1
ぼんやり考え事をしていたときだった。
考え事…といっても、何を考えていたのか、後から思い出そうとしても思い出せない。
とにかく、いきなり響いたテレパシーに、009は文字通り飛び上がった。
「うん。心配は無用だ、009。003は『処女』だよ」
「…はぁっ?!」
「何慌ててるの?」
およそ赤ん坊らしくないのんびりさで尋ねてくるけど赤ん坊なのだ。
ごちゃごちゃになりかけた頭の隅で009は微かにそう思う。
「別に…慌ててなんか」
心の中が読める相手に何を繕っても意味はない。
が、慌てているとは思ってほしくないんだ…!と思っていることを強く伝えておきたい。
009は語気を強め、繰り返した。
「慌ててなんか、いない…!でも、そんなこと、軽々しく口にするものじゃ…」
「君が知りたがってるから教えてあげたんだよ」
「な…っ!」
そんなことない、と言い返そうとして、言葉をのみこむ。
何と言っても相手は心の中が読めるのだ。
もちろん、知りたがった覚えなんて、全然ない。ないけど。
でも、001がそうだ…っていうのならもしかしたら。
いや、そうじゃない、それはどうでもいいんだっ!
「もしそうだとしても…!」
「そうなんだろ?」
009は何度も深呼吸してから、ふわふわ浮かんでいる赤ん坊を睨み付けた。
「いいかい、仮に、僕が知りたがってたとしても…君は絶対にそんなこと言っちゃいけないんだ、001!」
「…ふーん」
赤ん坊はちょっと首を傾げるようにして、黙り込んだ。
大人以上に頭がいい赤ん坊って…つまりどういうことなんだろう。
こういうことは、そんなにおおっぴらに言うもんじゃないって、どうしてわからないんだ?
全部分かった上で僕をからかってるのか…でも、そんなことして何になる?
いや。
つまり、こういうことを言わない方がいい…ってのが、データとして彼の頭に入ってなかったんだろう。
そうかもしれない。
こういうのは、経験で学んでいくものだし…そんな経験、彼に今までなかったとしても、不思議ではない。
「そうだね、たしかにそんな経験、僕にはなかった」
「いちいち返事するなよ〜!」
半分泣き声になってしまった。
相手がジェットなら、この手の話をする意図はわかってる。
僕がこんな顔するのが楽しくてたまらないんだ、彼は。
でも…イワンは。
「うん…別に楽しくはない。ありがとう、009…君のおかげで、大体理解できた。もう言わない」
うん。
そうしてくれ、頼むから。
「もっとも、習慣として、そういうことは言わない方がいいらしい…って知識が入っただけで、実際のところ理解できてるわけじゃないんだけど…僕は本当のことを言っただけだし、それで003を貶めたとは思わない。むしろ、君の思考の方がよっぽど…」
「な、何だよ、それ…っ!」
赤ん坊はやはりどう見てもおよそ赤ん坊らしくない真面目くさった顔つきで続けた。
「僕の率直な本心を言えば、彼女について君のような認識を持ち、かつそれについて負の感情を抱いている者に対しては、かたっぱしから、彼女のために証言しておきたいところだ。僕は、君たちの心にあるものなら全て読みとることができる。だから、断言できる。彼女は、これまで決して……」
「言うなっ!」
「どうしたの、009…?大声出して?」
「ぅわ…っ!」
一瞬固まった後、加速装置が入ったような勢いで部屋を飛び出した009を、003は不思議そうに見やった。
「何の話してたの、イワン?」
「ナイショ」
「まあ」
「009と約束したから。二度と言わないって」
「何、それ?」
「だから…ナイショ」
2
そんなこと、どっちだっていい。
本当にどっちだっていい。
僕には関係ない…のはもちろんだけど。
それよりなにより、どっちにしたって、003に変わりはないんだ。
過去に何があったって、なくたって、僕はとにかく003が…
…あれ?
009は思わず瞬きした。
いや。別に。
別に、変じゃない…よな。
僕は、003が好きだ。
みんなだってそうだろう。きまってる。
これは、別に変じゃない。
むしろ、彼女を好きにならない奴の方が変かもしれないぐらいで。
とにかく、どっちだっていいんだ。
もし、あえて、言うなら。
彼女に、そういうことで辛い思いをした経験がなければいい、とは思ってる。
辛いことなんて、今僕が知ってるだけでも十分すぎる。
この上、彼女がそんな風に傷つけられたことがある…なんて、あっていいはずない。
…いや。
傷つけられた、なんて考えること自体が、僕の心根が卑しい証拠なのかもしれない。
もしそういうことがあったとしても、それで彼女が辛い思いをしたとは限らないのだから。
むしろ、彼女なら、それは幸せな経験だった可能性の方が高いだろう。
相手も立派な男で。心から愛し合って、信じ合って。
そこまで考え、009は深々と溜息をついた。
もしそうだとしても、いや、そうだとしたらなおのこと、彼女は傷ついたはずなのだ。
そんなに愛した男から引き離されたのだから。
…ということは。
結局、よかった……ってことなんだろうな。
彼女に、その……そういう経験がない、のは。
で、たぶん。
これからだって、ない方がいい……のかもしれない。
といっても、僕の全然知らないところで、そういうことがあるのなら、それはそれで何も言うことはない…かな。
彼女は賢明で、強いひとだ。
何かあるとしたら、それは彼女が望んだ、彼女の幸福につながることのはずだから。
でも、彼女が僕の側に…つまり、戦場に…いるときは、もちろん別だ。
彼女が望んだことであろうとあるまいと、それは彼女を傷つけることになる。
だから。誰も彼女には近づけない。
僕が守る。
009は、やれやれ……と、伸びをした。
なんだか、ようやく解放されたような気がする。
……そのとき。
「ジョー、助けてぇ……!」
「どうした、フランソワーズ?」
素早く振り返り、駆け出したものの、009はどこかのんびりした気分だった。
003の悲鳴がそれほど切羽詰まったものではなかったからだ。
案の定、彼女は必死の形相で、シーツがいっぱいに掛かったままの物干し竿が落ちかけているのを支えていた。
もちろん、彼女に支えきれない重さではないのだが、やたらと長い竿で扱いが難しいらしい。
009が駆け寄り、よいしょ、と反対側を支えてやると、彼女はようやくほっと息をついた。
「ありがとう…」
「どういたしまして」
いきなり、くしゃっと髪をなでられ、003は目を丸くした。
009がこんなことをするのは珍しい。
「どうしたの?…私、何かおかしい?」
「…いや」
怪訝そうに見上げる003の澄んだ目に、マズイと思っても、笑いがこみ上げてくる。
僕は、何を考えていたんだろう、と009は思った。
まだ、コドモじゃないか。
君はこんなに元気で、無邪気で。
それなのに、僕ときたら。
「どうして笑うの?…意地悪ね、ジョー!」
「ふふふ…なんでもないんだ、ゴメン……参ったなぁ…」
「…もうっ!」
好きだよ、フランソワーズ。
僕は、君を守りたい。
ずっと……ずっとこのままで、守りたい。
そう思うのは、もちろん、僕だけじゃないんだけどね。
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