なんとなく第5話
女護島の掟
ふー。いいから(涙)
3至上主義者にとっては、浜辺が終われば映画はほとんど終わったよーなものだったりする。え(汗)
そんなわけで、あとは全部オマケのよーなものなので、早送りしちゃうのだった♪おーい(涙)
そして、場面はもちろんというかなんというかファンタリオン星♪
で、ここでも、ハイドロクリスタルってどうやって採るんだろうとか、それって略奪なんじゃないかとか、ってか線が引いてあるからってイキナリ駐車するなよなしまむら(しみじみ)とか<?いろいろつっこみ所は満載なのだけど、3至上主義者にとっては、これまたかなりどうでもいいことなのでほんとか?(汗)更に場面はあのシーンへ飛ぶのだった!!!!
…が。
飛ぶ、といっても。
実は、それほど飛んではいない。
私は超銀をDVDと、むかーし深夜テレビで放映されたビデオしか見たことがないのだけど、そこではこういうことになっている。
タマラさま救出!
民衆集まってくる!
タマラさま演説!ってほどのことでわ(悩)
…の直後、もうイキナリ島村は夕陽の中でタマラさまとツーショットになっているのだった!(倒)
ということは。
島村、タマラさまとちょこちょこ会う。
でも、お嬢さんをタマラさまには会わせない。
お嬢さん、ひとり黙って苦しむ。
…みたいな展開は、全く描写されていないのだった!
とはいえ、その後ジェったんの
どうやら、心配していたことが本当になってきたぜ!
というひと言で、上記のような展開があったらしい、ということは推し量れるようになっている。
そう考えると、超銀の台本ってよく出来ているのかも(悩)志賀直哉みたいだ!<え(汗)
つまり。
ジェったんはお嬢さんとタマラさまが逢うことを「心配」してきたらしい。
で、今まさに、「心配していたことが本当になってきた」のだから、お嬢さんはここまでタマラさまと逢ったことがない。
更に、なぜお嬢さんとタマラさまが逢うのが心配なのか、というと…要するに、ジェったんが心配しちゃうようなコトが、ここまでにあったのだ。
お嬢さんとタマラさまが逢って、不都合があるのだとしたら、島村が絡んでいるのだろう。他に考えようがない。
で、心配されちゃってる…ってことは、島村とタマラさまの何らかの絡みみたいなモノが、ジェッたんとアルベルトさまにはすっかり知られているということなのだった!
そこから更に更に推し量ると、2&4が気づいたのだから、お嬢さんだってソレに気づいていた可能性がある…とも言えるのだ。
ってことは、お嬢さんはきっと悩んでいただろう…そうにちがいない!
…………。ふう(しみじみ)
なんてくどくど考えてしまうのは、やはり3至上主義者としてはためらいがあるからなのだった。
島村がきれいな女性と親しくしていることと、お嬢さんとを関連づけてみても、世間は許してくれるのだろうか?と。世間?(汗)
もちろん、超銀においては許してもらえる。
あの浜辺シーンがあるからだ!
でも…でも、3至上主義者は、そういうコトに慣れていない。
ジェったんが、「心配していること」とは、単に、島村がこの星に残る、なんて言い出したら、リーダーがいなくなってサイボーグのみなさんが困るなあとかいうことにすぎないのではないだろうか?
ホントに…ホントに、お嬢さんが島村とゲストヒロインとの三角関係の頂点のひとつに入ってしまってだいじょぶなのだろうか?
世間は許して<もういい(嘆)
…なんて思ったりするのだった(しみじみじみ)
もちろん、超銀は大丈夫なのだ。
というのは、超銀とは実はオンナのドラマでもあり、そのクライマックスはここファンタリオン星にあるからだ!
どーしてそうなったのかはわからない。
が、超銀はなぜか「恋」を強く意識したつくりになっていて、それが「闘い」の物語と激しく主導権争いをしてしいるのだった!(汗)
サイボーグ009は基本的に闘いの物語だったので、その立場から考えると、ファンタリオン星は邪魔でしょーがない。もちろん、あの浜辺シーンだって邪魔なのだけど。
一方で、闘いの物語の中に恋がうまく調和しているように見える作品だってある…ような気はする。
超銀もそう作ってくれればよかったのになーと思ってしまうことも、ないわけではない。
が、それはたぶん私たちの勘違いだ。
そういった作品では、要するに「恋」が「闘い」の前に屈服させられているだけで、更に言うなら、私たちはその状態に慣れているので、それに気づかないだけなのだった(しみじみ)
その点、ファンタリオン星はスゴイ。
だって。
009とタマラさまが恋に落ちる過程みたいな描写は一切抜きなのに、異世界を統べる女性と主人公男性が出会っただけで、子孫を作るかもしれないという磁場になってしまう。
更に、主人公男性のパートナーである女性がフレームの中に登場し、人物が3人になっただけで、恋の三角関係のような磁場になってしまう。
それはつまり、このファンタリオン星自体が、そういう論理の中で展開する世界であるから…なのだ。
もっと極端に言うと、ファンタリオン星は完全に少女マンガ空間なのだった!
1981年。
アニメはたしかに、変わりつつあったのだ。
ひとつの作品の中に二つの異空間が登場してしまう。
もちろん、異空間のままでは完全な作品にならないので、超銀は失敗作と見なされてしまうことが多いのだけど…
でも、少女たちはファンタリオン星で島村に叫ぶのだ。
恋はヒーローの飾り物ではない!
ヒーローの座をそのままに恋を手にすることなど許さない!
ファンタリオン星は、少女マンガ空間だった。
そこに不用意に足を踏み入れてしまった島村は、ヒーローの座を手放すしかなかった。
何を語っても、彼の言葉は恋につながっていき。
何をしても、彼の動作は恋につながっていく。
タマラに触れればタマラに恋したことになる。
お嬢さんを見つめれば、お嬢さんに恋していることになる。
少女マンガ空間における主人公はもちろん少女。
ファンタリオン星の物語とは、異国の王への叶わぬ恋に身を滅ぼした悲しい女王と、恋人の揺れる心に胸をいためるけなげな少女の物語なのだ。
えーと。
ってことは。
そこにおける島村の役割というのは(涙)
…………。なんだか気の毒になってしまうのだった(しみじみ)
もちろん、これでは失敗作だ。
でも、恋を安易に用いるとどーゆーことになるか、という教訓は、アニメやマンガの発展過程において、必要なことだったのだと思う。
そういう観点から見れば、たとえば「怪獣戦争」のヘレナは無惨だともいえる。
少年マンガの論理にぴったり組み込まれ、呑み込まれたヒロインの姿は、もちろんその論理の中での在り方としては完成されて美しく、申し分ないのだけど…でも、無惨だと思う。
そして、003も、もちろん無惨だったのだ。
特に彼女の場合、メインキャラであるゆえに、最後の抵抗としての「死」のカードを切れない。
考えてみれば、3至上主義、ということ自体が、おそらくは「サイボーグ009」を読む態度として間違っている(涙)
間違っているのだけど、なぜかそう読んでしまったのだから仕方ないのだった(しみじみ)
超銀はたしかに変な物語だ。
そして、中でもファンタリオン星はスゴすぎるほど変。
でも、だからこそ、3至上主義者は光を見いだすのだった。
私のフランソワーズさまを(わー)輝く存在として物語の中心に置くことを、世間はだから世間ってなに(涙)少なくとも、考えに入れてはくれたのだ!失敗してますが(しみじみ)
その精神(?)はたぶん平ゼロフランソワーズに…というよりも平ゼロ島村につながっている。
超銀を経て、他のさまざまな膨大な作品を経て、平ゼロは誕生した。
それが実は石森さんが数十年前に既に生み出していたヨミ篇に集約されている、というのがまた面白い…というか、石森さんってスゴイなあ…と思う所なのだけど。
少女マンガ空間ファンタリオン星は、今なら、おそらくアルベルトさまの物語として新しい空間へと進化できると思う。アルタマです!(踊)
アルベルトさまを使えば、エピソードはほとんどつながると思うのだった。
地球を出るとき、「死」の問題とともにヒルダを思い。
ファンタリオン星でもう一人の運命の女性タマラを失い。
その二つの思いを胸に、カデッツ要塞星で、彼は散るのだった!(踊)
ゾアもそこでついでに倒しちゃった方が話はスッキリすると思う!
いや。
そーすると、島村の立場は?(汗)ということになってしまうのだけど…
でも、島村がボルテックスでアルベルトさまを救う、というモチーフをうまく組み込んでいけば、どうにかなるような気がする。
どのみち、島村の芸風(?)は力で敵をなぎ倒す、という感じではないわけだし。
雑な言い方だけど、敵としてのゾアを倒すのはアルベルトさま。
宇宙を救うのは島村。えー(汗)
で、早い話が、それってつまり平ゼロヨミ篇じゃないか、ということにもなるのだった(倒)
ちなみに、そーなってしまうと、実はお嬢さんの立場が微妙に後退する可能性があるので、3至上主義者としてはちょっと躊躇(しみじみ)
いやー。
だから超銀&ファンタリオン星は貴重でありがたいのだった!結論です(しみじみじみ)
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