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「相剋」論5 (3)
第二部  タイラント
 
序章 三人の馬鹿
 
「相剋」公開九周年記念チャットに参加した私たちは、そこで語り合ううちに、あるひとつの事実に気づいた。
そして、大いに驚きながらも、その圧倒的な説得力に納得せざるを得なかったのだった。
その事実とは。
 
タイラントってやっぱり馬鹿だなあ…
それを言うなら、ジョーだって馬鹿ですよねえ…
…ってか、クワイトも馬鹿じゃないですかっ!
 
…………。
 
そうなのだった。
この三人は、どーしよーもなく馬鹿、なのだった!
 
馬鹿、というのはこの場合「考えない人たち」というような意味になると思う。
タイラントは考えない。
ジョーも考えない。
実はクワイトだって、なーーんにも考えちゃいない!
 
およそ思考、ということをまったくしないこの3人が、傍若無人なエネルギーを奮って動かし続けた物語…「相剋」はそのように読むこともできてしまう。
 
では、思考しないこの3人は、何をよりどころにして、その傍若無人なエネルギーを放出し続けるのか、というと。
これはかなりはっきり対照的なのだった。
 
ジョーは「意志」をよりどころとして動く。
クワイトは「感情」を求めて動く。
そして、タイラントは。
 
タイラントは、難しい。
生きるために生きようとして、だから動く……ようにしか見えないのだった。
ってことは、「意志」「感情」と並べると、生きたい、生きようという衝動…つまり、「本能」…ってこと?
 
…というのが、結論だった。
意志と、感情と、本能。
そして、そのどれも思考を必要としない。
 
……うわー。(汗)
 
と、びびりつつ、改めて「相剋」を組み直してみると、初めてタイラントの居場所がはっきりするような気がするのだった。
 
 
第一章 地下からの脱出
 
第1節 死ぬまで生きる理由
 
クワイトは、結局何のためにNBGを支配し、人々を苦しめ、ジョーを苛んだのかというと、それは最後にジョーが暴いたとおり、他者の「感情」の動きを楽しむため…ただ、それだけだった。だから、その楽しみがなぜか楽しいと思えなくなったとき、彼は生きること自体への興味を失っていった。
 
クワイトは「死」をもうひとつ理解していない、と思う。
そのことについて、私は、「相剋」「研究文書」に置かれている
『キャラクター・プロファイリング「あのヒトはこんなヒト」』を書かれたswordmaster様の指摘を記憶している。
 
クワイトは死を畏れていない、というか理解していない。その証拠が、決戦のとき彼が地下室までの経路に一切警備をおいておかなかったことだ…というのだった。
 
なるほど!と思った。
クワイトには「死にたくない」という気持ちがない。
気持ちがない、というより、「死」をイメージできないのだった。もちろん、死がわからないのだから、殺意だってない。
あれだけ人を死なせておいてー、ということはもちろんできるのだけれど、彼に「殺意」はなかった。彼の認識における死とは、遊んでいるうちにオモチャが動かなくなってしまった、ということにすぎないのだ。
それも、swordmaster様の指摘だった。
 
swordmaster様の指摘をふまえた上で「相剋」を読み直してみると、クワイトが「死」を理解していない・畏れない・求めない人間だ…という証拠はまだある。彼自身の死の在り方と、ジョーが生き残った…ということもそれにあたるだろう。
クワイトは、ジョーを「殺す」ことは最後まで考えなかった。いらないから捨ててこい、とウィッチに命令したのだ。
 
死を理解しないということは、生を理解しない、ということでもある。
したがってクワイトは「残忍」な行為を繰り返すのだ、ともいえる。
利己主義または利他主義は私たちが普段考えるような素直な形で善悪に結びつきはしない。
クワイトは、確かに「悪」であるが、利己主義者ではない。むしろ、自分というものを徹底的に顧みない、という点ではジョーを陵駕しているといてもよい。
命の極みに至ったとき、クワイトはウィッチの治療を受けなかった。それは自分が生きることよりも、ジョーの修理を優先したからに他ならない。彼にとっては、自分自身よりもジョーが動き続けることのほうが大切だったのだ。
 
ジョーもまた、死を恐れない。
自分自身よりも大切だと思うものを持ち、そのために戦っている。
その原動力となっているのが、そうしなければならない、そうするのだという「意志」だ。
そして、なぜそうしなければならないのか、ということについて彼は考えない。
 
クワイトが他者の感情に固執する理由ももうひとつわからない。少なくとも、彼はそれについて考えていない。
ただ、クワイトを見ていて気づくのは、彼自身には「感情」がない、ということなのだった。
彼に喜怒哀楽はどーも、ない。
確実にあるのは快・不快だが、それは感情とはちょっと違うような気がする。
クワイトがみせた感情らしいモノ…は、地下でジョーと対峙したときに感じた「恐怖」のみだったのではないかと思う。彼自身はそれと自覚していなかったのかもしれないけれど。
 
欠落しているから渇望する…ということなのかもしれない。
そう考えると、ジョーが他者のために生きようとするのも、自分の中に「あるべきもの」が欠落しているから、なのかもしれないのだった。
「相剋」の最後で、自分のための望みは何もないのか、とウィッチに問い詰められたジョーはこう答える。
 
「そう…だね……。僕には帰る場所だってあるし、待っててくれる人もいる。守りたいモノを守る為の力だってある。一緒に戦ってくれる仲間だって……。だから、あとは僕次第なんだ。僕が、この力をどう使うか。あとはもう、それだけなんだ。だから……」
これ以上、何も望むものなんて無い。欲しい物は全部持ってるから。
「……望みじゃなくって、願いなら…あるよ」
そう言って、009は笑う。
「世界が平和になって、皆が幸せになる事……。でもこれは、叶えてもらう事じゃないだろ?」
たとえ、本物の魔法使いが、どんな望みだって叶えてくれると言ったとしても。
これは願いであって、祈りであって、叶えて貰うものでは無い。世界中の総ての人に、そう願って欲しい。けれど、それを強制する事はできない。
「総ての人がそう想う日が来たら、その日が、Black Ghost の滅びる日だよ。そんな日は来ない…ってそう言うだろうけど……僕だって、そうかもしれないって思うけど……でも、僕はやっぱり、そう願うよ。願わずにはいられない。そして、その日が来るまで……」
闘う。(Act.10 夜明け)
 
ジョーは「望み」ではなくて、「願い」ならある、という。
自分の力をそのために行使することはできないから、だから「望み」とはいえない。しかし、「願わずにはいられない」し、そのために「闘う」…のなら、そのために「生きる」のだということでもあるだろう。
ジョーの考える「望み」とは、自分がどうにかすれば手に入れられるモノ、なのだろう。彼に「望み」がないわけではない。が、それは自分で手に入れられるのだから、他者の力を借りる必要はなく、他者に向けて表現する必要もない。したがって、他者には彼の「望み」が見えない。
 
しかし、そのようにはできないこともある。なのに、どうしようもなく惹きつけられる…そういったものが彼の「願い」だ、といえる。
この、自分の外にあり、自分ではどうにもならないものに焦がれ続ける…というところが、感情の欠落したクワイトが他者の感情にひきつけられずにいられない…という感じに似ている。
 
クワイトもジョーも「〜せずにはいられない」から、そうするのだった。
そして、彼らをそう駆り立てるのは、あくまで他者であり、自分の外にあるもので。
なぜそんなことになるのかはわからないのだが、クワイトを見る限り、内なる「喪失」がその源にあるような気がする。
では、ジョーに欠けているモノはなんだろうか。
 
感情を持たないクワイトが他者の「感情」を求めた…のなら。
ジョーが求めているのはつまりは他者の「幸せ」だ、という気がする。
と、いうことは。
 
…え(汗)
 
と、思ってしまうのだけれど、たぶん、そうなのだ。
ジョーの内部に絶望的に欠けているモノは「幸せ」なのだと思う。
 
ジョーは、確かに強い。すさまじい意志の力で、自らを省みず、他者の幸せを求め、あらゆる敵に挑んでいく。
が、その意志のもろさを、たとえば「Act.2 陰謀渦巻く中で SIDE A 一片のキボウ」の中で、001はこう指摘している。009を効果的に拷問するのは簡単だ。仲間、例えば003を拷問して、それを見せればいいのだ…と。
 
それはそうなのだった。
そして、ここで、ひとつ確かなことは、クワイトはそうしなかった…ということだ。たぶん、そんなことは「つまらない」からだろう。
ということは、他者の苦しみを盾にされたとき、ジョーは彼らしいことを何もできなくなる、ということだ。それはつまり「意志」を失い、生きることができなくなる、ということでもあるのかもしれない。
ジョー自身にも、その自覚はあるように思う。
最後にクワイトとともに地下に入るとき、苦しむ他者を見ることには耐えられない、ということを理由に、ジョーはタイラントの同行を拒んだ。
 
もし、ジョーがそのように、他者を損なわれることによって自らを失うのだとしたら、そうした彼の「自己」とはどういうものなのだろうか。そして、彼は本当に「強い」と言えるのだろうか。「相剋」はその問題をも、ジョーにつきつけたのだと思う。
 
「つまらない」と感じてから、クワイトは生きる意味を失った。
が、彼は死を知らない。だから、「殺せ」とジョーに命じた。
二人の対立の軸は、最終的に「クワイトを殺すか殺さないか」となった。
 
ジョーはクワイトを殺さない。クワイトもまた他者であるのだから、ジョーにとっては護るべき対象となる。そして、ウィッチもクワイトに何もしてやれない。
クワイトが生きるには、クワイト自身が自分のために「生きたい」と考えなければならなかったのだ。が、クワイトはそうしなかった。そうできなかった。そして、彼は死んだ。
死んだ…というよりも、壊れるまで生き続けた、ということなのかもしれない。
 
クワイトの死は、ジョーの死の在り方をも示唆しているように思える。
自らのために生きることを知らない者に「ただ生きる」ことはできない。そして、その姿は、仲間を裏切った自分を罰するため、狂うことも死ぬことも自らに許さなかった、あのジョーの姿に重なる。
ジョーは、「苦しむために生きる」ことを自分に課していたように見える。が、もしかしたら、彼は「死ぬ」ということがわからなかったのかもしれない…とも思うのだった。生きることがわからなくなった者に、死がわかるとも思えないからだ。彼は実質的には、クワイトの最期がそうであったように、ただ死ぬまで生き続けていただけだ…とも言えるのではないか。
そして、そんな彼を誰よりも悲痛な思いで、そして誰とも違う観点から見つめていたのが、タイラントだった。
 
「……ジョー……」
何もしてやれない。何一つとして、してやれる事が無い。
(……いや……)
一つだけ、ある。
その考えに、タイラントは唇を噛んだ。
(ある…たった一つだけ……俺にしてやれる事が……)
それは。
(……殺…す……)
この手で、009を殺す。そうして、苦痛と恐怖に狂い死ぬ運命から救う。
自分になら、できる。無抵抗の009を殺すなぞ、簡単な事だ。
格闘戦用サイボーグである自分のパワーをもってすれば。
一撃。
それで、決着がつく。
だが。
(……いいのか…? …それで…いいのか……?)
死。それは不可逆の過程だ。死ねば、総てが終わる。その先は、無い。タイラントは神を信じない。そして、神が居ないのであれば、天国も地獄も無い。死の先は無だ。
それでいいのか?
死ねば、これ以上苦しむ事は無い。死ねば、二度と救われる事も無い。
勿論、この状況から009が救われる可能性が、奇跡を求めるのに等しいことくらい、タイラントにも判っていた。
それでも。
(生きていれば…可能性は……0ではない……。たとえ限りなく0に近くても……)
死ねば、それは0になる。
それでいいのか? こんな死に方をする為に、009はここまで生きてきたのか? そう思う。
(そうだ……死ぬ機会は…いくらでもあったんだ……)
クワイトに屈し、その副官として迎えられて以来、009は銃を持つことを許されてきた。自殺しようとすれば、いつでもできたのだ。
しかし。
(…ジョーは…死を選ばなかった……)
ただひたすら耐え続けた。死ねば、総ての苦痛から逃れられる事が判っていて。心の中では、密かにそれを望んでいただろうにもかかわらず。
(……その結果、ここで……こんな所で、俺に殺される…ってのか?)
そんな事があっていい訳がない。そんな事は、この自分が許さない。
(そんな…事が……許される訳ないだろうっ?)
だが、どうすれば009を助けられるのか。タイラントには判らなかった。(Act.7 闇を歩く)
 
タイラントはジョーを殺せない。それは許されない、と思う。そして、その考え方は、ジョーが自らに死を許さない発想と、似ているようで違う。
まず、タイラントは「死」から考えていく。タイラントにとって、死は「無」である。もちろん、誰にとっても死とはそういうものなのだが、そこから考え始める、というのが彼らしいと思う。
そして、そんなタイラントが「生」を思うもっとも強い動機は「生きていれば、可能性は0ではない」なのだ。このことを、私は「相剋」を読んだ当時は見逃していた…と思う。現在連載中の「暁月」を読んで思い出したのだった。
 
生きていれば、可能性は0ではない。だから、生きる。
この考え方は、タイラントを育てた「隊長」のものだったのだ、と「暁月」を見るとわかる。
それはジョーが生きる理由と似ているけれどもちょっと違うのだった。
 
彼らの発想の根底には「死」がある。
「死」に可能性はない。苦しみもなければ救いもない。
生きていれば可能性が0ではない、というのはそれを根拠とした発想なのだ。だから、強い。
仮に、どう見ても可能性は0だ、と思われる絶望的な状況であっても、生きていれば少なくとも死んではない。ということは可能性0、という状態ではない、ということなのだ。それだけは確かだ。そして、それこそがタイラントが生きる理由になるのだった。
 
ジョーが自殺しなかったのは、可能性を信じていたからだろうか…と思うと、微妙に違う、と思う。少なくとも、クワイトの副官になってからの彼はそうではなかった。タイラントに、ジョーのその気持ちは理解できない。が、「死なない」という結論は彼と一致していた。
 
結局ジョーを「助けた」のはまずライたち、そして最終的にはゼロゼロナンバーたちだった…ということになる。しかし、その前段階として、タイラントが「死ねば可能性は0になる、だから死んではならない」と思ったからこそ、ジョーは「可能性」へ…光へ向かう一歩を踏み出せたのかもしれないのだった。
 
 
第2節 母性の限界
 
「相剋」において、双生児のようによく似ているジョーとクワイトの運命を分けたのは「仲間」の存在だった…と、私は考える。そして、その象徴となるのがフランソワーズだ。
 
更に、フランソワーズと対峙する者としてウィッチを挙げることもできる。彼女もまた、フランソワーズがジョーに寄り添うようにクワイトに寄り添うことを選んだ女性だった。
二人の女性の違いについては、これまでに大体考えた…と思う。違うのは彼女たちではなく、むしろ男たちのほうだった、ということで。
まず、問答無用で「殺された」ところからスタートせざるを得なかったクワイトに対し、ジョーは「死なない」ために闘っている状態だった。だから、彼らに対する女性たちの在り方も、それに伴って変わってくる。
 
ジョーとクワイトの最後の決戦のとき、ウィッチはクワイトの傍らに在り、地下に残った。彼女の使命は「死んだ」クワイトが「壊れる」のを見届けることだけだったから。
フランソワーズはジョーと別れ、地上に戻った。そこは彼が「生きる」場であり、彼女の使命は彼が生へと向かうための灯りであることだったから。
 
009は入り口の所まで進むと、全員を見回して、微かに笑ってみせた。
「大丈夫。僕は、勝つ。また会おう……」
最後に003を見、頷く。
「必ず、帰る。待ってて……」
そう言って、009は扉に手をかけた。重い鉄の扉を、ゆっくりと閉める。
徐々に徐々に、『この世界』と『向こうの世界』を繋ぐ扉が閉ざされていく。
ついに。扉が完全に閉じ……。
陽光の射す世界から、完全に切り離される。
(大丈夫だ……)
光なら、ある。
自分の中に。
(僕は…一人じゃない……)(Act.9 決着)
 
ジョーはフランソワーズに「待ってて……」と言う。言う、というよりも頼む、と考えた方がよいかもしれない。
直前の仲間達への言葉とほぼ同じことを繰り返しているのだけど、その意味はかなり異なっている。
 
「大丈夫」とは「心配しなくていい、信じてほしい」ということ。
「僕は、勝つ」は意志の表明。誓い、と言ってもよい。
そして「また会おう」とは対等な立場にある者同士の約束である。
どこで会うのか、ジョーは明言しない。彼らは「仲間」なのだから、彼らの意志が導く場所で必ず会えるだろう。
 
これに対し、「必ず、帰る。待ってて……」では、まず始めにジョーが「帰る」という言葉を選んでいることに注目すべきなのだった。
彼は、彼女の在る場所こそが自分の在るべき場所でもある、ということを確認しつつ「帰る」と誓う。ただ生き延び、その結果再び「会おう」と言っているのではない。
 
そして「待ってて…」と言う。コドモが母親に頼むような言葉遣いだと思う。
フランソワーズがジョーを待つかどうか、ということは彼女の意志にゆだねられており、そこにジョー自身が影響を与えることはできないようなのだった。だから彼は「待ってて……」と頼む。それは「願い」だ、とも言えるかもしれない。
しかし、彼女が必ずそうするだろう、ということも彼は知っている、彼女の中にそれを確かめ、頷いてから、彼は「待ってて……」と口にする。
 
フランソワーズが無条件で自分の願いをかなえるだろうことを、ジョーは知っている。
だからこそ、「必ず帰る」という誓いを、彼もまた無条件で果たさなければならない。
自分のために「ただ生きる」ことができない彼にとっては、闇の中でそれが最後の命綱となるはずなのだった。
 
そのように考えると、フランソワーズこそがジョーを救い、彼の生を支える存在だ、といえそうな気もする。が、おそらくそれでは十分ではない。
ウィッチが寄り添っていたにもかかわらず、クワイトは死んだ…のがその証拠になると思う。
もちろん、そこには運命の不可抗力があったのだが、つまり、運命の不可抗力が働いた場合、魔女だろうが聖女だろうが、恋人を助けることなどできないのだった。
 
かつてクワイトは天使のようだった…とウィッチは述懐する。
しかし、彼はそのまま天使でいることができなかったし、ウィッチが彼を天使に戻すこともできなかった。
ウィッチにできたことは、殺された彼に、これもまた無条件で寄り添うことのみ。
そして、彼女自身がそれを自覚したことはなかったのかもしれないが、そうなった彼女の本当になすべきことは、「死んだ」彼を自らの手で「壊す」ことだったのだ。
 
はからずも、ウィッチはそのようにした。
彼に寄り添い、彼を無条件で愛し続けた結果として、彼女の道はそれしかなかった。
クワイトを殺したのは私だ、と言うウィッチに誰も反論しない。しようと思えばできるのだが、しない。それはただ事実であり、反論しても意味がないからだ。
フランソワーズはその使命をあらかじめ意識し、ジョーにそう誓ってもいる。
あなたが狂ってしまったら、私があなたを倒す…と。
 
自らのために生きるということを知らず、死をも知らない無垢な利他主義の恋人たちを、己のための生に導き、己のための死を賜う。
二人の女性が担う役割はそれであり、それが彼女たちを聖女にも魔女にもしたてあげている。
 
もちろん、実際にクワイトを死へと苛んだのはジョーだったし、「実験室」の架空の設定で狂ったジョーを「壊した」のはタイラントだった。が、ウィッチとフランソワーズはそれをつぶさに「見届け」たのだった。それがつまり彼女たちが彼らに「死を賜う」ということにあたるのだと思う。
 
恋人を生に導き、死を賜う。その役割を彼女たちは果たす。
が、それは実質的には「そのように在りつづける」ということなのであって、ジョーやクワイトが直面する実際の問題に助力を与え、彼らに事態を打開する力を与えることは、彼女たちにはほとんどできない。
 
ジョーは、ウィッチがフランソワーズと「同じ」種類の女性である、ということをおそらく本能で察知しているのではないかと思う。
「極北の地にて」で、ウィッチに迷惑をかけ続けるジョーを、フランソワーズは「ウィッチに甘えている」のだと考える。たしかに、そのとおりに違いない。
また、「相剋」の終わりで、ジョーがウィッチに「ライを許してやってほしい」と「頼む」シーンがあるが、それも考えようによっては「甘え」になるのかもしれない。
 
ジョーはウィッチに…ということは、当然フランソワーズにも…「甘える」。
甘える、というのは、他者に不利益を強いていることを承知した上で、それを続ける、ということであり、利他主義と完全に矛盾する。だからこそそれはごく例外的な行為としての「甘え」であり、彼女たちだけが開けることのできる、風穴のようなものなのだろう。
「甘え」が必要になるときは、もちろんそれだけの理由がある。どうにも出口のない、しかし当座は越えなければならない問題を、彼は彼女たちに「甘え」ることによって切り抜けるのかもしれない。
しかし、もちろん「甘え」で全ての問題の本質が解決できるはずもない。
 
物語に書かれていない、「相剋」から「極北の地にて」までの四年間、ジョーはフランソワーズと同じ場所に暮らしていたらしい。
その間、彼はやはり悪夢に苛まれ続けていた。フランソワーズがそれを知らないはずはないし、それに心を痛めていないはずもない。どうにかしたい、と思わないはずもない。
にもかかわらず、ジョーはその状態を「解決」し、先に進むためにタイラントに会わなければならなかった。会わなければならなかった…のは、フランソワーズでは彼の問題を解決できないからに他ならない。
 
おそらく、四年間の間、ジョーはフランソワーズに「甘え」続けていたのだろうと思う。
彼は、問題を解決しなければならないことを知っていたし、どうすればそれができるのかも知っていた…のかもしれない。少なくとも、このままではいけない、ということはわかっていたはずだ。しかし、動かなかった。
動かない彼をフランソワーズは黙って許し、受け入れ、その傍らに居続ける。彼がどんな状態であろうとも、彼女はそうするだろう。クワイトに対して、ウィッチがそうであったように。
そのようにして、ジョーは四年間、「休暇」を生き続けることができた。が、そのこと自体は問題の解決に決してつながらないのだった。
 
「諸注意」に、「ジョーとフランソワーズの話」「ラブラブ系な話」ではない、とあるように、「相剋」において「恋(愛)の力」はさほど重視されていない。現実の問題がそれによって解決されるということがほぼあり得ないように、「相剋」でもそうはならない。
もちろん、愛が何かを救う、ということはあり得る。それは実のところ幻想なのだけれど、幻想で救われる、ということも人間には往々にしてあるし、なければならない。ただ、「相剋」はその方法をとっていない…のだった。
 
だから、クワイトは死に、壊れた。ウィッチにそれを救うことはできない。
ジョーも、そしてフランソワーズもいずれ同じ道を辿るだろう。その可能性は十分あると思う。
 
「相剋」ではそうならなかった。かろうじて、ならなかった…のだと思う。
ジョーはいってみればフランソワーズの…ということはつまり仲間たちの「無償の愛」によって、その絆を信じ抜くことによって救われた…みたいな感じなのだ。
が、もし、それが本当に断ち切られてしまったら、どうなるのか。
いや、断ち切られることなどないのだ!と言うことはできる。「相剋」はそのように問題を解決していると思う。
 
しかし、クワイトにおいてはそうでなかった。それもまた、「相剋」の示した現実なのだった。
ジョーとクワイトで何が違うのか…というと、危機が訪れたときに、それと闘う「力」があったかなかったか…ということだけのような気がするのだった。それは、端的に言えば、魂の「死」に瀕したとき、ジョーは優れた戦闘サイボーグであるがゆえに、ともあれ抵抗することができたけれど、ただの青年であったクワイトはそうではなかった…ということであって。
 
もし、二人の違いはソコにしかないのだとするのなら。
それなら、ジョーは、本当に「強い」と言えるのか。
 
言えない、と私は思う。
だから、ジョーは「相剋」の最後で「次の敵」について考える。フランソワーズの前で。
それは、彼が再び闘いに赴くことを…そしてそれに勝利し、「帰る」決意をしているということでもあると思う。
 
ジョーは自分の中にいるクワイトと闘う決意をした。それは自分自身と闘う、ということでもある。具体的には、自分の中に潜む悪や憎しみと闘う…ということのようであり、それで間違ってはいないのだけれど。
その闘いを貫くためには、おそらく彼は何らかの形で「生」または「死」を自らの力で支えなければいけないのではないか。
そして、それは、利他主義を何らかの形で越える、ということではないかと思う。
 
そのために必要なファクターは、おそらくフランソワーズではない。ということは、仲間でもない。
タイラントが、その鍵になると思うのだった。
 
 
第3節 クワイトからタイラントへ
 
クワイトはジョーを殺さず、自分も殺さなかった。
それは、彼が「死」を知らなかったからだ。
ジョーもまた、クワイトを殺さず、自分も殺さなかった。
が、その理由はクワイトとは異なっていると思う。
 
ジョーもまた「死」を恐れない。その点ではクワイトと同じだ。
が、それは彼が「死」を知らないからではなく、「死」または「生」よりも大切なものがあると信じているからだろう。
「死」とはあくまで個人的なものだ。具体的な問題として考える時の「死」は自分の死しかあり得ない。利他主義者ジョーにとって、それは大した問題ではないはずだ。
 
ジョーが自分を殺さなかったのは、この場合、自分の「死」が解決につながるとは考えなかったからだ。クワイトを殺さなかったのも、おそらくは同じ理由だろう。
が、そういう状況が存在するのかどうかはともかくとして、仮に「死」が問題の解決になるという場合なら、ジョーは自分の命を惜しみはしないだろう、と思う。
 
死を恐れないクワイトと死を恐れないジョーは闇に沈み、それぞれの存在をかけて闘った。
そこに居合わせることができたのは、既に死んだ存在であるウィッチのみ。
タイラントは「外」に出されてしまった。彼はどこまでもジョーの傍らにいたいと望んでいたのに、ジョーはそれを拒否したのだった。
 
闘いはジョーの「勝ち」だった。もともとが、生者と死者の闘いだったのだ。闘う前にジョーが予感していたとおり、クワイトはジョーの敵ではなかった。
そして、結果としてクワイトを殺し、ジョーを闇から救い出したのはウィッチとフランソワーズだった…と言ってよいかもしれない。
 
だから、タイラントの問題が残ったのだった。
瀕死のジョーを背負い、彼を死なせたくない、彼は死んではいけない、と願ったタイラントの思いは収まりどころがないまま物語が終わってしまった。
タイラントは何もしなかったわけではない。それはジョーも認めている。認めているが、結局のところ彼が何をしたのか、について「相剋」ではハッキリ語られていない。
タイラントは、自分がジョーに対して何をしたのか、何を与えたのか…を自覚しないまま、自分は彼にふさわしくないという思いを抱いたまま、物語から退場していくのだった。
 
クワイトは、まさにジョーの「影」だったろう。
文字通り、一歩間違えればジョーはクワイトになる。それはほんの一歩…なのかもしれない。
「相剋」を通じてジョーはそれに気づき、そうなってはならないのだ、と決意した。
 
しかし。
しかし、どうしたら、そうならない……でいられるのか。
 
「極北の地にて」で、ジョーがタイラントと会うことを決意したのは、タイラントを避けている自分に気づき、その本当の意味には思い至らないまでも、そのような弱さを残していてはいけない、という思いからだったのではないかと思う。
ジョーがタイラントに会わなかったのは、彼と会うことによって「悪夢」が蘇るのを恐れたからだ。闘うべきものから逃げた、といってもよい。
 
では、タイラントはジョーにとってどういう存在なのか。悪夢を想起させるキーにすぎないというのか。
違う、とジョーは思っただろう。タイラントをそうしたキーとしてではなく、1人の人間として、確かな存在として認識し直すことが、おそらく彼には必要だった。なぜ必要なのか…はわかっていなかったのかもしれないけれど。
 
タイラントに会いに行ったとき、ジョーはタイラントを「護るべき者」と認識したままだったように思う。とはいえ、フランソワーズは既に違う認識をもち、ひよこパジャマを用意していたし、その意図をジョーも理解していただろう。それでも、彼にとってタイラントは、そのままでは「仲間」となり得ない存在だった。その状態を打開するのも、ジョーの目的だっただろう。
 
ジョーとクワイトの対決において、二人のベクトルはほとんど同じ方向に向いていたと思う。だから問題はその「強弱」だった。
ジョーはクワイトに勝った…というより、クワイトよりもより強い力を示した、ということなのではないか。それはあくまで比較の結果であって、本質的な勝利ではなかった…のかもしれない。
そして、その同じベクトルの上に、ジョーはタイラントをも置いていたのだと思う。
ジョーはなぜか彼を「仲間」の「資格」のある人間だと思っていた。が、彼は「仲間」となってくれる感じではない。その気はありそうなのに、だ。
だから、タイラントに、自分はジョーの「仲間」たる「資格」があることを自覚してもらいたい…そのために自分の「強さ」に気づいてもらいたい。
そんな風にジョーは願っていたように思う。
 
ジョーは模擬戦でタイラントに圧勝していた。
それを根拠にすれば、ジョーはタイラントより強い。そのことはハッキリしている。
が、ジョーはその結果を信じてはいなかった。
どうして信じなかったのかはわからないが、ジョーはタイラントが「本気を出していない」と感じていたのだろう。
それは或る意味で正しかったが、或る意味ではまったく正しくなかった。
 
「極北の地にて」の続編でタイラントが見せたのは、「本気」ではなく「本性」だった…といってよい。
彼の力は、自分とはまったく異質のものであり、そもそも比べられるようなものではなかった。自分は、クワイトに勝つようにしてタイラントに勝つことはできない。ジョーは、そう悟ったのではないだろうか。
 
クワイトとジョーの闘いは、自分との闘いでもあった。
そこに異質な存在であるタイラントは入り込めなかった。
が、本当に自分に勝とうと思ったら、自分の力だけではどうにもならない。
異質であるからこそ、タイラントを受け入れなければならないだろう。
 
強い視線が、009の茶の瞳を射る。
「俺は、お前に付いていく。たとえ地獄の果てまでだろうと。だから……」
逃げるな。
その言葉を、タイラントは真正面から叩き付ける。
それは、どんな刃よりも冷厳で、灼熱の鎖よりなお容赦なく。
あたかも吹き荒ぶ暴風に立ち向かうかのように目を細め、そして、009は応えた。
「あぁ」
その必要は、もう、無くなった。(番外編 極北の地にて−後日談・後編−)
 
ジョーは、たしかにタイラントから逃げていた。
それは、クワイトを思い出させるからではなかったのだ。
彼は、ジョーに突きつけられる刃であり、鎖であり、暴風でもある。だから、ジョーは逃げたのだ。逃げずにいられなかった。
そのことに気づいたジョーはタイラントと正面から対峙し、もう逃げない、と言う。その必要はないから…だ。
 
タイラントは、ジョーがこれからクワイトにならずに闘うためにはどうしても必要な刃だった。決して受け入れることのできない、異質な、だからこそ必要な灼熱の鎖。
その刃を、鎖を受け入れることなく、危険をはらんだまま身にまとうためには、強固な意志と、やはり強固な信頼……友情が必要となる。それを確かめることによって、ジョーはようやく次の闘いに赴く決意をすることができたのだと思う。
 
タイラントが持つ、ジョーとは全く異質の「強さ」とは何か。
それは、おそらく「死」への思いの違いに端を発している。
 
タイラントは「死」を恐れる。
 
彼は、死なないために生きる。もちろん具体的な問題となる「死」は自分の死しかあり得ない。だから、彼は、自分が死なないために生きる。
それを第一の目的として、タイラントは生きるのだった。
 
 
更新日時:
2009.12.07 Mon.
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