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4    さんぽ(平ゼロ)
 
 
 これで、最後になる。そう言われたのはちょうど一年前だった。そして、本当にそうなった。予想していたのとは全く違うやり方でだったけれど。
 でも、神父さま。これもあなたが言ったとおり、僕は今、一人ではなくて。
 ……あなたが、いなくなってしまっても。
 
 
 フランソワーズに誘われた。
 ただ、「さんぽにいかない?」といわれただけのことだったのだが、ジョーは少々動揺していた。彼女が、仲間にそんなことを言うのを、それまで聞いたことがなかったからだ。
 彼女は、自由な時間があると、たいてい一人で過ごしていた。とはいえ、いつも博士の手伝いやら、イワンの世話やら、他の者たちが気づかずに放ってある雑事やら…に忙しそうで、そもそも自由な時間というのをそれほど持っていないようにも見えた。家事雑用は女の子に任せておけばいい、と思っている仲間はジョーも含めていなかったはずだが、とにかく彼女の方が圧倒的に物事に気づくのが早く、行動も素早い。要するに、いつも先を越されてしまうのだった。
 そんなわけで、彼女のやるべきことは常に山積みになっていたし、なっている以上、やらずにいられないようだった。そして、ごくまれに、やるべきことをやり尽くしてしまうと、彼女は静かに本を読んだり、浜辺を歩いたりしているのだった。
 
 とにかく、さんぽなのだという。断る理由はない。ないけれど、うん、とうなずいた途端、いきなり途方にくれるジョーだった。
 まず、何を着ていけばいいのかわからない。いや、服装など普段のままでいいのだ…としても、手には何かを持っているべきなのか、財布ぐらいは持っていくべきに違いない。といって、わざわざバッグを持ち出すこともないだろう。とすると、大きめのポケットのある上着…は、もう暖かすぎるかもしれないのだった。
 さんざんぐるぐるした結果、結局のところこれといって特に取り柄もない適当な出で立ちで、ジョーは玄関に出た。フランソワーズも、着替えたわけでなく、手に何かをことさら持っているわけでもなかった。じゃ、行きましょうとさらっと言って、さっさとドアをあけ、歩き始めた。
 どこに行くのか、まだ尋ねていない。ジョーはしっかりした足取りで歩くフランソワーズの後を黙々と追った。誘ったのは彼女なのだから、彼女にはどこかあてがあるのだろう。それにしても、彼女はジョーを振り向きもせず、ひたすらぐいぐい歩いていくだけなのだった。声すらかけようとしない。
 
 何を考えているのか、わからないひとだ。ジョーはあらためて思った。ブラックゴーストから逃れ、戦い続けていた頃は、考えることといえば、生き延びることと眼前の敵を倒すことだけだった。それはあまりに自明のことだったから、仲間たちと意思の疎通をはかる必要もなかった。
 さらに、彼女は…003は、ジョーから見れば極めて優秀で経験豊富な戦士であり、その言葉にも重みがあった。彼女が戦場で009に出す指示は絶対だったから、疑うことはもちろん、その言葉の底に何があるか、などと考える必要も全くなかったのだ。
 でも、今は。
 
 実際、ジョーにとっては、困惑することが多かった。戦場ではあくまで強気、激しい自己主張もたびたび見せていたフランソワーズは、戦いを離れると、いつも穏やかで、静かで…しとやかだ、といってもさしつかえないような風情の女性だった。同時に、実年齢はともかくとして、ひどく大人っぽくも見え、見かけの年齢は自分とほとんど変わらないというのだけれど、どうもそのように思えない。
 そんなわけで、対等の友人とはとても言えそうもないし、さりとて母親だの姉だのというほど慕わしいわけでもない。そもそも、そうした存在については、ぼんやり想像するしかすべをもたないジョーであったのだけれど。
 一番近い感じは、寮母…とか、教師とか。しかし彼女は、そういえるほどジョーを気にかけ、世話をしているわけでもない。そもそも、そういう女性としては彼女は若すぎるし、美しすぎる…ともいえた。
 とにかく、元々人付き合いが得意とは言えないジョーには、どうにも彼女との距離感がつかめなかったのだ。
 
 一方、他の仲間たちは、彼女に対して特に戸惑いを感じているようでもなさそうだった。第一世代のジェットは、いつも姉弟のように気安く彼女と口をきいていたし、アルベルトも言葉は少なかったが、彼女の相談事を聞いてやったりしていたようだ。グレートは、どちらかというとケンカ相手。張々湖やピュンマはそれぞれの技能や知識を通じて彼女と語り合い、ジェロニモはよく彼女を連れ出して林をゆっくり歩いていた。どうにもこうにもならないのは、自分だけだ。ジョーはそう思っていた。
 第一、どう呼んだらいいのかも微妙なのだった。いっそ「003!」と連呼していた頃が懐かしい。「フランソワーズ」と呼べばいいのはよくわかるのだけど、呼び捨てにするには何となく抵抗があった。かといって「フランソワーズさん」とか「アルヌールさん」は他人行儀にすぎると思う。彼女は彼のことをあっさり「ジョー」と呼ぶが、そう呼ぶより他にどうにもならない名前なのだから、仕方ない。
 
 そんなわけで、今現在もやはり困惑しているジョーだった。ぐいぐい先を行くフランソワーズに、どこに行くのか、さすがに聞いてみたくなってきたのだが、話しかけられない。と、不意に彼女がぴたっと足をとめ、振り返った。深い碧の目で、のぞき込むように見つめられ、ジョーはかなりうろたえた。
 
「あなたに、見て欲しいものがあるの」
 
 それだけ言うと、彼女はまた前を向いて、さっさと歩き始めた。
 僕に、見て欲しいもの。なんだろう。
 聞いてみたくても、やはり聞くことができないジョーは、ひたすら無言でフランソワーズの背中を追いつづけた。
 
 
 呆然と立ちつくすジョーの前に、大理石でできた小さい真新しい十字架と墓碑があった。ローマ字で記されているのは、ジョーを育て、ブラックゴーストによって命を奪われた神父の名だった。
「これは、いったい……」
 やっとの思いでかすれた声を出すジョーに、フランソワーズはややためらってから、小さく答えた。
「ギルモア博士が、たてられたのよ」
 ぴくりとも反応しないジョーをちらっと見やり、フランソワーズはうつむいた。
「博士は、ずるい。あなたの顔を見るのがこわかったから…私に押しつけて。昔から、そう。あの人は、本当にいくじなしなんだから」
 ジョーははっと顔を上げた。フランソワーズの表情は、亜麻色の髪に隠れてよく見えない。
「でも、こうせずにいられなかった気持ちは…わかるような気がするの。博士があなたにできることは、ほんの少ししかないんですもの」
「でも、どうして…どうして、ギルモア博士に、神父さまのことが…わかったんだろう?」
 低い声に、フランソワーズはきゅっと目を閉じた。
「私が、見つけたからよ…あなたが教会の焼け跡に、何度も行っていたのを。それで、教会の名前がわかったわ。そこから、神父さまのことも調べて……」
 ジョーは絶句した。フランソワーズがようやく顔を上げ、ごめんなさい、と震える声でつぶやいた。
 
 教会の焼け跡は、今ではキレイに片づけられている。土地は平らにならされ、最近、ぐるっと囲いが作られた。鉄筋の集合住宅が建つらしい。
 神父の亡骸がどうなったのか、ジョーは知らなかった。あれだけの人格者だったのだから、どこかにそれなりに心をこめて葬られている、と思いたかった。が、彼の死に関わったのがブラックゴーストだったのだとしたら。いや、それ以前に、ジョーは神父がどのような人生を歩んできたのか、家族はいたのか、友人は…というようなことを、自分が何も知らないことに気づいていた。
 何人もの孤児をひきとり、世話をするには、どれほどの費用がかかるだろう。寄付があるといっても、容易なことではないはずだった。神父に豊かな私財があったとは思えない。だからこそ、ブラックゴーストの罠に落ちたのだとも言える。だとすると。
「亡くなったあと、神父さまが…どうなっていたのか、君は知っているの?」
 フランソワーズは一瞬怯えた表情になり、小さく首を振った。
「博士は、教えてくれなかったわ。ただ、神父さまの遺骨を引き取ることができた、とだけ」
「…そうか」
 フランソワーズがまた、ごめんなさいね、とつぶやいた。何を謝っているのか、わからないような気もしたし、わかるような気もした。ジョーは返事をしなかった。
 
 これまで、墓所の手入れは、ギルモアとフランソワーズがしていたのだという。早くジョーに知らせようとしながらも、ギルモアはためらい続け、とうとうフランソワーズに全てをゆだねた。
「本当はね、言い出したは私なの。私が、ジョーに話しましょうかって…だって、私があなたを勝手にのぞき見したのが始まりだったんですもの…ね」
「…のぞき見…って」
 ジョーは口ごもった。たしかに、教会の焼け跡を見に行っていたことを…その姿を、表情を彼女の超視覚でとらえられていた、と聞いて、心穏やかでいられない気持ちはあった。しかし。
「君は、のぞき見するような人じゃないよ…僕を心配してくれていたんだろう?」
 コズミ博士の家に身を寄せていた頃。いつ暗殺者が襲ってくるかわからない緊張の中、ジョーはしばしば一人で教会の焼け跡を訪れていた。
 ついこの間まで、ここで、平凡な少年として暮らしていた。焼け跡は、その日々が崩れ去ったことと、しかし、それは確かに存在していたのだということの両方を、ジョーに強く刻みつけた。そうすることで、かろうじて自分を保つことができるような気もした。
「心配…?そうね、でも…心配しても何もならないってことも、わかっていたわ。それなのに、どうしてかしら、あなたのことが気になってしまったの…やっぱりのぞき見だわ」
 フランソワーズはひっそり微笑した。
 心配しても何にもならない。誰の助けも借りられない。結局、自分で越えるしかないのだ。それは、彼女が通ってきた道でもあったはずだ。ジョーはぼんやりとそう思った。
 
 ジョーは無言のまま、十字架の前にひざまずき、両手を胸の前で組み合わせた。幼い頃、神父から教わったように。
 祈りの言葉は声にならなかった。代わりに、温かいものが頬を濡らしていく。それが涙だと気づくのに、しばらくかかった。
 彼女が見ているのに。こんなところで泣いたりしたら、また心配をかける。そう自分を叱ってみても、無駄だった。ついに隠すことを諦め、涙が流れるままにまかせるうち、ふとジョーは気づいた。
 
 僕は、初めて泣いているのもしれない。神父さまが亡くなられたことを。優しかったあのひとが、もうどこにもいないことを。どんなに願っても、もう二度と会えないことを。
 ……今、初めて。
 
 
「これで、君の誕生会も最後になりますね、ジョー」
 
 一年前のその日、神父は静かに言った。以前は大勢いた子供たちだったが、一人、二人と里親にひきとられていき、今残っているのはジョー一人だった。アルバイトをしながら通った高校も、今年で終わる。来年の今頃は、教会を出て、どこかで自活できているはずだった。
 一方で、自分が出て行ったあと、神父はどうするつもりなのか…ジョーは少々気がかりだった。最後の一人となったジョーを送り出せば、やっと肩の荷が下ろせる…ということなのかもしれないが。でも、神父さまは、年をとられた…と、漠然とだったが、ジョーは思うようになっていた。
 
 二人の間には小さなケーキがあった。一本だけともしたろうそくをジョーが吹き消すと、神父は微笑した。
「君は、来年の誕生日をどんな人たちと祝うのでしょうね。」
 ふとつぶやいたその声が、無性に寂しく感じられ、ジョーは思わずかぶせるように言った。
「神父さまが迷惑でなければ、またここに来ます。忙しくて忘れてしまっているかもしれないけど」
 友達が全くいないわけではなかったが、なぜかジョーには神父以上に心を許すことのできる相手がいなかったし、これからもできるとは思えなかった。そんなジョーの気持ちを読み取ったように、神父はまた微笑した。
「いいえ。君の誕生日を祝ってくれる人は、きっといますよ。君は一人ではありません。私が…いなくなっても」
 
 私が…いなくなっても。
 
 その時は何気なく聞き流した言葉だった。が、もしかしたら、神父はブラックゴーストとの対決を…そして、敗北を覚悟していたのかもしれなかった。彼が、悪夢の真実を知ったのは、いつ頃だったのだろう。彼の苦しみに、自分は何も気づかなかった。もし気づいていたら…何かが変わっただろうか。自分もあの日、炎の中で果てていたのだろうか。彼と一緒に。もし、あの日……
 
「ジョー…?」
 
 我に返った。碧の目が心配そうに見下ろしている。涙はいつのまにか止まっていた。ジョーは幾分どきまぎしながら頬を軽くぬぐい、立ち上がった。
 もし、といくら考えても意味がない。これが運命なら、越えていくしかない。このひとが、ずっとそうしてきたように。
 第一世代。想像を絶する運命を、このひとは淡々と語り、笑顔を見せた。つい、つりこまれて笑ってしまったぐらい、それは明るい笑顔だった。
 僕も、いつかあんなふうに笑うことができるのだろうか。そう考えるとおぼつかない気持ちになる。でも、このひとたちがいてくれるなら。僕を見守っていてくれるのなら。
 きっと、いつか笑うことができる。今泣くことができたように、笑うこともできる。このひとたちがいてくれるなら。
 
「ありがとう」
「…ジョー」
「帰ったら、ギルモア博士にもお礼を言わなくちゃ」
「ジョー、あのね…」
「君を、神父さまに会わせたかったな」
「私を…?」
「うん。ジェットや、アルベルトや…みんなも。神父さまは、きっと喜んでくれたと思う」
 フランソワーズは大きく目を見開いて、ジョーを見つめた。やがて、彼女はうつむき、首を振った。
「ありがとう、ジョー…でも、そんな風に気を遣わなくてもいいのよ。ここは…あなただけの大切な場所にしてほしいの。博士も、そういうつもりで…」
「僕だけの…場所?」
「ええ。私たちが人間であるためには、きっとそういう場所が必要だと思うから。」
 
 仲間たちから、いつも半歩離れていたジョー。何も自分のために望もうとしない彼が、ふっと姿を消すようになったのに気づき、フランソワーズはためらいながらも「力」を使って彼を追った。
 教会の焼け跡にぼんやり立ち、彼はじっとうつむいていた。祈るように。何かに耐えるように。
 
「もし、誰にも言えないことがあったら、ここで神父さまにお話できるといいと思ったの…ごめんなさい、よけいなことだって、わかっているわ…でも」
 フランソワーズの胸に、絶望の中、何度も倒れては立ち上がりつづけた009の姿が去来する。もちろん、自分たちだって、彼と同様、死にものぐるいで戦ってきた。でも、違う。彼だけは、何かが違うような気がしてならない。
 
 私は、きっと、このひとをわかってあげられない。このひとの寂しさを受け止めてあげられない。
 
 ジョーは答えなかった。やはり言葉が出てこない。ただ、うつむくフランソワーズの横顔をじっと見つめることしかできなかった。
 
 僕は、きっと、このひとに触れることができない。このひとの悲しみは、いつも僕を通り抜けていく。
 ……でも。
 
「あの、また、来ようよ」
「…え?」
「さんぽ。あ、ここでなくてもいいし、もし君がイヤでなければ…だけど」
「……」
「いつも、一人で歩いていたんだ、僕は。でも、こうやって誰かと歩くのも楽しいかな…って思う」
「まあ」
「君は、楽しく……なかった?」
 楽しいわけないか、僕、泣いたりしたし…と、ひどく心配そうにつぶやくジョーにくすっと微笑み、フランソワーズは、楽しかったわ、とささやくように言った。ジョーは軽く深呼吸した。
「だったら…今度さんぽするときは、僕が行きたいところに行ってもいいかい?」
「いいわ…いつ行きましょうか?」
「明日!」
 フランソワーズは目を丸くして、困ったように瞬きし、ややあって申し訳なさそうに言った。
「明日は…ダメよ、忙しいの」
「……」
「ねえ、ジョー…あなた、チョコレートケーキと、イチゴのケーキと、どっちが好き?」
「へ?」
「もし、明日食べるとしたら」
「…イチゴ…かな」
 フランソワーズはくすくす笑い出した。
「やっぱり!なんだかね、あなたって、そうなんじゃないかなーって思ってたの」
「何が?どういうこと?ちょっと、003…じゃなくて、フランソワーズ…!」
 
 すたすた歩き出したフランソワーズを追いかけ、ジョーは首をかしげた。胸が少しずつ高鳴る。
 明日…もしかして、ケーキって、つまり、そういうことなのか?でも、どうして彼女が僕の誕生日を知ってるんだろう?いや。どうしてもこうしてもない…のかもしれない。彼女は、003だから。僕たちは何も隠せない。そういうことなのかもしれない。
 
「待ってよ、やっぱりチョコレートケーキの方がいいかな…」
「ええっ?」
「難しいよ、今決めなくちゃだめかい?」
「ダメよ」
「その、僕には決められないかも…ジェットの意見を聞いたら?」
「すぐそういうこと!あなたでなくちゃダメなの」
「……」
 
 神父さま。
 僕は今、たぶん一人ではありません。あなたが言ったとおり、あなたがいなくなってしまっても。
そして、しばらくお会いできないと思います。今度は、このひとたちとみんなで…笑いながらここに来たいから。それができるようになるまでは。
 僕は、今度こそちゃんとわかりたい。僕のそばにいてくれる、僕を見守ってくれるひとたちのことを。
 このひとたちを失わないように。もう二度と、あんな思いをしないように。ただ与えられるだけではなく、守ることができるように。
 
 だから神父さま、もう少し待っていてください。
 もう少し…そう、僕が、せめてこのひとと同じくらい、強くなれる日まで。



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