フランソワーズに「ジョー、私、映画に連れていってもらいたいのだけど……」と控えめに持ちかけられたときは、ちょっと驚いたものの、悪い気はしなかった。彼女は自分のために何かを望むことがそれほど多くなかったし、そうやって直接頼み事をされるとなると滅多にない、といってもいいことだった。
その,、映画を観る、というのが、彼女の嗜好なり娯楽なりのためではなく、何でも今度演じる役の研究のためだ、というところがまた彼女らしいとジョーは思った。
ということは、おそらく彼女が観たがっているのは、自分にとっては退屈きわまりない、芸術的かつ高尚な内容の映画なのだろう。そこは少々気が重いが、滅多にないことなのだから我慢するべきだ。第一、たいていの映画を退屈にしか感じない自分なのだから、その内容をあれこれ吟味する必要もない。
「ごめんなさいね……あなたが映画をあまり好きではないことはわかっているのだけど……でも、一人で観ない方がいいって、みんなに言われて。日本の映画だから、あなたに一緒に観てもらうのが一番いいかしらと思ったの」
「日本の映画なのか。……よくわからないけど、バレエに役立つモノなんてあるのかな」
「ふふっ、バレエといっても、今度のは古典じゃないの。ちょっと変わっているのよ……だから、解釈も難しくて。助かるわ、ありがとう、ジョー」
にっこり微笑まれ、頬にキスまでもらってしまっては、嫌な顔をするわけにもいかない。
日本の映画だということなら、ジョーとしてはあらかじめ作品について下調べをしてレクチャーするべきところなのかもしれないが、そういう事情だから、彼女自身が既にソレについてはかなり精通しているらしい。だったら、ただ一緒に行って観てくるだけでいいわけで、考えるなら、その後、お茶をどこで飲むか、食事はどうするか、というようなことだけでよさそうだった。
といっても、ジョーに思いつくのは結局張々湖飯店ぐらいなモノだった。
そもそも、目的の映画館が店のすぐ近くだったりするので、どうしようもない。
そんなわけで。
さすがに、映画館まで彼女を案内することぐらいは、きっちりやらなければならないだろう、とジョーは地図を再三確認し、最寄りの駐車場も探しておいた。その甲斐あって、その日、二人はごくスムーズに映画館に到着したのだった。
「……え」
「ここよ、ジョー」
「あの。君、この映画を観たいのかい?」
「ええ、そうよ」
フランソワーズは看板を見上げ、手元のメモに目を落とし、確信をもってうなずいた。
「でも。……コレって」
たしか、バレエのため、と言っていたはずだ。
コレと関係のあるバレエって……どんな演目なんだろう?
「フランソワーズ。本当に、コレでいいのかい?」
「ええ」
「コレ、ホラー映画なんだけど」
「そのようね。ジャパニーズ・ホラーって、独特の怖さがあるんだって聞いたわ。血の描写があまりなくて、静かで、身近なモノを扱うのが特徴なんですって」
「……そう、かな」
言われてみればそうかもしれないが。
ホラー映画に興味は全くなかったから、よくわからない。
興味はなかったというより、避けていた、といったほうが正しい。ジョーは子どもの頃から、いわゆる「怖い話」が苦手だった。あからさまに怖がると、しつこくからかわれるとわかっていたから、バレないように気を遣ってはいたけれど。
なるほど、それで「一人で観ない方がいい」だったのか、とジョーは不意に納得した。
もっとも、フランソワーズがコレを「怖そう」と思っているのかどうか、彼女の表情からはまったくうかがえない。
考えてみたら、003たる彼女が、幽霊だの暗闇だの、正体不明の不気味な声だのを怖がるはずはないかもしれないのだった。
で、ソレを言うなら、009たる自分がスプラッタ系ホラーを怖がるはずも……と、そこまで考えて、ジョーはまあいいや、と心でつぶやいた。
結局、フランソワーズは終始ごく冷静に、熱心にその映画を見通した。
が、さすがに緊張が高まるようなシーンではかすかに息づかいが変わるのが感じられたし、あちこちで押し殺した悲鳴があがるような衝撃的なシーンでは、数秒間呼吸が止まっているような気配もあった。
そんな彼女の様子が気になって、ジョーは映画をほとんどマトモに観てはいなかった。もともと観たい映画でもなかったのでちょうどよかったかもしれない。
予定通り、映画館近くの喫茶店に入ったときも、張々湖飯店でにぎやかな夕食を振る舞われたときも、彼女は特に映画について語ろうとはしなかった。実際、みんなで談笑しているときの話題としてももうひとつだと思われるような内容の映画だったから、当然かもしれない。
研究所に戻ったときは、夜もすっかり更けていた。
オヤスミ、とフランソワーズを部屋に送り、そのままジョーは風呂場に向かった。
シャワーを浴びながら浴槽にお湯をはっているとき、ふと、そういえば、怖い話を聞いたあとはトイレや風呂がイヤだった……ということを思い出した。そして、そんなことを思い出しているのに、今、平然と風呂を使っている自分にも気付いたのだった。
それは、オトナになった、というよりも、もう一人ではなくなった、ということなのかもしれない。たしかに、ああいう映画は「一人で観る」ものではないのだろう。
孤独は不安と恐怖を増幅する。
だから。
暗い自室に戻ったとき。
奥の方にかすかなヒトの気配を感じ、カラッポのはずのベッドに横たわるモノがあると気付いても、一瞬ぎょっとしただけで、ジョーは、極めて冷静でいられたのだった。
「……フランソワーズ?」
そうっと手を伸ばし、亜麻色の髪に触れたときも、ジョーは何も畏れてはいなかった。
映画では、こうして眠っている少女がイキナリ眼をカッと見開くシーンがあったりしたのだが。
「怖く……なっちゃったのかな…?」
返事はない。
が、たぶんそうなのだろうと、ジョーは思った。
「でもさ。幽霊なんかより、生きている人間の方がずっとコワイ……って、きみ、聞いたことないのかい、フランソワーズ?」
囁いてみたが、もちろん返事はない。
やれやれ、と、そうっと毛布を持ち上げ、彼女の傍らに体を滑り込ませると、なんと、彼女は甘えるように身を寄せてくるではないか。
やっぱり僕のことなんか、君はちっとも怖くないんだよなあ……とひとりごち、そうはいっても、やはりああいう映画を観た夜に、こうして誰かのぬくもりを感じながら眠るのは悪くない、とも思う。
ジョーは深く息をつくと、静かに目を閉じた。
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