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009的小話

正社員の1月24日
 
トウキョウでは珍しい雪だった。
降る時間は短めだが雪の量は多い、と天気予報で言っていたのを思い出し、確かにそんな感じだな……と、ジョーは窓を眺めていた。
 
電車が遅れている、というニュースに、ジョーは思わず時計を見上げた。
そういえば、フランソワーズがまだ帰らない。
彼女が通勤に使っている路線に遅延はないようだったが、ターミナル駅はきっと混雑しているだろう。
もっと郊外に住んでいた頃なら、きっと駅までクルマを出しただろうなあ、とジョーは思う。
このマンションは、駅の近くである代わりに駐車場がない。
 
インターフォンが鳴った。
はっと顔を上げると、モニターには一つ上の階に住む初老の女性が写っていた。
何か、鍋のようなものを抱えている。
 
「あ……こんばんは」
「こんばんは、ジョーくん。……お姉さんはまだ?」
「は、はい……」
「ひどい雪なのに、大変ねえ。転んだりしていなければいいけれど……」
 
それはさすがにないな、とジョーは思う。
が、もちろん口には出さなかった。
 
「あのねえ、おでんをたくさん作ったの。よかったら食べてちょうだい」
「あ……はい。いつも、ありがとうございます」
「いいえ。……風邪引かないようにね。お姉さんによろしく」
「はい。ありがとうございます」
 
ぺこり、とお辞儀をすると、女性は満足そうに微笑し、うなずいた。
 
自分たちは姉弟、ということになっている。
といっても、この女性に限っての話だ。他に、自分たちのことを気にする住人などいないから。
本当を言うと、誰ひとり気にする者などいないだろうと思ったからこそ、この部屋を選んだわけで、そういう意味では、この女性にこんな世話を焼かれるようになっている今の状態は失敗だと言える。
 
この部屋に住み始めたのはフランソワーズが先だった。彼女の「勤務」に便利な住まいを求めてこうなったのだ。
彼女としては、そのまま一人暮らしをしたかったのかもしれないが、外国人の女性が犯罪に巻き込まれた、というニュースをたまたま立て続けに聞いてしまったギルモアが、トウキョウでの一人暮らしなどいかん!と言い張り始め、しかたなくジョーが「用心棒」として同居することになった。
 
お前はどうせいつもヒマそうにしておるしの、と言うギルモアにも、二人で部屋に入るところを件の女性に見つかったとき、咄嗟に「弟なんです!」と言い放ったフランソワーズにも、ついでに言うと、その言葉にあっさり納得した女性にも、言いたいことがあるといえばある。
が、言っても仕方がないことだと思っているから、ジョーはいつも黙っていた。
実のところ、この生活は不愉快というわけでもなかったのだ。
 
小さい割にずっしりと重い鍋をそろそろと運びながら、ジョーは玄関の片隅に引っかけてある折り畳み傘に気づいた。フランソワーズのものだった。
 
もしかしたら、今日は傘を持っていかなかったんだろうか。
 
ふっと心配になった。
駅からそれほど離れているわけではないし、彼女なら雪道を走ったからといって転ぶようなこともないだろう。
仮に雪まみれになったとしても、それで風邪を引くようなこともない――。
 
「……必要はないだろうけどなあ」
 
一応、のぞいてくるか……とつぶやきながら、ジョーは折り畳み傘を手に取り、靴をはき直した。
 
 
駅に着くと、ちょうどフランソワーズが改札から出てきたところだった。
そして、やはり彼女は傘をもっていなかった。
 
「ありがとう、ジョー!……助かったわ」
「よかった。……でも、会社から駅まではどうしたんだい?」
「部長の傘に入れていただいたの。……申し訳ないことをしてしまったわ」
「……へえ?」
 
その部長って、何か、ヘンなヤツじゃないか?と言いかけたジョーは、彼女の言う「部長」が女性だったことを思い出し、あやうく口を噤んだ。
 
「あ……それ、持つよ」
「ありがとう」
 
見慣れない大きな紙袋を受け取り、ジョーは首をかしげた。
ずっしりと重い。
フランソワーズが気づいて、笑った。
 
「スゴイでしょう?……あのね、私……今日、誕生日だったんですって!」
「……へっ?」
 
思わず頓狂な声が出てしまった。
フランソワーズは可笑しそうにくすくす笑っている。
 
「ご……ごめん。……全然。忘れてた」
「いいのよ、そんなこと。……私だって忘れていたんですもの。おめでとう、って言われて、きょとんとしちゃったわ」
「誕生日……か。ええと、今日は……」
「1月、24日よ」
「……そうか」
「私、誕生日がいつか、なんて誰にも話したことなかったのに……プライバシーはどうなってるのかしらって、ちょっと驚いちゃった。でも、日本人の組織って、そういうものだって聞いたことを思い出したの……ね、そうじゃなくて?」
「あ……そうかもしれないね」
 
そういえば、そうかもしれない。
ジョーはぼんやりと、学校時代のことを思い出した。
 
「もっとも、僕はちゃんとカイシャで働いたことがないけど」
「いいのよ。あなたは働くことなんか心配しないで、しっかり勉強して、立派な大人になってちょうだい」
「なんだよ、それ?」
「日本のお姉さんって、そういうものなんでしょう?」
「そうかなぁ?」
 
ずっしり重い紙袋の中から、かすかに鈴のような音がしている。
色とりどりの可愛らしい包みが一体何種類あるのかこっそり数え、ジョーはすごいな、とつぶやいた。
 
「君は、人気者なんだね」
「そうかしら。……それなら嬉しいわ」
「うん。一生懸命やってるのが、みんなわかるんだよ、きっと」
「……ありがとう、ジョー」
 
本当はそれだけじゃないんだろうけどな……とも、ジョーは思う。
が、あまり気を揉む必要はないはずだ。彼女の「勤務」はそろそろ終わりに近づいている。
来週には、アルベルトから情報が入るだろう。ジェットも駆けつける。
張々湖は既に店を畳んだ。
 
――新しい戦いが、そこまで来ている。
 
「……お返し、しなくちゃいけないんでしょうね。日本では、こういうのって」
「……」
「でも……きっとできないわね」
「……ごめん」
「ううん。……いいの、楽しいもの」
 
フランソワーズの声は明るい。
本当に、毎日が楽しいのだろう。
それはジョーにとっても、もちろん嬉しいことだったが。
 
「君なら、ホントだったら、きっとどんどん出世するんだろうな」
「あら!そんなことないわ」
「いや、絶対、出世する。賭けてもいいよ。だって……あ、そうだ。帰ったらさ、肩たたき券をあげるよ」
「え?……なあに、それ?」
「あと、風呂そうじ券と、皿洗い券と、靴磨き券と……それから、何がいい?……日本では、弟からのプレゼントって、そういうのが定番なんだ」
「まあ!……面白そうね。嬉しいわ、ありがとう、ジョー」
「どういたしまして……じゃなくて。まだ何もあげてないじゃないか!」
「あ。ホントね…!」
 
二人は顔を見合わせ、笑い出した。
角を曲がれば、もうマンションに着く。
玄関におでんの鍋があることを思い出し、ジョーは口を開きかけた……が、何も言わないことにした。
 
弟でいるのも悪くないかもしれないと、ふと思った。
更新日時:
2012.01.26 Thu.
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Last updated: 2015/12/1