時計を見て残り時間をはかってから、私は黒板を離れた。
「坊ちゃんー、起きてくださいー!」
ぐっすり眠り込んでいる栗色の頭に出席簿を立てて、こつ、と当てた次の瞬間。
思わず後ずさりしてしまった。
その居眠り少年が顔を上げる勢いはそれほどすさまじかったし……何より、大きく見開かれた目の、異様な光に呑まれたのだった。
「え、えーと。その……お疲れでしょうか、坊ちゃん?」
「……すみません」
が、そんな気がしたのはそれこそ一瞬で。
少年は決まり悪そうに鉛筆を握り直し、すぐにうつむいてしまった。
この分ではまた寝るかもしれない。
教卓に戻り、ちら……と座席表を確認した。
窓側から2列目、前から4番目。
2年B組、島村ジョー。
※※※※※※
「島村」はともかく、「ジョー」というのは珍しい。
ホントにカタカナの「ジョー」なの?と尋ねると、担任は自信なさそうにうなずいた。
「どうも、父親の方が日本国籍じゃないみたい。だからかな」
「ふーん……?」
ってことは、「島村」は母親の姓ということか。それも珍しいかも……と思ったけれど、昔と違って、こういうことを気にする教員はあまりいない。
昨今、こういうことで一旦ボタンを掛け違えると、果てしなくややこしくなりやすい。
ややこしいことは考えない、とは思ったのだけれど。
なんとなく「島村ジョー」という名前と、栗色のアタマが記憶に残ってしまった。
それで、2Bの授業に行くと、どうしても彼が目につくようになり、目についてみると、やはりいろいろ気になることはあるのだった。
まず、居眠りが多い。
ついでに、忘れ物も多い。
テストの点はまあまあだけれど、ケアレスミスが多い。
そういう生徒は必ずいるものだけど、それにしても多い。
なんなんだコイツ、と思うくらい多いのだった。
それでいて、目立たない。
実際、私だって先学期まではコイツを気にしたことなどなかったのだ。
でも、記録を見ると、これまでもやはり忘れ物や未提出の課題は多いのだった。
これって、もしかすると最近よく言われる、発達ナントカってことなんじゃないかと思ったりもした。
が、ムリにそう思わなければならないようなマズイことはないし、担任も何も気にしていないようだった。
とはいうものの。
さすがに、そうやって無難に乗り切っていくには限界があったらしい。
二学期の後半に入ると、島村ジョーの成績は、どうも赤点すれすれ、ということになりそうな気配になっていた。
赤点をとっても一度くらいならなんとかなる。
それに、担任に確認すると、島村ジョーの成績で危なくなっているのは私の科目だけらしい。
だったら別にいいか、と思っていたのだけれど、他にもそういう生徒は数名おり、親切者で有名な高2学年主任から、希望者に補習をやっていただけませんか、と頼まれたのだった。
もちろん、否やはない。
希望者が集まれば、の話だけれど。
二学期の期末考査までひと月以上もある時期で、しかも高2。
どんなノンキ者でも受験やら予備校やらも気になってくるはずで、そんなときに微妙な苦手科目の放課後補習に参加する生徒などまずいない。
どうせ誰も希望しないだろうとタカをくくりつつ、一応募集をかけたら、一人だけ来たのが、島村ジョーだった。
一人だからやらない、ということはない。
生徒がそれでよければ補習は成立する。
で、島村ジョーは、一人でもいいです、お願いします、と言ったのだった。
忘れ物が多くてケアレスミスが多くて居眠りの多い、発達ナントカかもしれない生徒とマンツーマンの補習……と思うと気が重かったが、始めてみるとそれほどのこともなかった。
むしろ、どうしてコレで忘れ物だのミスだの居眠りだのするんだコイツ、と思うほど、島村ジョーは聡明、といっても差し支えないような生徒だった。
補習の3回目が終わったとき、私は彼に、もう次は来なくていいから後は一人で勉強しなさい、と言った。
が、彼は不安そうに、できれば続けていただきたいのですが、と答えた。
「私はそれでも構わないんだけど。でも、他の科目の勉強もあるでしょう?」
「それは、どうにかなってるので」
「これもどうにかなると思いますよ」
「……でも」
「そうですね……私がこんなことを言うのもヘンですが、高校二年生ともなれば、いろいろやりたいこともあるでしょう。そういうことに時間を回したら?ってことです、要するに」
「……やりたいこと」
そうつぶやくなり、島村ジョーは沈黙した。
その沈黙があまりに長いので、ちょっと心配になった。
「やりたいこと……ないですかね?」
「……わかりません」
「そうかー」
「やらなければならないことがあるのは、わかっているんですが」
「うんうん、そうでしょうね……」
どこか聞き慣れたセリフについ適当な相づちをうっていた私は、ふと強い視線を感じた。
あ、ヤバかったか、と慌てて彼の顔をちゃんと見ようとして……固まった。
あの、目だった。
「僕は、どうしてここにいるのか……わからないんです」
「……」
「何のために……毎日こうして……」
「……」
聞き慣れたセリフのはずなのに、どう答えたらいいかわからない。
やらなければならないことがあるはずなのに、それが何だかわからない。
自分が何のためにここにいて、なぜ生きているのかわからない。
そんなことを漏らす高校生はいくらでもいた。
だから私もその都度何かを言っていたはずなのだ。
でも、私はいったいそのとき彼らに何を言っていたのだろう。
全く思い出せなかった。
まして、今、この少年に向かって何を言えばいいものやら、見当もつかない。
私たちはしばらくの間、そうやって黙りこくっていた。
やがて、私はどこか間の抜けた声を聞いた。
それが自分の声だとわかるのに、少しかかった。
「そう言われてみれば、私も自分がどうしてここにいるのかわからないです」
「……」
「とりあえず、あなたの場合、居眠りをしないようにして、忘れ物をなくして、提出物を出して、赤点をとらないようにする」
「それで……いいのかな」
「よくはないかもしれないですが、やらないともっと悪いことになるかも」
「……そう、ですよね」
はなはだ心許ない結論だったが、その日はそれで終わった。
補習は二学期いっぱい続け、そのせいかどうかはともかく、島村ジョーの成績は特に良くはないものの、ごく平凡な所におちついた。
そして、三学期になると、たしかに彼は居眠りをしなくなり、忘れ物をしなくなり、提出物を出し、無難な成績をとるようになったのだ。
が、それを彼の望ましい成長だと私はとらえなかった。
というより、彼がそのようにした結果として、私は再び島村ジョーという生徒が2Bの教室にいることを全く気にとめなくなっていたのだった。
そんなことを思い出したのは、年度が替わり、彼が退学した……と聞いたときだった。
ちょっと驚いたが、2年生まで単位をきっちりとれていたなら、大学入試受験資格を取るのは簡単だ。本人がフツウに努力する気があれば、ドロップアウトというほどのことではないだろう。
担任の話だと、特に問題があったわけではなく、理由もはっきりしないまま、退学届けだけが出されたのだという。
もしかすると……と私は思った。
彼は「やらなければいけないこと」がわかったのかもしれない。
それなら、高卒の肩書きをとるためだけに学校に残る必要などないはずだし。
もっとも、もしそうだとしても、大抵はそれって勘違い、だったりするんだけど。
それでも、まあいいか、と思った。
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