5 イシノモリとオリジナリティ
石ノ森章太郎の作品のうち、人々に最も強い印象と影響を長く与え続けたのは、まず「仮面ライダー」であろうと思う。
現に、今でも「仮面ライダー」は現役ヒーローとして活躍し続けている。
そして別の意味で、長くたゆみない、他の誰にも真似できない石ノ森章太郎の仕事として特筆するべきは、「日本の歴史」を代表とする学習マンガの数々である。
しかし、石ノ森章太郎のライフワーク、といったとき、一番に挙げられるマンガは「サイボーグ09」なのだ。
それは私がこの作品のファンであるからそういう情報しか得ていない、ということではないと思う。
仮面ライダーがライフワークと言い切れないのは、その「作品」において、漫画家・石ノ森章太郎は原案の提供者でしかないから……なのだろう。
そして、学習マンガがそうなり得ないのも、それと同じ理由だと思う。
ライフワークとは、その作家の人生と重なる仕事でなければならない。
仮面ライダーや学習マンガはそうじゃないか!どこが違うんだ!と、それでもなお私は思う……けれど。
でも、これらに「ない」あるいは「ないと思われている」ものは、言うまでもないが、作者・石ノ森章太郎の「自己表現」なのだった。
ある「作品」が誕生するのは、もちろん作者がそれを「描きたい」と思うからだ。
作品の存在を支えるのはひとえに、そうした「作者」の「個」としての欲求だといえる。
少なくとも、私たちはそれが当然だと信じている。
例えば、新製品を宣伝するためのパンフレットの文言は、それがどんなに洗練された魅力的な文章であっても、「作品」と認識されることは希だし、その作者について私たちが思いをはせることもまずない。それは、パンフレットに書かれている文章を支えるのが、その作者の「個」としての思いではないからだ。
仮面ライダーや学習マンガはそれに似ている。
もちろん、石ノ森章太郎がそれを描きたいと思わなければ、その作品は成立しなかっただろう。
が、連綿と続く仮面ライダーシリーズのエピソードのひとつひとつが、石森章太郎という個が個の要求のままに創り出した「作品」の「実写化」されたものだとはちょっと言いがたい。
極端なことを言えば、石森章太郎が描いた本郷猛や一文字隼人が登場するマンガ「仮面ライダー」でさえ、あのテレビ番組を石森章太郎がコミカライズしたものだと言われても違和感を感じない。
それは、ずっと後に石ノ森章太郎が描いた「仮面ライダーBlack」と比べてみるともっとわかりやすい。こちらの方はむしろ紛れもなく、石ノ森章太郎の「作品」だという感じがする。
ところが、それもまた同タイトルのテレビ番組ができ、その後番組としてさらに新しい仮面ライダーが作られ……という流れを止めることはできなかった。
学習マンガについても似た事が言える。
何を描くかということはもちろん石ノ森章太郎の個としての欲求が定めなければ始まらない。
しかし、歴史や科学を人々に「伝える」という目的のもとで、その個としての欲求は大きな制限を受けざるを得ない。
石ノ森章太郎にはオリジナリティがない、という批判はよく聞かれたことだ。
そんなことはもちろんないのだが、そう見ることも不可能ではない。
石ノ森章太郎の個としてのオリジナリティは、かなり異質であって、私たちがごく自然に考える「作者」と彼との間には、どうにもならない溝があるように思う。
そんな中で、「サイボーグ009」だけは「違う」のだった。
この作品だけは、石ノ森章太郎という「個」が創出し、その全てが「個」を基盤として成長していった……と思われている。
だからこそ「サイボーグ009」は、その断続的ではあったものの長い連載期間が石ノ森章太郎の人生と重ね合わせられ、「ライフワーク」と呼ばれるのだと思う。
一方、オリジナリティという視点で見ると、こんな奇妙な現象もある。
石森章太郎が他人の小説をコミカライズした作品は、なぜか原作者の色合いを離れ、石森章太郎に染められてしまうような感じで読めることがあるのだった。
平井和正「幻魔大戦」を始め、沼正三「家畜人ヤプー」や小松左京「くだんのはは」など、かなり個性的な作家の個性的な作品でも、石森章太郎がコミカライズすると、それはコミカライズというよりも、石森章太郎が創った世界そのもののように見えてしまう。
ついでにいうと、「日本の歴史」だってそうなのだ。
あれをつらつら読んでいくと、描かれている内容は紛れもなく現実の日本の歴史でしかないのに、石ノ森章太郎が作りあげたフィクション世界における「日本」という国の架空の歴史が描かれているような気がしてしまう。
石森章太郎は、そして石ノ森章太郎は、ヘンだ。
何がヘンなのか、長い間うまく説明できないと思いつつヘンだなー、と思っていた。
大学生の頃、何かに取り憑かれたように集めまくった石森マンガは、どれを読んでも同じように見えるのに、だからといって粗製濫造の没個性的なマンガには見えない。
そもそも「個性」とか「自己表現」って何なのか。
私たちは、ついついそれを作者の「心」、内側から生まれるモノだと考える。
だから、私たちはパンフレットの文言を「作品」とは思いにくい。
しかし一方で、非常に優れたパンフレットの文言を次々に生み出す作者なら、長い実績を積むうちに、名のある「個性」として認められることもあるだろう。
ただ、その場合、たとえばその作者の特に優れた「代表作」をひとつ挙げたとしても、それはどうしてもただのパンフレットの文言であり「作品」ではない。
もしかすると、イシノモリのオリジナリティは「作品」を通じて現れる性質のものではないのかもしれない。
更に言えば、その唯一の例外が「サイボーグ009」だということなのではないだろうか。
石森章太郎のマンガを読み、そしてそのライフワークだという「サイボーグ009」を追ううちに、要するにそういうことを考えなければいけないんだよなー、と、私は思うようになったのだった。
6 作者と読者
ずいぶんあちこち飛んでしまったけれど、もう一度、「光と翳と」に戻ってみる。
石森章太郎は他の場でも何度か語ったことがあると思うが、少年の頃は「姉に読ませるために」マンガを描いていた、という。姉が一番の読者であったと。
実際には、近所の子ども達も読んだというし、ほどなく投稿されるようになったソレには全国のファンがついていたわけだが、むしろ、そうであってなお「姉に読ませるために描いた」と述懐する思いに注目したいのだった。
身体が弱かったから、姉は、自分の希いを弟に託した。それが、弟への思いとなった。身勝手で、我儘な弟だったが、姉はいつでも優しかった。
石森章太郎はこう書いている。
姉が実際にどう思っていたのかについては本人のみが知るところだろうが、少なくとも石森章太郎はそう思っていた。そして、その姉が唯一の読者、という思いも彼の中にあった。ということは、姉に読ませるため、姉を楽しませるため、というのは、そのまま自分を楽しませるため、ということでもあったのだろうと思う。
更に「姉が読んでいた」と振り返る「少女クラブ」へのデビュー。
それならば、初期の石森章太郎は、どんな雑誌にどんな作品をどれだけ描こうと、どんなに多くの読者がつこうと、結局は「姉=自分」に読ませるための作品を描いていたということなのかもしれない。
「光と翳と」で強調されているのが「少女クラブ」の休刊で、それが世界旅行への動機、「逃避行」の始まりだったかのように、石森章太郎は書いている。
当時文字通りの売れっ子で、新しい雑誌からも引く手あまた、眠る時間もないほどの人気作家であったにも関わらず、「少女クラブ」の休刊がそれほど大きな衝撃として意識されたのは、「姉=自分」に読ませる、という姿勢が許されなくなった、という実感が生じたからではないかと思う。
現実はとっくにそれを超えていたのに、自分では認めていなかった……ことを、認めざるを得なくなった、のかもしれない。
石森章太郎作品を一生懸命読みあさっていた大学生の頃、私がこの作家について人と語り合ったことはほとんどなかった。
世間では石森章太郎は仮面ライダーの原作者、特撮ヒーローのエンタテイナー、というイメージで片付けられ、マンガを読んでもどうもピンとこない、個性が感じられない、よくも悪くも絵だけは達者……という評価であるように思われたからだ。
そうではない、と思っても、なぜそうではないのか、が説明できそうになかった。
が、そうした評価の中でも、初期作品だけは違うよね、という声はよく聞かれたのだ。
なんだかほっとするような気持ちで、いわゆる初期作品を古書店で探し、片端から読んだ。
たしかに、スゴイなー、と思った。
そして「初期作品」の定義はおそらく「サイボーグ009」以前の作品、ということだったのだ。
ということは「サイボーグ009」は作家・石森章太郎のライフワークでありつつ墓標みたいなもの……なのか。
これも違うとは思ったけれど、なぜ違うのか、が説明できそうになかった。
そんなわけで、私は長い間こそこそとファンを続けていたのだった。
その頃、石森章太郎とは全く別の分野で私は「個性」「自己表現」についての考え方を得ていた。
別に、新しい考え方ではない。ただ私が知らなかっただけで。
高校を卒業するまでの私は、優れた文学作品の感動は、作者が優れた自己表現を達成することによって生じるものだと漠然と考えていた。
だから、作者の自己表現でないモノはつまらない。それが当然だとも思っていた。
が、たとえば短歌や俳句のような定型詩では、自己表現のエネルギーだけではなくむしろ形式美、その後ろにある表現の積み重ねというようなモノの力が人を感動させることがある。
柿本人麻呂の長歌が素晴らしいのは、柿本人麻呂の人生そのものや歌おうとした内容が個性的で素晴らしいのではなく、様式の用い方が絶妙で、人々の心を強く動かすものだからなのだった。
大学で「万葉集」を学ぶうち、私はこうしたことを知識というより、実感で感じられるようになっていった。
日本の近代文学に「私小説」というジャンルがある。
作家が自分のありのままの人生を本当にありのままに描くというとてつもない手法による小説で、その系統の先にあるモノが「純文学」と呼ばれた。そんな空気がまだわずかながらも残っていた時代を私は覚えている。
その中で、SFのような完全なフィクション作品はひとつ下のモノ、軽い読み物、と扱われていた。
そこからは「作家自身」を読み取ることができないからだ、ということで。
もちろんそんなはずはない。今そんなことを言う評論家がいるとも思えない。
が、一方で「個性」とは何か?自己表現とは何か?それは作品とどう関わるのか、感動とどう関わるのか……それを追求した結果として「私小説」があるのも間違いない。
自己を存分に表現するために、自分自身をありのままに描く。それが自己表現の理想だろうか。
そうかもしれない。でも、それだけではない。
自己表現は、個性は、作者と作者にとって他者である読者がいて初めて実現する。
単に自分の描きたいモノを描く、ということだけでは実現しない。自分の思いを、自分自身を表現した、というだけでも実現しない。読者が受け入れてくれなければ何も始まらないからだ。
同時に、読者が求めるものをただそのまま描いたのでは自己表現にならない。読者はそうした作品も決して受け入れない。
簡単に結論することはできないが、韻文などの様式は、そういう作者と読者を結ぶ役割を果たすのだと言える。
石森章太郎の最初の読者は姉だった。
自分とほとんど等しい存在であるその人のためだけに石森章太郎は描いた。
自分が描きたいものを、自分が読みたいものを、自分のために描く。それが石森章太郎の初期作品だったのではないか。
それでも、読者は読んだ。
それはなぜか他者であるはずの不特定多数の読者に熱狂的に受け入れられたのだ。
それを可能にし、作者と読者をつないだのが石森章太郎の絵の力だった。絵そのものと、斬新なマンガの手法。
特に手法については、他の作者がマネすることも可能だったし、ついでに言うと、石森章太郎がゼロから作りあげたものでもない。ひとつの「様式美」のようなものだったのではないかと思う。
が、たまたま、初期の石森章太郎にとってはそれらをも含めて「自分の描きたいものを描いている」だけであったゆえに、読者がどのように作品を受け入れているのか、ということについて考える必要がなかったのかもしれない。
姉の死、「少女クラブ」の休刊……自分は自分であり、作者であり、同時に読者であることはできない。その事実をつきつけられたとき、初めて、石森章太郎は「読者」という他者を知ったのかもしれない。
が、そのとき既に作者と読者は、彼が編み出した「マンガ」という様式によっていつのまにか結ばれていたのだ。
石森章太郎が他者としての読者を知ったとき、その他者は、もう自己と切り離すことのできないモノとなっていたのだと思う。「マンガ」という手法を用いるかぎり。
石森章太郎のマンガは、誰でもわかる、誰でも描ける、万人をつなぐ「様式」によって描かれている。
しかし同時に、彼の描く「線」は彼にしか描けないものであり、「様式」を操る能力も彼にしかないモノだった。
そんな石森章太郎のマンガが、読者と作者を直接つなげてしまう。
作品は作者だけのモノでなくなっていく。同時に、それらが彼にしか描けないマンガである以上、作品が読者に支配されることも決してない。
そういう作者が、たとえば私小説作家がそうしたように「自己」そのものを作品に投影していくのは危険であると同時に、不可能なことなのではないかと思う。
実際、石森章太郎は次第にそれをしなくなっていったし、中期後期でまれにそれが見られる作品は、ごくコアなファンだけが高く評価するものとなり、大ヒットとはなっていない。
代表作のひとつと言われる「ジュン」は、まさに「詩」であると評価されている。
「ジュン」に表されているのは形式美を操る、という意味での石森章太郎の得がたい個性だ。手塚治虫が「火の鳥」で表したような種類の自己表現は「ジュン」に見られない。
しかし、「サイボーグ009」だけは違う。
特にその成立において「サイボーグ009」には、ごくオーソドックスな意味としての石森章太郎、或いは小野寺章太郎という人間の「自己」が力強く込められており、しかもそのことを作者も読者もついに忘れることができなかった。
それが「サイボーグ009」の、そして「完結篇」への軌跡となる。
「サイボーグ009」が石森章太郎の最高傑作といえるのか、それはわからない。
が、自己と読者、そして世界との関係を最も鋭い痛みとともに作者が感じ続けた作品であることは間違いない。
それはもしかすると、石森章太郎のような作家なら、決して描いてはならない作品だったのかもしれない。それなのに生涯描き続けた……それに作者が耐え抜いて描き続けたのが「サイボーグ009」なのだ。
その現象こそが石森章太郎独特の個性であり、才能であり、オリジナリティであったのだと言える。
7 かさぶた
「光と翳と」に、こんな一節がある。
大人になると”感性”が鈍る、と言われるが、それはウソだろう。
生来の差こそあれ、”感性”そのものは変わりはしないのだ。
外から、ときには内から、の、様々な刺戟の刃で傷つき、傷つき、傷ついて、その生傷を癒すたびに出来るカサブタが、次第に、甲羅の如くに固くなり、刺戟に対して敏感でなくなる。甲羅を経る、というわけだ。ただそれだけのことなのだ。
他者に向けて自己を表現するということは、皮膚を切り裂き、血を流すことに似ている。
自己の内側にあるものを、自己とは相容れない外界へと放つのだ。
その鮮烈さが、その熱さが、他者の心を動かす。
もちろん、それには痛みが伴う。
いつでもどこでも好きなときにやっちゃうよ、というわけにはいかない。
見せて、と言われたから見せる、というわけにもいかない。
例えば、トマトケチャップをぶちまけてみせたりすると、そのときはおお、と思ったとしても、やはりインパクトが弱い。
ケチャップを用いて次々に美しく新しいパフォーマンスを披露するタイプの表現者はいるだろうし、必要でもあるだろう……けれど、それはやっぱりホンモノじゃないよなあ、と評価されてしまいがちだと思うのだった。
流れ出た血は他者を感動させ、やがて黒ずみ、かたまり、血ではないモノになる。
それがカサブタだ。
カサブタを見てもつまらない。
美しくもないし、血を流す瞬間、自己と世界がふれあう瞬間も既に通り過ぎている。
一方で、カサブタは危ういモノでもある。
その下には依然として流れる血があり、鋭い痛みがあり、何よりもそれは「剥がす」ことができてしまうのだ。
石森章太郎は、「少女クラブ」に続くさまざまな雑誌の廃刊や休刊をいちいち「自分のせいだ」と痛みに感じることはなくなっていった……と述懐する。そんな自分を「カサブタが厚くなって」いったのだ、と語った。
良かれ悪しかれ、そうしなければ人は生きていけない。
しかし、その厚い甲羅は結局カサブタにすぎない。痛みや血を流すことから無縁になったわけではない。それを石森章太郎は決して忘れていなかった。
島村ジョーはどんなに形を変えようと石森章太郎の線で描かれている以上、島村ジョーにしか見えない。しかし、一方で、強いて言うなら……であるが、いわゆる後期作品の島村ジョーの評判は、初期中期に比べるといまひとつ、のように思える。
それを「カサブタ」と同じだ、と言ってしまうのは乱暴だろうか。
石森章太郎は、少なくとも「サイボーグ009」を描くときには、血を流さずにはいられなかったのではないか。耐えがたい痛みを覚えずにはいられなかった。
「サイボーグ009」の完結を石森章太郎がマンガで表現した最後の作品といえる「神々との戦い」篇の最終話には、日本の雪深い田舎に出現するUFO群が描かれている。そこに009たちの姿はない。
初めて見たのは、古本屋で買った「COM」の誌上でだった。
なんだろうこれは?と、もちろん思った。
が、それと同時にほとんど反射的に思ったのが「そうだよな、石森さんは宮城の人だったし」ということ。
そのときはそれ以上深く考えなかった。
が、そこには深い意味があったのかもしれない、と今では思う。
なぜなら、石森章太郎、或るいは石ノ森章太郎は、「サイボーグ009」において、他ではほとんどそういう描写をしていない……つまり、小野寺章太郎を思わせるモノを描いていないからだ。
「完結篇」を描くと決意し、始めた連載が、どうやら「他者」には受け入れられないモノとなってしまった。
その打ち切りとなった最後に、石森章太郎はこのシーンを描いた。
「サイボーグ009」は、他の作品とは違う、石森章太郎、小野寺章太郎のモノであるのだ、というメッセージがここに込められているように思うのだった。
実際に、島村ジョーが東北の寒村でどう活躍するのか、私にはちょっと想像がつかない。
そして、結局石森章太郎はそれを描かなかったし、小野寺丈も書かなかった。
でも、石森章太郎はそれをどうにかして表現したかったのだと思う。ついでに言うと、読者もそれを読みたかったのかもしれない。
それは、幻でしかない、決して実現しえない「完結篇」の形なのだと思う。
石森章太郎の描く線は美しい。
その線が、彼自身の鮮血で描かれていれば、それはもう、壮絶に美しいものとなるだろう。
しかし、もちろんそんなことはできない。
それでも石森章太郎はそれをやろうとした。
彼は、「サイボーグ009」を血に似せた色のインクをふんだんに使って描こうとは、最後までしなかったのだと思う。
もちろん、限界はある。
血はカサブタとなり、それはしだいに厚くならざるを得ない。
カサブタそれ自体は美しいものではない。
読者はそこにいくばくかの不満をいだきつつ、でも、離れることはなかった。
石森章太郎は「サイボーグ009」よりももっと洗練された作品を数多く残した。
しかし、そこに石森章太郎の血の匂いはしない。
彼は、そこで勝負する作家ではなく、むしろそこから最も遠いところに優れた個性をもつ作家だった。
少量の血を十分に匂わせる手法をほとんど持たない彼は、ひたすら、愚直に自分の血を流し続け、描き続けるしかなかった。それが「サイボーグ009」だ。
「完結篇」を描くための血はもう残されていないかもしれない、と知ったとき、石森章太郎はそれをマンガで描くことから離れたのではないかと思う。
そのために、自らを「作者」の位置から追放した。
石ノ森章太郎が完結篇の「著者」に長男を指名したのは、完結篇がそういうものであったからだ、と私は思う。
完結篇小説は、もともと私たちが普通に読む「小説」ではない。
小野寺丈は比喩ではなく、石ノ森章太郎に最も近い「血」を持っている。
だから、完結篇を書くべき人間は、彼しかあり得ない。
問題は、それを小野寺氏が「やる」と決意できるかどうかだ。
小野寺氏は、決意した。だから、完結篇小説は完成した。
それをマンガにするのも、石ノ森章太郎に最も「近い」者でなければならない。
これもまた、問題は、その立場にいる者たちがそれを「やる」と決意するかどうかだったわけだが、彼らもまた決意したのだった。
できあがった作品は、石ノ森章太郎の「サイボーグ009」がそうだったように、カサブタ、だった。「サイボーグ009」であるのなら、それはまず、第一にそうでなければならなかったからだ。
カサブタが美しいはずなどない。
しかも、その血は、それに限りなく近いモノではあるが、石ノ森章太郎のモノではない。
それなら、完結篇には作品としてどんな意味があるのか、読者にとって何のメリットがあるのか……ということになる。
普通に読む「小説」あるいは「マンガ」ではない、というのはそういうことだ。そういう意味での作品としての価値は、完結篇にない。ついでに言うなら「神々との戦い」後、石ノ森章太郎の生物的な意味での衰えとともに衰えるしかない宿命をかかえていた「サイボーグ009」の後期作品群にも、多くの価値はない、ということになる。
それでも、ごくわずかであっても、後期作品群は石ノ森章太郎の血で描かれていた。
そして何より、他の石ノ森章太郎作品と同様、その作品群は石ノ森章太郎の線で描かれていた。
その二重の意味で、完結篇は石ノ森章太郎による「サイボーグ009」と違う。
完結篇から感じるのは、作品としての感動ではない。
石ノ森章太郎という作家が生涯戦い続けてきた事実とその痛みの実感だ。
そしてもうひとつ、完結篇のプロット……神と天使と人間との関係から読み取ることのできる、石ノ森章太郎が抱いてきた「人間」への切ないまでの信頼感だ。
彼は、島村ジョーは、決して「人間」を見捨てなかった。これ以上ないという絶望の淵にあっても、人間の崇高さを信じ、決して相容れることのない他者とであってもわかり合える奇跡を信じ、戦い続けた。
ヨミ篇後の「サイボーグ009」における石森章太郎と読者の関係は、神と信者のそれに等しい。
しかし、石森章太郎は確実に神ではない。
神でない者が神を装うのなら、それは詐欺だし、神でない者が自らを神と思い込むのは狂気でしかない。
石森章太郎は生前、そのどちらの道も明確にはとらなかった。それでいて神の座を捨て、信者を見放すことも決してしなかった。
その危うさに耐え、痛みに耐え続けることができたのは、彼が読者を、つまり他者を……ということは、自分も含めた「人間」を無条件に信じていたからではないかと思う。愛していたから、と言ってもよい。彼が、姉を愛していたように。
石ノ森章太郎のカサブタを私達が目にすることは二度とない。完結篇を見れば、それが否応なしにわかる。
しかし、同時に私は思い出すのだ。私たち一人一人の体にも血が流れている。私たちも石ノ森章太郎と同様、カサブタを持っているのだ、ということを。
だから、私はそのようにして島村ジョーを、フランソワーズ・アルヌールを、アイザック・ギルモアを理解する。自分の血として感受することができる。
「サイボーグ009」完結篇を読むことの本当の意味はそこにある、と私は思うのだった。
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