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記念品など

島村ジョーは誰のものか?・下
第五章 消滅する境界
 
 
完結篇firstにおいて、小野寺氏はいわば「巫者」の立場にある、といってもいいかもしれない。
そして、その役割を確実に果たそうとしている…とも思う。
…が。
 
忘れてはならないのは、石ノ森章太郎がこの完結篇を構想していたとき、完成された作品は小野寺氏による小説ではなく、石ノ森章太郎が描くマンガであったはず…ということなのだった。
結果として、完結篇firstは現在の形で私たちの前に登場し、その特殊性から、まさに完結篇の役割を果たしうる気配を見せているのだけれど……
 
もし。
もしも、これが石ノ森章太郎によるマンガ作品であったら、どうなっただろうか。
完結篇は完結篇たりえたのだろうか。
 
たぶん、完結篇は成立しただろう、と私は思う。
現在ある完結篇firstと同じように、そこには物語を終わらせる「第三の力」が現れ、ひきかえに「作者」は見えなくなっていたのではないか、と思う。
それを可能にするのが、平ゼロの最後に発表された「完結篇序章」で明らかにされ、この完結篇firstでも採用されている、新しい設定だ、と思う。
 
平ゼロでソレを初めて見たとき、正直、石ノ森さんはどうしちゃったんだろう?と、かなり戸惑った。
それより前、石ノ森章太郎の最後のエッセイ集に「009たちを現代の人間とする」という設定を見たときも、なぜそんなことをする必要があるのか、と思った。
 
その疑問が、今回、完結篇firstのプロローグとエピローグを読み、ようやく解けたような気がした。
そして、あとがきで小野寺氏が書いているように、たしかに、この世界こそがアナザーストーリーでもパラレルワールドでもなく、「サイボーグ009」そのものなのだ、と思えるようになったのだった。
 
病床の石ノ森章太郎の前に、突然現れるギルモア博士。
彼が語る、「サイボーグ009」の真実。
 
完結編序章のとき、どーにもわからなかったのは、ギルモア博士が一体何をしに石ノ森章太郎の前に現れたのか、ということだった。
が、今回、それはほぼ明確になった。
 
ギルモア博士は、自分たちの運命を少しでも予見したかった。
完結編序章で彼が語ったように、サイボーグたちは今まさに戦い続けている。
その戦いに勝利するためのヒントとして、また、悲劇の未来を変える力として、石ノ森章太郎の力を求めたのだった。
プロローグで、ギルモア博士は石ノ森章太郎に「ハッピーエンドを考えてくれ」と頼んだりもする。
 
しかし、一方で、ギルモア博士は、石ノ森章太郎の死を知っているのだ。
そして、彼の世界で発表されている「石ノ森章太郎全集」に、「サイボーグ009完結篇」は含まれていない。
 
ギルモア博士が去った後の病室で、石ノ森章太郎は、未来は変わる、奇跡は起こる…と、信じ、筆をとる。
自分が産んだサイボーグ009の最後の闘い、それは自分の最後の闘いでもある、必ず決着をつけよう…と決意を固める。
 
この、石ノ森章太郎とは、いったい誰なのか。
そして、この石ノ森章太郎の物語を書いている「作者」は誰か?
 
石ノ森章太郎は「決着」をつけるため、筆をとる。
その石ノ森章太郎を描く「作者」がいる。
だとしたら、「作者」はもちろん、「石ノ森章太郎」ではないのだ。
 
これを表す表現方法としては、アニメやマンガより小説の方がずっと優れている。
アニメだと、現実の作者と作中人物が同じ画面に現れる、という映像があまりに頓狂なので、そちらに目を奪われてしまい、見る者は混乱するだけで終わってしまう。
また、映像の印象はきわめて鮮明で具体的なので、やはり見る者は「この絵を描いた作者」が必ずこの世には存在する、それはもちろん「石ノ森章太郎」だ、という観念からどうしても抜けきれない。
 
石ノ森章太郎は、作者であることを捨てるため、作中人物になったのだ、と私は思う。
人間が作者であり続ける以上、「009」に決着はつかない。
 
結果として、石ノ森章太郎は物語を完成させないまま逝去し、本当に人間ではなくなってしまった。
そして、巫者としての小野寺氏が、その言葉を私たちに伝えはじめた。
が、その小野寺氏の役割を、石ノ森章太郎は自分自身で果たそうとしていた…のだと思う。
 
石ノ森章太郎が作中人物となったということは、彼と同じ次元にいる読者の私たちも作中人物となる…ことを意味する。
私たちは作者ともども、「サイボーグ009」の世界に取り込まれていく。
世界を分ける境界が消滅する。
 
かなり怪しい話をしているような気がしてくるが、これはそれほど奇異な現象ではない。
演劇などではごく当たり前にとられている表現技法だと思う。
 
全ての事象には終わりがある。
いわゆる無常観を改めて語るまでもなく、現実を生きる私たちはそのことを知っている。
だから、私たちをとりまくあらゆるモノが終わっていくように、「サイボーグ009」も終わる。
その終わりを決めるのは石ノ森章太郎ではなく、読者でもない。
 
サイボーグたちは懸命に生き、戦う。
石ノ森章太郎も。
そして、私たちも。
 
私たちの戦いの終わりを決めるモノと同じモノが、サイボーグたちの戦いを終わらせる。
私たちの物語を終わらせるモノと同じモノが、サイボーグの物語を終わらせるのだった。
その世界において、私たちにできること、または石ノ森章太郎にできるのは、終わらせることではなく、戦い続けることだけなのだ。
サイボーグたちとともに。
未来は変わる、奇跡は起こる…と信じて。
 
概念としての島村ジョーは、あまりに長く中空をさまよいすぎた。
彼は今では自由に私たちの街角に立つことすらできる。そういう存在になっていると私は思う。
だからこそ、彼の物語を終わらせるためには、私たちの現実を巻き込む必要がある。
 
なぜ終わらせなければいけないか、それは前章で書いたとおりだ。
私たちの街角に立つことができる島村ジョーは、もはや「サイボーグ009」の島村ジョーではないのかもしれない。 
それでも最後に彼に残された島村ジョーとしての在り方があるとするなら、それは、ただ、未来を変えるために戦う力だ…と思う。
 
「あとはゆうきだけだ!」と叫び、現実に立ち向かう。
それが、私たちに残された、最後の島村ジョーの「形」だ。
石ノ森章太郎は、そして私たちはただそれだけを頼りに、あらゆる現実と対峙し、そこから彼を島村ジョーとして拾い上げるしかないのだった。
 
完結篇がどんな結末を迎えるのかは、想像もつかない…けれど、そのストーリーがどのように展開し、どう終わっていくのか、ということに、私はそれほど興味を持っていない。
それよりも、この作品の在り方そのものを希有なものと思い、それを受け取ることができることを幸運だと思うのだった。
 
 
 
終章  島村ジョーは誰のものか?
 
 
なんだか怪しくなってきたなーと我ながら思うのだけど。
完結篇firstを読み、ふと思うのは、この小説を何の予備知識(?)もなく読んだら、どんな感じがするのだろうか…ということだった。
 
私自身が、それを感じることは不可能だ。
だから、想像しても仕方がないのだけど…たぶん、かなり違う感じを受けるんだろうなーと思うのだった。
 
私たちは、何かを他者と共有するために表現する。
そして、作者が「上手に」表現すれば、そして受け手が「上手に」それを受け取れば、たいていのことは伝わると思っている。
が、それだけでは伝わりきらないモノが必ずある。
 
完結篇firstの場合、この作品が表現するモノを受け取るためには、さまざまな「条件」が必要だと思う。
そもそも、そういう特殊な作品がメディアにのり、商業ベースにのることが異例だと思うが、それもまた完結篇firstを取り巻く「条件」のひとつなのだろう。
 
改めて原作を読んでみる。
生まれたばかりの島村ジョー。
石森章太郎が彼を作り上げ、読者はその姿に嘆声をあげつつ、素直にそれを受け取っていればよかった。
島村ジョーは完全に石森章太郎のモノだった…そのように見えただろう。
幸福な、宝石のような短い年月。
その記憶を、経験を、私はもっていない…のだけれど。
 
やがて、透明な線で描かれた彼は、物語の枠を越え、その姿は作者に、読者に、求められるまま自由に変化した。
それもまたまぎれもない「サイボーグ009」の魅力だった。
 
島村ジョーは石ノ森章太郎にも、読者にも決して操れないモノだった。
にも関わらず、強く愛された彼は、石ノ森章太郎にも読者にも決して手放してもらえなかった。
それならば、彼を手放さず、なおかつ彼を自由にする方法は、結局ひとつしかないのだ。
 
彼とともに生きる。
島村ジョーを手に入れるのではなく、私たちが島村ジョーになる。
 
結局、「サイボーグ009」を終わらせる、というのはそういうことなのではないかと思う。
 
小野寺氏が演劇に生きるひとだというのも、幸運だったと思う。
おそらく、舞台とはそういう場所だと思うからだ。
 
役者が演じ、観客が見るモノは、役者自身ではない。
ソレを感じるためには、観客は日常的な傍観者でいられない。
そして、役者と観客との間で「何か」が生まれるためには、それにふさわしい「場」を設ける必要があるのだ。
 
舞台という特別な「場」で、役者と観客の力量だけでは説明できない「何か」が起こる。
それは現実ではなく、しかしただの幻想でもない。
その「何か」をつかむために、役者も観客も非日常に身を投じ、それぞれ力を尽くさなければならない。
 
概念でありつつ、「形」をもつ島村ジョーをつかまえるには、そういう方法をとるしかないように思うのだった。
完結篇の意味は、その舞台を作り上げるところにある。
 
石ノ森章太郎は、島村ジョーを「自分のモノ」として読者から切り離すことを、ついにしなかった。
同時に、島村ジョーを「君たちのモノ」として読者にゆだねることも決してしなかった。
その狭間で、石ノ森章太郎も、読者も、島村ジョーも、ずいぶん長い間辛抱した。
よく辛抱できたものだなあ、とぼんやり思う。
 
だから、きっとできると思うのだった。
完結篇を読み、私たちは島村ジョーを本当に知ることができる。
島村ジョーとして生きる体験を持つことができるのではないか…と思う。
 
これまでの「サイボーグ009」とこの完結篇の、どちらがホンモノなのかを考えたり、これらを分けたりする必要は全くない。
すべてが「サイボーグ009」なのだから。おそらく、数度にわたるアニメーション作品も含めて。
それを可能にする力をもった作品として、完結篇はあるのだと思う。
 
そして。
「サイボーグ009」が完結することを恐れる必要も、またないのだった。
私たちも同じように、いつか完結するさだめの者たちなのだから。
 
 
 
※※※※※
 
…で。
最後に、唯一の(?)ストーリーばれをしておこうと思うのだった。
だって、どーしても言いたいんだもんっ!<?
一応反転!はい?(汗)
 
 
お嬢さん、冗談を言う島村…って、あの。(汗)
ソレ、面白かったんですか?
ってか、もしかして笑ったりされちゃったんですかぁっ???(悔涙)
#やっぱりニセモノなのかもコイツ(悩)<待て(汗)
 
 
ココが気になるのって、やっぱり負けてるのかも…(悩)<いいから年賀状書け!(涙)
 
更新日時:
2006.12.30 Sat.
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Last updated: 2015/11/23