「サイボーグ009完結篇」の最終話が「クラブサンデー」に掲載された。
小野寺丈氏による小説版に続き、マンガによる「サイボーグ009」もこれで完結したことになる。
作者である石ノ森章太郎は既に亡い。
彼が残した構想ノートを頼りに作られた……といっても、もちろん、小説の大部分と、マンガの全ては石ノ森章太郎の手によるものではない。
それでも、それは「サイボーグ009 完結篇」である。
生前の石ノ森章太郎がそう定めたからで、その意味で、石ノ森章太郎はこの作品の作者だということになる。
描いていないのに作者。
そんなことは、フツーありえない。
ありえないはずなのだけど、「サイボーグ009 完結篇」は既に「ある」のだった。
ここのところは、どーにもわかりにくい。
そこで、それなら、そもそもこの作品の「始まり」はどこだったのだろうか、と思ったりしたのだった。
フツーなら、それはいわゆる「誕生篇」の連載開始を指すだろう。
完結篇のわかりにくさに比べると、こっちはごくごくフツーに見える。
……けれど。
本当にそうなのか?と思うのだった。
もちろん、「サイボーグ009」の始まりは「誕生篇」で、マニアックなことを言うなら、連載順に従って、009の誕生がそれにあたる。
……けれど。
石ノ森章太郎が「描かなかった」終わりがあるのなら。
同様に「描かなかった」始まりもあるのではないか。
なんて、不意に思ったのだった。
そして、思い当たることもあったりして。
ってことで、かなり怪しい話なのだけど、始めてみるのだった!
1 「光と翳と」
思い当たること、というのは、トキワ荘が取り壊される際に石森章太郎(当時はまだ石森だった!)が出したエッセイ集「トキワ荘の青春」にある「光と翳と」という文章。
エッセイは「起承転結」の4つの章に分かれていて、「光と翳と」はその「転の章」となっている。
石森章太郎が、世界一周旅行の途中でサイボーグのアイディアを得た、というのは有名な話だが、その旅行の始まりから終わりまでを綴った文章なのだった。
そこまでかなり軽妙なタッチで進んでいた文章の色合いが、急に変わる。
というか、全編を通してみても、この文章だけが異質に見える。
そして、おそらく、これを書くためにこの本があったのだ、と言えるような文章なのだった。
世界のあちこちでの断片的なエピソードが縦糸、当時のマンガ界の急な変貌とその渦中にあっての迷い、悩みが横糸……という感じで、独特のリズムに乗せて文章が流れていく。
そしてその合間に、亡くなった姉の夢……その笑顔が浮かんでは消え、浮かんでは消え……やがて、それが耐えがたい彼女の死の記憶へと渦を巻いて流れ、圧倒的な力で全てを押し流していく。
姉がただ一人の読者だったという幼少期、マンガは遊びだとどこかで思っていた少年期、そして、あっという間に膨大な仕事量に巻き込まれ、身動きがとれなくなったトキワ荘での日々。
その中で姉とともに馴染んだ雑誌が廃刊となり、その姉も帰らぬ人となる。
その廃刊、そして死を「自分のせいだ」と感じ、血を流す心。
このままでは何もできない、と繰り返し思いながら、すさまじい量の仕事をこなしていく。
そんな日々から逃げ出したのが世界旅行だった、と石森章太郎は述懐する。
逃げる心の中で、夢の中で亡くなった姉が幸せそうに笑う。
そして。
旅行は終わる。
「光と翳と」は、次のような文章で締めくくられる。
苦痛を忌避したい気持ちは、誰しもが持っているものだろう。誰でも、平穏で幸福な時間にいたい、と希う。ボクの場合は、人一倍、それが強かった。自分の、精神の弱さをよく知っていたからだ。ちょっとしたことにも激しく傷ついて、一度傷つくと、おそらくそれを癒やせない弱さを。
だから、いつも逃げてきた。苦しみ病むことから逃げ続けてきた。
勉強から逃げ、親から逃げ、友達から逃げ、姉の苦痛から逃げ、その死の責任感から逃げ――、趣味から仕事に変わり、苦しくなった途端に、マンガからも逃げようとした。
外国旅行は、ただそれだけが目的だったのではなかったか?
トキワ荘に戻り、三ヶ月留守にして、なにかよそよそしい部屋に呆然と坐り、結局はなにからも逃げられないのだ、と悟った。
姉の夢と同じように、目覚めれば苦痛があるのだ。目覚めずに、生き続けることなど、誰にもできはしないのだ。
それから間もなくして、ボクは「サイボーグ009」を描き始めた……。
そもそも、軽妙なエピソードからの急激な転換に戸惑い、息を詰めるように読み進めていた私は、この最後の一文に強い衝撃を受けた。
石森章太郎はしばしば「サイボーグ009」をプロとして初めて描いた作品、読者のために描いた初めての作品、と語っていた。
私はその言葉から「サイボーグ009」は石森章太郎のいわゆる出世作なんだなーと、漠然と「成功譚」の節目としてとらえていた。それはそれで、間違ってはいないだろうと思う。
でも、それだけではなかったのだ。
出口のない悲しみ、先の見えない苦痛。
それを生きることそのもの、宿命として受け入れた先にあったのが「サイボーグ009」だった。
それでも、この文章を初めて読んだ当時の私にはわかっていなかったと思う。
読者のために描く、ということが。苦痛を受け入れつつ描くということが、どういうことなのか。
その苦痛は幸福な夢と隣り合わせにある。
どうしても手にできない夢。
生きることはその夢を自らの手で殺し、葬ること。
それでも、夢とともに生きる。
夢は夢でしかないことを繰り返し思い知り、そのたびに血を流しながら現実を生き、石森章太郎はついにその夢を手放さなかった。
それが「サイボーグ009」だったのだ。
2 本当の始まり
「サイボーグ009」は、石森章太郎がプロの作家として初めて読者のために描いた作品だった。
そもそも天才と言われ、抜群のセンスを持ち、既に多くのファンを獲得していた石森章太郎が、明確な意図を持って「読者のために」描いたのだ。その作品が、読者を魅了しないはずはない。
現に「誕生篇」から続く初期原作は「ミュートス篇」まで、実に見事な美しい作品として展開していった。
「ミュートス篇」の唐突なラスト、サイボーグたちが敵とともに全滅したかのように見えるソレも、不本意な打ち切りによるものであったにも関わらず、ひたすら美しい。
そして、石森章太郎は、いよいよ最終話に取りかかる。
それが「ヨミ篇」だった。
あまり詳しい事情はわかっていないのだが、少なくとも「ミュートス篇」は最終話のつもりで描かれたのではないのだろうと思う。あのラストはあくまでハプニングであって、その中で、精一杯読者を楽しませようとした結果なのだと思うのだった。
「ヨミ篇」は違う。
最初から終わりまで、本当に計算しつくされた完璧な最終話であると思う。
「サイボーグ009」の最高傑作エピソードであると同時に、マンガの歴史においても奇跡のような作品なのだった。
ラストで、流れ星となって燃え尽きる009。
石森章太郎は、自分は彼を002とともに死なせたのだ、と語った。
そうとしか解釈のしようのない完璧なラストシーンだ。
……しかし。
「サイボーグ009」の熱烈なファンの一部は、その悲劇を受け入れられなかった。
それ自体は珍しい話ではない。
今でも、物語が「ハッピーエンド」か「バッドエンド」かということはよく話題にのぼるし、とにかくハッピーエンドでなければ読むのがつらくてたまらない、という読者は一定数いる。よいとか悪いとかいうことではない。そういう読者は必ずいるのだった。
おそらく。
今なら、そうしたマンガファンの反応を作者があらかじめ予想することもできるだろう。
そういう例を私たちは無数に知っているからだ。
しかし、当時は違った……のだと思う。
「あしたのジョー」で力石徹が死んだとき、ファンによって葬式が行われた、というエピソードもよく聞く。それは、マンガと現実を混同しているということとは少し違う。マンガというのが、そういう現象を生み出すタイプの芸術だということなのだと思う。
「ヨミ篇」への反応もそうしたものだったのかもしれない。
ただ、それは当時誰も経験したことのない現象だった。
誰も経験したことのない嘆きと呪詛の波が、石森章太郎に押し寄せる。
他でもない、読者のために描くと決めた石森章太郎に、そのスタートと決意して描き始めた作品にそれが押し寄せたのだ。
読者のために描いた作品のラスト。
しかし、読者はそれを受け入れなかった。
だから「ヨミ篇」は誰が見ても完璧な最終話なのに、石森章太郎にとっては、おそらく彼だけにとってはそうではなくなってしまった。
しかし、ファンは、ラストシーンに「不満」だったわけではない。
その出来が悪かったから嘆いたのではない。
むしろ、出来が完璧だったから。
愛する主人公の死が、まるで現実の人間の死であるかのように感じられたから。
だから、彼らはそれを受け入れられなかった。
愛する者の死は、それが美しいからといって受け入れられるというものではない。
彼らは、神にすがるように石森章太郎にすがった。
死者を蘇らせてほしいと懇願した。
もちろん、石森章太郎は神ではないのだから、彼らには畏れというものがない。
身の危険を感じた、という石森章太郎の言葉は大げさなものではないだろう。
石森章太郎は、死者を蘇らせた。それは神の業だ。
しかし、石森章太郎自身にその自覚はなかった……と思う。
彼はむしろ「失敗」を感じていただろう。読者に受け入れられなかったのは、その最終話が本当の最終話ではないからだ、という思いがあったのではないか。
そんなはずはない。
作品は作者のものだ。
作者が最終話として描いたのなら、それが最終話に決まっている。
私たちは、何となくそう感じている。
だから、石森章太郎もそうなのだろうと漠然と思ってしまいがちだ。
でも、違ったのだ。
石森章太郎は「サイボーグ009」を読者のために描いた。
だから、それは読者のモノでなければならなかった。
そうでなければ「意味がない」ものだったのだ。
「サイボーグ009」はそういう作品だった。
そういう作品だと明確に思っていたのは、もしかしたら石森章太郎だけだったのかもしれないのだけれど。
読者は009の復活を「神」によるものと受け取った。そう受け取るしかない。
石森章太郎はこのとき、「サイボーグ009」の読者にとって、単なる作者ではなく、神になったのだといえる。
愛する世界を取り仕切る神が、自分の願いをきいてくれるのだ。
恐ろしいまでに幸福なことではないか。
読者が神に願うことはひとつ。
この愛する世界を永遠に輝かせること。
もちろん、それを形作る主人公たちは不死でなければならない。
しかし、石森章太郎がめざしたのは、その世界の終わりだった。
読者が受け入れてくれる最終話を。
受け入れてもらえなければ、「サイボーグ009」の世界そのものが無意味なものとなる。
永遠を願う読者と、終末を目指す作者。
そのどうにもならない相反する思いは、外見だけが非常に似通っていたので、両者はお互いの思いが全くかみ合っていないことに気付かなかった……か、あるいは、気付こうとしなかった。
そのようにして「完結篇」への道のりは始まった。
そして、そのときこそが、単なる「傑作」「名作」ではなく、他には例を見ない、石森章太郎でなければ描けない唯一の作品としての「サイボーグ009」の本当の始まりのときだった。
3 終末のラッパ
「サイボーグ009」には、石森章太郎、つまり神が定めている終末がある。
それは、ただの人間である読者には予想がつかない。
それは、必ずある。神がそうと定めているからだ。
もし神が定めたことなら、その終末を読者は受け入れるしかない。
だから、本当は作品を終わらせてほしくないのにも関わらず、読者は神への忠誠を誓った。
完結篇を待つ、というのは「サイボーグ009」ファンがとることのできる唯一の態度だったといえる。
それは一方で、異教徒への憎しみともなったのかもしれない……と、私は思う。
「サイボーグ009」は映画作品も数えると、実に7回、アニメ化されている。
その作品のファンによる(ごく一部のファンかもしれないけれど)評価を思い起こしてみると、ちょっと面白いのだった。
まず、旧作と呼ばれる映画「サイボーグ009」と「サイボーグ009怪獣戦争」そして、白黒のテレビシリーズ。
石森章太郎自身が、原作とは全く別物……と後に語ったように、これらはキャラクター造形といい、エピソードの内容といい、原作を忠実にアニメ化したとはちょっといえない。かなり原作から乖離した作品だとみるべきだ。
……にも、関わらず。
いや、そうではない、という意見は結構見られるのだった。
もちろん、絵やストーリーの内容そのものは原作を離れたオリジナルではあるけれど。
でも、なんというか、作品を貫くテーマ……しばしばそれは「反戦」「連帯」などと呼ばれる……は原作そのものだ、クオリティは高い、という。
よーく考えると、かなり怪しい意見だ。
私自身、うっかりそう考えてしまうトコロもある……のだけど、やっぱりヘンだと思う。
アニメの中で旧作が原作に一番近い、と感じることはもちろん不可能ではないのだろうが、その根拠を客観的に示すのは難しいと思う。
ともあれ、これらを駄作であるとか「サイボーグ009」とは認めない、というような意見はまず聞かれない。
もっとも、これらがアニメの草分け的存在であるということを考えれば、そもそも当時のアニメの在り方、限界を思い、そういう批判をすること自体に意味がないという発想はあるのかもしれない。
次のアニメ化は新ゼロ。
リアルタイムの原作ファンには結構不評だった……とも聞く。
キャラクターの解釈が微妙にズレたり、「神々との闘い」が中途半端に終わったり。
が、一方で、この作品を大好き、と言ってはばからないファンも一定数いる。
「サイボーグ009」の新しいファンを輩出した作品でもあるのだった。
そして。
その後のアニメ作品……超銀、平ゼロ、REは、原作ファンに概ね不評……のように見える。
ちょっと雰囲気が違うのはREで、諸手を挙げて万歳、ではないにしても、いいんじゃない?という意見も散見する。
その理由はいろいろつけられる。
理由もなにも、駄作だからダメなのだ、と言い切られてしまいそうだが、どうもそう簡単に片付けられない気分になるのは、やはり前述したように、多分に欠点を持ち合わせているはずの旧作や新ゼロには比較的寛容な(笑)ファンが目立つからだ。
例えば、ごく幼い頃に出会ったアニメ作品は、それゆえに「とても面白かった!」という記憶が色濃く残るものであり、一種の懐古趣味のような感じで比較的古い旧作や新ゼロが懐かしまれるのではないか……なんて思うこともある。
とはいえ、当然ながら、ただ私がそう思うだけであって、特に根拠があるというわけではない。
そういうわけで、これから考えることにもこれといった根拠がない……のだけど。
旧作と新ゼロには「結末」がない。
もちろん、作品としての最終回やラストシーンは存在するが、制作者がその気になり、スポンサーがつき、条件が整えば、明日にでも「続き」が作れるのだった。
一方で、平ゼロには動かしがたい「結末」がある。
それはヨミ篇とほぼ同じ軌跡を辿る。
超銀にも「結末」がある。
物語自体は一応のハッピーエンド……で、ともあれサイボーグたちは全員生きているのだから、続きを作ろうと思えば作れる……のかもしれないが、実際に島村ジョーが作品の根幹をなす宇宙意志である「ボルテックス」に触れ、生還し、敵を倒した(というかなんというか)ことを考えると、それほど単純な話ではない。
その世界の宇宙意志、要するに神のようなモノと交信する存在となった島村ジョーのその後を描くことに、物語としての意味はほとんどないと思われる。
REはその点微妙なのだった。
たしかに「結末」はあるし、島村ジョーは「神」に触れたかのような経験をしている。
が、本当に触れたのかどうか、それはわからない。
さらに、全てを説明しなかったラストシーンが、その曖昧さを裏付けることになった。
超銀に比べれば、あの世界における島村ジョーの「その後」を物語として描くことはずっと易しいと私は思う。
……ということは。
つまり、アニメ作品の原作ファンによる「評価」は、その作品に「結末」があるかどうか、ということに大きな影響を受けているのではないのかなーと思うのだった。
端的に言えば、明確な最終回やラストシーンを作ると、ファンは「これは009じゃない!」と判断してしまう……というか。
平ゼロを酷評するファンも、REには寛容であることがよく見られる。
もちろん、それにはそれぞれの理由がある。
が、この「結末」の有無という観点から見ると、REについては結末があるかないかということを読者にゆだねられるし、ほとんど違和感なく「続編」を立てることもできるのだった。
アニメ作品には、最終回なりラストシーンなりがなければならない……と、私は思う。
そうでなければ、「サザエさん」や「ドラえもん」や「水戸黄門」になるしかない。
それならそれでもよかったはずだ。
そうすれば、「サイボーグ009」は「ルパン三世」のようなアニメ作品になったかもしれないのだった。
しかし、現在に至るまで、「サイボーグ009」のそういうアニメ作品はない。
7回も作られているのに……だ。
原作ファンに受け入れられる「サイボーグ009」のアニメ化はものすごく難しい、と私は思う。
それは、彼らが「神」がいつか鳴らす終末のラッパ以外の最終回を認めないからだ。
更に、そのことは同時に「サイボーグ009」を最終回の「ない」作品にすることも許さない。
終末が「ない」というのもまた、神への冒涜だからだ。
全ての原作ファンがそうだというわけではない。
しかし、私がそうであるようにヨミ篇から「復活」した島村ジョーとその仲間達に魅了された者は、好むと好まざるとに関わらず、彼らが神による奇跡によって実在するのだ、という事実を受け入れていることになるのだった。
そして、神は全ての神がそうであるように、この世界を創り、いつか終わらせるはずなのだ。
これは、ある作品を熱狂的に盲目的に愛する読者が、しばしば自身を「信者」と称する一般的な現象とは根本的に異なっている。
「サイボーグ009」において、石森章太郎は作者ではなく神なのだ。
神が構築したひとつの世界を信望するのだから、読者は読者であると同時に信者となる。
信者は、神がいつか世界を終わらせることを知っている。
それ自体が信仰の根幹でもある。
信者は、その日を畏れつつも待つ。
信者であれば、彼らだけはその日が来ても神に救われる。だから、信者は終末を畏れつつも渇望する。
そして、結構大事なことだと思うのだけど。
実際のところ、神が下した終末を経験した人類は未だかつていない(たぶん)のだ。
終末とは、そういうものでもある。
「サイボーグ009」のファンは、完結篇が必ずある、と信じた。
それが石森章太郎によってもたらされることを信じた。
それゆえに完結篇は、ファンだけが入ることを許される、永遠の理想郷の入口でもあるはずだった。
だから、それが受け入れがたい愛する世界の終わりであるにも関わらず、ファンは完結篇を求めた。
そして。
もちろん、ファンは知っていたのだ。
自分が世界の終末を見ることはないだるう……ということを。
あるとしたら、それは自分自身の終わり……死のときだ。
そうハッキリと自覚していたわけではない。
が、私は長年ファンであり続けるうちに、いつのまにか「サイボーグ009」の完結篇はありえない、と思うようになっていた。そもそも石森章太郎は作者であり、人間であって、決して神ではないからだ。人間に、終末のラッパは吹けない。
そして、万一、あらゆる常識をひっくり返して、もし石森章太郎が本当に神であるのだとしても、神がそのように終末を示すことはないはずで。
だから、どのみち、完結篇はありえない。
石森章太郎は、必ず描く、と言った、
ファンは、どこまでも信じる、と言った。
それは、ほとんど宗教における神と信者の在り方だ。
その幻想が「サイボーグ009」を支えたのだと私は思う。
4 バイブルとしての「完結篇」
石森章太郎にとって「サイボーグ009」は紛れもなく自身の作品であり子どもであったが、それが読者という信者を持つひとつの世界でもある以上、全て己のもの、とすることはできなかった。
この世は神が創ったのだとしても。
この世で生きるのはあくまで人間たちだ。
神の姿は見えない。
生前、石森章太郎は「ジョーはあなたのジョーだ」と読者に語っている。
当時は、サービス精神旺盛な作家だなーぐらいに聞き流していたが、スゴイ言葉だと思うのだった。
石森章太郎は、神としての自覚をもっていたのだ。
だから、石森章太郎と読者にとって、いつか来る避けられない破滅のときは、その神の死……だった。
石森章太郎は神ではない。だから、必ず死ぬ。
多くの読者より先に死ぬ。
それは、読者も知っていた、
もちろん、石森章太郎も知っていた。
石森章太郎がそれを乗り越えるためにとった手段は、一見破天荒で、でもたしかにそれしかない、という極めて正統的なものでもあった。
石森章太郎は、自らを神から預言者へシフトしようとしたのだ。
それが「完結篇小説」の新設定だったのではないかと思う。
イエス・キリストが死んだように、石森章太郎も死ぬ。
しかし、キリストが死んでも、神は在る。
神が在るから、この世界は続く。
そして、終末は黙示録として語られる。
たとえば、聖書を記したのは、イエス・キリストではない。
「論語」を記したのは、孔子ではない。
その「弟子」たちだ。
彼らは、師の言葉の断片をかき集め、書物を編む。
それをどう解釈するか、どう読むか。
その後の人間が神を知るための唯一の手がかりは、その書物なのだった。
石森章太郎は、完結篇を小説で書こうとしていた。
なぜそんな面倒なことをするのか、と当時の私は思った。
今は、思う。
それは、小説はマンガではないからだ……と。
石森章太郎が描いた全てのマンガは、石森章太郎の「作品」だ。
「サイボーグ009」だって、本当はそうあるはずだった。しかし、その枠をわずかにだったのかもしれないが、超えてしまったのだ。
「サイボーグ009」は作品ではない、世界だ。
だから、ただの人間である石森章太郎にその終末を創ることはできない。
石森章太郎は、神の座から下りた。
そして、預言者として「完結篇」を創ろうと試みたのだと思う。
有限の命しかもたない、人間ができる限界がそれだった。
死の直前まで、完結篇の執筆を続けた……という石ノ森章太郎のエピソードは嘘ではないと思う。
人の子として、預言者として、石ノ森章太郎は世界の断片を残した。
「完結篇」構想ノートの中には、ほとんど完成した小説に近い状態だったという002の章や006の章があるのと同時に、タイトルしかない章もあったという。
だから、もし石ノ森章太郎がもっともっと長生きしていたら、完結篇小説は完成していたのかもしれない。
とはいえ、人間の寿命としての年月が最大限与えられたとしても、完結篇小説の完成は無理だったような気はするけれど。
が、たとえ完成したとしても小説は、小説だ。
マンガそのものではない。
小説を書いたあと、それをマンガ化する、とも石ノ森章太郎は言った。
なぜそんな二度手間をかけるのか、と当時の私は思った。
二度手間ではない。
石ノ森章太郎は、神そのものの座から下り、神の言葉の断片を書き綴る者になろうとしていた。だから、それが道半ばとなったときは「後継者」に後を託した。
自分自身が、既に後継者たちと同じモノでしかないからそうできたのだと私は思う。
完結篇は、バイブルや論語のようなものなのだ。
小説として読もうとしても読めない。
もちろん、作品でもない。
作者は、いない。
預言者・石ノ森章太郎の死後、小野寺丈氏やシュガー佐藤氏らがその言葉の断片を拾い上げ、つなぎ合わせ、ひとつの書物、マンガ作品へと編んだ。
弟子は弟子であるがゆえに預言者と比べられ、その不肖を嘆かれる。
生前の預言者に傾倒していた信者に、あの方はそうおっしゃってはいなかった!あの方の教えをゆがめるな!と非難され、憎しみを受けることもあるだろう。
信者からニセモノ、詐欺師とそしられ、全面的に否定される。
それが弟子たちの宿命ともいえる。
しかし、それでも彼らがやらなければならないのだった。
彼らは信者ではなく、預言者の弟子だったから。
どんなに預言者の教えを熟知する優秀で熱意のある信者でも、彼らの代わりは決してできない。
神が作った世界を神なき世界で守り続けるために、彼らは編まなければならない。
あらゆる障害も不条理も超えて、編まなければならなかったのだ。
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