完結篇マンガを最後まで読んだのだった(しみじみ)
もちろん、既にwebで読んではいたのだけど(しみじみじみ)
いろんなページを開いて、じーっと眺めていると、やっぱり、コレを石ノ森章太郎が描けなかった、ということが悲しいのだった。
ストーリーがどうとか、絵がどうとか、完結篇については否定的な感想が目につきやすいけれど、たしかにそれはそうに違いない。
ただ、だから作品としてどうだ、ということではないのだよなーとまたしみじみ思う。
劣っているとか優れているとか、面白いとかつまらないとか、そういうことではないのだった。
完結篇がマンガになって、一番に感じてしまうのは、石ノ森章太郎が確実にこの世にいないということと、かつては確実にいたのだ、ということ。
この物語を、石ノ森章太郎が描いたらどうだったのだろう、と思うと、それを見ることができない悲しみがしみじみとわいてきて、それがこの作品から受ける印象のほとんど全てなのだった。
そう言ってしまうとなんだかあんまりなのだが、かなり切実な印象で、なおかつ、この作品がなければ感じ得ない印象であることは間違いない。
で、もしかしたら、その感覚は読者である私だけのものではなく、作り手の側も全く同じなのかもしれないのだった。
ただ。
一方で、思う。
これを、石ノ森章太郎が描くことができてさえいれば、悲しくはなかったのだろうか……と。
どうも、それはそれで……というか、その方がはるかに、作品から受ける悲しみは深かったように思う。
特に、最終巻で傷つき、傷つきながらも何度も立ち上がり、戦い続ける主人公たちの姿は、たしかに「サイボーグ009」そのものであって、これを石ノ森章太郎が描いていたら、なんというか、洒落にならない悲劇、苦しみが洒落にならない美しさで表現されてしまったように思うのだった。
それを思うと、見たかったという思いより、見ないでよかったのだという思いの方が強い。
もちろん、石ノ森章太郎なら他の表現をしたかもしれないし、ストーリーも異なっていたのかもしれない。もっと美しいモノだったかもしれない。
でも、それがどんなモノであろうと、確信できるのは、それが今ココにある「完結篇」よりもはるかに美しく、ずっと辛く、もっと鋭い耐えがたい痛みをもたらすモノだっただろう、ということ。
そんなモノは描かれなかった。
石ノ森章太郎が持っていってしまった、ということなのかもしれない。
持っていってもらってよかったのだとも思うし、石ノ森章太郎が全てを持って行けるモノなのだったら、それは私たち一人一人の中にも形を変えて「ある」モノなのかもしれない、とも思う。
これで「サイボーグ009」は終わったのだ……という実感はない。
もともと、この作品に「終わり」はない。
いつか本当に「完結」するのは「サイボーグ009」ではなく、私なのだった。
石ノ森章太郎がそうであったように。
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