面倒だな、というのが正直な気持ちだった。
でも、放っておくのはマズイとも思った。
――どうしてもお話したいことがあります。
話なら終わっているはずだ。
それなのに終わっていない、とその子は言う。
率直に言えば、始まってさえいない話だろうと僕は思う。
僕が黙って丸めたり広げたりしている小さい紙に気付いたトモエは「またですか!」と眉を寄せ、僕をにらんだ。
「また……って。人聞きが悪いな」
「だって、また、だもの……島村君、要領悪すぎ!」
「僕が悪いのかい?何もしてないのに?」
「だから悪いのよ!……ちゃんとお話してあげないと。横着して女の子を傷つけるのは、ダメだと思います」
「ふうん。ちゃんと話をしたら、彼女と付き合う気になるかもしれないけど。君は、それでいいんだ?」
「結構です」
「……ふうん」
「なぁに?」
面白くない。
僕はトモエの腕をつかんで、思い切り引き寄せた。
「だから。……君は、もし僕が……」
「……」
でも、それ以上言えなかった。
よくないのは僕の方だとわかっているから。
もしトモエがいなくなったら……困るのは僕だ。
僕だけ、だと言っていい。
「それは、もちろん、困りますけど」
「……」
「島村君に彼女ができたら……私、困るなぁ」
「……」
「でも……ね。島村君にとっては、その方がいいんだと思う。たしかに困るけど、そうなっても怒ったりしないから大丈夫です。それに私、島村君が会いたいって思ってくれた時には、ちゃんと会いにいくもの。そこはしっかり約束……」
それ以上言わせないために、僕は彼女を抱きしめて唇を塞いだ。
約束なんかさせない。いや、したくないんだ。
僕は、きっとそれを破るに決まってるから。
「し、島村君……もしかして、お母さん……」
「うん。今日は遅くなるんだ。……だから誘ったんだけど?」
「信じられない!相談したいことがあるって、深刻な顔で言うから来たのに……!」
「ゴメン……でも、これ以上はしないから」
「これ以上……って!」
それは、本当のことだ。
どうしていつもぎりぎりブレーキをかけられるのか、我ながらわからないけれど。
でも、これ以上は絶対にダメだ。
トモエとそういう関係になるのは……なぜかはわからないが、彼女を失うことと同じくらい、こわい。
そのとき、携帯が鳴った。
発信者を確かめ、ゆっくりスイッチを入れる。
「……わかったよ。20分ぐらいかかると思うけれど……いい?」
トモエが腕の中で息を一生懸命整えている。
これじゃ最低の男だと思いながらも、腕を緩めることができない。
やがて電話を切り、僕はトモエに囁いた。
「それじゃ……行ってくるから、待ってて」
「……島村、くん…?」
「君の言うとおり……誠実に、話をつけてくるよ。ここで待っていて」
僕は彼女をソファに座らせたままにして、さっさと部屋の外に出た。
トモエはこのマンションのことをよく知らない。
僕と一緒に動かなければ、何かセキュリティが反応して騒動になると思い込んでいるから、きっとおとなしく待っているだろう。
人気のない公園で待っていたのは、彼女ではなかった。
見覚えのある……ということは、たぶん同級生か、いや、上級生か。
とにかく、同じ学校の生徒たちだ。
「オマエが、島村か。……たしかに色男だな」
「ずいぶんナメた真似してくれたみたいじゃないか」
こんなガラの悪いやつら、いただろうか。
のんきな学校だと思っていたんだが……女の子が絡むと、男は人が変わることがあるらしいから、そういうことなのかもしれない。
ますます面倒なことになってしまったのかもしれない。
――ケンカは、ダメ!
トモエの声が脳裡をよぎる。
もちろん、わかってる。
冷静に彼らを眺めてみると……一人の顔に、ぴん、と来るものがある。
そうか、と思ったはずみに、小さいながらも声が出てしまった。
「……妹、か」
「なんだと、この野郎っ!」
脈絡が全然ない、と思うが、とにかく僕のそのひと言が彼らに火をつけてしまった。
あっという間に押さえつけられ……立て続けに蹴りやらパンチやらを腹にくらった。
痛いのか痛くないのか……よくわからない。
とにかく、こうやっておとなしく殴られていれば、そのうち向こうは拍子抜けしてくるはずだ。
女の子本人を相手にするより、気楽といえば気楽だ。
「チクショウっ!……なんだ、コイツ、涼しい顔しやがって!」
「あ、よせ、首から上は…!」
変な制止の仕方だな、とぼんやり思った。
やっぱり、ウチの学校の生徒だ。
根っからのワルには徹しきれない、ということか。
次の瞬間、側頭部を思い切り殴られた。
倒れるのはマズイ、と思ったが、体が言うことをきかない。
ごろ、と転がった感触はアスファルトだ。
薄目を開けると、血走った目をした男が、何かを振り上げて……明らかに、僕のアタマを狙って振り下ろそうとしていた。
「きゃぁっ!」
不意に間近で聞こえた細い悲鳴に、はっと飛び起きた。
トモエが目の前でうずくまっている。
飛び出してきて僕を庇い、肩を殴られたらしい。
一気にアタマに血が上った。
「だめっ!島村君っ!」
「――っ!」
背中に柔らかい感触があった。
トモエが、必死に僕を後ろから抱きとめている。
うわあーーっ、と、獣のような声を上げながら、連中が逃げ出していく。
その後ろ姿をにらみつけながら、僕は懸命に呼吸を整えていた。
「ダメ、ダメだよ島村君……!ケンカはダメ!」
「アイツら……君を…!」
「私は大丈夫、それより、ケガはない?」
「……トモエ」
どうして来たんだ、と怒鳴ろうとしたとき、彼女の澄んだ目をまともに見てしまった。
言葉が出てこない。
「ケンカはダメよ、島村君」
「……僕は、誰も殴ってない」
「うん。わかってるけど……」
「それに……君を守るのはケンカじゃない!」
トモエはうつむき、何も答えなかった。悲しい顔をしているのはわかりきっている。
だから、僕は彼女をそれ以上見なかった。
翌日。
電話をかけてきた女の子が校門のところで僕をつかまえ、泣きながら謝った。
気にしなくていい、と宥めるのにやや手間取ったが、二度と僕には近づかないという約束をしてくれたので、ほっとした。
「いいの、島村君……?」
「いいも何も。……ちょっと変な子みたいだし」
「え?どうして?優しそうで、かわいい女の子だったじゃない!」
「だって。すぐ謝りたかったにしても、フツー、女の子と手を繋いでる男に声かけるかな?」
「それ、私のことですか?…って、今日はおかしいなぁと思ってたのよ、島村君から手を繋いでくるなんて!道理で、そういうたくらみがあったからだったのね!」
「たくらみ……って。人聞きが悪いな」
「とにかく。それじゃ、もういいんでしょう?そろそろ手、離していただけませんか?」
「そう言われると、離したくなくなる」
「フザけてないで。ほらー、下駄箱開けなくちゃ……えっ?ちょ、ちょっと、島村君……?!」
僕は不意に回れ右をした。
そのまま慌てるトモエを引きずるようにして走り、校門を駆け出していく。
「島村君?どうしたの?忘れ物?」
「違う。今日はサボる!」
「ええーっ?!」
「君にも付き合ってもらうよ」
「だ、ダメよ、そんなの…!もー、やだ!離してよ!」
手を離したって、きっとトモエは僕を追いかけてきてくれる。
ぶうぶう言いながら、心配そうに。
そんなことはわかりきっていたけれど、もう少しこの手を握っていたかった。
今日は、もう少しだけ。
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