第三章 島村ジョーが消えるとき
それで、ようやく島村ジョーにたどりつく。
仮定に仮定を重ねている感じではあるのだが、島村ジョーも、石森章太郎の手によって生み出されたものである以上、本郷猛と同じだ…と考えて、ひとまずよいと思う。
というと、たとえば島村ジョーのあの独特の髪型はなんだ、アレは「形」ではないのか?という疑問も生じるかもしれない。
たしかに、島村ジョーにはかなりしっかりした「形」がある…ような気がする。
なんといっても、シルエットだけで「あ、島村だ!」とわかってしまうわけだし。
ただ、「サイボーグ009」に、そうしたなんらかの特徴的な唯一の「形」があるように見えるのは、単に「早い者勝ち!」の結果…というか、身も蓋もない言い方をすれば、錯覚にすぎない、と思うのだった。
「009」は、本当に「新しいマンガ」だったのだと思う。
特に、初期の…ヨミ篇までの時代では。
それまで、誰も書いたことがない、誰も見たことがないマンガ、というか……
だから、石森章太郎が作った「サイボーグ009」は容易に「唯一のもの」のように見えてしまったし、誰もが…作者も含めて、「これは唯一のものだ!」という「扱い」をしてしまったのではないだろうか。そんなわけで、その主人公・島村ジョーにも輪郭…「形」があるように、つい思えてしまう。
でも、それは錯覚にすぎない。
そういえる根拠は、原作における彼の外観の著しい「変化」である。
初期・中期・後期…などとよく言われるこの変化を、なぜか多くの読者はとりあえず受け入れてしまっているのだった。もちろん、どれが一番好きか、みたいなコトを言えば、いろいろな意見が出てくるのだろうけれど。
でも、そういう好き嫌い、というレベルではなく、自信を持って「これは島村ジョーではない!」といずれかの島村ジョーを否定することができる読者はそれほどいないのではないか、と思う。
ただし、そう思うのは、私が今、ヨミ篇後にいるからなのだ。
ヨミ篇までの「009」は、多分、そうではなかった。
読者はもちろん、もしかしたら作者さえも、「009」が今ある「形」を越えて存在しうる、ということなど、想像していなかったのではないか。
それは、「009」が唯一の「形」を持つ作品だったから…ではない。
「009」もまた石森章太郎の作品であり、したがって、そこに描かれていたのは、決して「009の絵」ではなく、「009」という概念だったのだ。
が、ヨミ篇までは、そこにある絵としての「009」以外の「009」を誰も想定できなかったし、する必要もなかったのだ…と思う。
「サイボーグ009」はまた、石森章太郎自身が時折語るように、たまたま、作者個人の人生において節目となる時期に、まさにその象徴のようにして書かれた作品だった。
作者が自分の人生と重ねつつ描き、なおかつ、当時としては他に類を見ない斬新な作品。
それが、「サイボーグ009」だった。
この極めて特殊な状況が、石森章太郎の持ち味を隠してしまった…と、私は思う。
初期の「サイボーグ009」は、作品を取り囲むさまざまな状況が作り上げた強固な枠組みの中にキチンと収まっていて、それゆえに、「形」を持つ作品のように見えていたのだと思う。
ヨミ篇までの「サイボーグ009」は、たしかに完成された宝石のような作品だと思う。
が、そこに描かれている「線」は、まぎれもない石森章太郎の「線」でもある。
したがって、島村ジョーもまた、実はただの絵ではなく、ひとつの概念、幻想として、美しい枠組の中に存在しているモノだった。にもかかわらず、その枠組みの美しさ故に、ただの絵であるかのように見えていたのだ。
その美しい枠組みは、枠組みであるがゆえに、作者によって「終わり」を遂げる。
その瞬間から、島村ジョーは当然のように、そこからさまよい出ることになった。
そうするしかなかった…のだと思う。
前章で、豊臣秀吉、と言ったけれど、豊臣秀吉の物語に「終わり」があるのは、もちろん彼が死んだからだ。
同じように、島村ジョーの死が描かれれば、島村ジョーの物語は終わるはず。
一見正しいように見えるが、そこにはとんでもない錯誤がある。
豊臣秀吉の命の終わりを決めるのは、役者ではなく、脚本家でもない。
地上にあるどの人間であろうと、それを決めることはできない。
島村ジョーが石森章太郎によって「殺された」とき、一部のファンが過剰なまでの違和感を感じたのは、そして、他ならぬ石森章太郎自身が、自らそれを覆さなければならないと決めた大きな原因は、そこにある…という気がする。
完璧に作り上げられた物語の枠が消えたとき、島村ジョーは本来の姿となった。彼は「形」を失ったのだ。石森作品のごく一般的なキャラクターたちのように。
…しかし。
ここがまたややこしいのだけど、「サイボーグ009」を希有な作品として愛した読者、そして作者は、形を持つ作品としての「009」を愛していたのだ、ともいえる。
だから、本来の姿となった島村ジョーは、読者にも作者にも、しだいに戸惑いと混乱をもたらした。
もうひとつの石森章太郎を代表する作品「仮面ライダー」は、その点、幸福な作品だったと思う。
本郷猛は、変幻自在に形を変えつつ現在に至っている。
読者も作者もそれを受け入れ、それを享受することができたのだった。
現在も作り続けられている「仮面ライダー」には、本郷猛の面影など残っていない。
にも関わらず、仮面ライダーは仮面ライダーであり続ける。それ以外のモノになったりはしないのだ。
島村ジョーも、同じ道を進もうとしていた…のだと思う。
それが新ゼロであり、超銀だった。
そのまま放置すれば、さらにいくつもの島村ジョーが生まれていたはずだと思う。
彼らはいずれも、ヨミ篇までの島村ジョーとは違う、にもかかわらず島村ジョーでありつづける存在で…
…しかし。
それは違う!
と、叫ばずにはいられなかったのだ。
読者も、そして、作者も。
完結篇は、こうして求められるようになった。
「サイボーグ009」は完結させなければならない、と読者も作者も考えるしかなかったのだと思う。
「009」が「009」であるために。
未完に終わった「天使篇」は、「非常にスケールの大きな作品」になるはずだと、石森章太郎は語っていた。
島村ジョーを、なんとか捕らえなおすために、新たに、より大きな枠組みを作る…というのは、まず自然にたどりつくやりかただと思う。
が、言うまでもないことだが、それは程度の問題でしかない。
どんな大きな枠を作ろうと、概念としての島村ジョーはいずれはそれを拒否し、それを越えていくにちがいないのだった。
やがて「天使篇」は中断され、「神々との闘い」もまた未完に終わった。
一方で、インサイドストーリーと呼ばれる作品群が生み出されていった。
インサイドストーリーの多くにおいて、島村ジョーは登場人物というより傍観者に近い。
それもやむを得ないことだった。
もし、本格的に登場人物として動かしてしまったら、島村ジョーは「島村ジョー」からぐんぐん離れてしまっただろうから。
彼がそうなることを誰も望んでいなかった…のではないか、と私は思う。
読者も、そして、作者も。
ヨミ篇の完結によって、島村ジョーは解き放たれ、それまであった「島村ジョー」は唯一の「形」ではなかったのだということを強烈に示しつつ復活した。
一方で、解き放たれた島村ジョーは、「島村ジョー」を愛する読者と作者によって、形なき本来の姿で存在しつづけることを許されず、新しい場所を与えられることがなかった。
そのようにして、島村ジョーは少しずつ居場所を失っていった…のだと思う。
しかし、いずれにしても、ヨミ篇までの美しい「島村ジョー」は年月の中で忘れられる運命にあるはずで。
実際、私が初めて出会った島村ジョーは、おそらく概念としての島村ジョーだった。
美しい「島村ジョー」にこだわりつづければ、概念としての島村ジョーを窒息させる。
が、概念としての島村ジョーを認めてしまえば、「島村ジョー」が消滅してしまう。
この手詰まりの状態から、島村ジョーを救う方法が「完結篇」だったのだと思う。
物語が完結すれば、新しい島村ジョーは生まれない。
が、それによって「島村ジョー」独自の輝きは守られる。
新しいものが生まれないことと、そのものが消滅することと、どちらを選ぶか。
「完結篇」を前にして、読者はそのどちらかを選ぶことに苦しみ、でも結局は後者を選ぶしかない…のだと思う。
しかし、苦渋の選択として、ついにそれを選んだとしても。
どうやってこの物語を終わらせたらいいのか。
読者はもちろん、石森章太郎も島村ジョーを消すことなど、できない。
「神」が出てくるのは、その辺りからだと思う。
が、その「神」を作るのも結局のところ、人間でしかない作者石森章太郎なのだとしたら、前述したように、それは程度の問題でしかないのであり、本当の解決にはならない。
これ以上どう考えても出口はない…ような気がする。
そこで、そもそもの問題に立ち戻ってみるのだった。
「サイボーグ009」が終わらないのは、石森章太郎のマンガ家としての才能…というか、個性のためだ、と私は思う。
それならば。
マンガが…あの「透明な線」が描かれなければ、何かが変わるのではないか?
完結篇を小説で表現する意味は、そこにあった、と思う。
ただ、それは実際のところ、おそらく物理的な、すなわち、かけなければならない時間の問題として、実現されなかった。
マンガと小説とでは表現方法がかなり違う。
マンガを書くことにおいて天才である石森章太郎が、そのマンガと同じ速度で…つまり、イメージ通りの速度で小説を書くことは、やはり無理だったに違いない。
だから「残り時間」が少なくなったとき、石ノ森章太郎はマンガに立ち戻るしかなかった…のかもしれない。
島村ジョーが様々な雑誌やメディアで、その姿を変えながら愛されていったのは、彼独自の魅力からというよりは、石森章太郎の「透明な線」の力だったのだと思う。
その力に任せていれば、やがて島村ジョーによって「島村ジョー」は失われていったはずだ。
平ゼロが生まれたとき、それを享受する読者がいる一方で、とにかく何もかも気に入らない、見るのがつらい、と感じる読者も少なからずいた…のは、新しい島村ジョーが生まれることで、また「島村ジョー」の影が薄れたからだと思う。
平ゼロが「完璧な作品」ではなく、それなりにあれこれ欠点があることはもちろん否めないが、おそらく作品の出来がどうであろうと、この問題は変わらない。
新しいアニメとして、キカイダーは受け入れられる。
ギルガメッシュも、009−1もそれなりに受け入れられる。
問題になるのは、作品としての出来不出来だけだ。
でも、「サイボーグ009」だけは決してそうならない。
完結篇が作られることはたしかに悲しいことなのだけど、作られないとしても、それが幸福なことである…というわけではないのだった。
完結篇firstで、002の章だけは石ノ森章太郎が下書きまで仕上げていた…のだという。
読んでみると、たしかに、ジェット・リンクを包むのはあの「透明な線」ではなく、「石ノ森章太郎」の「輪郭線」であるような気がする。
ああ、石ノ森さんはコレをやりたかったのか…と思うと、感無量なのだった。
これなら、完結篇は完成できたのかもしれない。
生前の石ノ森章太郎が何度も繰り返し言ったように、「時間さえあれば」。
しかし、時間は尽きた。
だから…
完結篇は、もう見ることができない、と私は思っていた。
どんな表現方法を用いても不可能かもしれない、と思った。
が、どのみち、私が今まで見たことのある表現方法ではソレはできなかったのだ。
ソレができるのは、今まで見たことのない表現方法でのみ…だった。
完結篇firstは、そのことを私に改めて教えてくれた、と思う。
第四章 透明な著者
完結篇firstを読んで、すぐ感じるのは
すごくマジメに書かれている。
…ということだ。
マジメに書かれている、というのはどういうことか…というと、簡単に説明はできないのだけど…
例えば、動きの描写。
題材が題材なので、登場人物の動きは、どーしても多様に複雑になる。
それだけでなく、どこにも存在しないモノについてその外観や動きを描写しなければならなくもなる。
言葉で動きを描写することは難しい。
ハミガキをする、くつひもを結ぶ、という日常的な動作も、きちんと説明するのはものすごく難しい。
すべてを言葉にしてしまったら混乱するだけなので、どうしても何かを捨て、何かを選び取らなければならない。
もちろん、何を選ぶか、それを「決める」のが、作者の「意志」である。
完結篇firstでは、ソコに著者である小野寺氏の「意志」が見えない。
というのは、読んでいくと感じるのだけど、ものすごーく苦労した感じの描写が所々で見られるのだった。
何を書き何を捨てるのかを自分で選んでいるのなら、よりよい表現を自分で作り上げようとしているのなら、わざわざ書く必要はない…書かないで回避すればいいんじゃないのかなー?というような動きや光景も相当に苦労しつつ緻密に描かれているのだった。
マジメに書かれている、というのは、書ける書けないにかかわらず、ただ「そう書かなければならないからそう書く」というような感じが、文章全体からしている、ということだ。
「そう書かなければならない」と命ずるモノがあるのだとしたら、それはもちろん、石ノ森章太郎の意志…だろう。
完結篇firstの存在意義を思えば、それは当然のことでもある。
リクツとしては、単純なことだ。
が、そんな文章表現が表現として成立しているのを、少なくとも近代の商業ベースにのった作品の中に、私は見たことがなかった…と思う。
石ノ森章太郎の作品を、小野寺氏が書く。
そんなことができるわけはない。
できるわけはないのだけど、小野寺氏はそれをマジメにやり遂げようとしているのだった。
が、本当に「できるわけはない」…のだろうか。
そのコトをこそ疑わなければならない、と完結篇firstを読み終えたとき、私は思った。
ある表現が成立するためには、「作者」が必要だ。そして、「読者」も。
表現を作り上げるのは、作者と読者の意志だ。
石ノ森章太郎も、かつて繰り返しそう語った。
「ジョーはアナタのジョーでもある」と、常に読者に語りかけた。
が、前章で書いたように、そのどちらの力も、完結篇を作り上げることはできなかった。
実のところ、作者と読者の意志が作り上げる表現…というのは、近代以降に確立したのだ、といってよい。
私たちは作者の意志が作り上げるモノこそがオリジナルであり、表現の価値もそこにあるのだと無邪気に信じている…けれど、表現がそのようなものとなったのは結構最近のことなのだった。
たとえば「和歌」と「近代短歌」の違いもソコにある。
「和歌」を支えるのは「伝統」の力だ。
「近代短歌」を「作者」が支えるのと、それは対照的なのだった。
和歌においては、「自分の言いたいこと」より、「認められた表現」であることの方が優先される。
どんなに斬新であっても、そこにある種の共同性がなければ作品に価値はない。
が、それをいうなら「近代短歌」も同じで。
どんなに独創性があろうと、誰にもわからない表現は表現として成立しない。
ただ、「近代短歌」においては、作者による独創性の優先順位が、和歌に比べれば…というか、比べものにならないほど高いのだった。
近代に生き、個人主義・ヒューマニズムの中で生きる私たちに、それはわかりにくい。
けれど、どんな表現も、決して作者と読者の二者によってのみ作られているわけではない。
見えようが見えまいが、表現を作り上げるためには「第三の手」が必要なのだった。
完結篇firstの特性は、この三者のうち、私たちにとって何より大切に思える「作者」が見えなくなっている、ということだ。
小野寺氏は、その現実をねじ曲げることなく、そのまま受け入れつつ作品を作った…と私は思う。
それは不可能なことではない。ただ、難しいのだ。
日頃「第三の手」を視野に入れず、創作者とは「作者」のことだと信じている近代人には、あまりにも難しい。
小野寺氏はあとがきで、「作者」としての評価を受けることなく、「著者」としての責任を負う、という覚悟を語った。
もちろん、父への思いを支えとし、そういう覚悟を表明するだけなら比較的容易にできる。
が、小野寺氏は、まさにそのような文章を…作品を書いたのだった。
完結篇firstには「作者」がいない。
小野寺氏は自らが新たな「作者」になることなく、何をごまかすこともなく、透明な「著者」となった。
そして、透明な文章が私たちの前に出現する。
石ノ森章太郎が、かつて透明な線を描いたように。
表現を作り上げるのは、作者・読者・第三の手。
私たちが知る表現方法においては、このうち「第三の手」が見えなくなっている。
そしてその表現方法で、「009」の完結は成立しなかった。
完結篇firstでは、「作者」が見えなくなっている。
それによって、おそらく「第三の手」が前面に現れるだろう。
小野寺氏は透明な著者となり、これをなし得てしまった。
そんなことができるとは、想像していなかったのだ。
が、これで、「009」は本当に終わるかもしれない。
終わることが、できるかもしれない。
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