠に。
 
 能力は互角だったのかもしれない。が、敵は、ジョーに攻撃が通用しない…いや、通用しているはずなのに、彼の動きが全く変わらないということに、少しずつひるみ、追いつめられていった。
 やがて、僅かな隙をしたたかにとらえ、ジョーは敵を容赦なく地に叩き付け、間髪を入れず、心臓部を撃ち抜いた。
 驚愕と恐怖に見開かれた目を、何の表情も浮かんでいない茶色の瞳で見下ろしながら、ジョーは、だらんと地に投げ出された敵の腕を無造作につかんだ。
 
 赤黒い血の跡。
 
 冷たい鋼鉄の腕の、その部分だけがわずかにぬくもりを帯びている気がして、ジョーは少しずつ握りしめる手に力を込めた。そのぬくもりを確かめるように。
 敵が、弱々しく断末魔の声を上げる。かまわず渾身の力を込めると、次の瞬間、ジョーの手の中で、その腕は砕け散った。
 やがて、ジョーは動かなくなった敵からのろのろと離れた。崩れ落ちそうになる体を引きずり、地下への入口に向かう。
 
 この奥に……僕の、家がある。
 僕は、帰りたい。君が待っている。
 フランソワーズ、今、行くから。君のそばに…行くから。
 
 暗い階段に一歩足を踏み入れたとき、ぐらっと、体が傾いた。そのまま倒れ込みながら、ジョーは思わず安堵の息をついていた。
 
 ここまでか。
 ごめん、フランソワーズ。君の手を…握ってあげられない。
 でも、僕は少しほっとしているよ。
 君を見ないで…すみそうだから。
 本当に、ごめん。
 
「009、しっかりしろっ!」
 
 強く揺すぶられ、ジョーはぼんやり目を開いた。灰青色の鋭い目が見下ろしている。
 ったく、無茶しやがる、相変わらず見境のないヤツだ…と忌々しそうに舌打ちする声を聞きながら、ジョーはまた目を閉じた。
 どうして、ここにアルベルトがいるのかわからない。いや、わかるような気もした。
 
 なんでもいい。アルベルトがいるなら、ジェットもいるだろう。ピュンマも、張々湖も、ジェロニモも、グレートも、イワンも、博士も……そして、君も。
 
 ジョーは深く息を吸い込み、意識を手放した。
 
「……笑ってやがるぜ、コイツ」
 
 アルベルトはジョーを抱き上げると、息せき切って後ろから追ってきたピュンマと急降下で舞い降りたジェットに、肩をすくめてみせた。どこか幸せそうに見えなくもない、子供が眠っているような表情に、ピュンマとジェットも思わず顔を見合わせていた。  
 
 
 次に目を開いたとき、ジョーが見たのは大きな青い瞳だった。
 呆然と見つめる彼に、フランソワーズは無事でよかったわ、と囁き、弱々しく微笑んだ。
 やがて、彼の凝視の先に、包帯でぐるぐる巻かれた自分の腕があるのに気づき、フランソワーズはゆっくり説明した。
 
「かすり傷なの。昨夜襲われたとき、ちょっと出血したんだけど、私はもう大丈夫…それより、ジョー、あなた…」
「イワンは…?ギルモア博士は…?」
「無事よ…心配かけてごめんなさい…地下のシェルターに逃げて、立てこもっているところに、みんなが来てくれて…」
「みんな…?アルベルト?」
「ええ…アルベルトも、ジェットも、ピュンマも」
「……」
「でも、とても強い敵だった。きっと、研究所を壊すだけではなくて、私たちが集まるのを待って、全滅させようとしていたのね。本当に、みんな苦戦していたのよ…そこに、あなたが来て…あっという間に、一人で」
「……」
「援護するにも、通信するヒマさえなかった…って、ジェットがぼやいていたわ。ああ、ダメよ、動かないで」
「ここは?」
「ドックに隠していた潜水艦よ…もう公海に出ているわ。また、始まってしまったのね、戦いが」
 
 また…始まった。そうか。
 でも、また、みんなと一緒に……君と一緒に。
 
「こんなときに、って叱られるかもしれないけど、明日はちゃんとパーティしましょうね。ケーキも用意してるし、お花も少し摘んでおいたのがあるのよ」
「…パーティ?」
 頭をめぐらすと、あの庭に咲いていた花がひとつかみの花束となって、あり合わせの水差しにいけられていた。こんなもの、持ち出すヒマがあったのか…とぼんやり思いながら、ジョーはフランソワーズを見つめた。
 
 結局、花はいつも、君がいるところにある。咲き乱れる花に囲まれた、楽しげで美しい家。僕が帰るべき、僕の家。
 
 ジョーの頬にようやく微笑が浮かんだ。フランソワーズはほっと息をつき、優しく彼の前髪を指で梳いた。
「もう少し眠った方がいいわ…」
「うん……そうだね」
 ジョーは静かに目を閉じ…またすぐに開いた。
「そうか。……そうだったんだ」
「ジョー…?」
「みんな、パーティがあるから来たんだね……ここに」
「そうよ…そこを狙われてしまったことになるのだけど」
「昨日君が、僕にいつ帰るのか、聞いたのも……」
「ええ。きっとあなたはすぐ帰るつもりだってわかっていたし、悪いと思ったけれど…急にみんなが揃うことができそうになったから…こんなの、滅多にないことだもの…それならあなたがいないと始まらないでしょう?」
 ジョーは照れたように笑い、そんなことないよ、とつぶやいた。
「いいえ、そうよ…だから、ね?眠って」
「うん、ありがとう、フランソワーズ……でも」
「なあに?」
 茶色の目が少し不安そうに揺れる。
「ごめん、でも…パーティって……何の?」
「……え」
 
 絶句するフランソワーズを申し訳なさそうに眺めながら、ジョーは少しずつ瞼を落としていった。やがて、穏やかな寝息を立て始めた彼に、フランソワーズは優しく毛布をかけ直してやった。
 
 忘れんぼさん。
 でも、私も、あなたにお帰りなさいを言うのを忘れていたわ。
 明日あなたが目を覚ましたら、ちゃんと言わなくちゃ。
 
 
 お帰りなさい、ジョー。
 そして、お誕生日おめでとう…って。



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