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記念品など

完結篇を読む 1
 
1 作者・石ノ森章太郎
 
「サイボーグ009」は石ノ森章太郎の「未完の大作」と言われる。
一方で、石ノ森章太郎のもう一つの代表作「仮面ライダー」には、一応の「最終回」がある。
 
「仮面ライダー」の場合、石ノ森さんは早々に「作者」から「原作者」へとシフトした。今もテレビで続く「仮面ライダー」はその系統である。
 
それとは別に、石ノ森さんが「作者」として終わらせた「仮面ライダー」は、1980年代末に発表された「仮面ライダーBlack」だろう。
で、その最終回がどういうものかというと。
 
…………。
 
「キカイダー」の最終回にも似ているのだけど、もっと救いがない。
バッドエンドである、とかいうレベルの話ではなく、なんともいえない心細さと寂寥感が残るのだった。
 
島村ジョーもこうなるのだろうか。
「仮面ライダーBlack」の最終回を読んだとき、ちらっと思った……ような気がする。
だったら、完結篇はなくてもいい、とも思った。
 
今もテレビで続く「仮面ライダー」の数々は、石ノ森章太郎が作ったものではない。
しかし、その活躍を楽しむ私の頭のどこかにはいつも、あの海上に佇み絶叫する南光太郎がいる。その姿はどうしようもなく悲しく、苦しい。
が、あの南光太郎が「いる」……今もたしかに「いる」からこそ、私は、変貌し続ける「仮面ライダー」の数々を、どんなに変貌しようと、石ノ森章太郎原作の「仮面ライダー」である、と感じることができるのかもしれない。
 
商業誌に載せて書く以上、いや、作品として世に送り出す以上、多くの人に読んでもらいたい、愛される作品であってほしいと、作者が願わないはずがない。
が、「仮面ライダーBlack」を作った石ノ森さんの願いは、それだけではなかったように思う。そして、その願いは、「サイボーグ009」の「完結篇」にもつながるのではないだろうか。
 
書かなければならないから、書く。
それができるのは、「作者」だけだから、書く。
 
それは、ひとつの使命……というか、宿命のようなもので。
そして、石ノ森章太郎は、どんなときも、最後まで、痛々しいほど誠実な作者であり続けた。それこそが、石ノ森章太郎らしさであるのだと思う。
 
 
今、「サイボーグ009」の「完結篇」を書いているのは小野寺丈さん……だが、小野寺さんは漫画家でもなければ、作家でもない。
もちろん、劇作家としての実績があり、「物書き」のプロではあるから、小説が書けないということはないだろうし、実際、書くことができている。
が、「小説が書ける」ということは「サイボーグ009」の完結篇を書くために必要な条件ではあるものの、作者の「資格」ではない。
 
おそらく小野寺さんは、石ノ森章太郎と自分の名が並べられ、共に「原作者」とされることを、個人として、石ノ森章太郎の息子として、相当辛く感じるのではないかと思う。
「完結篇1」の後書きに「原作者・石ノ森章太郎、著者・小野寺丈」を強調しているのは印象的だ。
 
が、それでも小野寺さんはやはり「原作者」でなければならず、「石ノ森章太郎」でなければならない。
そうでなければ「完結篇」は書けないし、「石ノ森章太郎」となることができ、なおかつ出版できるレベルの小説を書くスキルのある人間というのは、小野寺さんしかいないのだ。
 
石ノ森章太郎がいない今、個人としての彼に一番近い人間が「石ノ森章太郎」となって完結篇を書いている。それが「サイボーグ009 完結篇」だ。
言うまでもなく、本来ならそのようなことは不可能……というか、ほとんど荒唐無稽であり、茶番と言ってもよいだろう。
 
が、「サイボーグ009 完結篇」では、可能かもしれないのだった。
というのは、生前の石ノ森章太郎自身が「作者」ではなく「著者」となろうとしており、そう仕組まれた世界こそが、「サイボーグ009 完結篇」の世界だからだ。
 
だから、完結篇小説は「石ノ森章太郎」を追う。
島村ジョーを追うのと同じ重さで追う。
 
「作者・石ノ森章太郎」が、亡くなった個人としての石ノ森章太郎から、少しずつ離れ、「作者」として自立していく。
その過程が、もうひとつの「サイボーグ009 完結篇」なのだった。
 
思えば、「石森章太郎」が「石ノ森章太郎」となったときに、その片鱗は既に見えていたのかもしれない。
当時、どうしてこんな改名をするのか、どうしても理解できなかった……のだけれど。
 
小野寺章太郎にとって「石森章太郎」はただのペンネーム……「名前」ではなくなっていたのかもしれない。
たとえば、市川海老蔵が市川團十郎となるように、石森章太郎は石ノ森章太郎になったのではないかと思うのだった。
 
もしそうなら、小野寺章太郎=石ノ森章太郎ではない。
そして、小野寺章太郎が「初代石ノ森章太郎」であり、小野寺丈は「二代目石ノ森章太郎」であるなら、「石ノ森章太郎」が消えることはない。
 
が、マンガも小説も、あくまで「個」が作るものであり、「個」に根ざしたものだ。
その観念は相当堅固で、崩すのは難しい。
 
だから、完結篇にはひとりの人間としての「石ノ森章太郎」が登場する。
それが、「ショーさん」である。
 
 
2 「現在のアンタじゃなきゃダメなんじゃ!」
 
 
「サイボーグ009 完結篇2」のエピローグで、「私」石ノ森章太郎は、死後、友人・知人に出すための手紙を書く。その最後に記された名前は「石森章太郎」なのだった。
更に、書き上げた「私」はこう思う。
 
「石ノ森らしい死に方だ」と思ってもらうための、私なりの最後の演出だ。
 
単なる誤植だったりするのかも(汗)という迷いもあるし、もともと「石森」も「石ノ森」も読み方は「イシノモリ」だということらしいので、その書き分けの違いにこだわる必要はないのかもしれない。
また、もしかするとこの部分は実際に石ノ森さんが遺した文面そのままを引用したものだったりして、で、そこに「石森」と書いてあったから、そのまま書き写すしかなかった、ということなのかもしれない。
 
そういう方向で、石ノ森章太郎の名前にこだわるなら、作中でギルモアが彼を呼ぶ呼び名は「ショーさん」なのだった。
愛称(?)だから、姓より名を選んだ、ということなのかもしれないが、アニメの「完結篇序章」では、ギルモアは「イシノモリさん!」と彼を呼んでいる。
 
「石ノ森」でも「石森」でも「小野寺」でも、「ショーさん」に変わりは無い。だから「ショーさん」なのかもしれない、と思う。
「ショーさん」は、滅びゆく肉体である。定められた時間しかもたない存在でもある。
その「ショーさん」に、ギルモアはすがりつく。
 
「ダメなんじゃ!ダメなんじゃよ、ショーさん!現在のアンタじゃなきゃ、ダメなんじゃ!頼む、何でもいい!神々と闘う戦略を、思いついたことを言ってくれ!なあ、頼む!教えてくれ!」
 
「ショーさん」が悟っているように、おそらく、ギルモアのいる世界に石ノ森章太郎の「サイボーグ009 完結篇」は存在しない。石ノ森章太郎も、もちろん既に亡い。
 
ギルモアの言葉の不思議さは、「ショーさん」の死をはじめとする、あらゆる過去については動かせないモノとしているのに、「完結篇」だけが例外であるかのように言っていることだ。
そして、ギルモアの後ろには001がいる。
 
ギルモアが「ショーさん」を訪れた目的は、その当初からはっきりしている。
彼は「ショーさん」から、神々との闘いについてのヒントを得ようとしていた。
これは、考えるまでもなく、タイム・パラドックスに巻き込まれる展開……だし、「ショーさん」がそれに気付かないはずもないだろう。
が、「ショーさん」はそうした疑問をめぐらすことなく、原稿に向かう。
 
何処まで出来るかわからないが、遣れるだけはやろう。
 
完結篇2のエピローグで、「ショーさん」はそう決意する。
それは、奇跡を起こすということでもある。
 
「ショーさん」の「死」の宿命は変えられない。
が、「ショーさん」はギルモアや009たちの宿命を変えることができる……それ「だけ」なら、できるということらしい。
もっとも、それだけ、といっても、彼らの関わるモノがあまりにも大きいため、それは結局、人類の未来、みたいなモノになってしまうのだけど。
「ショーさん」にソレができるのは、もちろん、彼が「作者」だからだ。
 
それでも、おかしなリクツではある。
もともと「サイボーグ009」は、未来の001から送られたテレパシーを「ショーさん」が受けて書いたものだというのだから、順序は001らの方が先でなければいけない。
それが、逆転する、というのだろうか。
するのかどうかはわからないが、ギルモアも001もそれを願い、信じ、「ショーさん」にすがる。
 
彼らが求めるのは、「ショーさん」の「現在」だ。
「未来」は変えられない。「ショーさん」は定められた時がくれば、この世を去る。
 
完結篇1・2で、「プロローグ」のギルモアは、それぞれの巻で展開するストーリーをあらかじめ経験しているようである。そして、それらと「ショーさん」の執筆とは、ほぼ同時に展開しているようにも見える。
「エピローグ」でギルモアは次巻で起きる事態を仄めかし、「ショーさん」にその先に早く進んでくれと懇願する。
ということは、完結篇2のギルモアの満身創痍の状態から、完結篇3の闘いがかなり望みのない苦しいモノであることもわかる……のだが、それはそれとして。
 
「ショーさん」に求められているのは、時間を飛び越えることだ。
彼の「未来」はあまりにも短い。
が、「現在」はまさにここに存在している。
すべては「現在」の中にあるのだ。
 
そう考えてみると、009の能力「加速装置」も「現在」のものだ。
009は加速装置を用いて「現在」を引き延ばし、より濃厚なものとする。
「ショーさん」の闘いもそれに似ている……が、違う。
彼は、「現在」を引き延ばすのではなく、超えようとしているのだと思う。
もしかしたら、「完結篇」の009もそうなのかもしれない。
 
「加速装置」は現在を引き延ばすが、飛び越えることはない。
が、「ショーさん」が「現在」を飛び越えるとき、009もそれを為すような気がする。
「奇跡」とはそういうものなのかもしれない。
だから、「ショーさん」は思う。
 
要は、私が書き切ることで、人類を救う。
 
たぶん、その通りなのだ。
それは奇跡だ。
 
そして、それこそが「完結篇」の完結なのだろう……と思うのだった。
 
更新日時:
2012.10.03 Wed.
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Last updated: 2015/11/23