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記念品など

完結篇を読む 4
 
8 「闇の子」を消す方法
 
 
ってことで(?)
ここからは完結篇第三巻を読んだ上での話になるのだった♪
 
サイボーグたちは、文字通り、人間の「悪」である神々と闘い、斃れていく。
強大な敵に対抗するために能力の全てを解放し、全てを犠牲にして戦い抜いた。
サイボーグ超戦士になったことは、無敵になったという意味ではなく、奇跡も起きない。
彼らは、ブラックゴーストと闘ったように、かなわないと知りつつ、敵に向かっていくのだ。
 
最後に残ったのは3人。
009と003、001だ。
 
001が天使と神々、そして人間の関係を語る。
 
平和で幸福に満ちた「光の宇宙」の世界の中に、突然芽生えた「悪」。
「光の子」たちは、彼らのひとりが「闇の子」ひとりを封印する、というやり方でその災いを斥けた。
その、「光の子」が「闇の子」を封印した状態が「人間」である……というのだった。
 
そして、「人間」たちは地球ごと闇の宇宙……現在の太陽系に飛ばされる。
流刑、と001は表現した。
 
人間が死ぬと、光の子と闇の子はそれぞれ体から解き放たれる。
光の子は、光の宇宙に戻れるが、闇の子は戻れない。
この、取り残された闇の子はどうなるのかというと。
また別の光の子が融合し、それが新たな「人間」となって産まれる……ということらしい。
 
それが続くと、どうなるのか。実はイメージしにくい。
ただ同じことがぐるぐると繰り返されるだけ……という感じがするが、光の子たちの計画(?)では、人間として生きる間に、闇の子の力はどんどん弱められる……はずだったらしい。
そうなったとき、地球は故郷の光の宇宙に戻される。
 
流刑を決めた光の宇宙の連邦政府も、闇の子達の邪心が取り払われて、平和を愛する心を持つ者だけで溢れた時、この惑星自体も元の光の宇宙に還すことを約束していた。
 
が、そうはならなかった。
闇の子の力は弱まるどころか、強くなっていったのだという。
 
結局、光の子たちは、ある期日までに人間たちが闇の子を消すノルマを果たさなければ、地球という星自体を管理することをやめる、ということにする。
その期日が来たとき、全てが始まった。
 
光の子たちは、闇の子たちを出現させ、悪の神を創り、天変地異を起こす。
それは、地上にいる光の子たちの総引き上げのためだった。
なぜなら、「死」こそが光の子の解放であり、彼らが故郷へ向かうための手段だからだ。
 
人類の終末、最後の審判……のイメージでよいと思う。
人間たちは死と同時に、光の子と闇の子に分離する。光の子は、光の宇宙に戻る。
一方で、うち捨てられた闇の子は地上で怪物となり、光の子「召還」の手段でもある殺戮を繰り広げる……それが、今、009が対峙する敵なのだった。
 
と、001が説明してくれてはいるのだけど、やはり「光の子」「闇の子」「人間」の関係を理解するのは難しい。特に、物語のスケールが大きくなるごとに問題も複雑になるから、よけいにわかりにくくなっているように思う。
 
ものすごくシンプルに、基本的なトコロで「光の子」と「闇の子」はどう違うのかを整理してみると。
まず、「闇の子」と「光の子」はもともと同種族だった……らしい。
 
「光の子」は、イワンに言わせると、「争いのない平和を愛する者」だ。
それに対して「闇の子」は「邪悪な心を持ち、刺激を求め、支配力にかられ」た「邪心と欲望に駆られた者達」なのだった。
 
「邪悪」とは何か、を定義するのは案外難しい。
それより間違いないのは「欲望に駆られた」というポイントだろう。
また、彼らの悪事の具体例として繰り返されているのが「光の子」を攫い、奴隷にした、ということだ。これは「支配」への執着の現れとも言える。
 
欲望・支配ということに注目したとき、やはり「邪鬼」たちが人間を「捕食」する、ということも問題になると思うのだった。それは他者を支配し、取り込もうとする欲望の究極の姿だと言えるからだ。
彼らの中で最も下層に位置するであろう邪鬼たちは、それゆえに、彼らの特性を最もシンプルな形で表しているに違いない。
 
つまり、「悪」とは「他者を支配しようとする欲望」と整理することができる。
それに対して、「善」は「争いのない平和を愛する」ことである。
 
ということは。
「光の子」たちは、どんなに強い力を持っていようと「闇の子」には勝てないのだ。
「光の子」たちは「戦う」ことができない。
だからこそ、彼らが「闇の子」に対してとった手段は同化による封印だった。
 
光の子であるアランの母親(?)は、彼をその「任務」につかせようとするときに 深い悲しみを見せていた。彼らの戦略は要するに「自己犠牲」だと言えよう。
が、その先に何があるか……と考えると、何もない、ような気がする。
「光の子」たちは果てしなく自己犠牲を続けなければならない。
 
とはいえ、「光の子」たちは、いつかその日々が終わる……かもしれない、と思っていたにちがいない。だから、それを続けたのだ。
どのように終わる可能性があったのか。
それについて001は語らない。
 
語られていないので想像するしかないのだが、「光の子」たちが「闇の子」たちを支配し、服従させることができないというのなら、彼らの争いを収束させる方法はただ一つだ。
「闇の子」が自分から「光の子」へと変わる……または自分から消滅する。それしかない。
 
「光の子」たちが創った自己犠牲による「闇の子」封じの交代制度(倒)は、それ自体、果てしない繰り返しにすぎない。
しかし、なぜか「人間」として生きているうちに、「闇の子」が邪心を消し、「光の子」そのものになる……ということもごくまれにだが、起きるのだ。
結果はたしかに出ている。だから可能性はゼロではなかった、ということだろう。
 
最後に、001は009に「戦うか死ぬか」を選ばせる。
ぼーっと読んでいると、戦っても死ぬんだから、どっちを選んでも同じじゃない?と思ってしまう……が、全く異なることになるのだ。
 
009は「人間」として生き、戦うことで「闇の子」を消すことができる……かもしれなかった。「人間」だからこそ、その可能性がある。
「光の子」たちは、「闇の子」を放逐することはできても、消滅させることはできないのだった。
 
001は「神々」の本体を倒す手段として、翡巫女の事件を引き合いに出す。
あれと同じことをすればいいのだ、という。
 
つまり、翡巫女の消滅だけは、サイボーグたちが他の「神々」を倒したことと、根本的に性質の違うものだった、ということだ。
ここが、糸口になるように思う。
 
 
9 愛は地球を救う?
 
翡巫女は戦いの最後に、二人の人格がせめぎ合う姿を見せる。
009を助けようとする翡翠と、彼を殺そうとする翡巫女。
もちろん、翡翠は善で翡巫女が悪だ。
 
ということは、翡翠は「光の子」であり、翡巫女は「闇の子」である、と言える。
本来、人間の宿主は「光の子」であるはずなのだが、「闇の子」の力が増大したために、翡翠は翡巫女に押さえ込まれてしまっていたということだろう。
 
翡翠は009に「助けて」と訴える。
「女神の陰謀」のラストで、「ここから出して」と訴えていたのはおそらく翡翠の声だったのだろう。
 
「光の子」のシステムから考えると、単純に翡翠を解放するためには、翡巫女を殺せばいいということになる。実際、009は「女神の陰謀」で翡巫女を……というか、人間としての翡巫女=翡翠を倒した。
フツウなら、その時点で「光の子」である翡翠は分離し「光の宇宙」へ帰ったはず……だと思うのだった。
 
それができなかったのは、翡翠が翡巫女に捕らわれていたから……なのだろう。
なぜ翡巫女がそんな面倒な(?)ことをしたのかはよくわからないが、答えになりそうなポイントはひとつしかない。闇の子の特性としての支配欲、だ。
要するに、翡翠は「奴隷」だった、と考えてもよい。
 
こうなってしまうと、死ねば分離する、という事ではなくなってしまう。
実際、そのときの翡巫女は、もう「人間」の形をしていなかった。つまり「光の子」の制御を振り切り、強大な精神体となっていたのだった。
そうなると「光の子」である翡翠にはなすすべがない。かつて、彼らの宇宙で起きたのと同じことになっているのだといえる。
 
結局、翡翠は009を助け、翡巫女に抗う。
その結果として、両者は「消滅」する。
それは光の子が作りあげた、システムとしての「死」とは異なっている。
 
何が起きたのか。
それをもう少し整理するために、もう一人の「光の子」としてアランを思い出してみるのだった。
 
死によって分離し、「光の宇宙」に戻った「光の子」のアランは、その後フランソワーズと交信する。
傷ついた彼女に、アランはこう言う。
 
助けてあげたいけど、僕には何にも出来ないんだ……。本当に、ごめんね。
 
しかし、アランは「ありえざるもの」の終わりに、間違いなく003を救っている。
なぜ、今度は「何にも出来ない」のか。
 
それはもちろん、彼が連邦政府監視員という立場であり、この地球で起きていることに干渉してはならない、ということを意味しているだろう。
が、もうひとつ付け加えるなら、「光の子」とはそもそもそういうモノなのだということだ。
彼らは、力で敵をねじ伏せるということをしない。
そういう発想がないのだった。
 
「ありえざるもの」ではアランとその母親(?)がカネットを消滅させているようなのだが、実もフタもない言い方をすれば、あの程度の「闇」はなんというか、彼らにとって虫みたいなモノであり、それを消すのは「戦い」のうちに入らない……のだと思う。
 
カネットたちは実体を持つ「闇の子」ではなく、死体となった「体」を器として動いていたにすぎないから、「体」の本来の創造主でもある光の子たちの制御が及ぶところになるのだろう。
 
ちなみに、光の子たちが人間を容赦なく滅ぼすのも「戦い」ではなく「駆除」である。
天使篇風に言えば家畜を殺すことと同じだ。
 
アランのこの態度と比べると、同じ光の子であっても、翡翠はやはり異質なのだった。
彼女は009を助けるために明かに翡巫女と戦っている。
彼女をそのような行動に駆り立てたのは、言うまでもないが彼への愛だ。
 
「女神の陰謀」を読んだとき、
 
なんだシマムラのくせに敵の女性に殺されてるぞー♪「009」史上初めてなんじゃないか、ざまーみれ−♪
 
と踊ったものだったのだけれど。
 
…………。
 
おそるべし、シマムラ(汗)
 
……なのだった(しみじみ)<いいから(涙)
 
ともあれ。
要するに「愛」なんじゃないのか?と思うのだった。
 
009と愛し合うことによって、翡翠はただの(?)「光の子」ではなくなっていたのではないか。
そして、その変化が翡巫女にも作用した。
 
すっきり説明することは難しいが、少なくとも、009との「愛」が特異点だったことは間違いない。
翡巫女に握りつぶされかけながら、009は翡翠に語りかける。
 
「君は、こんな姿、本意ではないはずだ。……本当の君は、何処に行ってしまったんだ」
「うるさい!」
「翡翠、あのときの君は……。あのときの……」
「…………」
「僕が愛した……、君は」
 
あのときってなんだこのやろう(怒)と踏むのは後回しにしておく(しみじみ)
で、ここまでの戦いの流れを思い出し、
 
女たらし野郎がフザけろよ、さっきまでふらんそわーずふらんそわーず大騒ぎして、翡巫女にさんざん容赦ない攻撃してやがったくせに劣勢になったらいきなりコレかよこの卑怯者!(怒)
 
と思ってしまいそうになるが、コイツは超非常識男・斜め上のシマムラなのだった(しみじみ)
セリフを素直に読むと、信じられないが、彼は「僕を助けてくれ」と言っているのではない。あくまで、翡翠の身を案じ、彼女を助けようとしているのだった(汗)
 
009がこの時言った「僕が愛した君」というのは、本当の気持ちなのだろう。
だからこそ踏みまくるわけだが、こーゆーところで嘘を言わない、というのが彼のお約束(?)なので、彼は本当に、心から、真実の愛を翡翠に注いでいたのだといってよい。
だからこそ、翡翠はその言葉を受け、微妙に変質する。
「ごめんなさい」「たすけて」としか言わなかった彼女がいきなりこう言うのだった。
 
「ジョー、貴方を、今、私の手で……」
 
私の手で、どうするのかというと、もちろん、助けるのだ。
どーやって助けるのかというと、これもまたもちろん、翡巫女と「戦い、勝つ」ことによって助ける、ということだ。
 
「邪魔をするな、翡翠!」
「私を解放して!翡巫女!」
 
叫び合う二人は既に戦っている、といってもよいだろう。
やがて、モアイは分裂し、大爆発を起こし……消滅する。
 
翡巫女は、モアイに憑依していたのではない。
001の説明から考えると、あの時点では、モアイは翡巫女の精神体のひとつの形態であり、彼女そのものだとするべきだ。
だから、モアイの爆発は精神体としての翡巫女の「消滅」なのだった。
そのとき、精神体としての翡翠も消滅する。翡翠は光の宇宙に戻れない。
 
「光の子」は戦いを望まない。だからこそ「善」だ。
欲望を持たず、争いを望まず、平和を愛する者が、どうして戦えるだろう。
もし、「光の子」が戦ってしまったら、彼を光の子と呼ぶことはできないだろう。
 
しかし、愛は、この枠組を壊す。
なぜなら、「愛する者のために戦う」のはあくまで自己犠牲であり、欲望とは一線を画するものだからだ。
さらに付け加えれば、「愛する者のために戦う」のは、他ならぬ自分のためであり、欲望でもある。愛を望む主体はまぎれもなく自分だからだ。
だから、愛する者は、闇の子でも光の子でもない。
それが人間なのだ、と言える。
 
009が自分の命よりも翡翠を助けることを望み、その思いが伝わったとき、翡翠もまた自分の身を顧みず、009を助けたいと思った。
自分の為ではなく、他者の為だったから、「光の子」でもそれができたのだ。
 
本当を言うと、光の子たちは……というか人間たちは、なにも翡翠のように、いちいち相手を爆発させて共倒れ、なんてトコロまでやらなくてもいいはずだった。
気が遠くなるほどの時間をかけての「闇の子」浄化計画(?)だったのだから、じわじわやればよかったのだ。
 
アランと003の関係を見れば、それがわかる。
前述したように、光の子であるアランは、003に対して「ごめんね」という。
彼にとって、人間は全滅させたとしてもそれ自体に心が痛むことはない存在のはずだ。
が、003を愛した人間としての記憶が、彼を傷つけるのだった。
 
闇の子の力を削ぐためには、光の子も苦しまなければならない。
その苦しみに比例して、闇の子は部分的にだが確実に浄化される。
そのように光の子を変質させ、戦いの地平に向かわせ、闇の子に向かわせるのが、愛なのだ……と思う。
 
つまり。
「人間」たちは思いっきり愛し合えばよかったのだ!
 
そうすると、曽根崎心中とかウェルテル君の自殺みたいな様々の悲劇が起きたり、いろいろややこしい問題が間違いなく出現するのだけど、人間は万難を排して、それを成すべきだったのだ。
それこそが人間の使命であり、人間として生きる意味そのものだったのだと思う。
 
もともと、光の子たちが闇の子を押さえ込み、その形としての人間となったとき、先にも触れたが、彼らは人間が生きることによって闇の子が消える、と思っていたのだ。失敗したけれど。
 
ってことは、結局009たちがしたことは、その、光の子たちの本来の作戦どおり、「人間」が闇の子を消した、という行為に当たるのだろうな……と思う。
 
なんというか、全く手をつけていなかった夏休みの宿題を、8月31日に徹夜して、それでも終わらなくて、でも諦めず、ついに終わったのが9月1日の23時59分、誰もいない真夜中の学校に駆けつけて提出した小学生みたいなもの……と言ったら、ワヤかもしれないけれど(遠い目)
 
 
10 009と003
 
001が提案した最後の特攻を実行しようというとき、009は、003に言う。
 
君は来ちゃいけない。光の世界で幸せに暮らすんだ。
 
闘って、死ねば……というか、死ぬ確率が圧倒的に高いのだが……「消滅」してしまう。
彼女には生きてほしい、と彼は願う。
 
よーく考えてみると、彼女が死ねば、その彼女の半身である「闇の子」が、微力ながらも(笑)直後に彼の敵の一部となるはず……なのだけど。
009から見た003には闇などなく、ただひたすら「光の子」なのだろう。
 
そんな馬鹿な、だいじょぶかシマムラ(汗)
 
と思うけれど、雑な言い方をするなら「恋は盲目」ということになるし、もっとマジメに言えば、009にとって003は結局そういう存在だったのだ、ということだ。
 
003は首を振り、戦うことを選ぶ。
が、彼女の意志は、009とは少し違う。
積極的に戦おうというよりは、ただ「あなたと離れたくない、おいていかないで」と言うのだった。
 
闘いを嫌い、さんざん辛酸をなめた003の目の前に、今、永遠に闘いから解放される道がある。一方に009がいる。どちらかしか選ぶことはできない。
結局彼女にとって、009は最後の最後まで「闘い」の象徴だったということになる。
 
闘いを憎み、拒絶する彼女はどうしても009を受け入れることができなかった。
だからこそ彼女は009から離れ、アランに惹かれていったのだし、あからさまな武器とされてしまった体に絶望したのだ。
 
が、彼女は最後に言う。
離れようとしても、離れられなかった。一人になると、いつもジョーを思っていたのだと。
 
醜く改造された兵器としての体をどうしても受け入れられなかった003を慰めたのは009だった。
これもただ読むとだいじょぶかシマムラ(汗)と思うようなセリフなのだが、009が彼女に伝えたのは、要するに、今の君を心から愛している、ということだ。
それで003の心は落ち着いてしまう。
 
そしてその直後、003はアランと交信する。偶然といえば偶然だが、絶妙なタイミングなのだった。
「光の子」である彼が象徴するモノを捨て、すさまじい戦いに身を投じる選択をしたばかりの003は、まだ僅かに残っている……かもしれない迷いと不安とを断ち切るように009の胸に飛び込む。
彼女の中でアランの思い出は既に「うしろめたい」ものとなっている。
彼女は、009にアランについて語らない。
 
009を選んだ以上、彼女がアランを振り返ることはできない。
それは貞操(笑)の問題ではない。彼女の生き方そのものの問題なのだった。
009とともにある生き方と、彼女がかつてアランに求めた生き方とは全く相容れない。それゆえのうしろめたさだ。
 
その後の彼女が自分の体を厭う場面は、敵の精神攻撃を受けた場面にしか現れない。
むしろ、それこそが彼女の「異常な状態」であると描写されているということは、正常な彼女は兵器となった体を受け入れた、ということだろう。
 
003は人間としてのアランを愛し、アランも彼女を愛した。
その結果として、闇の子の力は削がれ、クリスタル奪取作戦は失敗したし、光の子であるアランは人間にすぎないはずの003の苦しみに胸を痛める。
 
が、いずれにせよアランは人間であり続けることができなかった。
死によって分離した後の闇の子であるアランはもちろん、光の子であるアランも、彼女の愛の対象にはならない。
 
009と翡翠の関係と比べるといまいちインパクトに欠けるのが3至上主義者としては悔しい気がするけれど、仕方ないのだった。
そして、そのように対比してみると、009と003の関係自体が、光の子と闇の子、そして人間の関係を象徴しているようなものだとも言える。
 
003はまぎれもなく人間だが、その行動原理は「光の子」に限りなく近い。
彼女は徹底的に戦いを忌み嫌う。
 
3至上主義者としては、これまでにも
 
だいじょぶかお嬢さん、ちょっとゴネすぎじゃないか、シマムラを困らせすぎるとジョーら部のお客さん(?)に叱られたりしないかな(涙)
 
なんて心配になったりしたものだ。今回は特にその傾向が強い。
 
が、私の心配(汗)とは裏腹に、お嬢さんは、この問題についていえばどんな状況でどうゴネようと、少なくとも作中人物から批判されることはなかったし、今回もされていない。
009や仲間達から「仕方がないんだよ」と諭されたり、慰められたりはするけれど、叱られることはない。要するに、009を筆頭とした仲間達は、彼女のこの性質を善しとし、受け入れているのだった。
それは「紅一点」の性質として比較的あっさり読み流されてきたと思うのだが、この完結篇では読み流しにくいほどに強調されている。
 
彼女を除くサイボーグたちの「戦い」への態度はほぼ一致している。
リーダーはたしかに009だが、敵へ向かう姿勢や勇気はどのメンバーも変わらない。
だから、003がその彼らの中でとりわけ009を特別な存在として「選ぶ」のは、リクツではない。ただ彼女が彼を愛したから、としか言いようがない。
 
愛した結果として、003は戦いに赴く。
光の子、翡翠がそうしたように。
 
009も、もちろん人間だが、彼は自分が「闇の子」であるという自覚を持っている。
完結篇でなんだか妙に目立ったのは、彼の過去……「孤児」と「少年院」なのだった。
 
誕生篇ならいざ知らず、半世紀近く心優しいヒーローをやっている009が不良少年だった、といってもあまり説得力はない。平ゼロではその設定自体が曖昧になったぐらいで。
が、009はもともと「悪人」だったのだ。
その原点を、完結篇は一生懸命思い出させようとしているように見える。
さらに、「女神の陰謀」で009は、サイボーグとしての自己の戦歴を忌まわしいもの・罪として否定している。
敵を倒していく「戦い」は、たしかに光の宇宙にはない発想であり、罪だ。
 
しかし、それを罪と考え否定するという彼の姿勢そのものは、むしろ光の子のものなのだ。
003が、光の子の意識をもちつつ戦いという闇の子の現実を受け入れてきたのと対照的に、009は戦いの現実を生きながら、それと知らずに光の子でありつづけた。
そして、そんな彼らは戦いにおいて勝利……他者を支配すること……を目指すのではなく、むしろ苦しむ人々のために捨て石となることを厭わない。
 
003も009も結局は人間なのだった。
だから、光と闇の狭間にいるという点において、なんら違いはない。
が、それらへの関わり方、意識の仕方がまったく正反対なのだった。
 
009が出会い、愛した翡翠は、既に翡巫女に乗っ取られつつある状態だった……とすると、彼女は「闇の子」に近かったのだろう。
一方で、003が愛したアランは、死を前に「闇の子」に抵抗を見せた。「光の子」の意識を強く持っている人間だったと言える。
二人は、それぞれ自分が所属していると感じている世界に近い者たちに惹かれていった。人間としての行為だから、それは愛という形をとる。
 
しかし、やがて009は翡巫女を倒し、003はアランとの別れを迎える。
光を見つめていた003と闇を見つめていた009は互いに振り返り、互いを認める。
二人が「闇の子」の攻撃を受け、死を意識したとき、最後に現れたのは互いの幻だった。
009は003に、003は009に「生きよ」と語りかける。
それは、人間としての生を生きよ、ということだ。
 
それまで、009には003が光に属するモノと見えていただろうし、003には009が闇に属するモノと見えていた。
しかし、振り返り、見つめ合ったとき、二人はお互いがただ人間であったことを知る。
そのとき二人を結びつけたキーワードは「孤独」だった。
 
人間は、光の子ではない。闇の子でもない。
肉体という壊れやすい器にふたつの相反する魂を持つ、不安定な存在なのだった。
 
003は、009がいなければ自分は「一人」になるのだと悟った。
そもそも、彼女は「一人になると」必ず009を思っていたのだ。
それは、単なる感傷ではなかった。彼女は009がいなければ本当に一人だったのだ。誰が傍にいようと、夢に向かって光の中を進む幸せを感じている時でさえも。
 
それは翻って、自分がいなければ009は「一人」になるのだという確信でもある。
彼女は言う。あなたの傍を離れない。あなたが孤独であるのを知っているから……と。
 
私が孤独だから、私が一人になりたくないからあなたの傍にいる、というだけではないのだった。
003はむしろ、自分こそが009を孤独から救うただ一人の存在だと確信している。それはもちろん、彼女自身にとって、009が自分を孤独から救うただ一人の存在だという確信があるからだ。
私のために、同時にあなたのために。そう迷いなく言えるのが「愛」だ。
 
光の子には光の宇宙という絶対の故郷がある。
闇の子には故郷がない。安住の地がないのだった。
そして、人間は。
 
009は、最後に003の中に「海」を感じる。
それが、故郷だ。
 
003という女性が海のように深い心を持つ聖女だったというわけではない。
ただ、愛し愛された結果、彼女が彼にとっての故郷となった。
そういうことだと思う。
 
だから、009も003も「光の宇宙」を望まない。
彼らが望むのは、ただ人間として愛する人間と共に在ることだけだ。
 
彼らはその思いをもって神々――闇の子に挑む。
闇の子を傷つければ、光の子も傷つく。
彼らは、人間として闇の子を倒すが、その結果として光の子も消滅するはず。
そして、ただ、愛を知る人間たちが残る。
 
それが、新しい地球だ。
 
 
11 戦いの終わり
 
エピローグで、009たちは平和な「東京」にいる。
建物は廃墟となっている。
あの惨劇はたしかにそこに在ったのだ。そこは紛れもなくあの地球そのものなのだった。
 
が、海は美しく、地表を覆う美しい草原に咲き乱れる花々。そして、明るい陽光。
そこを「天使」たちが楽しそうに行き交う。
009たちとギルモアにショーさんも、彼らと同じように「光る肌」をもっている……らしい。
 
ここは、「光の宇宙」なのだろうか?
 
たぶん、そう……なのだが。
少し違う。
 
彼らは「光の子」ではない。
「人間」から進化した新しい生命体なのだ。
とはいえ、ソレと光の子たちと何が違うのか、実を言うと、人間にすぎない私たちには理解できない。
 
特攻した009・003・001と、そのとき地上に生き残っていた「人間」たち。
それに加えて、サイボーグたちとギルモア……そして、「ショーさん」らしきモノたちもそこにいる。
 
ぼーっとしていると、特攻前に「死んだ」仲間たちは、既に光の子となっていたんじゃないかという気がしてしまうが、たぶん違う。
彼らは決して、それを望まなかった。あくまで人間として戦い続けた者たちだからだ。
彼らの器である体は消滅したが、精神体としての彼らは、009たちと変わりがなかったはずで。
だからこそ彼らは、特攻を行い神々を倒した009たちと同じモノとされている。
 
この穏やかで幸福な世界は、紛れもなく彼らが勝ち取ったモノだ。
が、そのことに頓着する者は誰もいない。おそらく、彼ら自身も。
それは、そうした「名誉」という概念自体が、その世界には存在しないからだ。
 
……それで、幸せなの?
 
と思ってしまう。
が、そう思うのは、私が人間にすぎないからだ。
009たちも、その地球に住む者たちも、ショーさんも、そういう意味では「人間」ではない。
だから、「サイボーグ009」はここで終わる。
 
この結末は、読者である私たちにとってどういう意味があるのか……素直に感じ取るのは難しい。
「人間」の視点から見ると、彼らは全く幸せではないようにも思える。
彼らが手にした穏やかで平和な時間というのは、たしかに疑問のはさみようもないほど間違いないのだが、それで生きてて面白い?と思ってしまうのだった。
 
もちろん、彼らにとって、面白いとか面白くないとかいうことは全く問題にならない。
そして、彼らは幸福なのかと問うなら、究極の幸福を手に入れているのだ。
 
009たちは「人間」を守ろうとし続けた。
その結果として、「人間」は「人間から進化した生命体」となった。
 
それは人間じゃないだろうっ!!!!と言うことはたしかにできる。
そういう意味では、009たちは人間を守れなかった……ということになる。
 
ここは、本当に難しい。
しかし、完結篇が描こうとした「戦いの終わり」……009たちが「2度と戦わなくてもよい世界」は、これしかないのだった。
 
もうひとつの結末がある。
それは、地球が闇の子によって満たされることだ。
 
まだ途上だったからわかりにくいが、闇の子は強い者が弱い者を支配することを限りなく続け、肥大していく。
そして、最後には、もちろん、「ひとり」になるだろう。
自分以外には誰もいない、ひとり。
それは、地球が消えた後に現れた、闇の地球の姿だ。
 
そっちの終わり方にしてもそれはそれでなんだかなー(涙)と思うので、これしかないだろう、と納得するのだった。
 
人間は、戦い続けているものなのだろう。
戦わずにはいられない……というか、戦うことが生きることなのだ。
 
私たちは戦いを終わらせたいと思いつつ、実はそう思っていない。
が、戦うためには信じるモノがやはり必要で。
それが、009たちのいるあの世界……光の宇宙なのだ。
 
それって、結局のところ、どんなに苦しくても頑張りなさい、死後は必ず天国に行けますよ……ということと何か違いがあるのかというと、実はあまりない。
が、009たちが示した希望は、むしろ「どのようにして」私たちは天国に行くのか、という道筋の中にある。
 
私たちは、何かに許され、認められて天国に行くのではない。
私たち自身の意志で、戦い続けることによってそれを得るのだった。
 
鍵は二つある。
ひとつは、敢えて困難に立ち向かう・苦しみを選び取るということ。
これは「魂の自由」だと言ってよい。
 
空腹であるときに、目の前の食べものを「食べない」ことを選択できるのは、人間だけだ。
それが、人間だけが持つ「自由」であると私は思う。
 
そして、もうひとつが「愛」なのだった。
自分を大切に思うのと同じように大切に思える特別な他者を持つ。
それによって、人間は自由を実行する勇気を得る。
 
サイボーグたちが、そして「ショーさん」は最後まで自らの意志で、究極の苦痛を選びとり続けた。
彼らを襲った運命は確かに悲惨を極めたモノだったが、決して醜悪ではない。
それは、彼らがどんなときも自由であり、また、あり続けようとしたからだ。
 
そして、009と003は「愛」を手にした。
その力が、彼らを自己犠牲に向かわせ、自らを構成するモノであった光の子と闇の子を共に消滅させた。
 
二つが消滅したあと、何が残るのか。
何も残らないわけではない。
必ず、「人間」が残る。
 
エピローグはそれを示している。
人間を超えた次元であるがゆえに、それを人間に理解できるよう描写することは不可能だろう。
ただ、その世界を見ながら私たちは「わからない」と思いつつ、でも、何かが残った。善きものが残った。ということだけは信じることができる。
 
その道は果てしなく苦しく、困難だ。
が、009たちはそれを信じて進んだ。
もちろん、石ノ森章太郎もそうだった。
 
だから、次は私たちが信じる番なのだった。
 
更新日時:
2012.11.04 Sun.
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Last updated: 2015/11/23