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完結篇と001
 
しつこく完結篇……なのだけど、ここからは脈絡もなくちょこちょこ行くのだった(しみじみ)これまでもそうだったような(悩)
 
で、まずはなんといっても001(汗)だよなーと思うわけで。
 
コイツ、何者?(汗)
 
というのは、もちろん、これまでの001を見ていても十分思うトコロだった。
が、完結篇では、その思いが増幅したというか。
 
 
1 001の正体
 
そもそも、完結篇1が「001」から始まったのがなんかスゴかった。
いきなり種明かしから始まるのか?という感じで。
 
……というか。
「感じ」ではなく、ホントに種明かしだったのだ(倒)
ただ、もちろん、完結篇1の時点ではそれ自体が意味不明だったわけだけど。
 
001はまず光の宇宙にいて、「光の子」たちとともにいた。
それが、トンネル……闇の宇宙へのトンネルを経て、「地球」に来る。
そこでは、「人間」の戦いの歴史が繰り広げられ、それはやがて2012年の終末につながっていく。
なすすべもなく地球の崩壊を見つめる001の前で「光の子」が次々に現れ、終結し、飛び去っていく。
もちろん、彼らは「光の宇宙」に去ったのだ。
 
……以上、地球の歴史&謎解き終わり!(倒)という感じなのだった(しみじみ)
 
その後の001は、とにかく人間を救う……直接的には「神々」を倒す……という目的でがんばっている。
彼の目的はそれしかない、という感じで一貫し、ぶれることがない。
それはシマムラの姿勢と似ているが、何か違うような感じもする。
 
よくわからないのは。
001が、なぜそんなに一生懸命なのか……ということなのだ。
 
シマムラの場合は、とりあえずお嬢さんが地上にいる。
別にお嬢さんでなくてもいいのかもしれないが(踏み)とにかく、シマムラには愛する者、守りたい者が地上にいるのだった。
 
で、001はどうなのか。
 
たとえば、改造されたことを悲しみ、闘いたくない、と泣くお嬢さんに、彼は至極当たり前のことを言い放つのだった。
 
「何の為に闘うの?誰の為に闘うの?あんな相手、闘ったって死ぬだけじゃない!」
フランソワーズは懇願するような目で、そう言った。
“人類ノ為……コノ地球ヲ……ソシテ、愛スル者ヲ守ル為ニ闘ウノダ。イイカイ、フランソワーズ、闘ワナケレバ、間違イナク、ミンナ、死ヌ。イズレ闘ワズトモ死ヌノナラ、闘ッテ死ンダ方ガヨクハナイカ”
 
お嬢さんは言い返さない。001は確かに正しい。
正しいけれど……(悩)
 
闘っても死ぬ。
闘わなくても死ぬ。
 
だったら闘わない方ガいい、というのがお嬢さんの考えで。
だったら闘う方ガいい、というのが001の考えだ。
両者とも、ただ「そう思う」と主張するだけで、自分が正しいという根拠を特に持たない。
 
ただ、お嬢さんの考え方でいくと、そもそも生きるということに意味がないことになってしまう。どう生きようと、神々が出現しない平和な世界であっても、人は最後は死ぬと決まっているからだ。
お嬢さんは、生きることに意味がない、とまでは考えない。だから、001に反論できない。
逆に言えば、001は、ただ「生きることには意味がある」と言っているだけなのかもしれない。で、そこにリクツはない。
 
リクツはなくても、001の意志は強固だ。
そこに注意しながら、001の章を読み返してみると、001は「天使」と同等の力を持ちつつも、彼らと行動を共にする運命にはないのだ、ということがわかる。
大きな鳥となって飛び去った彼らを、001はあくまで見送る。
闇の中……地球の上で。
 
一方で、人間の凄惨な闘いの歴史の中で、崩れゆく未来の中で、001は「逃げたい」と思う。
おそらく、作中で……もしかしたら「サイボーグ009」を通して見ても……唯一001が弱気を見せるところなのだった。
 
怯え、泣き続けていた001が泣き止んだのは、009の「覚醒」を確かめたときだった。
その後、001は泣かない。
神々との闘い方を必死で探り続け、同時にサイボーグたちの覚醒を促していく。
生命の限界までそれをする。
 
009もそうだし、他のメンバーも基本的にそうなので、つい読み流してしまうが、001はまったく当然のように自分の命をすり減らして生きるのだった。
そして、彼が出した結論は「特攻」……しかも、自分が「悪の精神体になりすます」というモノだった。
更に、そのためにギルモアを犠牲にする。
 
「神々との闘い」で、そういえば001はギルモアを「殺して」いたんだよなーと思うのだった。
完結篇のリクツから考えると、そのアイディアは001から送られていたわけだから、構造が似ているのだと言える。
ただ、001がギルモアを「殺す」計画を立てた時と「神々との闘い」を「ショーさん」が書いた時との関係は微妙かもしれない。
この辺りの問題は、「ショーさん」について考えないと、うまく整理できないだろうなーと思う。
 
とにかく、001には迷いも躊躇もない。
ただただ、彼は闘うのだった。
そして、闘う手段を見つけようと奔走する。
究極の参謀としての働きだと言えるのだけど、でもやはり思うのはどうしてソコまでするんだ?ということで。
 
001としまむらは似ている。
それは今までも指摘されていたことではないかと思う。
といっても、001の方は赤ん坊なので、要するに似ているのは主に「孤児」であるということだ。
とても雑な言い方をするなら、二人とも、自分が生きていることを無条件で祝福し、肯定してくれるモノ……両親を知らないのだった。
 
しまむらの場合は、事実としてそうなってしまった、ということなのだが、001の場合はもっとタチが悪い。
父親にモルモットとされ、それに抗議した母親を殺されているのだった。
 
しまむらの場合もそうだが、母親の愛情については、微かに信じることができる……だろうが、001にとっては、それはむしろその無力を感じさせられるということでもあるのだった。
もともと愛は無力なものだ、とも言えるのだけど。
 
ともあれ、001もしまむらも、そういう存在で。
それなのに、自分の全てを捨てて闘うのだった。
それなのに、ではなくて、おそらくそれゆえに、というのが正しいのかもしれないけれど。
世界に承認されないモノとして、承認を得るために世界のために闘う……ということだろうか。
 
ただ、それでは単純に過ぎるようにも思う。
しまむらの場合、やはり一応仮にもオトナなので、いろいろ雑音(汗)が入ってわかりにくくなってしまう。
が、001はその単純さに耐えられる。赤ん坊だからだ。
001はひたすら闘う。人間のために。
理由などない。
強いて言えば、自分が生きていることそのものが闘う理由だ。
 
赤ん坊である、という意味。
そして、超能力者である、という意味。
何より、完結篇の最後では「光の子」と同じように、精神体となることにも成功し、「光の子」アランと語らったりしているのだった。
この001の姿は、おそらく「エピローグ」に描かれた「人間」の進化した姿であろうと思う。
だからこそ、彼は「悪の精神体」を装うことができる。「光の子」には絶対できない芸当だと思うのだった。
 
そうなると。
001とは、要するに「人間の未来」の象徴だとも言える。
まだ誰も見た事のない、しかし、めざすべき未来。
それが001だ。
彼は人間の過去にとらわれない新しい人間となる資格と運命をもっている。
孤児であるということがその証のひとつとなる。
それについてはしまむらも同じなのだけど。
 
だから、彼は人間たちを叱咤し、導こうとする。
可能性があることなら、どんなことでもしようとする。
彼が絶望するのは、可能性を見いだせなくなったときだけ……だが、その壁を砕くのがしまむらの役目だ。
 
そういえば、平ゼロのラストで、001はしまむらに対して「君に賭けたい」と言った。
彼がどういう立場に立ち、何を賭けたのかということは明確に説明されなかったが、私たちは何となくその意味を知っている。
やはり、001は「未来」なのだと思う。
そして、その001に希望を与え、その願いを体現する可能性を握る存在が、もう一人の孤児、島村ジョーなのだった。
 
 
2 熱病的愛情
 
完結篇のエピローグで、001は003の腕に抱かれている。彼女は009に寄り添っている。
正確に言えば、彼らは既にそうした名を持たない新しい人類となっているはずなのだが、描き方としてこの3人は009、003、001であると考えるべきだ。
で、彼らが何に見えるか、というと、間違いなく夫婦とその子ども、だろう。
 
完結篇で、001は常にギルモアと共にいた。
が、エピローグでは明確に違う。
それ以前の問題として、特攻もこの3人で行った。
つまり、001は結局009と003の子どもだったのだ!
 
…………。
 
いや、たしかにこの3人はそう見えるモノだったし、そのように描かれてもきた。
が、こうハッキリと示されるとやはり一瞬たじろいでしまったのだった。
 
長年当然のようにそう描かれていたけれど、どーも実体が怪しい、ということなら、003と009の関係も似たようなモノだったと言える。
ただ、なんというか、恋人や夫婦ならどんなペアを組ませることも可能だが、親子というのはさすがに血縁がないと……(汗)
 
なんて思ってしまうのは、私が血縁至上主義の日本人だからなのかもしれない(しみじみ)
が、その感覚で考えたとしても、完結篇を経て、あのエピローグに到達した境地では、血縁など何の意味もない、ということがわかる。
血縁とはしょせん「体」の問題だからだ。
 
ということは「性」もまた「体」の問題なんじゃないのか?
……と、思い出したのが「神々との闘い」の中の「熱病的愛情」事件事件言うな(汗)なのだった。
 
原作中、唯一描かれている009と003のSEXシーンは敵による精神攻撃の結果として二人がおかした「過ち」なのだった。少なくとも、001はそう考えている。
彼は「熱病的愛情」と表現し、これをばっさり切り捨ててしまった。
 
ただし、コトはそれほど単純ではないと思う。
このときの009と003のシーンは、色々な見方ができるのだった。
 
始まりは、たしかに異常だった。
003は目の中に炎が燃える(汗)という表現によって、フツウではない状態であると示される。
彼女が009に語りかける言葉もちょっとおかしい。
 
あなたのこどもがほしい。
 
というのだった。
それは「わたしのこども」でもあるはずなのだが、彼女は「あなたの」と言い切る。
それってつまり「こども」じゃなくて「子種」のことだよね♪と解釈することももちろんできなくもないのだが、問題は「こどもがほしい」ではなく「あなた」にあるのだろう。
 
つまり、003は「あなた」を自分に取り込み、自分の体に属するモノにしようとしているのだった。
結果として、性の営み自体がそういうものなのかもしれないけれど、いずれにしてもその発想はたしかに「闇の子」のモノだ。
 
しかし。
そんなふうに始まった二人の性なのだが、どうも進むにつれて(汗)何かが変質したように見えるのだった。
 
無表情でさっさと服を脱いだ003は、同じように服を脱ぎ捨てた009に手をとられたとき、わずかに戸惑いを見せている……ような気がする。
それは、少女としての……これまでの彼女の素顔を思わせる表情だ。
 
が、もちろん、それに構わずコトは進む。
003は涙を流す。
そして、それを見つめる009の目にも、表情が戻っているように思えるのだった。
 
おそらく。
「ショーさん」としては、これを確固たる「過ち」と描くつもりだったのかもしれない。
が、微妙に失敗してしまった……のではないか。
 
完結篇が「事実」であり、「サイボーグ009」はそれを元にした創作である、という設定に従って考えると、この二人の「過ち」に該当する「事実」は、もちろん(というかなんというか)003とアラン、009と翡翠の関係になるだろう。
もっとも、003の場合はそれほどあからさまに描かれていないので、これについては009と翡翠を見るほうがわかりやすい。
 
完結篇で、しまむらは翡翠と肉体関係をもっていた。
うっかり(?)やってしまいました♪というレベルではなく、彼は彼女にのめりこんでいた、といってもよい状態だった。
 
彼女、というのは翡翠だったのか、翡巫女だったのか。
翡翠でもあり、翡巫女でもあった……としか言いようがないことだが、しまむらとしては自分が愛したのは翡翠だと思っていた。
が、「体」の問題となると、そこが怪しくなる。
翡翠の体は本来、光の子である翡翠が宿主であるはずだが、それが翡巫女に侵食されつつあったからだ。
 
翡巫女は、しまむらを「愛していた」という。
そう言いながら、彼を殺すのだから、もちろんその「愛」は私たちがフツーに考える「愛」ではない。
そして、彼女は言うのだ。彼に「危険」を感じていたと。彼が、いつかきっと自分に危機をもたらす存在になる……と。
 
それは「不安」だ、とも言える。
なぜか翡巫女にとってしまむらは「不安」を感じさせる因子だった。
ここで、「神々との闘い」を思うと、003も「熱病的愛情」の入口に立ったとき「不安」を口にしているのだった。
 
不安なら、しまむらを殺してしまえばいいはずだ。殺せるならそもそも不安ではない。
が、なぜか翡巫女にはそれができなかった。もちろん、翡翠がしまむらを本当の意味で「愛していた」からだが、彼女にそれはわからない。
だから、ただ不安だった。
 
本当のところ、翡巫女を滅ぼす存在となったのは翡翠だ。
そして、そうなったのは翡翠がしまむらを愛したからだ。
だから、たしかに問題はしまむらだ、とも言えるのだが、実はそうではない。
自分の中にある自分を滅ぼすモノ……翡翠。
それが翡巫女を不安に駆り立てたのだと思う。
 
そして、その不安を、翡巫女はしまむらを取り込むことによって解消しようとした。
それは、「あなたのこどもがほしい!」と言ったあの003の姿と重なる。
 
しかし、一方で翡翠の肉体には、光の子、翡翠も宿っている。
翡翠はしまむらを愛していた。
 
イースター島で追い詰められていくしまむらの心を唯一癒したのは、翡翠の肌の感触だった。
もちろん、それが結果として彼をより強く翡翠、すなわち翡巫女の支配下に置くことになったのだが、おそらく、彼が翡翠の肌から感じ取った安らぎそのものは「愛」であり、それ自体はまやかしではなかったのではないかと思うのだった。
 
つまり、こういう状態が「熱病的愛情」だったのだろう、と思う。
 
009と003の愛は、そこを超えなければならない。
結果として、彼らは肉体を超越し、彼らがそうすることによって001もまた「両親」を得る。
それこそが001の居場所であり、安住の地でもある。
009と003の愛は、そういうものでなければならなかった。
 
しかし、009と翡翠の愛を感受した「ショーさん」は、それを「009と003の関係」に置くことしかできなかった。
完結篇2を読んだファンの多くがしまむらと翡翠の関係に違和感を感じたように、しまむらが本当にSEXするというのなら、その相手はお嬢さん以外にいないからだ。それが、「ショーさん」の「サイボーグ009」の世界だった。
 
が、009と003がその関係になってしまったらマズイのだ。
ぢなみに、誰が一番その割を食うかというと、直接には001だ。
だから、001がばっさり切り捨てる。
これは、熱病的愛情にすぎない、と。
 
が、それを演じているのは実際、009と003なので、そう簡単には切り捨てられないことになる。
更に、発信源(?)のしまむらと翡翠の関係にも「愛」の断片が含まれているのだ。
それが「009と003」の姿で投影されれば、当然、「熱病的愛情」としての表現は揺らいでくるだろう。
 
完結篇で、サイボーグたちは精神攻撃を受けた。
が、そこに009と003の「熱病的愛情」は片鱗すら見えなかった。
 
もともと、その罠に一番落ちやすいのは009だ。
だから、熱病的愛情は、本来、彼一人に向けられた攻撃だったのだと思う。
それが、翡翠と009との関係だった。
 
攻撃は再び加えられ、しまむらは自らの命を絶とうとする。
翡巫女も翡翠も既にいない。
が、あのときと同じ感覚がしまむらを襲うのだった。
 
完結篇で、003もまたアランに惹かれていく。
そのきっかけもやはり「不安」だった。
ただ、アランはあくまでただの人間として003の恋人だったのであり、死によって光と闇に分離したあとは「光の子」だけが彼女との愛の記憶を担っていた。
それは要するにただの人間としての恋愛であり、「熱病的愛情」とは違う。
 
ここについては、小野寺さんがやってくれてしまって良かったと私は思う。
石ノ森さんだったら、できたかどうかわからないなーと思うのだった。
というのは、石ノ森さんは「ショーさん」だからだ。
 
しまむらへの精神攻撃はやはり「熱病的愛情」しかあり得ないような気がする。
他の攻撃なら、なんとか乗り越えてしまいそうだからだ、コイツの場合。
そして、熱病的愛情を彼に仕向けるのが003であってはならない。
これはもう、どーしてもそういうわけにはいかない。
 
とするなら、しまむらはやっぱり別の女性と……特に、闇の子に目ざめつつ、光の子でもあるという女性と、そういうことにならないといけないのだった。
で、石ノ森さんにそれが……つまり、009が003以外の、しかも闇の因子を持つ女性にのめり込む、という描写ができただろうか、とちょっと心配になる。
 
「神々との闘い」を思い出すと、できなかったのではないか……と思うのだった。
しかし、それだけが唯一の009への有効な攻撃なのだ。
これを超えられないのなら、神々との闘いは描けない。
 
そのことは、ずっと001にはわかっていた。
001だけが、わかっていたのだ。
だから、彼は言った。
 
それは、熱病的愛情にすぎない、と。
 
 
3 未来への脱出
 
そんなわけで(?)
 
001は、人間の「未来」そのものとも言える存在で。
そして、それゆえに009と003の正しい「子ども」でもある。 
 
そう考えつつ、「サイボーグ009」に既に描かれた「009と003の子孫」を思えば、もちろん、移民篇のアレなのだった。
 
移民篇はショーさんが描いた「サイボーグ009」における人類の未来像である。
そこでは、やはりカタストロフィが起きる。その原因もまた人間の「悪」を克服できなかった弱さ、それに対する報いというようなことになっている。
そして、人類は、破壊された地球を捨て、「脱出」するのだった。
 
少しずつズレてはいるが、この構図は「光の子」たちが闇の世界となった地球を捨て、脱出する完結篇の展開と似ている。
ショーさんの世界では(というか私たちの世界でも)完結篇で現れたような「怪物」を現実として描くことはかなり難しい。それが、放射能汚染という形で説明されている。
同様に、人間の中に光と闇の因子があるというのはまだわかるとして、それが「闇の子」「光の子」という宇宙から来た精神体としての具体性を持っている、というのもさすがにとてつもない話(倒)なので、「光の子」と人類とはほぼ同一視されている。もともと、人類の「宿主」は光の子だったのだから、それはそれで間違っていない。
 
……と置き換えてみると。
「009と003の子孫」である「司令官」に当たるのは、やはり完結篇では001なんだろうなーと思う。
 
完結篇で、人類は地球を捨てていない。
が、私たちの知る地球があった場所には闇の地球が入れ替わり戻っているわけで、そのイメージは、移民篇で捨てられた地球と重なる。
 
同様に、人類は「光の子」のようなモノに「進化」した結果として、この「脱出」を成功させたのだといえる。それを導いたのは、もちろん001なのだった。
 
移民篇で、脱出した人類は結局人類の祖先となる。
完結篇でも同じだ。
人類は新しい人類の祖先となった、ということだ。
 
さらに、移民篇には「亜時空間漂流民」篇が続編としてついている。
ここでは、人間たちの「脱出」がうまくいかず、009たちが手を貸すことになった。
時の旅人であるサンジェルマンが登場し、一方であの「司令官」は009たちを助けるため、とはいえ、唐突な……正直、あまり必然性があるとも思えない死を迎えた。
 
本音を言うと、こんなことを考えているのはちょっと馬鹿馬鹿しいかなーと思ったりもするのだけど、この話は、ショーさんによる「移民篇」の修正だったのかもしれないのだった。
 
「009と003の子孫」が001以外のモノであることを、完結篇001がなんというか、本能的に(笑)認めなかった結果……だったりすると面白い(いやコワイかも)なーと思ったり(しみじみ)
 
そう考えていくと、「移民篇」はショーさんにとって決して「完結篇」ではなかった……けれど、このエピソードの次に「天使篇」があることを考えると、やはり「未来」を描いた作品として無視できない点があるのではないかと思う。
特に、本当に未完に終わった天使篇と比べたとき、一応仮にも(笑)収まりがついている、というところでも面白い素材なのだった。
 
「天使篇」といい、「神々との闘い」といい、何か未知のモノが地球に「到来」「降臨」するというイメージが主にあった。が、完結篇には、もうひとつ、「脱出」の要素があったのだ。
それを体現した作品として「移民篇」を位置づけることができるのではないかと思う。
 
 
4 未来を創るモノ
 
001が人類の「未来」そのものであったとすると、サイボーグたちとギルモアの役割もそれぞれ位置づけることができる。
 
009と003以外のサイボーグたちは、001の最終的な作戦が発動する前に斃れた。
彼らが果たした役割は、身も蓋もない言い方だが「時間稼ぎ」だったように思える。
もちろん、それはとてつもなく大変な時間稼ぎであり、彼らにしかできないことであったし、その時間を001はこれ以上ないほど有効に活用した。
 
ギルモアは、文字通り「踏み台」となった。
その行為は一見すると「裏切り」であり、だからこそサイボーグたちとの深い信頼関係に裏打ちされたものであった。
ギルモアは、こうして自ら「悪」に身を落とすことによってサイボーグたちへの贖罪を行った……のかもしれない。
 
そして、001は悪の精神体になりすました自分と善の精神体としての009と003の「どちらか」とが敵に入り込み、その内部でぶつかり合うことによって、敵を倒すのだという。
 
この話はさすがにちょっと説明不足だと思うのだった。
まず、009と003は人間であるにも関わらず、あくまで善の精神体として扱われている。もっとも、彼らの意志の強さが、闇の子をコントロールし続けるだろう、というぐらいの計算はできているのだろうけれど。
 
一方、001は悪の精神体を装うことができるらしい。
装う、といっても、実際に善とぶつかり、エネルギーを生じさせるのだから、ただのモノマネではないはずだ。
完結篇では特に、もぉ001が何をやっても驚きません!という気分になってしまうので、特にツッコむ気にはならないのだけど、さすがにやることがスゴすぎる、と思うのだった。
 
また、ここで面白いのは、001が特に009を指名するのではなく009と003の「どちらか」が協力すればいい、と言っていることだ。
彼のイメージとして、彼の協力者となる精神体は009でも003でも同じだ、ということらしい。
結局003は「私も行く」と言ったわけだが、そのときも001は人数が多い方が威力が強まる、と指摘しただけで、009と003の間に何か違いがあるとは思っていないようなのだった。
 
にもかかわらず、001が009だけに闘うか死ぬかの選択をさせるのは、単純に、彼がリーダーであるからだろう。
もっとも、001は009が「イヤだ」と言ったらどうするか、ということについては何も考えていなかったように見える(笑)のだけど。
 
なぜ001が悪を装うのか、というと、009または003にはソレができないから、だろう。
彼らは、光の子が肉体という器に宿っている「人間」にすぎない。
つまり、001は009と003より……ということは、光の子より……一歩進んだ存在なのだった。
そして、彼は「ひとり」だ。
 
思えば、001はいつもひとりだった。
原作も含め、「009」の歴史において彼が親を恋しがるような言動をとったのは、唯一、新ゼロだけだったし、それも001の特性というよりはストーリー展開上の仕掛けにすぎなかったように思う。
 
001はぽつん、と虚空に浮かぶミュータントだった。
彼だけが、ギルモアの手によらず「改造」された。
もちろん、実際には「サイボーグ」でもない。
にも関わらず、彼は「人間ならざるもの」として、サイボーグたちと「仲間」たりえたのだ。
 
完結篇で、001はその仲間たちを少しずつ自分の側に引き上げていった。
仲間達は次々に進化し……しかし、間に合わなかった。
そして、最後に009と003が残った。
 
009はテレポーテーションによって空間を超え、003は予知能力により時間を超える。
001が進化の最終形だとしたら、二人はあと一歩でそこに到達できる状態の「人間」だったのではないかと思う。
そうだとしたら、最後の特攻は、やはり二人でなければいけなかったように思う。
 
001は、009か003のどちらかを、最後に自分の力で自分と同等のモノに引き上げ、それと対になろうとしていたのだと思うが、無理だったのではないか。
やはり、どちらかではなく、二人でなければならなかったのではないか。
 
どうして、と問われると明確には答えられないのだが、どんな人間も必ず二人の人間によって産まれるものだから……と言うしかない。
 
001が、悪の精神体として、自分と同等の善の精神体を求めたのなら、それは009にも003にもつとまらなかったように思う。
009と003が何かを「産み」、次の瞬間、ソレが001と対となる善の精神体となったのではないか。
そんな気がするのだった。
 
完結篇は、考えてみると、001の闘いだとも言えるのだった。
彼が目ざめ、探り、導き、闘い、勝利したことで人類の未来は開けた。
が、もしそれが本当の未来なら、001が正確に予測できるものではなかったはずだ。
彼には、ついに予知能力が宿らなかった。
 
001はもちろん、最後の特攻が成功すると信じてはいただろうが、予知していたわけではない。
そして私は、彼はひとつだけ、間違っていたのではないかと思うのだった。
それが、009と003のどちらか一人だけでいい、という判断だ。
 
こうすれば、こうなる。
001は常にそれを適確に探り当て、サイボーグたちの参謀をつとめてきた。
が、この最後の闘いだけは、それでは終わらなかった。
説明不能な何かが、001の予測を裏切る何かが必要だったのではないか。
 
それが、009と003だと思うのだった。
001は、そのとき何が起きるのか予測できなかったし、何が起きたのか知覚もしなかったはずだ。
二人の両親から一人の自分が創られた瞬間を知る子どもが誰一人としていないように。
 
そのようにして、001は本当の未来となった。
そして同時に、彼の「両親」もまた誕生したのだった。
 
更新日時:
2012.11.17 Sat.
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Last updated: 2015/11/23