1 
  
ちょっとトウキョウに出てきます、と研究室のギルモアに一応声をかけると、珍しく反応があった。 
あった……といっても、明瞭な言葉ではなかったので、ジョーはドアを開き直し、何かご用がありましたか、と尋ね直した。 
  
「うむ……雨が降りそうなんじゃが……」 
「……はい」 
  
気になる気象データでもあるのだろうか、と首を傾げたが、そういうわけでもなかったらしい。 
ギルモアはどこかぼんやりした視線をジョーに投げ、あの子は傘を持っていったかのう……とつぶやくように言うのだった。 
  
「フランソワーズ、ですか?」 
「うむ」 
「さあ。……でも、クルマで出たのなら……」 
  
言いかけて、ガレージにクルマが2台とも残っていたのをジョーは思い出した。 
バレエのレッスンに行ったのなら、クルマではないのだろう。 
たしか、スタジオには駐車場がないというようなことを彼女から聞いたことがある。 
  
「雨って……そんなにひどく降りそうなんですか?…でも大丈夫ですよ、コドモじゃないんだ……から……」 
  
降られれば電話ぐらいしてくるはずでしょう、と続けようとして、ジョーは嘆息した。 
ギルモアはもう生返事をしながら背中を向けている。 
とりあえず気になったことは伝えたのでいい、ということなのか。 
  
支度をととのえ、玄関の外に出てみると、なるほど、不穏な雲が湧いていた。 
朝は、傘が是非とも必要だという気には到底ならない快晴だったのに。 
部屋まで折り畳み傘を取りに戻るのも億劫だったので、ジョーは誰が使うともなく傘立てに残っていたビニール傘を一本抜いた。 
  
フランソワーズがどこに行ったのか、よくわかっていない。 
たぶんレッスンなのだろうし、だとすると場所はあのスタジオなのだろうが、違うかもしれない。 
そもそも、何時頃帰るつもりなのかもわからない。 
迎えにいくなど、雲をつかむような話だ。 
  
逡巡しながらそのまま歩き出そうとすると、廊下にひょこ、と顔を出した張々湖に呼び止められた。 
  
「ジョー、出かけるアルか?……フランソワーズ、傘を持ってたアルかねえ…?」 
  
なんなんだと思いつつ、ただ首を傾げると、グレートがにやにや笑いながら張々湖をつっついている。 
  
「余計なコトを言うなよ、無粋なヤツだな!……傘は一本さ、こういうときはな」 
「アラ、ナルホド!…それはそれは、失礼したネ」 
「……」 
  
――だから、なんなんだ! 
  
むやみにイライラする。 
ジョーは無造作にビニール傘をもう一本引き抜いた。 
  
「わかったよ……!会えるかどうかわからないけど!」 
  
いかにも不快そうに言い捨て、ずんずん歩き出したジョーの後ろ姿に張々湖は肩をすくめ、グレートは吹き出した。 
  
  
2 
  
広告に出ていた特売のハードディスクは売り切れだった。 
まあそうだろうなと思っていたのでジョーは特に落胆もせず、しばらくその電気店をふらふら歩き回った。 
結局これといった収穫もなく店の外に出ると、雨が降り始めていた。 
  
フランソワーズが通うバレエスタジオはこの近く……というほどではなかったが、最寄り駅は同じだったような気がする。 
どこにあるのか、はっきりとは思い出せなかったが、こっちだったかもなあ……と首をひねりつつ、ジョーは雨の中を歩き始めた。 
  
雨は大粒ではなかったが、細かいシャワーのように静かに、そこそこたっぷりと降っていた。 
傘を持っていない人はやはり多く、頭にカバンやらハンカチやらをのせて、建物から建物へと結構な人数が走り回っている。 
  
少し雨宿りしていけばいいのにな、と、他人事ながらジョーは思った。 
空気の湿り方といい、空の感じといい、もう少し待っていれば、雨は小やみになりそうだった。 
しかし、そんな悠長なことをしていられない人が多いのか、それとも一見大した降りに見えないからなのか、人々は次々に雨の中にかけ出してはびっしょりと濡れているのだ。 
  
不意に、後ろの方で悲鳴のようなくぐもった声がした。 
ぱっと振り返ると、年配の女性が、途方にくれた様子で座り込んでいる。転んでしまったらしい。 
ジョーは慌てて女性に駆け寄り、助け起こしてやった。幸い、ケガはしていないようだ。 
  
女性はすっかり動転した様子で、しどろもどろに礼のような言葉を繰り返し、ジョーがなにげなく差し出した傘をぼんやり受け取って立ち上がると、何度もお辞儀をしながら逃げるように去っていった。 
大丈夫かな、と気にはなったものの、追いかけたりしたらかえって動揺させてしまいそうだったから、ジョーはその場で女性を見送り、ゆっくりもう一本の傘をさした。 
  
雨は次第に激しさを増していた。 
これは、電車が止まったりするかもしれない……と思い、ジョーはバレエスタジオの場所をマジメに思い出そうと努力しつつ歩き続けた。が、どうも、景色を見ても記憶がハッキリと蘇ってこない。見当違いの所を歩いている……ような気もした。 
  
これではフランソワーズに行き会うことなど無理だ、と思う。 
そもそも彼女が傘をもっていないとはっきりわかっているわけでもない。 
……というか、傘は既に一本しかないのだった。 
もし彼女に会えたとしてもこれではどうしようもない。 
  
しょうがないな、とジョーが立ち止まり、駅まで戻ろうと踵を返したとき。 
ビルとビルの隙間で、何かが動いたような気がした。 
  
「……」 
  
さっきは気づかず通り過ぎてしまった……が。 
無造作に置かれたダンボール箱の中に、小さい猫がうずくまっていた。 
捨てられたのか、そこをねぐらとしているのか、よくわからない。 
ともあれ、そこは一応軒下になっていたものの、ぼたぼたと烈しくしたたり落ちてくる滴が、ダンボール箱の縁に当たってはしきりに飛び散っていたのだ。 
  
  
3 
  
ジョーはぼーっと雨の中を歩き続けていた。 
いくら濡れても風邪を引くような体ではないし、濡れて困るようなモノも今は何も持っていない。 
とはいえ、これで電車に乗るのはちょっとはばかられたし、それ以前に、好奇の視線を浴びることになるだろうと思うと億劫で、とりあえず人のいない方、いない方へと歩いたのだった。 
  
雨がやむ気配はない。 
さっき、降り始めのとき強引にかけ出していった人たちは正解だったなあ……とぼんやり思う。 
  
一応防水加工をしてあるはずのスニーカーも、歩く度にぐずぐずと鳴っている。 
服やら髪やらはもちろんずぶ濡れになっている。 
すれ違う通行人がちらっと向ける視線に、怯えのようなモノが混じっているのに気づき、ジョーは「走って」帰るしかないな、と嘆息した。 
できたらのんびり歩いていきたいのだが、どうもままならないようだった。 
  
加速装置を使うなら、一気に走り抜けなければいけない。 
ルートを確認しておこうと顔を上げたとき。 
  
雨が……やんでいる。 
いや、やんではいない。 
――が。 
  
傘がさしかけられていた。 
ジョーはゆっくり振り返り、あきれかえった色を湛えた瞳をまじまじと見つめ返した。 
  
「……」 
「いったい、どうしたの、ジョー?」 
  
フランソワーズが差し出したハンカチを、ジョーは丁重に手を振って辞退した。 
そんなモノは役に立ちそうにない。 
  
「……あ。ごめん」 
「え?なあに…?」 
「濡れてるよ、君」 
  
ジョーにさしかけた傘を押しやられ、フランソワーズはうんざりした様子でバッグを探ると、小さく折り畳んだ傘を取り出した。 
まるで手品のようにそれを広げ、それまで持っていた傘の方をジョーに押しつけるように渡した。 
  
「……すごいな。なんで二本も…」 
「持っていたのを忘れていたわ。こっちの傘は、スタジオで借りたのよ」 
「そうか…そうだよね」 
  
感心したように何度もうなずくジョーに、フランソワーズはこっそり息をついた。 
そんなわけないじゃない、と思う。 
  
帰り際、雨の様子を見ようと何気なく「眼」を使い、見つけたのだ。 
何のつもりか、さしていた傘を広げたまま地面に置き、そのままぼーっと雨の中を歩きはじめた彼を。 
挨拶もそこそこに傘を一本借りてスタジオを飛び出し、走った。 
  
「何か、用事があったの?すんだ?」 
「うん……まあ」 
「帰るところだった……のかしら」 
「うん」 
「歩いて?」 
「これじゃ、電車に乗れないから」 
「……そうねえ」 
  
不意に、あ、と声を上げ、君は電車で帰った方がいいぜ、と言い出したジョーを黙殺し、フランソワーズは歩き続けた。 
  
「フランソワーズ、濡れるよ」 
「あなたほど濡れることはないわ」 
「でも、やっぱり、電車に乗った方が」 
「大した距離じゃないでしょ……私たちには」 
「それは、そうだけど」 
  
そこで納得するわけね、とフランソワーズはまた嘆息した。 
たしかに、私はフツウの女の子じゃないわけだし。 
  
でも、だからこそ、こんなどうしようもないこの人についていくこともできるわけだわ。 
眼を放したら、どこに行ってしまうか、見当もつかないこの人に。 
  
  
「帰ったら、すぐシャワーを浴びてね」 
「うん。君もそうした方がいい」 
「わかってる」 
「張々湖大人に熱いお茶もいれてもらわないと……この調子で研究所までいったら、さすがにずぶ濡れになるだろ、君だって」 
「ならないわ。傘がちゃんとあるもの」 
「……そうかなあ」 
  
首を傾げながら、でもそうかもしれないな、とジョーは思った。 
小さい傘の下で、フランソワーズは先ほどからどこも濡れていないように見える。 
  
やっぱり君はスゴイな、と言いそうになって、ジョーはあやうく言葉をのみこんだ。 
当たり前です、アナタが変なのよ!と叱られるにきまっている。 
  
スゴイなあ…と、何度となく心で繰り返しながら、ジョーは沈黙を守り、歩き続けた。 
  
  
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