私にとって、サイボーグ009とは003のことであって、更に言うと、新ゼロ003のことだった。
だった…と、過去形なのは、今は違うんだろうなーという思いがあるからで。
#それは決して、じょーら部になったとかいうことでわなく!<別にいいから(嘆)
実のところ、私の中で003が…というか、サイボーグ009が変質した、と気づいたのは、大学生のときだったと思う。そして、現在に至っている。
それは、本当に不思議、としかいいようのない情熱だったと思う。
よーく考えてみれば、その情熱が私を支配していたのは、ほんの短い間…おそらく、実質は2、3年の間だけだったのではないかと思う。
その情熱の正体は、いまだにわからない。
わからない、というそのことが気になって、大学生になってからの私は、とにかくサイボーグ009を、ついでに石森章太郎を追い続けていたのだと思う。
ネットを知り、こういうこと(倒)を始めるようになり…そして平ゼロを知って、なんとなく宙に浮いている感じだった私のサイボーグ009観は、かなり整理されたと思う。
あの怪しい情熱について考えることをやめても、それが完全に消えたとしても、それはそれでこの作品を楽しむことができる、ということが何となく確信できるようになった。
だから、あの怪しい情熱について、考える必要自体はなくなったんだろうな…と思う。
ということは、もしかしたら、考えることができるようになった、ということなのかもしれない。
…なんて思うこの頃なのだった。
というわけで、003論をやってみよう!と思いついた…のだけど。
でも、たぶん、いろいろな時にちょこちょこ書いていたことの繰り返しになっちゃうだけかなーという予感もしている。
第一章 試作品は成功したか
第一節 幻の003
私にとっての003は新ゼロなのだけど、そこへの道はなんだかややこしくなりそうなので、まずシンプルに、誕生したばかりの原作003について考えてみようと思うのだった。
原作の連載をリアルタイムで見ることができなかった私は、「009」を秋田書店の新書版で読んでいた。
そうすると、マンガに無縁だった中学生の私でもはっきりわかることがあった。
今さら…なのだけど、絵柄の変化。
特に、001〜008がBGに攫われるシーンは後付だった、ということを全く知らなかったので、その異質な絵柄の部分は、初期原作の標準的な(?)絵柄にちょうどはさまれる形になっていて、いっそう異彩を放っていたのだった。
大きなぐるぐる目(?)の009と。
やはり大きな目…で、ツリ目気味の003。
彼女の髪には、金髪であることを表すような細かい線も入っている。
これが、初めて登場した彼ら…だった。
当時の私は009眼中になかったため、彼の変化については全く注意をはらわなかった。
もちろん、003に注目したのだ。
新ゼロ003にヤられていた中学生の私は、正直、この金髪ツリ目003にかなりガッカリしていた。
他のシーンの003の方が圧倒的に「カワイイ」と思ったのだ。
結果として、ツリ目003はあっという間に姿を消し、その後はずーっとカワイイ003になってくれたので、それ以上このことについて考えたりすることはなかったのだけど…
まず、ソコからなんだろうなーと思う。
「カワイイ」とはつまり、どういうことだったのだろう。
そして、なぜツリ目003はかわいくなかったのか。
実際にカワイイのかどうかはともかく、誕生したときの003はそういう姿だった。
彼女をそう描いた作者の意図も、そう描くのをやめた(?)作者の意図も、私には知りようのないことで。
ただ、今私たちの前には、登場してほどなく姿を変えた003が存在している。確かなことはそれしかない。
そこから意味を読み取るにはかなり無理がある…とは思うのだけど、今ある003について考えるためには、消えた003について考えてみるのもむだではない、と思うのだった。
第二節 彼岸の女・彼岸の男
003について考えるとき、私がよく思い出すのが「龍神沼」だ。
この作品には、2人のヒロインが登場する。
そして、その2人とも、主人公の少年に想いを寄せるのだった。
1人は、主人公のイトコである少女。
もう1人は、龍神の化身である少女。
少年は、龍神の少女に心を惹かれ、引き寄せられ、イトコを顧みようとしない。
そんな少年の姿に、イトコは泣く。
よくあるパターン、ではあるのだ。
石森章太郎が初めて描いたというわけでもない。
むしろ、ごくプリミティブな恋愛物語のパターンだといえる。
龍神の少女は、言うまでもないが、異世界に身を置いている。
だからこそ、少年をどうしようもなくひきつける。
物語における恋愛の原型だとも言える。
恋愛とは、新しい生命の誕生につながるものであり、そこに異世界の力が吹き込まれるのはむしろ喜ばしいことなのだった。
一方、異世界の女がいつまでもこちら側にとどまるのは、共同体としては不安定な要素を抱え込むことになり、危険だ。
だから、女は結局去らなければならない。
少年と、龍神の少女の別れは物語の必然だった。
が、アレ?と思わされるのはラストシーンの、イトコとの別れで。
たぶん、これがあって「龍神沼」独自の哀切な物語世界が完成するのだ、と私は思う。
イトコは、少年が、彼女には手の届かないものへの憧れに夢中になっている…ことを悟り、苦しみ悲しむ。
物語の必然を思えば、少年は結局イトコのいる世界に戻る…はずなのだけど、そうはならない。
少年は、イトコにとってはまた別の異世界である「都会」へ去っていくのだった。
少年に想いを告げることなく、遠ざかる列車を見送るでもない、憂いに満ちた彼女の横顔には、何か諦念のようなものがただよっている。
それは、龍神の少女を見送った少年の諦念にも似ている…と思う。
「龍神沼」が新しいのは、男が恋の理想を追い求め、振り捨てた現実の中に、入れ子のように恋の理想を追い求める女の姿を描いたことにあるのではないかと思う。
夢を求め、異世界の女を求めて山を越えようと挑み、葛藤するのは男だけではないのだ、ということを、石森章太郎は示した。
物語によって切り捨てられたはずの女が放ち続けていた、女の美しさを、物語として拾い上げたことで「龍神沼」の美は、恋愛世界は、完成するのだと思う。
これを描き得た石森章太郎は、当然のように、異世界の男に想いを寄せる女をごく自然に描いていった。
その代表的なヒロインが「キカイダー」の光明寺ミツコだと思う。
この作品における恋の物語の中心にいるのは彼女であって、ジローではない。
ここでは「龍神沼」とちょうど対照的な関係が表されている。
2人の別れは必然であり、その憂いと葛藤はミツコの方により強く表現される。彼女の方が想いが強いからではなく、此岸にある私たちには、その方がはるかにはっきりと共感・理解できるからなのだけれど。
恋愛が物語として描かれるためには、まず、惹かれ合う者たちが互いにとって「異世界の者」であることが前提である…と思う。
もちろん「異世界」の定義…というか、レベルは様々なのだけれど。
読者の側にいるのは男でも女でもいいのだが、少年モノの作品では男である場合が多いように思う。これも当然のことだろう。
恋だけではなく、戦いをとってみても、少年モノのヒーローは、超人的な力を持っていても、あくまでこちら側…此岸に立つ側の者であり、彼岸から襲い来る敵と戦うのだった。
そう考えると、もちろん「キカイダー」は変だし、実をいうと「仮面ライダー」も相当変、なのだ。
そして、石森作品にはそういう「変」な作品…つまり、本来敵に相当する彼岸の男こそがヒーローであり、その視点で物語が進む…というような作品が結構ある。
石森作品がなんというか、いまいちスッキリしない最終回を迎えたり、あるいは最終回自体が微妙に存在しなかったりすることが目立つ…のも、その辺に原因があるのかもしれない。
第三節 ゼロゼロナンバーの紅一点
「サイボーグ009」は、前節のように考えると、やはり「変」な作品である。
ゼロゼロナンバーたちは、仮面ライダーと同様、異世界…「悪」からやってきた者たちであり、こちら側に立って戦いはするものの、こちら側の私たちに溶け込み、私たちと共闘することは決してない。
それについては、009島村ジョーだけでなく、全てのメンバーに共通しており、彼らがそれぞれ読者を引きつけるのはそういう要素を持つからでもある…のかもしれない。
もちろん、主人公は島村ジョーであり、他のメンバーは脇役、ということになるのだけど、異世界のモノである、という点において、彼らは読者から見たとき、島村ジョーと同じ位置に立っているのだった。
だから、彼らの…002や004の…というか、008や007でもそうなのだが…恋は、いつも成就することがない。彼らは、決してこちら側に留まりはしないのだった。
…ということは、003ももちろん、彼らと同じなのだ。
同じ…はずなのだけれど。
彼女と男性との絡みは、実は結構ある。
ただ、それらにしつこいほど共通するのは、恋は必ず男の方から寄せられるものであり、彼女の方が心を動かすことは決してない、ということなのだった。
典型的なのは「未来都市」のカール・エッカーマンと「亜時空間漂流民」のフィリップだと思う。
彼らは、003を女神のように慕い、003もまた女神のように彼らに冷淡なのだった。
彼女は彼らに対して「憐れみ」を垂れることはあっても、その恋に反応することは一切ない。
そんな彼女が、009だけを慕うのだ。
女神らしさの片鱗すら見せず、一途な少女として。
それは、彼女が「紅一点」としてゼロゼロナンバーの中に置かれた…ということと切り離すことができないだろうと思う。
ただ1人の女性としておかれた彼女は、物語においては「女性」のコードに厳しく縛られる。
彼女は、物語を象徴する主人公の男、009に対する「女性」でなければならない。
従って、009が彼岸の男であるなら、彼女は此岸にいなければならない。
しかし、ゼロゼロナンバーとしての彼女はあくまで彼岸の女でもあるのだ。
これが、003の二面性…というか、自己矛盾だと思う。
そう考えると、初登場のツリ目003は、まさに「彼岸の女」という感じがするのだった。
中学生の私がなんとなくカワイイ、と思えなかったのは、彼女が女神であり、向こう側の女だたから…なのかもしれない。
そして、彼女が変化したのは、たぶん、X島で009と初めて行動をともにした、あのときから…だったように思うのだ。
彼岸のモノたちとして生まれたゼロゼロナンバーたち。
が、その中にあって、003だけが、009と対面したときのみ、相対的に…なのだけれど、此岸の女性として描かれてきた。
彼女を紅一点にしなければ、こうはならなかったのかもしれないなーと思いつつ、それでも彼女の他に女性メンバーがいる、という状態がどうにも想像できないのも、正直な気持ちなのだった。
…というか。
おそらく、島村ジョー…というか、サイボーグ009という作品独特の魅力を支えているのは、実はこの二面性なのではないか、という気もするのだった。
それを言うなら、おそらく003だけではなく、マイノリティの代表として描かれたはずの005や006、赤ん坊の001も同じなのかもしれない。
ヒーローでありつつ、アウトロー、という存在がゼロゼロナンバーたちであり、その中に女性を置いた、というのは、石森章太郎の画期的な実験だった…と思う。
その実験は成功したのか…というと、失敗だった、ような気がするのだった。
003は極めてわかりにくいキャラクターになってしまったし、それに連動して、魅力的な彼岸の男であるはずの009の恋愛物語まで、展開しにくくなってしまった。
が、その失敗こそが、他作品にはない、サイボーグ009の魅力となった…とも言えるのではないかと思う。
少なくとも私は、それがなければサイボーグ009を今、こうして読んではいない…と思うのだった。
第二章 幻想の中のリアリティ
第一節 終わらない恋
前章で「龍神沼」に触れたのは、ラストシーンの少女の横顔に表現されたモノが、003そのものであるような気がしたから…なのだった。
イトコの少女と主人公の少年は、龍神の少女と比したとき、同じ岸辺に在るモノ同士となる。
だから、物語的な恋愛はそこに生まれない。
にも関わらず、少女は少年に「彼岸」を見る。
それが、少女の恋となる。
少年は都会…というのはつまり、少女にとっての彼岸…に戻る、というモチーフなので、これもまた物語的恋愛の範疇に変則ながら収まるのだけど…
003の場合は、少しちがうのだった。
009と003は、同じ世界…私たちから見れば彼岸…にいる少年少女だ。
その間に物語としての恋は生まれない。
龍神沼の少年と少女がそうであったように、共に笑い、怒り、戦うことはあっても、恋することはない。
しかし、003は009に恋をする。
その具体的な描写は「龍神沼」ほどには描かれないのだけど、彼女が紅一点であるという設定そのものが、それを保証している。
設定が支える恋、なのだから、それはかなりの部分で物語の様式に縛られることになり、従って、003の方が此岸に追いやられ、振り向かない009を慕う、という図式が成立する。
これは009が主人公である少年マンガとして、やむを得ないなーと思うのだった。
ややこしさは、この2人が、同じ物語の制約によって決して離れることがない、という所にあるのだった。
イトコの少女は、都会へ去る少年を見送り、憂いとともに物語の幕を下ろすことができる。
が、003にはそれができない。
ということは。
終わることのない「恋愛」が果てしなく続くのだった。
恋愛は、その本質として「終わらないモノ」ではない。
少なくとも、物語においては必ず終わらなければならない。
というのは、物語における恋愛は、極端に言えば、共同体に新しい命を吹き込むための神聖な手続きであり、異世界との奇跡的な接触であり…だからこそ尊く美しく描かれるからだ。
恋愛はそれゆえ共同体にとっては不安定で迷惑なモノでもある。
さっさと目的を達成して、さっさと消えてくれるのが何かと安心なのだった。
やっかいなことに、009と003には、まさに「始祖」であるところのコドモがいるらしい…のだった。
ここにおいて、読者は漠然と2人の恋愛の成就と終焉をごくプリミティブな恋愛物語として、予想せざるを得ない。
…を得ないのだけど、どーにもこーにも予想ができない。
いっそ、タマラはわかりやすいのだ。
彼女もまた、彼岸の男である009を恋愛の対象として求め、その結果としての「新しい子孫」を望んだ。
ものすごく正しい。
結果として子孫は生まれなかったけれど、彼女はやはり009と別れざるを得なかった。
物語の構成としてはとても正しい。
子孫が生まれなかったのはちょっと運が悪かった…ということで。
タマラと009の「恋」が特に93支持者(?)によって嫌われるのは、いまだ003が果たしていない物語的恋の在り方をタマラが体現しているからだと思う。
結果として、009はタマラにちょっとしか(笑)触っておらず、それをもって「浮気モノ」よばわりされるのはめちゃくちゃ気の毒なのだが、物語の在り方としてはそう罵られるだけのコトをしている…というか、立場に置かれてしまっているのだった。
問題は、タマラと009の間に子孫が生まれたかどうか、ということではなく。
009がタマラを好きだったのかどーか、ということでもない。
たぶん、問題は、この恋愛が「ちゃんと終わった」ことによって、恋愛物語としてしっかり完成してしまった…ということなのだろう。
タマラを亡くしたときの009の悲しみ方も、よーく考えてみると、微妙に不自然なのだ。
一応、この星を救えなかったとかなんとか、それらしい理由を懸命につけて、彼の苦しみをどーにか合理的なものにしようという努力は見られるのだけど…
薄倖の美少女だったといえばそうなんだけど、ちょっとしか接触のなかったはずのタマラが死んで、あれだけ激しく悲しむ009の姿は、やはり物語的必然によって支えられているのであり、それゆえに非合理的でもあるのだった。
あの悲しみ方は、やっぱり相当にタマラに心を移していたからにちがいない!とか、いやアレは009の人並みはずれた優しさの表れなのだ!とか、合理的に考えようとすると、おかしくなる。
009は物語の男であり、そうふるまわなければならなかったからふるまっているのだ…と考えるしかないと思うのだった。
そして、009と、003以外の女性が絡むほぼ全ての話もまた、これと同様に「終わる」ことによって恋愛物語としてそれなりに成立してしまっている。
で、003との関係だけが、どーにも終わらないために、恋愛となり得ていない…のだった。
コレは、もちろん島村ジョーの責任(?)とはいえない。
責められるのは気の毒…なのだけど。
が、物語の初頭に、非常にあからさまな形で与えられた恋愛物語が全然終わっていない状態で、他の恋愛物語が次々に終わっていくのだから、彼は浮気者よばわりされてしまうのだった。大したことしていないのに。
気の毒ではあるけれど、どーしよーもないなーと思う。
一方、この「恋愛物語は終わらなければならないの法則(?)」は、もちろん、ごくプリミティブな物語においてのみ成立するわけで、あくまで幻想上の話なのだった。
現実において、恋愛物語が終わることなどない。
だから、シンデレラ姫はその後どうなったのかなー?みたいな、どーでもいいことを、私たちは時に考えてみたりする。結婚式と同時に終わる、などということはないのが、私たちの現実だからだ。
003は、妙に現実的な…というか、フツウの女の子、という感じのするキャラクターだと、私は思う。
視聴覚を強化されたサイボーグであり、チームの紅一点、フランス人でバレリーナ…という、トンでもなく非現実的な設定にもかかわらず、そう見えてしまうのは、彼女の恋愛がどーにもこーにも終わらない(ということは始まりもしない)モノであるからなのではないか、と思う。
彼女は、009に恋をする。で、結構報われない。
時々報われるよーな気もする。
いずれにしろ、その恋は終わらない。
ハッピーエンドでもなく悲恋でもなく、とにかく終わる気配がない。
それではそもそも恋愛が成立しないのだけど、彼女は紅一点で、どうやら彼との間に子孫もいたりするらしいから、恋愛は成立しないのに、ない、という感じもしない。
その彼女の在り方は、相手の009にも反映していく。
002も004も、恋愛は終わる、ということが前提であることを知っている…というか、その文脈の中で振る舞う。そうするしかない。
が、009だけが、終わらない恋愛を知っている。
実際には003以外の女性との恋愛は終わる運命にあるのだけど、終わらない恋愛を片手に持っている彼の恋には、いつでも微妙な現実感があって、それが彼の魅力になっているのだと思う。
第二節 恋をしない恋人たち
003は実は美女だったのだ!
という、かなり衝撃的な(私にとって)事実を初めて知ったのが、原作「アフロディーテ」だった。
004が思い切り断言する。
全世界に通用する、美女の中の美女たち…に、003は勝らずとも劣らないほど美しい、と!
そして、私にとってもうひとつ、静かなオドロキだったのは、その言葉を009が完全にスルーしたことだった。
彼は、なんというか、そんなのはごく当たり前のことだ、という感じの無関心さでその言葉を受け止めていた…と思う。
と、いうことは。
えー、003って、そんなにキレイなヒトだったわけ?
ってか、009もそう思っていたわけ?
…かなり衝撃だった。
いや、よく思い起こしてみると、009は003を美女である、と認めていないでもない…というか、そう認めていると言えなくもないような発言なら、たまにしていたのだった。
…でも。
新ゼロの後、中学生から高校生にかけての私が少しずつ見始めた少年サンデー版のサイボーグ009には、ときどきそういった、003が美女であるとか、並外れて優しい少女であるとか、とにかく彼女が極めて魅力的な女性である、ということを匂わせるようなセリフが散見している。
それだけではない。
これらの作品群において、003は当然のように009に寄り添い、009も当然のようにそういう彼女を受け止めていて、いかにも恋人然としていたりするのだった。
恋人…というよりは、夫婦?
相変わらず、二人の恋愛エピソードのようなものは描かれない。
というか、003が009を恋うのをやめてしまった…ように見えるのだった。
いや、そういうわけでもないのだけれど…少なくとも、彼女が「報われない感じ」はかなり薄れていた。
つまり、二人の間に、相対的なモノとしてあった彼岸と此岸の境界が消えている。
そう見えるのだった。
そして、二人はともに彼岸のモノとして、私たち読者の前にいるわけで。
コレが面白いのか、というと、実はあまり面白くない。
安心感はあるけれど、さっぱり面白くない。
他者との恋愛エピソードも、対009の物語はほとんどなくなり、対003ばかりになっていった。
もちろん、女神003に恋する凡庸な男たちの心は、彼女に全く届かない。
コレを009対女性ゲストキャラでやったら、やっぱりキツいんだろうなーと思う。
すがりつく美少女を冷たく切り捨て、憐れみだけを向ける男が少年マンガの主人公、ではちょっとなーというか。
たぶん、少年サンデー版の009に「浮気」が少ないのは、そういう理由ではないかと思うのだった。
ここに至るちょっと前にあるのが、少女誌に連載された「風の都」だったりする。
こっちの方が、93恋愛エピソードとしては衝撃的で、印象に強く残る。
彼岸と此岸に引き裂かれた009とイシュキック、更には009と003。
そして、悲痛に叫ぶ003の涙が「龍神沼」を彷彿とさせるのだった。
が、ラストシーンで、003はイシュキックに取り残された009に寄り添う。
憂いを込めて、去りゆく少年を見送った少女の横顔はそこにない。
当然といえば当然だ。
009と003はもとより同じ世界の者同士なのだし…それをいうなら「龍神沼」の二人もそうだったはずなのだ。
003を置いていこうとした009は、自分の不実を彼女に謝ることもない。
彼はイシュキックに恋をしたわけではないのだから、謝る必要などないのだけれど、なんとなく彼が謝らない…ことに微妙な不満を感じる読者もいる、かもしれない。
本当のところ、彼が003に謝る必要はない。
彼はイシュキックに恋をしたわけではなかったし、ついでに言うなら、003を恋人として置き去りにしようとしたわけでもなかったのだから。
ここがわかりにくい…のだけど、私たちの現実に照らし合わせれば意外に話は簡単だ。
長年連れ添い、互いをよく理解しあった仲の良い夫婦がいたとして。
ある日、夫が「やむを得ない使命」によって妻と離ればなれにならざるを得なくなる。
仕事、でもいいし。戦争のような動乱に巻き込まれて…でもよい。
妻は、いかないで、と涙するけれど、どーしよーもない。
そういう現実は、悲しいが、存在する。
去ろうとする夫は別に妻に対して不実、というわけではなく、そこが悲劇なのだった。
…が。
じゃ、あのときの009がそういう「やむを得ない使命」の中にいたのか…?というと、実はその辺の描かれ方は、まだ曖昧だったのだと思う。そういうモヤモヤ感が、「風の都」にはある。
あるけれど、最終的にイシュキックは009のもとを去り、009は003のもとを去らなかった。
去らなかった009が、003とともに次の物語に進む。
それが少年サンデー版の二人だったのではないか。
003は彼岸の009に一歩を踏み出し、彼との境界を消した。
そのときから恋は消え、寄り添い合う恋人たちが残った。
恋が成就したわけではない。
だから、風の都のラストはほろ苦い。
が、恋人たちは消えずに残ったのだ。
恋の物語が消滅しても、恋人たちは消えない。
現実では当たり前のことが、物語の上で継続される。
009は彼岸にあり、003も同じ場所にいる…ならば、彼らはつまり、私たちからみたとき神の一対のようなものなのだ。
恋物語としての面白味はほとんどない…のだけど、むやみに美しい一対となったのだった。
|