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記念品など

「ザ・ディープ・スペース」と完結篇
 
完結篇を読んでからというもの、そうだったのかー(汗)と、しみじみすることがときどきある。
「サイボーグ009」の結末は既に決まっている・構想はできている・あとは書くだけ、としばしば繰り返していた石ノ森章太郎のコトバが、本当だったのだ!と、いろいろな作品から感じるようになった、というか。
 
もちろん、あの石ノ森章太郎が、あの(どの?)009ファンたちに嘘を言っていたはずはない。
それでも、完結篇について「もうできている」といったコトバを目にするたびに「そうはいってもね…(悩)」と、微妙な気分になっていたのだった。
 
が、完結篇を読んでみると、たしかに石ノ森章太郎及び石森章太郎が、それこそライフワークとして「サイボーグ009」の完結篇を常に作り続けていたのだということがわかるのだった!
 
「キカイダー」の唐突な(涙)ラストシーンも、そのひとつだ。
完結篇における「人間」の定義とその宿命は、「ジェミニィ」と「イエッサー」を同時に組み込まれたジローによって容赦なく描かれている。
「ギルガメッシュ」にも、「悪」との融合がエネルギーとなる、という発想が見られるし、「グリングラス」には「新世界」の入口が暗示されている。
 
もちろん、「サイボーグ009」そのものには、それはもう、後から見れば「そうだったのか!」というエピソードが山盛りで(しみじみ)
その真打ち、みたいな感じなのが「ザ・ディープ・スペース」なのだった。
 
惑星006や008では、モチーフに「完結篇」とのほのかな共通点が見える。
惑星005では、光の宇宙から「流刑」にあった地球を垣間見ることができる。
惑星004では、「戦い」をあやつる何者かの存在と、そのモノへの抵抗。
惑星002では、彼が助けようとした者が邪悪な者とともに滅ぼされてしまう。
そして、007が見せる現実と幻想の狭間は、小野寺親子それぞれの解釈で展開され、かなり興味深い。
 
完結篇には小野寺さんの創作なり解釈なりが相当に入っているはずだから、「ザ・ディープ・スペース」の基礎に完結篇があったというわけではなく、むしろ「ザ・ディープ・スペース」をヒントにして完結篇が書かれたと考えるべきなのかもしれない。
が、この場合、どちらが先かということはあまり問題にならない。注目したいのは、そこに何か通い合うモノが、とにかく存在している、ということなのだった。
 
少年サンデーコミックス全12巻の中でも、この「ザ・ディープ・スペース」はなんだか妙なテイストの話なのだった。
「マンガを買う」 ということに微妙な罪悪感(涙)を持つ中学生(高校生)だった私は、たしかこの巻を最後の最後に買ったように思う。
当時は立ち読みが結構自然にできていたので、その結果、要するに「よくわからんなー(悩)」と思い、買うのをためらっていたのだった。
 
どの話も、だからなんなんだ(嘆)と言いたくなるような結末を迎え、そのトドメをさすのがラストのギルモア博士。
 
そりゃ、そうまとめるしかないのかもしれないけど、ソレはないんじゃないの章太郎?私たちどうすればいいんですか(しみじみ)
 
という感じだったと思う。
 
そして、当時それと同じくらい猛烈に「だからなに!(涙)」と思ったのが、001・003・009の章で。
 
ただ、009については、それでも少しは読む手がかりがあるかなーと感じてはいた。なんといっても「母」に「女」は彼の鬼門にして切り札(しみじみ)
 
と、いう具合に、ぼーっとしていたこれらの話が、完結篇を経て「つながった!(驚)」と思ったのだった。
 
石ノ森章太郎がスゴイのは言うまでもないけれど。
小野寺さんもかなりスゴイんじゃないだろうか(悩)<なんで悩むんだ(汗)
 
そこで、この001・003・009の章を中心に考えていくのだった!
 
 
第一章 幻の母 
〜001の深宇宙〜
 
まず、001。
 
彼が落ちたのは、どこからともなく生まれ2才になればどこかに消える――という奇妙な赤ん坊たちが住む世界だった。
 
2才まで、ということはつまり、母がどーーーしても必要、と思われる時代にわざわざ(?)母がいない、と設定された世界だ、ということ。
すなわち、もちろん、この惑星での問題は母、なのだ。
 
完結篇を思えば、彼らは誕生待ちの「光の子」だと考えられる。
まだ「闇の子」とは融合せず、「人間」になっていない、でも「光の宇宙」は既に出発済みで、そこにおける記憶は既に彼らにない。
 
彼らは、何にも属していない。
そして、無垢なのだ。
なんといっても、イシノモリには「赤ちゃんは無垢」という公理があるし!
 
完結篇のアランは人間として生きていたとき、「母」との別れを夢に見ていた。
赤ちゃんたちは、その「母」と別れてきたばかりなのだ、といえる。
だから、「母」をもーちょっとで思い出せそうだし、母を希求する気持ちも強い。
 
消えて(ってことは人間として生まれて)しまったら、おそらく「母」を求めることを忘れてしまう。
実際人間はそうだ。
だから、まもなくその日を迎えようとするこの惑星の「王様」は焦る。
 
とはいえ、赤ちゃんたちが「母」のもとに戻れる可能性はゼロなのだ。
つまり、王様が求め、作りあげた「マザー」は偶像にすぎない。
 
偶像だから、できあがった「マザー」を、歓声を上げるでもなくただ見つめる赤ちゃんたち。
動かないね、ともらしたりする。
彼らの孤独・不安は結局解消されない。
 
偶像の完成は、それが動かないこと……つまり、本当の母はいないのだ、ということを赤ちゃんたちに強く印象づけ、確認させただけだったのだ。
 
そこで、「僕が動かしてやろう」と001は思う。
001にしては親切じゃないか(悩)と思うのだが、彼は、自分にこの世界を破る可能性……赤ちゃんたちの願いを叶える可能性があることを本能的に知っているのかもしれない。
 
しかし、結局それは不可能だった。
崩れる偶像。
地に満ちる呪詛のような泣き声に包まれ、うなだれる001。
 
001はどうすればよかったのか?
 
方法はない、と物語は結論する。
しかし、001には偶像を動かす力がある。
ただ泣くだけの赤ちゃんたちではない。
 
でも、何かが足りない。
「力」で「マザー」は動かなかった。
そして彼の努力は誰からも理解・感謝されない。
 
マザーは偶像にすぎなかったが、偶像がある、ということは、その源になる何かがある、ということでもある。
本当の母は「ここには」いないことを示すのと同時に、「彼の地」にはいる、ということをも、偶像は示している。
 
完結篇で、アランの夢はその「本当の母」を描いた。
そして、その姿は、003に似ていたのだ……という。
 
 
 
第二章 おとぎ話
〜003の深宇宙〜
 
お嬢さんが落ちたのは、「メルヘン」の世界。
石森章太郎の絵は、もーあからさまにそう語っている。
動物が可愛い♪お花がきれい♪なんか文句あるか!ありません(しみじみ)
 
そこに現れるカエル王子!
 
もちろん、カエル王子には「のろい」がかけられている。
彼は、言葉を話せる――人間としての意志をもった存在であるが、それゆえに無限の孤独を強いられているのだった。
 
カエル王子にかけられたのろいは、この世界にかけられたのろいでもある。
よーするに、この平和なメルヘン世界は、悪しき魔法使いによって人間たちの自由と尊厳が奪われた世界だったのだ。
 
カエル王子ののろいを解くのは、お約束どおり、お嬢さんのキスなのだという。
もっと男前だった(たぶん)ユウジくんやカールくんをきっぱり拒んだお嬢さんなのに、使命感に動かされた彼女はそのキビしさの片鱗すら見せないまま、カエル王子にあっさりキスしてしまう。
しかも、その前後にしまむらをちら、とも思い出さないのだ。スゴイですお嬢さん!(踊)
 
ざまーみろしまむら♪と言ってやりたいところだが、あまり意味はない。
このときのお嬢さんがオトコ持ちでは物語が困る。ただそれだけのことだからだ。
 
この世界において、お嬢さんは異世界からの訪問者だ。
世界を統べる「魔法使い」の影響を受けないただ一人の人間として、お嬢さんはこの惑星に立っている。
そして今、まさに、世界を救うために……というのはつまり「魔法使い」が築いた旧世界を破壊し、新しい世界を作るために、カエル王子とキスをするのだった。
それは神話における神の婚姻であり、新しい世界の人間の祖を生み出すための婚姻なのだった。
 
要するに聖母、だ。処女マリア!
聖母に恋人がいたらマズイだろー。しかもあんな(以下略)<やめれ(涙)
 
そんなわけで。
お嬢さんは王子にキスし、王子は「人間」となった。
が、他の人間たちは元に戻らない。
世界は「魔法使い」に支配されたままだ。
 
お嬢さんという相手を得たカエル王子は、もう孤独ではない。
だから、彼は満足する。
 
お嬢さんはそれでは満足しない。
王子とともに魔法使いを倒す、のが、お嬢さんの使命……ってかロマンだということらしい。
 
お嬢さん、なんで王子だけじゃダメなの?
……顔?<こら!
 
お嬢さんの使命は、この世界の破壊。ってことは再生。
だって、そのためにわざわざやってきたのだ!
お嬢さんにその気はなかったとしても、降りた星はそういうことになっていて、カエル王子を人間にする力を、現実にお嬢さんはもっているのだから。
 
お嬢さんは、異世界から舞い降りた異世界の女なのだ。
だから、この世界の男と婚姻を結び、新しい世界を作る。それが使命。
婚姻は世界を作るための手続きにすぎないから、それ自体が目的ではない。
 
ところが、王子は戦わないのだった(倒)
彼は、世界をこのままに、二人だけでいつまでも幸せにくらそう、ともちかける。
お嬢さんはにべもなく拒絶する。
 
カエル王子と別れ、お嬢さんはぷんぷん怒りながらかわいい!いうのだ。
 
「おとぎ話とはなんたる違い!ロマンティックじゃないんだから!」
 
えーと(汗)
 
お嬢さんの「ロマンティックなおとぎ話」とは何なのか。
たとえば、カエル王子の顔がしまむらだったらよかったのか、というと、たぶんそういうことではない(悩)
 
お嬢さんは、カエル王子に「共に戦う」ことを求めたのだった。
戦って、そして魔法使いを倒す。
そのように旧世界を破ることで、新世界が誕生する。
その世界に君臨する始祖の王と王妃になってこそ、お嬢さんの使命は果たされ、その神話は完結するのだ。
それが「おとぎ話」であり「ロマンティック」なのだろう。
 
思えば、お嬢さんは戦いがキライだったはずなのに(悩)
 
お嬢さんの「おとぎ話」「ロマンティック」は、悪と戦い、それを打ち破る一対の恋人たち、だと考えて良い。
彼女が想定していただろうおとぎ話は、たぶん「白鳥の湖」だ。
 
おとぎ話で悪と戦い、倒すのは、普通なら異界からきた「男」だ。
で、それによって彼はお姫さまを解放し、彼女と結ばれ、新天地を作る。
 
「白鳥の湖」は違う。
まず、旧世界の側にいるのが王子で、オデットが異界の者だったりする。
ついでに言うと、オデットは人間ではない。
白鳥なのだった。
……けれど、夜には人間に戻る。
でもって、その間に王子と恋をする。
 
これは、サイボーグ003ともかぶる、だろう。
だから、オデットたるお嬢さんは考えるのだ。
王子とともに戦い、悪魔を倒し、宿命から解放される。それがおとぎ話であり、ロマンなのだ、と。
そうすることによって、世界のみならず、彼女ののろいも解ける。
 
もちろん、この場合の王子の位置にいるのはしまむらだ。
しかし、カエル王子はしまむらではなかった。
顔も違うけど<それはもういい(涙)おそらくしまむらなら、躊躇なく魔法使いを倒しにいっただろうと考えられる。
 
結局、お嬢さんは王子と訣別した上で、単身、魔法使いと戦う。
えー、そんなこと可能?と思うけど、お嬢さんは防護服を着ている。
彼女は異界の女であるだけでなく、サイボーグなのだ!
 
かくして、サイボーグ003は「スーパーガン」で魔法使いを「倒す」のだった。
 
そして、世界は。
 
秩序を失う。
人間は人間として争い始める。
あの王子も、ただの人間にすぎなかった。
だからお嬢さんの相手にはならなかったのだ。
 
立ちすくむお嬢さん。
 
この世界は何だったのか……と考えると、完結篇006がわかりやすい。
魔法使いはシバだ。
そして、この世界は彼女が作ったユートピア、だ。
 
動物たち……人間たちは、その中で一見のんびり暮らしているが、所詮動物なのだ。
意志を持たず、場合によっては魔法使い、つまり闇の子に狩られたり食われたりする。
そうなって当然のみじめな存在なのだった。
 
その世界を崩すサイボーグ003。
崩すことはできる。
しかし、それ以上のことはできない。
 
完結篇006のように。あるいは惑星001のように。
崩壊した世界と地に満ちる呪詛の声に、お嬢さんは呆然とする。
これがつまり、サイボーグたちの戦いだ。
 
この物語の場合、お嬢さんが神話を完成させるために足りなかった要素は、もちろん、カエル王子との婚姻だろう。
それがあれば、「ロマンティックなおとぎ話」は完成したはずで。
そして、そのために必要不可欠なのが、なんと「戦い」なのだった!
 
それは、防護服を着て、スーパーガンを放って戦う戦いではない。
そうやってもいいのだけど、大事なのは「二人で」戦う、ということだ。
オデットと王子のように。
あるいは、003と009のように。
それは、ただの殺戮を重ねる「戦い」ではないのだった。
 
ちなみに、カエル王子は「最後まで抵抗した」ことによってただ一人、意志と言葉を許された。
しかし、それゆえに孤独。絶望的に孤独。もう永遠に孤独。
そういう存在だった。
 
えーと、これって、どこかで見たような(汗)
 
…………。
 
……しまむら、ですよね?<え(汗)
 
 
 
第三章 救いの女
〜009の深宇宙〜
 
地底の海に落ちる009。
暗い、密閉された、狭い空間。
そこに満たされる「海」
 
恥ずかしいくらいあからさま疑似胎内なのだった(嘆)恥ずかしくないかお前>しまむら(しみじみ)。
 
しかし、009はそこにのんびり浸かってはいない。
そんな彼に近づき、いきなり彼を抱きしめる「母」。
 
母の記憶がない009なのだから、母を得ようと思ったら、時間をさかのぼるしかない。
つまり、究極にさかのぼり、胎内まできちゃった、ということになる。
で、ともあれ胎内に戻ったわけで、そこに「私があなたの母です」ってゆー女性が現れたわけだから、それはもう、ココで「お母さん!(涙)」とならなきゃダメじゃんしまむら(しみじみ)
 
でも、しまむらは頬をつねる(倒)オマエって(嘆)
 
そんなわけで、彼らは限りなくズレていく。
困った(たぶん)「母」はしまむらが求めているものを探る。
 
キーワードは絶対に「母」であり、つまり「女」。
ついにお嬢さんまで現れる……が、そこでしまむらは気付くのだ。
 
こいつは、不定形生物だ、と!
 
たしかに、あー、不定形生物だなー(汗)という非常にわかりやすい「変身」を目の前でされちゃったのだから、しまむらがそう確信するのは当然といえば当然だ。
 
が、しまむらは何のためらいもなく彼女に銃を向ける。
「寄るな!」とか言う。ヒドイ(涙)<?
 
ためらいがないのは、しまむらがホンモノのお嬢さんを知っているからなのだろうと思う。知っているから、ニセモノを見たときはニセモノだと断定できる。
 
思えば、この時期の原作には、お嬢さんのニセモノが結構しつこく登場しているのだった。未来都市と幻影島です(しみじみ)
で、ニセモノが登場すると、必然的に気になるのは、コレだと思う。
 
本当のお嬢さんって、どんなん?>しまむら(疑) 答えられるなら答えてみろ!(踏み!)<やめれ(涙)
 
実はしまむらは本当のお嬢さんを知っている。
じゃ、説明してみろ、とか言われるとたぶんできないし、自信はあるのか、と言われたらやっぱりないんじゃないかと思うけれど(嘆)でも、しまむらは間違えない。
 
幻影島でもしまむらはお嬢さんを撃つし。
亜時空間漂流民篇でも、決め手はスカーフだったものの(怒)とりあえず間違えない。
それに、グレートから、彼こそがホンモノを見分けことができる人物だとお墨付きをもらう(悩)
 
ソレを言うなら未来都市では失敗しているのだが(倒)この場合はスフィンクスが、限りなくホンモノのお嬢さんを作った、ということで仕方がないのかもしれない。スフィンクスすげー(しみじみ)
 
ともあれ。
しまむらの慧眼というかなんというか(汗)により、ニセモノとバレてしまったのだが、ニセモノは開き直り、必死にしまむらに働きかける。
いろーーーーんな母、になってみる。
 
お嬢さんの姿になった「女」だけが私は「恋人」だ、と自分を定義する。
たしかに、お嬢さんの姿で「私はアナタの母よ!ジョー!」とやっちゃったら、いくら不条理になれている(え)93ファンでもどん引きするかもしれない(しみじみ)
そもそも、お嬢さんの姿で「母よ!」と叫ばれてしまうと、話がなんだか妙なややこしい方向にねじれていってしまいそうな気がする。
 
でも、お嬢さんだけが「恋人」だった、というのは、たぶんお嬢さん=恋人、だけが、この状況からの唯一の出口、ということの暗示なのだ……とも思うのだった。
この作品の中ではスルーされていたけれど。
 
不定形生物の「母」は、しまむらが母を求めている……が、それはこのままでは永遠にかなわない望みだ、と告げる。自分を受け入れない限り。
それに対し、しまむらは、自分は何も望んではいない、と拒絶する。
それでもなお迫る「母」を、しまむらは撃ってしまう。
 
そんなにイヤなのかお前(汗)
 
と、当時思わず突っ込んだものだったけど。
しまむらが女に甘いって嘘だよなー絶対うそ(汗)と思うようなシーンなのだった。
 
が、きっぱり拒絶する……けど、引き金を引きながら、しまむらは目をつぶっている。
拒絶したくないんだけど拒絶する!という感じがするのだった。
 
母、は最後に母であることをなげうち、「女」となる。
彼女はこう言うのだ。
 
「あなたの、ためなら……!」
 
ためなら、何?
 
何でもできる、命も捨てる、ってことだろーなーと思う。一応。
そういう「女」が自分に必要であることを、しまむらは認めているのだろう。
だから、彼女を拒みきれない。いくら消しても蘇ってくる。
 
が、この目の前にいるモノはホンモノではない。不定形生物だからだ。
ニセモノであることがこれほど明かなのだから、拒絶する。しなければならない。
自分にどうしても必要という重要なパーツなら、ニセモノをあてがうわけにはいかない。
 
不定形生物は、しまむらの心によって変形する。
ということは、彼女はしまむら自身だ、とも言える。
 
自分と結婚しちゃいけないよなたしかに(しみじみ)
自分を撃つのもちょっと怖いよなたしかに(しみじみじみ)
 
で、それができちゃうんだから、しまむらってエライのかも(呆然)
 
エライことはエライけど、問題は解決していない(涙)
しまむらに必要なのは、この母、ではない。
しかし、彼女ではない「女」が必要だ、ということは間違いなさそうなのだった。
ホンモノの「女」が。
 
結局、根負け(汗)したしまむらは彼女に抱かれる。
孤独を抱いたまま、いわば自分自身に抱かれているよーなモノであり、したがってしまむら自身もそういう解釈をする。
 
彼女は、自分と同じ生き物だ。
彼女は、孤独だ。
 
…………と。
 
これって、翡翠としまむら……ってか髭村状態なのかも(汗)
 
しまむらはここから出られない。
疑似胎内で、孤独なまま、外に出られない。
彼をしっかり抱きしめているのは、ニセモノの「女」。
でも、それによってしかしまむらは自分を保てないのだった。
 
彼を救う女はいる。どこかにいる。
が、「ここ」にはいない。
絶対に、いない。
 
彼女は、しまむらがまだ知らない「女」なのだ。
 
 
 
第四章 孵化は卵を破壊する
〜完結篇〜
 
しまむらが求める「ホンモノ」の女は、結局お嬢さんなのだろう。
003が現れたとき、彼は「これはニセモノ(不定形生物)だ!」と気付いた。
 
何がホンモノなのかはわからないけれど、ホンモノはお嬢さんの中にある。それをしまむらは知っている。
お嬢さんに化けたら、たちまちしまむらにニセモノ認定され、絶対説得できないから、いよいよホンキを出したとき、不定形生物は最終兵器としてタマラさまの姿になる。
これは当時のそーゆー女性で最強だったのがタマラさまだったからなんだろーなーと思うのだった(しみじみ)
 
ニセモノお嬢さんは、もちろんしまむらの中にある。だからこそ、あの疑似胎内に現れた……というのはつまり、しまむらがお嬢さんだと認識しているお嬢さんが、そもそもニセモノなのだ、ということでもある。
 
ということは。
しまむらが知らないお嬢さんが必要なのだった。
 
001が話に聞いた幻の「マザー」と重なるのは、アラン君がで見た母だろう。
それはお嬢さんに似ていた。
実際の絵はどー見てもタマラさまに似ていたんだけど、お嬢さんに似ている、とアラン君は言い張る。
 
それでいいはず、なのだった。
001も009も、「ホンモノ」の母を探し、見つからなかった。
それは、結論を言ってしまえば、お嬢さんだったのだ。
 
二人は、本能的にそれを知っている。
だから001はお嬢さんに抱かれるし、しまむらは意味も無く(怒)お嬢さんとセット(汗)で行動する。
戦うしまむらとお嬢さんのセットは、お嬢さんの「おとぎ話」の視点から見ても正しい。
形は整っている。
 
問題は、彼らが見ていて、彼らが知っているお嬢さんが「ホンモノ」のお嬢さんではない、ということなのだ!(驚)
 
……えーと(汗)
 
つまり。
もしお嬢さんが「ホンモノ」なら、001も009も迷いはしないし、孤独でもないはずなのだった。
が、実際はそうではない。
 
ついでにいうと、アランが「母」をお嬢さんに似ている、と感じたのは、単純に彼女が彼にとって「愛」につながる女性だったからだろう。
001と009にとってのお嬢さんも要するにそれと同じはずだ。
 
入口はお嬢さんだ。たしかに。
が、現実のお嬢さんがその人なのではない。
 
完結篇で、髭村(倒)を救おうと現れるのはお嬢さんだった。
が、彼は結局お嬢さんを拒み、その声を聞きながら落ちていく。もしお嬢さんがホンモノだったら、お嬢さんは翡翠からしまむらを解放できただろう。
それでも、たとえホンモノではないとしても、お嬢さんはホンモノへの入口なのだ。
だからこそ、あの場面で彼女が現れ、しまむらの心に呼びかける。「目を覚まして」と。
 
一方で、完結篇のラストでしまむらと抱き合うお嬢さんは、言うまでもないがホンモノのお嬢さんだ。だから奇跡が起きる。悪は一掃され、新しい世界が誕生する。
そして、そのときのお嬢さんは、美貌を失い、目を失った「003」なのだった。
 
3至上主義者のみならず、完結篇を読むときに思わず読者が後ずさるポイントのひとつが、このすさまじいまでのお嬢さんの受難だと思う。
後ずさりしつつ、読者は思わずにいられない。
 
美しくないのなら、そして目を失ったのなら……そうなってしまった003は、003としてどういう「価値」がある、というのだろうか?
 
価値など、ない。
しかし、しまむらはそんなお嬢さんに「グレーの瞳も素敵」というのだ。
あまりに頓狂なコトバなので、わかりにくいが、それがしまむらの立場だ。
読者がどれほど後ずさっても、しまむらは決して後ずさらない。
 
そんなしまむらを知っているから、翡巫女はそのお嬢さんを、しまむらをおびきよせるために攫った。
翡巫女は、お嬢さんを何の価値もない女だと判断している……が、その価値のない女が、009を引き寄せる最強の餌となる。
 
狙い通り現れ、フランソワーズを帰してくれとひたすら懇願する009を翡巫女はあざけり「そんなに大切ならくれてやる」とあっさり放り出す。
003には009をおびき寄せる餌としての価値しかない。それ以外は無価値な女なのだ。
 
そして、それこそが「ホンモノ」の証なのだった。
 
美貌を失い、目を失い、絶望する003。
003としての美質を全てはぎ取られた「女」がそこにいる。
しかし、彼女はなお、009にとって唯一無二の存在であるし、彼女にとっての009もそういう存在なのだった。
その二人が、世界の終わりに、世界の果てで抱き合う。
 
「白鳥の湖」なのだった。
誓いは破られ、オデットは永遠に人間に戻れない。
しかし、そうなってもなお、彼らは互いを愛し合い、魔王に立ち向かう。
それが、全てを破る愛の力となる。
 
お嬢さんは、「ジョーのおよめさん」になりたい、と最後に言った。
「およめさん」にもたぶん意味がある。それは婚姻でなければならないのだ。
あらゆる神話で、始祖の男女がそうしたように。
彼らは、誓われた神聖な愛によって新しい世界を作る。それは、旧い世界の崩壊でもある。
 
しまむらは、最後にお嬢さんの中に海を感じた。
それは、あの疑似羊水の海ではない、全ての母である原初の海だ。
そして大地と海がふれあうように、二人はふれあう――とかいうと、筒井康隆「幻想の未来」みたいですが(倒)
 
「ザ・ディープ・スペース」には何ともいえない重苦しさというか、閉塞感がある。
どこまでいっても、同じところをぐるぐる回っているような、出口がどこにもないようなもどかしさがある。
 
が、そのもどかしさを示されることで、そこに破らなければならないものがある、という感覚を強烈にかき立てられ、私達は予感する。いつか「終わり」がくるのだということを。
そして、その扉を開けるのは、やはりサイボーグたちなのだということを。
 
「ザ・ディープ・スペース」の世界は、遠い宇宙からのメッセージがサイボーグたちの「夢」として個々に伝えられたものだった。そのように物語はしめくくられる。
これも完結篇への布石だと言える。
 
遙かな時空、宇宙の全てが、一人一人の人間の奥深くに息づいている。
それは、私たちが生命としての進化の歴史をそのままたどりながら、ひとつの細胞から人間になっていく様にも似ている。
 
サイボーグたちに「見えた」モノは、彼らがその時点で知覚しうる、彼らの現実そのものだった。
それはどこか閉ざされた、もどかしい、息苦しい世界だ。
しかし、それを破りたい、と彼らは考えている。
それもまた、彼らの現実なのだ。
 
「ザ・ディープ・スペース」は、彼らの輝かしい未来を示すものではなかった。
それはただ、「ここにとどまるな。ここは彼の地ではない。ここを破り進め!」ということを彼らに強烈に伝えたのだった。
 
 
終章 パパ・ギルモア
〜老人の夢・若者の夢〜
 
そして、最後の「夢」が語られる。
それは、ここまでの9つの夢とは何かが本質的に違っている。
それが、ギルモアの夢だ。
 
立ち上がり、「パパ……」と微笑する人造人間。
ギルモアもそれに応えて微笑し、両手を広げる。
 
が、彼らが抱擁しあうことはない。
歩み寄りながら、人造人間は壊れ、倒れる。
なすすべもなく立ちすくむギルモアの前で、「パパ……」と繰り返しながら。
 
その場面だけが繰り返される。何度も、何度も……。
始まりも終わりもない、ただ、それだけの夢だ。
それは、サイボーグたちの夢が、ともあれひとつのストーリーを持っていたのと対照的だ。
 
博士の夢はどんなものだったのか、と007に問われ、ギルモアは一言だけ答える。
 
「老人の夢は、いつも空しい」
 
……と。
そして、「本当の素晴らしい夢は、君たち若者だけが見られるものだ」と、物語をしめくくるのだった。
 
始めに読んだとき。
我ながらしょーもない感想だと思うが、咄嗟に私は思ったのだった。
 
007や006は若くないじゃん!章太郎って結構いいかげんー(しみじみ)
 
いや、ギルモアよりは若いでしょ?……と言えなくもないけれど、そういう問題ではない。
やはりサイボーグたちとギルモアは「違う」のだ。
しかしそれはあの当時、あの作品の、あの残り時間(倒)で説明しようもないことだった。
だから、ギルモアは「君たち若者」とサイボーグたちを定義した。
もちろん、自分を「老人」と定義し、それを前提としたからこそ、そうしたのだ。
 
ギルモアはサイボーグを「未来の新しい人間」として創った。
しかし、彼らの戦いは、新しい未来を開くものとはならなかった。
惑星003が示したように。
 
サイボーグたちは戦いを繰り返し、傷つき、ギルモアのもとに戻る。
ギルモアは彼らを修復し、また戦場に送り出す。
それが果てしなく繰り返される。
どうすればこのループから抜け出せるのか、彼は知らない。
ただ、彼はそういうモノたちを創り出してしまった者として、ひたすら愚直に、誠実に、傷つき傷つけながらそのループを辿り続ける。
 
完結篇で、石ノ森章太郎の前に現れたギルモアは、必死で「答」を求める。
が、それは彼に与えられない。
 
「どう闘えばいいんじゃ、あんなもんと!」
 
と、ギルモアは叫ぶ。
彼にはわからないのだ。絶望しか見えない。
が、彼はなお「戦略」を求め続ける。
そして、無残に傷ついたサイボーグたちを、懸命に修復し、また送り出す。
それが彼らを苦しめるだけであり、解決にはならないことを知りつつ、彼にできるのはそれしかないのだった。
 
「老人の夢」とは、旧い人類が最後に見た夢なのかもしれない。
その空しさを知りつつ、老人は、戦い続ける。
自分が知らないその出口を、「若者たち」が見つけてくれるかもしれない、そのときを迎えるために、その時間を稼ぐために、空しさに耐えつつ、ループを辿り続ける。
 
完結篇で、ギルモアは自らを捨て石とした。
それは同時に、自らを滅ぼされる側のモノと明確に位置づける決断でもあった。
 
老人は、空しい現実にとどまりつつ、「夢」を若者たちに与え、未来への捨て石となった。
どこまでも人間であり、愚かであり、しかし誠実に生きた「老人」の、それが結論だったのだと思う。
 
そうして滅びたギルモアは、しかし、新世界で蘇り、微笑していた。
彼を救いあげたのは、言うまでもなく009たち……若者たちだ。
 
「見えない糸」篇でも、若者達を彼岸へと見送り、此岸に残ったギルモアに、009たちが呼びかけ、走り寄った。
ギルモアは動けない。が、009たちは動くことができる。
彼らは、ギルモアが予想もしなかったトコロから現れ、彼を救う。
 
老人は、結局、悪しき者しか作れなかったのだ。
しかし、そのようにして自らが作ったものを愛し、守り続けた。
その空しさを知りながら、孤独に耐えながら、彼らをこの世に送り出してしまった者として戦い続けた。
 
彼は創造主などではない。
それを知りつつ、創造主の任から最後まで逃げず、絶望的な生を生き抜いた。
それが、ギルモアの生だ。
そして、たぶん、それは私たちの生でもあるのだった。
 
生の息苦しさ、苦しみの果てに、理想郷がある。
それは、古今東西を問わず、人間が夢見てきたことだった。
 
その夢は現実に引き寄せた途端、空しいものとなる。
が、現実を超える何かは必ずあるのだ、という確信と勇気を人間に与えるのだった。
 
その姿は見えなくとも、見えないからこそ、私たちを引きつける。
空しさにうちひしがれ、嘆きながら、苛立ちながらも、それを捨てることはできない。
それが、ディープ・スペースなのだと思う。
 
更新日時:
2013.07.11 Thu.
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Last updated: 2015/11/23