朝からジェットの機嫌がよくない。
昨夜、現場から戻ってくるのが少し遅れたし、隠していたけれど、軽いケガもしているようだった。
何があったのか尋ねたい気持ちを抑え、フランソワーズは「お帰りなさい……お疲れさま」とだけ言った。
本当に伝えなければならないことがあるなら、隠すはずもない。
その点は、長年共に戦ってきた仲間として、信頼している。
彼の様子がおかしいことは、ジョーにも感じられたらしい。
朝のミーティングの後、自室に向かおうと廊下を歩いていたら、向こうから来た彼に呼び止められ、「フランソワーズ、君……ジェットから、何か聞いているかい?」と尋ねられた。
いいえ、と首をふると、ジョーは難しい表情でそうか、とうなずいた。
「悪いけど、少し気を付けて彼の様子を見ていてくれないかな……バレたらすごくいやがるだろうけど。君なら、うまくできるんじゃないかと思って」
「……わかったわ」
そう簡単なことではないけれど……と、フランソワーズは密かに嘆息した。
仲間とはいえ、自分に備わっていない能力についての実感がないのは仕方ないことだ。
ジョーの言うように「少し気を付けて」日常の中で仲間の様子を見る、というのは、実はかなりストレスがかかることだった。
まして、彼女はメンバーで唯一の女性だ。
女の子に優しい……のが能力のひとつなのではないかとさえ思われる009だが、こと003に対してその力はほとんど発揮されないらしい。
もっとも、そういう彼の言動にフランソワーズは慣れきっているので、とりたてて腹が立ったり悲しいと思ったりすることもほとんどない。
ありがとう、助かるよ、と微笑むと、ジョーはそのままフランソワーズと並んで歩き始めた。
奥に行くつもりじゃなかったのかしら……と気になったが、口を噤んだ。
気になっていたことが解決して気がゆるんだのか、ジョーは珍しく饒舌だった。
実はさ、と、聞かれてもいないことを話しはじめる。
「ジェットのことだけど、女の子と何かあったんじゃないかと思うんだ……あの、教授の……気の強そうなキンパツのお嬢さん。彼によく話しかけていただろう?」
そうだったかしら……とフランソワーズは首をかしげた。
ジョーは話し続けた。
「たぶん、ジェットも悪い気はしていなかったと思うんだ……でも、昨日、彼女に見られたんじゃないかと思う」
「……見られた?」
「うん。足の裏。」
「まさかそんなこと!……ありえないと思うわ。ジェットは人前で靴を脱いだりしなくてよ」
あなたと違って、と言いそうになったのを慌ててのみこむ。
疑わしそうな表情のフランソワーズに、ジョーはややムキになったらしい。彼らしくない高い声で口早に言った。
「君は想像できないかもしれないけれど、……いろいろあるんだよ、こういうことってさ。ジェットはそう簡単にめげるヤツじゃないとは思ってる。でも、今度のことは」
「ジョー、待って……あの」
フランソワーズはハッと耳を澄まし、ジョーを抑えようとした。
二人は研究所の長い廊下の中程を歩いていた。
あと少しで曲がり角になる……その向こうから、足音が聞こえたのだ。
――この足音は……間違いないわ。ジェット!
「そうね、想像はできないけれど。ね、それよりもね、ジョー…」
フランソワーズは慌ただしく考えを巡らせた。
向こうからジェットが来るから黙って、と言ってしまえば簡単だが、不器用なジョーのことだ。殊に、こんな状況に慣れているとも思えない。
もし、ようよう口を噤んだとしてもかなり態度がぎこちなくなり、何かマズイことを話していたのではないか、とジェットに疑われてしまうにちがいない。とにかく話を変えなければ……と、フランソワーズは焦った。
が、そんな彼女の態度が、これもまた本当に珍しいが、ジョーには気に障ったらしい。
「それよりもって。……ちゃんと聞いてほしいから、こうやって話しているんだよ、フランソワーズ。君だって、ジェットのことは」
――ごめんなさい、ジョー!
心で叫び、フランソワーズは素早くジョーのみぞおちに拳をめり込ませた。
もちろん、「009」に対してそんな攻撃が通用するはずはないし、「島村ジョー」にそんなヒドイことをしようという気持ちになることもありえない。だから、それはフランソワーズにとって初めての経験だった。
ずる、とジョーの体が力を失った。
フランソワーズにとって初めて……ということは、もちろん、ジョーにとっても初めての経験だったわけで。
二度目は通用しないでしょうね、と心で溜息をつきながら、フランソワーズはずるずるとよりかかってくるジョーの背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめるようにして支えた。
「――っと!……なんだよ、お前ら?」
角を曲がるなり、抱き合っている……ようにしかみえない009と003に出くわし、ジェットは盛大に驚き、後ずさった。
日頃、003に対してどうにも煮え切らない態度の009をからかいつつ、密かに心配もしていた仲間思いのジェットだった。コトが成就したときには、思い切り冷やかしながら祝福してやろうとも思っていたのだが、いざこういうことになってみると、ひたすらうろたえることしかできなかった。
「バカヤロウ、場所を考えろ、場所を!」
ジェットは吐き捨てるように言い、くるり、と踵を返した。
遠ざかる足音を確かめ、フランソワーズはほっと息をついて、そろそろとジョーを廊下に横たわらせた。
ちょっと可哀相だが、すぐに目を覚ますだろう。
フランソワーズは足早に立ち去った。
その晩。
フランソワーズは再びジョーに呼び止められた。
今度は嬉しそうに、「ジェットの機嫌が直ったみたいだね、君、何か言ってくれたのかい?」と尋ねる彼に微笑んで首を振り、フランソワーズはまた嘆息するのだった。
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