卒業式の予行が終わり、久しぶりに登校した……そして明日が最後の登校となる……3年生たちは、いつまでもなんとなくぐずぐず教室に残り、帰ろうとしない。
それでも、少しずつ人影は減っていき、そろそろ最後の追い出しかな、という頃だった。
教室の様子を見に行こうとした私は、ホールに一人ぽつんと立っている生徒に気付いた。
ええと。
アレは、ウチのクラスの……
男子で、茶髪で、おとなしくて、存在感が異様に薄い……ええと。
「存在感が薄い」というのが唯一の特徴であるその生徒の名前を、彼のたたずむホールに入る前にどうにか思い出せたのは、ここ数日、一生懸命卒業式の呼名の練習を重ねていたからに他ならない。
生徒の名前をなかなか覚えない……覚えてもすぐ忘れる、と悪名の高い私だったが、そんなわけでとにかくその時は彼に声をかけることができたのだ。
「まだいたの。そろそろお帰りなさい、島村くん」
「……はい」
3年A組。
出席番号15番。
クリヤマの次の、コニシの次の、シマムラ。
……島村ジョー。
※※※※※※
はい、と言ったものの動こうとしない彼がぼーっと眺めていたのは、3年生たちの大学入試結果が張り出されている掲示板だった。
そういうモノを掲示する、というのはイマドキらしからぬことなのかもしれないが、有名大学に合格した先輩の名前を後輩が見つけて盛り上がる、みたいなことが結構あって、思いの外生徒たちの評判は悪くない。
もちろん、当人の許可をとった上での掲示だ。
後輩たちだけでなく、今日は3年生もここで足を止め、楽しそうに語り合っていた。
長い努力がとりあえず終わり、貼り出されているのは、良かれ悪しかれ、その成果……彼ら自身の確かな足跡でもある。
島村ジョーの名前もあるはずだった。
彼は掲示を許可する、としていたし、いくつかの私立中堅大學に合格していた。
そのどこに進学するのか、或いは浪人するのか……その結論はまだ「決まっていない」ということだったけれど。
「進学先のことでも、考えていましたか?」
「いえ。そういうわけじゃ……」
「でも、そろそろ決めないと、手続きが間に合わないでしょう」
「……はい」
「たしかに、選ぶとなると決め手に欠けるかもしれないけれど……」
「どこでもいい、なんて思うから決められないのかなあ……」
ありゃ。
やっぱり、そうだったのか……と思った。
「あなたの場合、たしかにどこでもいいのもしれませんけど」
「……え」
「どこで、何を勉強しても、何かはできるはずですから。あなたのやりたいこと」
「……僕、の?」
「スピーチで言っていたでしょう。忘れましたか?」
「……」
2学期後半のホームルームを数回使って、3年生はクラスの仲間を前にスピーチをすることになっている。
題は自由だ。
始めはいやがっている生徒たちも、いざ始まってみると、あまりいいかげんなことを言うわけにはいかず、すると根が善良な彼らなので、結構聞き応えのあるスピーチになったりするのだ。
普段とは異なる顔を見せる生徒も少なくない。島村ジョーもそうだった。
「僕は、いつも正義ということについて考えています」
彼のスピーチはそんな言葉から始まった。
世界のどこかで今も行われている戦争。
繰り返される悲劇。
それらを止めたいと思わない人間はいないだろう。
正義を望まない人間もいないだろう。
なのに、どうして……
ありふれた内容といえばそうだけれど。
でも、彼のスピーチには不思議な哀感がこもっていた。
だから、「僕は正義と平和のために自分の力の全てを尽くしたい」という、ごくごく単純で何のヒネリもない、ちょっと賢い小学生が言うような結論に、思わずクラス中が真剣にうなずいてしまったのだ。
スピーチ、と言われ、そのときのことを思い出したのだろう。
島村ジョーは少し困ったように目を伏せ、黙り込んだ。
が、やがて。
「でも。どこでも何かできるかもしれない、ということは……どこにいっても何もできないかもしれない、ということじゃないのかな」
私に、というより、自分自身に語りかけているような口調だった。
だから、私は沈黙を守った。
「そういえば、できてもできなくても結局は何かをすることになるんだ……って。先生は、前におっしゃってましたよね」
「……え?」
いきなり言われ、私は驚いた。
そんなことを生徒たちに話した覚えはない。
そう言うと、島村ジョーは苦笑した。
「忘れちゃったんですか。どういう意味だろうって、ずいぶん考えたのにな」
「どういう意味だか、考えてわかりましたか?」
「まさか。全然わからなかったです。あ。もしかして、先生もわからないんですか?」
「そりゃあもう。言ったこと自体覚えていないわけですから。大体、どういう文脈でそういうことになるんだか……」
「……ヒドイなあ」
「仕方ないから忘れてもらいましょう。……でも、進学先の連絡は忘れないでくださいね」
「はい。……先生は、ずっとこの学校にいるんですか?」
「たぶん。4月からは1年生の担当かな。そしたら、やり直しです」
「……やり直し」
「そう。あなたたちはどんどん先に進むけど、私たちはいつもやり直し」
「……」
「もう、これで何回目になるかなあ……」
前は数えたりもしたけれど、もうそんなことはしない。
一生懸命記憶をたどっても、途中でわけがわからなくなってしまうのだ。
「だから、先生は忘れるのかな……僕たちの名前」
「……そういうことにしておいてください」
島村ジョーは面白そうに笑い、さようなら、とアタマを下げてからホールを出て行った。
その後ろ姿を何となく見送りながら、ふと、こういうことが前にもあったような気がした。
茶色の髪の、おとなしい、存在感の薄い少年。
大丈夫かと思うくらい幼い……いや、あれは幼いというのではなくて、むしろ。
たしかに、そういう少年がいた……ような気がする。
そうだ。
あのとき、まだ20代だった私は、彼の、正義を語るスピーチにちょっとした衝撃を受けて……そして。
その少年の名は思い出せない。
……でも。
「シマムラ、ジョー」
ホールにゆっくり響く自分の声を確かめた。
それでも私は忘れるだろう。
明日呼ぶその名を、あのときの……その後にもたしかにいた、少年たちの名のように。
結局、島村ジョーがどの大学に進学したのか、その後連絡はなかった……らしい。
引っ越ししたみたいですね、もし連絡がついたら教えてください、という進路指導部長の声を聞き流しつつ、あーシマムラね、たしかにいたかも、そういえば何だか存在感が薄いヤツで……と、ぶつぶつつぶやきつつ、私はさっき窓ガラスを壊した生徒の家庭に連絡をとるべく、住所録をひっくり返していた。
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