「どうしたの?ぼんやりして……」
――母さん……?
「もう時間ね。準備はできている?」
「……うん」
「大事な日なのに、行かれなくてごめんなさい……晩ご飯はご馳走作るから」
「いいよ、別に……そんなの」
高校の入学式なんて、特別なことじゃない。
両親に来てもらいたいような年齢は、とうに過ぎてしまったし……今さら取り返せるわけでもない。
真新しい学生服に、カバン、靴。
玄関を出ようとする僕を呼び止めると、母さんは「大きくなったわね」と目を細めた。
どう答えたらいいのか分からず、僕はただいってきます、と言って部屋を出た。
学校へはそれほど遠いというわけでもない。
地下鉄は却って面倒だったし、自転車もあまり好きではないから、歩いていくことにした。
まだ時間にはずいぶん余裕がある。
ゆっくり歩いているうち、ふと何か違和感を感じた。
誰かに見られているような気がする。
――後ろだ。
僕は角を曲がったところで静かに立ち止まってみた。
すると……その気配も立ち止まる。
おかしい、と思った。
僕は軽く息をつき、肩の力を抜くと、また歩き始めた。
そして、長いまっすぐな通りの曲がり角のところで、いきなり振り返ったのだ。
外国人の女性だった。
遠くて、顔ははっきり見えない。
彼女はゆっくりこちらに向かって歩き続けていた……が、その足取りが、一瞬止まりかけたのを、僕は振り返った瞬間、確かに見た。
――誰だ?
足早に近づく僕に見向きもせず、彼女はそのビルの入口へすっと入った。そこが目的地だ、ということが誰の目にも明かな、迷いのない、ごく自然な足取りで。
でも、僕は騙されない。
「待て!」
叫びながら駆け出そうとしたとき。
「そっちは、逆ですよー!」
思わず、はっと振り向いた僕を、女の子が不思議そうに見つめている。
こんな子に構っているヒマはない……そう思うのに、脚が動かない。
「あなた、H高校の新入生でしょ?……学校は、こっち」
「……わかってる」
同じ高校の制服だ、とそのとき初めて気付いた。
女の子は不思議そうに瞬き、いきなり僕の腕をとって、引っ張った。
「な、何を……!」
「嘘ばっかり!迷子になってたくせに」
「違う!……離せ、僕は……行かなくては」
「……どこに?」
「え?……」
澄んだ瞳に見つめられ、僕はうろたえた。
「忘れ物、したの?」
「……いや」
「それじゃ、落とし物?一緒に探してあげましょうか?」
「いや、そうじゃない……僕は、ただ」
「……」
「……」
すぐにあの女性を追いかけなければいけないのだと、どうしてもそうしなければならないのだと、この子にどう説明したらいいのかわからない。
いや、説明する必要などない……僕は、彼女を。
……僕は。
「――っ!」
「え?……だ、大丈夫?」
「……構わ、ないで……くれ!」
「頭が痛いの?……ひどい顔色よ」
「僕に、構うな!」
「何言ってるの!」
女の子の声色が鋭く変わり、僕はぎょっとして顔を上げた。
澄んだ瞳は相変わらず僕を見つめていた。
不意にそこに閃いた強い光に射貫かれたような気がして、僕はそれ以上動けなくなった。
「ほら、とにかく行きましょうよ。……もうすぐ学校よ。保健室に……ね?」
「……必要ない。いつものことなんだ」
「あなた、頭痛持ちなの?……緊張してるからかしら。薬は持ってる?」
大きく息をついた。
さっきの女性がどのビルに消えたのか、もうはっきりわからなくなっている。
ひとつひとつ調べる……のもどうかしている。
入学式に遅れてしまうではないか。
僕のカバンを持とうとした女の子の手を払い、それがとても小さくて白いということに気付いた。
女の子は、ほんとに大丈夫?と心配そうに尋ねてから、にっこりした。
「私、トモエ……早坂トモエよ。よろしく、新入生さん」
「どうも。よろしく……お願いします、先輩」
「まあっ、失礼ね!私も新入生ですっ!」
「えっ?!」
慌ててよく見ると、たしかに制服もカバンも靴も……新しい。
「ゴメン。その、女の子って、オトナっぽく見えるから」
「言い訳はいらないわ。それで?……アナタの名前は?」
「島村、ジョー」
「よろしい。……行きましょう、迷子の島村くん?……入学式早々遅刻なんて、あり得ないわ」
「だから、僕は別に迷子じゃ……」
「それじゃ、頭痛持ちの島村くんってことで。なんだか面倒な人ね」
「……」
失礼なのはそっちじゃないか、と思いながら、僕はつかまれた腕をふりほどいて……かわりに、彼女の手を握り直した。
やっぱり、小さくて……やわらかくて、あたたかい。
「ちょ、……島村くん?」
「僕は、迷子で頭痛もちなんだろ?……よろしく頼むよ」
「……信じられない」
赤くなった頬も、少しとがらせた唇も、とてもかわいいと思った。
そんなふうにして、僕の高校生活は始まったのだ。
|