序 裏切りはどこにあるか
新ゼロといえばコレ!というぐらいに有名なのが、第20話「裏切りの砂漠」なのだった!<そう?(汗)
この話は、とても雑に言うと、9好きには腹立たしく、3好きにはちょっと嬉しい、でも誰もハッピーにはなっていない(倒)という、なかなか救いのない感じの話だったりする。
救いがない、という点で、この話のタイトルはなかなかスゴイ。
なんたって「裏切りの砂漠」なのだ。砂漠だけでもかなり大変そうだし、裏切りだけだって、しまむらにはキツいだろうなーと思う。それがセットになっているのだ!!!!!
…………。すげー(しみじみ)
で、たしかに、砂漠でしまむらはツラそうなのだった。
そりゃーツラそうで、まさに、「裏切りの砂漠」ストライク状態の雰囲気を漂わせているのだった(しみじみ)
……が。
これはもう、思春期の頃から密かに疑問に思っていたのだけど。
しまむらは、なぜ、あんなにツラそうなのか(悩)
…………。(悩)
かつての恋人(未満だったのかもしれないけど)が、新しい彼と手に手を取っての逃避行にあり、それを命をかけて助ける!……というのは、たしかになんか気の毒な感じの状況だし、それゆえに新ゼロしまむらになかなか合っている状況でもある……ような気がする。
が、彼女に、それをしてくれ、と頼まれたとき、しまむらはまだ砂漠にはいなかった。
そして、微妙に複雑な表情はしたかもしれないけど、少なくとも「裏切り」を受けた、という感じではなかった。
もちろん、タイトルにあるように、その裏切りの瞬間は砂漠にあったのだ。
追い詰められた彼女がしまむらに「あなたの鋼鉄の体で私たちを助けて!」と言い放ち、それを受けてしまむらはものすごーーーーくショックを受ける。
何がショックだったのかというと、つまり(悩)
しまむらがサイボーグであることを彼女が知っていたということと。
だから、サイボーグの力だけが欲しくて近づいたのだということ。
たしかに、一般人の彼女がしまむらがサイボーグである、ということを知っているなんて、ビックリなのだった。
で、ビックリした後、しまむらが当然彼女に尋ねたいに違いない、そして尋ねなければならないのは「それを何故知っているのか?」ということのはずだ。
しかし、しまむらはソコについては何もつっこまない(汗)し、それ以前の問題として、そういう疑問を全く感じていないようだったのだ。
やがて、彼女が「ジョー、私、あなたを愛して……」と言いかけたところで、しまむらは絶叫し、その後の言葉を封じる。
聞きたくない、ということなのかも(悩)ここも実はよくわからない、と思ったところ。
ともあれ。
何が裏切りなのかについて、ハッキリしないなあ(悩)と、思春期の頃、ばりばりの3至上主義者だった私は首をかしげたものだ。
たとえば、しまむらを砂漠におびきだせば助けてやる、みたいな取引を彼女がNBGとしていたのだとしたら、彼女は嘘をついてしまむらを騙した、ということになる……ので、裏切りだな、と考えてもよい。
でも、彼がサイボーグだということを知ってて黙っていたということがなぜ「裏切り」になるのか(悩)
とりあえずの答えはある。
つまり、彼女は、かつて愛した一人の男としてしまむらを信頼し、自分たちの運命をゆだねる……みたいな話し方をして、彼の心をつかんだ。
が、実は、サイボーグの能力をあてにしていただけであって、そういうポーズはお芝居だったのだ!
……だとしても。
そもそも、彼女は現在の恋人と逃避行中なのだ。
それを隠しているわけではないし、逃避行が成功したときにはアナタとよりを戻したい、みたいなことをしまむらに匂わせたわけでもない(たぶん)。
それでも、彼女がしまむらの目の前で恋人に、あなたを愛している、と繰り返し訴えたとき、しまむらは微妙に寂しげな表情をしている。
厳しいことを言えば、何今さらうじうじしてやがる、承知で引き受けたんだろうが(怒)と踏んでやる所だけど、これぐらいは感情として仕方ないかも、とも思うのだった。
もちろん、そういう細かいよくわからないところがあるのは、このストーリーに無理があるからなのだと思う。
そもそも、偶然再会したしまむらにサハラ横断の護衛を頼むという発想が変だ。
フツーの男である自分が逃避行について行ったからといって、彼女にとって何かいいことがあるのか・彼女は自分に何を期待しているのか(悩)と、しまむらはサイボーグであることを隠す以上、そう思うべきではなかったのか。
たしかに、しまむらは腕力で♪結構頼もしく彼女を助けてみせたりしていた。
が、それで砂漠を越えられるのかというとちょっと(悩)
なんというか使う筋肉が違う?(悩)という感じがする。
もっとも、そのあたりがすっぽり抜けていて、彼女を助けてあげた=彼女に頼りにされる♪が、すんなりつながっちゃうのがしまむらだといえばしまむらなのかもしれないけれど(しみじみ)
言うまでもなく、マンガだから多少の無理はあって当然なので、そのこと自体が問題なのではない。
要するに、この物語は、そういうかなり不自然な設定までして、とにかくしまむらを砂漠に連れてきたかったのだし、その砂漠で前述したような「裏切り」を味わわせたかったのだ。
こんな無理をしてまで描かなければならなかった裏切りとは何か。
物語は万難を排してしまむらにそれを与え、苦しむ姿を描き出そうとしたのだ。
それが、微妙な三角関係の中で信頼を裏切られた、みたいな悲恋話だということで納得してしまっていいのか。
いいのかどうかはわからないけれど、私は納得できなかったわけで(涙)
だから、考えてみようと思うのだった(しみじみ)
1 禁忌と訣別
新ゼロでは、しまむらに限らず、メンバーは自分がサイボーグであることを世間(?)から隠そうとしている。
それは他のシリーズでもそうなのかもしれないが、ここまで極端ではないように思う。
というのは、「サイボーグだということがバレてしまった!」というモチーフが新ゼロではなんだかさりげなく多いのだった。
それはお嬢さんにも起きている。
恋人同士に見えるのか見えないのかということばかりがつい気になって踏んでしまう「明日鳴れ愛の鐘」で、お嬢さんは親友の前でばっ♪と防護服姿になる。手品のようです(しみじみ)<いいから
そして、「私はサイボーグ。あの頃のフランソワーズじゃないの」と告げ、親友をその場から立ち退かせる。
もちろん、危ないから立ち退かせるのだが、「フランソワーズ!」と悲しげに連呼する彼女を、彼女の恋人がやや強引に引っ張っていったりするのだった。
そして、ラストシーンで、親友が「フランソワーズは帰ってくるわ」と語るのをお嬢さんは物陰に隠れて聞き、涙を浮かべたりする。
が、彼女の前に姿を現したりはしないのだった(しみじみ)
ジェットの場合はそれが少し複雑になっている。
「ウエストサイドの決闘」で、彼は、昔の仲間に、自分がサイボーグであるということを隠すために、むしろ憎まれることを選ぶ。
サイボーグだから仲間に輸血はできない、と本当のことを言えば、薄情者と非難されることはないだろう。
しかし、サイボーグだということがバレてしまえば、それもすなわち仲間達との訣別になる、というのが前提のようなのだった。
だからこそジェットは、同じ訣別なら、罵られても人間として訣別したい、と思ったのではないか。
さらにひねってあるのがアルベルトさまで(しみじみ)
好意を抱いた女性が人間だと思ってちょっと鬱々としていたら、相手もなんとサイボーグだった!(踊)ということで、もちろんだから結ばれた(倒)とはならないけれど、物語はそこそこさわやかに締めくくれられている。
要するに、相手もサイボーグなら、何も問題(?)はないのだった(しみじみじみ)
この問題を一番しつこく背負っているのは、もちろんしまむら。
それは彼がリーダーだからなのか、それともしまむらだからなのか(悩)そこはいまいちよくわからない。
ともあれ、それが一番よくわかりやすい形で表現されているエピソードが「戦うマシーンにはさせない!」で、なんと相手は男性なのだった!BL?<違う(涙)
若者は「強くなりたい」と願い、サイボーグとなることを望む。
しまむらは、そうなってはいけない、と彼を止めようとする。
そして結局、サイボーグである自らの姿を見せて、それに成功するのだった!
そのとき若者からしまむらに投げつけられた言葉は「戦いのバケモノ」という、非常にわかりやすい(しみじみ)罵声だった。
「戦いの」に問題はない。そのように称されるのは、しまむらが強いからだ。
問題はもちろん「バケモノ」であり、若者は「バケモノ」を拒絶する。
作戦(?)は成功したけど、その烈しい拒否っぷりに、しまむらはショックを受けるのだった。
わかっててやったんでしょ?(悩)と、しまむらにキビしい当時の私は冷ややかに思ったものだったがひどい(涙)これはしまむらの性格が問題なのではなく、物語としてのお約束の結果であるという気がする。
このテーマは非常に古典的で、物語の基本といってもよい。
要するに、異界のモノ(バケモノ)が人間と接触するときに起きる奇跡と悲劇ということだろう。
バケモノはそれゆえに人間に忌み嫌われ、排除される。
一方で、バケモノは超人的な力を持つ。
本来、人間とバケモノとは接触しない。
だからこそ異界のモノなのだが、時に接触してしまうことがある。それが物語の場というもので。
そこで、人間はバケモノの超人的な力によって救われたりする。
が、だからといてバケモノと人間とがひとつの世界に共存することはできない。
結局バケモノと人間は訣別しなければならないのだった。
この構図の一番わかりやすい例は「鶴女房」だろう。
人間の男を愛し、その妻となった鶴は、超人的な力を発揮して彼を助ける。
が、そこにはひとつの絶対の禁忌がある。
彼女が力を振るっているところを、彼は見てはならないのだった。
その禁忌が破られ、彼が彼女を見た瞬間。
彼女はもう人間の姿ではいられなくなり、正体を現す。
それはそのまま二人の永遠の別れでもある。
このとき、二人の間で育まれたであろう愛は無力だ。
だからこそ、悲劇が強調されることになる。
当時、無邪気に科学を受け入れていた私にはもうひとつわかりにくいことだったが、新ゼロにおいてサイボーグは科学技術の粋といったものではなく「バケモノ」なのだ。
だからこそ、「見られる」「知られる」ことが、しまむらに、お嬢さんに、ジェットに、アルベルトさまにとって大きな問題となる。
この辺は「サイボーグ009」というより、石ノ森章太郎独特の雰囲気なのかもしれない。
知られたら、訣別する。
本人の意志とは無関係にそうならなければならない。
知られるとは、見られるということでもある。
鶴は普段、人間を装うという超能力を発揮しているわけだが、それは問題にならない。
あくまで鶴としての超能力を発揮しまくっている「機織り」の現場を見られることが問題なのだった。
もちろん、それはしまむらたちに置き換えれば、サイボーグとしての力を振るっている様を見られる、ということになる。
そう考えていくと「裏切り」の輪郭がようやくうっすら見えてくる。
しまむらは、バケモノであることがバレたら彼女と訣別しなければならなかった。
彼はそうしたくなかったから、それを隠そうとした。
彼にそう思わせたのは、もちろん彼女への「愛」だ。
しかし、彼女はしまむらがバケモノであることを知っていた。
そして、人間でありながら、バケモノの力を利用しようとした。
知ったのなら訣別しなければならなかったのに、知らないふりをした。
彼女が裏切ったのは、しまむらというかつての恋人……ではない、
もっと決定的なタブーを彼女は冒したのだ。
2 愛を破るもの
こう考えていくと、自然に思い出すのが小川未明の「赤いろうそくと人魚」なのだった。
人魚を人魚と知りながら自分たちの子として愛情を注ぎ、育てていたろうそく屋の夫婦がいて。人魚も彼らを心から慕い、恩義に報いるために、白いろうそくに赤い絵の具で美しい絵を描く。そのろうそくには不思議な力があり、火をともして神社にあげると、舟の安全を守ってくれるのだった。
ろうそくは飛ぶように売れ、人魚はくたくたになりながらも、夫婦のために絵を描き続ける。が、やがて夫婦の裏切りにあう。人魚は、南の国から来た香具師に大金で売られてしまうのだった。
人魚は嘆きながらも、夫婦のためにろうそくに絵を描き続けるが、いよいよ強引に連れ出されるとき、せき立てられて、最後の数本をただ真っ赤に塗ったのだった。
その晩、髪をぐっしょりと濡らした不思議な女がろうそく屋を訪れ、その赤いろうそくを買っていき……それから災厄がおこる。
まず、烈しい暴風雨で人魚を運んでいた船を始めとして、多くの船が難破する。
その後も、神社には誰があげるともないのに赤いろうそくがともされ、それを見た者は必ず海で命を落とす、というようなことになる。ほどなく、村そのものが寂れ、滅びてしまった……という、なんだかすさまじい話なのだった。
木下順二「夕鶴」の前半も似たような展開になっている。
鶴の化身であるつうは、夫の与ひょうのために美しい布を織るが、それは彼が喜ぶ顔を見たかったためだった。
しかし、やがて与ひょうは知人にそそのかされてその布を売ることを覚え、欲を持つようになる。彼はつうにもっと布をたくさん織れ、それを都へ持っていって大もうけするのだ、と迫る。
与ひょうの場合は、つうが鶴であることを知らないのだが、人魚を育てた夫婦と共通しているのは、無垢であった者が「欲」を知ることによって悪人となっていくという流れなのだった。
一方で、人魚にしろ、つうにしろ、異界のモノたちはあくまで無垢のままであり、やさしい。
彼女たちは逆らうことを知らず、ひたすら人間たちのために力を尽くし続ける。
そして「裏切り」のときが来る。
与ひょうは約束を破り、夫婦は人魚を大金で売り払ってしまう。
つうも人魚も、それだけはやめてくれ、と必死で頼むのだが、その願いは届かない。
ちなみに、ろうそく屋の夫婦は、始めは香具師の申し出を斥けていた。
しかし、彼の言う「人魚は不吉だ」という言葉に動かされ、彼女を売ることに決めてしまう。
香具師は人魚を運ぶために、猛獣を運ぶときに用いる檻をもってくる。彼女は、人間にとってそういうモノ……バケモノ、なのだ。
暴風雨の後、夫婦は罰が当たったのだと畏れ、ろうそく屋をやめてしまう。
彼らは根っからの悪人というわけではないようなのだが、やってしまったことは取り返しがつかない。
結局村は滅ぼされてしまうのだった。
これを「裏切りの砂漠」に置き換えると。
ちょっとためらわずにはいられないが、要するにしまむらが人魚ということになる。
かつてしまむらの恋人だったとき、彼女は彼がサイボーグであることを知らなかった。
「夕鶴」と同じ状態だといえる。
再会した彼女は、しまむらの「力」を偶然垣間見る。
が、問題はそれだけではないはずで、おそらく、誰かが彼女に「島村はサイボーグだ、
護衛として使える」ということを教えたはずだ。
その人物については仄めかされてもいないが、教わってもいないのに彼がサイボーグである、などということを彼女が知るはずはない……と思う。
もっとも、彼女がそれを知ったのはいつなのか、ということはわからない。案外、しまむらと再会する前から、ちょっと知っていたりするかもしれないのだけど(悩)
いずれにせよ、彼女はその「力」を自分のために利用しようとした。
それはつまり「欲」だといってよい。
そして、欲は無垢な者を悪人に変え、無邪気で純粋な愛情を破るのだった。
しまむらは、あくまで無垢だった。
彼は彼女が「あなたのおかげで助かったわ……ありがとう、ジョー!」と喜ぶのを見たかっただけで、ただそれだけだったといってよい。
そして、そのためには自分がサイボーグであることを隠さねばならなかった。つうのように。
しかし、彼女はすでにそれを知っていたのだ。知った上でそのことを隠し、彼の力を利用し続けていた。
やがて「裏切り」の時がくる。
香具師が運んできた檻のように、しまむらの前に戦車が現れる。
お前はバケモノだ、だから私とともにある権利はない。お前にふさわしいものを用意した。私のためにソコに行け、と彼女は命じる。
しまむらは、驚き、嘆きながらもその言葉には逆らわない。
傷つく彼には、しかし、やがて「同族」である仲間から救いの手がさしのべられる。
「バケモノ」である彼らには、人間のいかなる力であってもかなわない。彼らは徹底的に人間たちに復讐し、去っていく。
そして、彼を裏切り、彼の力を利用しようとした「悪しき者」である彼女には結局「天罰」が下される……はずだった。
はずだった、のだが。
3 悪の定義
砂漠の彼女はとにかく悪いということになっている……ように、見える。
しまむらが眼中になかった私であっても、初見の頃は、彼女は「悪い」んだろうなーと漠然と思ったものだ。
いや、別に悪くないんじゃないの……ってか、変なのはしまむらじゃん!と思ったのは結構オトナになってからだと思う。オトナになってまで何考えてるんだ、というのは私自身の問題です(しみじみ)
なんで悪いの?ということを考えれば、前述のように、彼女に「欲」があったからなのだろう。
欲、というとかなり気の毒な感じはする。理不尽に危険に巻き込まれた彼女が、ぎりぎりに追い詰められたところで必死に手を伸ばしているのだ。それが欲であり「悪」なのか?と考えると、そう言い放つのはヒドイと思う。
が、構造としてはそうなってしまっているのだった。
しまむらが無垢なるバケモノだからだ。
欲があったのはしまむらの方だろー、あわよくばヨリを戻そうと思ってたんじゃないのかコイツ(怒)と突っ込むことは可能だ。
が、彼女には新しい恋人がいて、彼をも一緒に助けよう、という状況であり、なおかつしまむらは一応仮にも正義の味方(倒)倒れるな(嘆)なのだった。
どーも、表情とか井上さんの声とかに(え)無垢じゃない感じが見え隠れしているのが怪しいのだが(こら)それは技術上の問題なのだと思う。
無垢なるバケモノを、バケモノと知らずに愛した者には奇跡が恵まれる。
が、それを知ってその力を求めた者には天罰がくだる。
要するに、「花咲かじいさん」「舌切り雀」「こぶとり爺さん」等々、の世界なのだった。
そうした物語の「悪人」たちがそんなに悪いのか、というと、実はそうでもなかったりする。
隣のぼーっとした爺さんが素晴らしい幸運に恵まれ、しかもそこにこーすればこーなる、というような因果関係が見えるのだ。
自分もやってみよう!と思うことに何の罪があるだろうか。
物語のバージョンによっては、彼らが本当にとてつもない悪人だったりすることもあるけれど、それはどちらかというと、彼らが受ける「天罰」の苛烈さに見合う邪悪さを後からつけた、というような感もある。さすがに読者が微妙な気分になるから……というか。
彼らの本質的な罪は、欲だの人柄だのにある、というよりはむしろ、異界のバケモノがもたらした奇跡を奇跡と認めず、この世の因果関係で解釈した、というところにあるのではないかと思う。
だから、異界から「天罰」としかいいようのない苛烈な罰が下される。
それは、二度と同じことを考え、実行する者がいないようにということなのかもしれない。
異界からの恵みも災いも、本来は偶発的なものであるはずなのだが、この世の因果関係でそれらを解釈し、触れようとした者にはその因果関係で解釈できるような天罰が下る、ということなのだろう。
これは、もちろん異界の側が考えたことではない。こちらがわにいる私たちが、「こうすると、こうなるよ」と私たち自身を戒めるために考えたファンタジーだ。
砂漠の彼女は、ソコに嵌まってしまった、と私は思う。
しまむらと再会したとき、彼女はただ「奇跡の力」に偶然、無心で出会っただけだった。
だから、彼女は「あの島村さんにこんなところで再会した!」というごく普通の人間らしい驚きをスルーして(笑)その場を立ち去った。
その反応が、既に尋常ではない……というか、ファンタジーに半歩入り込んでいる。
それだけで、そこでは何も起きなかったのだが、そうなった以上、何も起きないはずもない。
かくして、彼女は彼が「サイボーグ」である、ということを知った。(あるいは知っていた)そして、その力があれば、自分たちは助かる、と考えた。
サイボーグは奇跡ではない。異界のバケモノでもない。が、そうとでも言いたくなるような異常な力をもっている。
視聴者(読者)はその全てを知っている。だからなお複雑なのだった。
もし彼女が、しまむらに対して「あなたがサイボーグなのを私は知っている、その力で私たちを助けてほしい」とあらかじめ言っていればどうだったのかなーと思う。
それでもしまむらは彼女たちを助けただろう。もちろん、仲間の助力も得たかもしれない。それはむしろ、旧ゼロの世界だよな、と思う。
そこでは、しまむらはしれっとしてるかもしれない。
それこそ、アルベルトさまが言ったように「思い出のためさ」なんてエラそうに言い放ったりして(怒)
で、お嬢さんが嫉妬するのだ(倒)
それは完全に人間の物語だ。
それでも物語は成立するけれど、全く別の話になってしまう。
砂漠の彼女はなぜかしまむらがサイボーグであるのを知っている、ということを隠した。なぜ隠したのかは、実はもうひとつ不明だ。
結局、彼女がしまむらにまだ恋情をもっていたから……という解釈をするしかないのだが、それは、恋人がいることを隠さないというところでなんだかかなり無理な解釈になっている。
しまむらに恋情をもっている、ということと、彼がサイボーグであることを知らないふりをする、ということとがどうつながるかというと、やはりそこが新ゼロに流れる鶴女房の法則だと思うのだった。
知れば別れなければならない。
しまむらたちはそういうモノなのだ。
彼女は、彼らがそういうモノである、ということを彼女の行動によって認めてしまった。
そういう伝承の磁場に踏みこんでしまった彼女に与えられているのは絶対的な悪の役割だけだ。
そういう意味で、彼女は新ゼロのみならず「サイボーグ009」の世界でしまむらに絡む女性の中、唯一といっていいくらいの「悪女」ということになる。
が、サイボーグはファンタジーじゃないよね?と、ふと我に返りさえすれば、彼女は何も悪いことなどしていないのだった。
彼女とキャサリン王女を比べれば、その違いがはっきりとわかる。
キャサリン王女は、しまむらがサイボーグであるということを最後まで知らずに終わった。砂漠でしまむらが望んだことが実現された、といえる。
その代償として、彼らの接触は偶発的なものでなければならず、それゆえ一度きりの奇跡でなければいけない。それはアルベルトさまのいう「大事にしまっておきたい美しい思い出」でもある。
そんなわけで言うまでもないが、3至上主義者の神経を逆撫でするのは、圧倒的にキャサリン王女なのだが、もちろん、彼女自身は無垢な美少女であり、踏みドコロはまったくない。だからしまむらを思うさま踏むのだった!<それはいいから(涙)
3 無償の愛、無償の戦い
この砂漠の話はとにかくいろいろ不可解なことが多いのだが、その一つがしまむらが研究所にあてた「手紙」である。
なんで、手紙なんだ?(悩)と思うのだった。
電話のない場所だった、と考えることはできる。
が、ちょっと無理かなーと思う。
身も蓋もないが、これはマンガなのだ。製作者が電話をかけさせよう!と思ったらできないことはない。
それを踏まえ、しまむらがなぜ手紙を「選んだ」のかという疑問自体への答を出すのはそれほど難しくない。
要するに、しまむらは、今行おうとしている行為が仲間達から拒絶されるということを知っていたのだ。
ちなみに。
仲間にどーしても知られたくないなら、何も伝えなければよい。実際、新ゼロしまむらはそーゆーこともしている(嘆)
そのしまむらが手紙を書いたのだから、彼はこの行動が、好むと好まざるとに関わらず、仲間に「伝えなければならないこと」だと判断していたのだ。
なぜ伝えなければならなかったのか。
もちろん、仲間に迷惑をかける可能性があるから……だ。
が、「迷惑をかける」というなら、前述のように、しまむらは、結構仲間に「迷惑をかける」ようなことになっても、黙っていたいことなら黙っていたりする(悩)
この場合の「迷惑」とは、ただ面倒な思いをさせる、とか不快にさせる、とかいうレベルではないのだろうと思う。
最悪の場合、仲間たちの存亡に関わる本質的な危機を自分がもたらす可能性がある。
だからこそ、しまむらは手紙を書いたのではないか。そーゆー文面ではなかったですが(怒)
しまむらは、その行為が禁忌に触れることを知っていた。それは、ワガママ、とかいうレベルの話ではない。自分の属する世界への本質的な裏切りなのだ。
「人魚姫」と思えばわかりやすい(しみじみ)どーしても姫(倒)
だから、ともあれ、しまむらの行動の動機はもーこれは完全に、純粋に「愛」。
王子さまに婚約者がいたって、人魚姫の愛は揺るがない(しみじみ)
そして、手紙を読んだ仲間たちは。
当然だが、非常に冷ややかだ。
サイボーグって、人助けするものなんじゃないの?(汗)
と、旧ゼロ007に首をかしげられるんじゃないかと思うくらいなのだった。
もちろん、相手がしまむらだからか、あるいは井上さんだからか、それは微妙だが、彼らの冷ややかさは、歯に衣着せずに言うなら、
またアイツの女癖が出た(怒)
という雰囲気にごまかされてしまってはいる。
でも、そうだとしても、相手の(しかも恋人持ちの)女性に罪はないだろう。
関わってしまった人間を助ける、というのは、それがどんなにメンドクサイことであってもやらなければならない、というのが、彼らの行動規範ではなかったのか。
これがもっと顕著に出てくるのは、しまむらを回収した後のサイボーグたちの言動だ。
女癖の悪い超ワガママなしまむらに付き合ってられるかよ(怒)というのが研究所での反応であったのだとしても、全ては終わってしまったのだ。
もののついでに、しまむらが助けようとした二人を回収したって、大した手間ではあるまい。
しかし、彼女たちを回収しようとするしまむらに対して、サイボーグたちは明かに異を唱える。
彼女たちがしまむらを見捨てた、見殺しにした、と彼らは怒るが、その彼ら自身が、まさに助けるべき善良な(と思う)人間二人を文字通り見捨て、見殺しにしようとしている。これはどう考えても変だ。
が、「人魚姫」だったら。
サイボーグたちもまた、人魚たちなのだ。
人魚たちは姫に言う。
王子を殺しなさい。そうすればあなたは助かる。と。
そういうことなんだろうなーと思う(しみじみ)
「オンディーヌ」だと、もっとわかりやすい。
禁忌を破った人間に与えられるのは死のみなのだ。
それを水界の者たちは告げ、実行する。
「人魚姫」の場合、死んだのは姫の方だ。
「オンディーヌ」では人間の男が死んだ。
いずれにしても、二人とも助ける、ということは無理なのだった。
しまむらは同族の者たちに見いだされ、助けられ、これからも生き延びる。なら、死ぬのは人間の方でなければならない。
サイボーグたちの主張はもっともなのだった。
しまむらはそれに抵抗する。
もともと、そういうことになるとわかっていたのだ。
そして抵抗するのは、もちろん、しまむらが彼女を愛しているからだ。
しかし、「人魚姫」にせよ「オンディーヌ」にせよ、そして「夕鶴」だって、しまむらの抵抗は、愛は、実を結ばない。宿命からは逃れられない。だから悲劇になる。
砂漠の場合、なぜそれが破られるのかというと。
これはもう、お嬢さんがいるからなのだった。
本来、異界のモノであるお嬢さんがただ一人、しまむらの味方をする。
一人だけなのだが、こういうことは多数決で決まるのではない。
掟を壊すためには一人で十分だ。全員が守るからこそ、掟が成立するのだから。
だから、サイボーグたちはお嬢さんに逆らえない。
で、お嬢さんはなぜしまむらに味方するのかというと、もちろん、彼を愛しているから……なのだった(しみじみ)
問題は。
異界のモノには「愛」がわからないはず、ということだ。
それは、この世と異界とを隔てる公理であったはず。
しかし一方で、愛とは、本来同族である人間たちが、特定の相手のみを、あたかも異界のモノであるように感じ、唯一のモノとして感じることでもある。
もともと、愛というのは危うい矛盾に満ちたものなのだった。
だから、愛は秩序を破壊する。
この物語を動かし、トドメをさす役割を果たしているのは、実はお嬢さんなのだった。
お嬢さんがしまむらを愛していなければ、サイボーグたちはしまむらと対立するしかないし、かといって対立してしまったら、正義のサイボーグとしての彼らの立ち位置が怪しくなる。
ということは、つまり、そもそもこの物語自体が成立しない、ということなのだ。
前述した、旧ゼロ型(笑)の砂漠冒険活劇!という方向にもっていくしかない。
この物語は、そもそもしまむらが無垢なバケモノとして人間の女を愛したところに端を発している。
そして、その物語を締めくくったのは、無垢なバケモノであるお嬢さんが無垢なバケモノとしてしまむらを愛している、という途方もない事実で。
ちなみに。
無垢なバケモノ同士が愛し合ったらどうなってしまうのか。
その答を、私は知らない。
幸い(?)そう展開する前に、物語は終わる。
お嬢さんの助力を得たしまむらはつぶやく。
「無償の愛、無償の戦い」と。
なんか、見方を変えれば(簡単に変えられる)すっげー身勝手なことをしているしまむらが言うので、唐突で説得力がない台詞に見えてしまうのだが、これは真実だ。
無垢なバケモノの愛は、完全な無償の愛だ。
それが突き進むとき、世界の秩序は破壊される。
それこそがサイボーグの生き方だ、とリーダー009が宣言するのだった(倒)
サイボーグの、と言われてしまったら、他作品のまっとうなサイボーグの皆さんに迷惑がかかったりするかも(悩)
正確に言えば「ゼロゼロナンバーサイボーグ」の生き方であり、もっと言えば「イシノモリのサイボーグ」の生き方なのだろう。
が、よーーーく突き詰めて考えると、これはもしかしたら「サイボーグ」というモノそのものがもっている特性だったりするのかもしれない。突き詰めなくてもいいと思いますが(涙)
無垢なバケモノたちがその愛ゆえに戦う。
なんかコワいのだった(涙)
ただの人間である私としては、そんな愛はなんというか、ひたすらコワい。
が、お嬢さんはそれを受け止め、さらに無垢なバケモノとしての愛を返したりするのだ。
新ゼロ93は幸い(?)そこまで踏み込まず、てきとーに話を終わらせてくれた。
それによって「裏切りの砂漠」はなんだかわかりにくい話になったのだが、そのおかげで、とりあえず世界の秩序は保たれた。
砂漠の彼女としまむらとは無事に(?)訣別した。
二人が出会うことは二度とない。
何事もなかったかのように、しまむらは立ち去る。キャサリン王女のときと同じように。
そして、砂漠の彼女は。
しまむらが異界の男であることを知り、愛を交わし、その力を求め……ながら、タマラさまの死を迎えることはなかった。(え)
残された93の問題は、つまり、完結篇ラストまで持ち越されることになった……のかもしれない(倒)
そう考えると。
彼女たちを助けようとするしまむらにそっと手を重ねたお嬢さん。
そうやってともに操縦桿を握り、前を見据える二人が言うべきコトバは、
バルス!
……だったのかもしれない(しみじみじみ)<待て(涙)
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