1
チャイムを鳴らし、インターホンに向かって「アルヌールです」とゆっくり言えば、何の返事もなくロックが外れる音だけがした。いつものことだ。
静かにドアを開け、「お邪魔します」と礼儀正しく言うと、今度は返事のようなそうでもないような曖昧な声が奥から聞こえる。
「ごきげんよう、ジョー……まあ、何をしているの?」
まっすぐリビングに入っていったフランソワーズは、目を丸くした。
そんな彼女に、照れ笑いのような苦笑いのような微笑を返すジョーが右手に握りしめていたのは、アイロンだった。
「ごらんのとおりさ……まったく、慣れないことはするもんじゃないな。どうもうまくいかないよ」
「どうしたの?クリーニング屋さんがお休みだったの?……待っていてくれれば、私がしたのに」
首を傾げながらソファに近づくと、ローテーブルの上に畳んだバスタオルが置かれ、その上におかしな形によれてしまったハンカチがのっていた。
どうやら、それにアイロンをかけようと四苦八苦していたらしい。
「こんな四角い布っきれの皺を取るぐらい、さすがに僕にだってできるだろうと思ったんだが…意外に難しくてさ、参ってたところなんだ」
「まあ。ジョー、ハンカチにアイロンをかけるのは、案外難しいものなのよ」
「うん、そうらしい。やっぱりクリーニングに出せばよかったな。でもこれだけを持って行くっていうのもちょっと……」
フランソワーズはくすくす笑いながらハンカチを取り上げ、バスタオルをとんとん、とたたいてまっすぐにすると、アイロンの温度を確かめた。
「それに、無茶だわ。こんなものの上でアイロンをかけるなんて……台はどうしたの?」
「…台?」
「アイロン台よ」
「…そんなのが必要だったのか」
「まあ!」
あきれ顔で見上げるフランソワーズに、ジョーは弱ったなあ…と天井を仰いだ。
「テーブルを傷めたらいけないと思ったからタオルを敷いたんだけど……そうか。道理でうまくいかなかったわけだ」
「それだけのせいじゃないと思いますけど。でも、こんなに立派なアイロンがあるのに、アイロン台がないなんておかしいわ」
「ああ、だって、ソレはついさっき買ってきたばかりだから。台がいるっていうなら、そう教えてくれればよかったのになあ…いや、そうか、電器屋では売っていないモノなのかもしれないな」
そうかしら?…と思いながら、フランソワーズは黙ってハンカチをタオルの上に広げ直した。
淡い黄色で、透かし模様のような花柄が広がり、縁には白い繊細なレースがたっぷりついている。羽のように柔らかな素材の、上等なハンカチで……どうみても、女性の持ち物だ。
つまり、こういうことなんじゃないかしら…と、フランソワーズは考えた。
何かの事情で、ハンカチの必要な状態になってしまったジョーが、ソレを持っていなくて……近くにいた女性が、自分のを貸してくれた。だから、彼はキレイに洗濯した上で、彼女にソレを返そうとしているのだ。
ハンカチから微かに香るのは、洗濯用合成洗剤の香料ではなく、石けんの匂いだった。いかにも上等そうなソレを、洗濯機に放り込むのは、さすがのジョーでもためらったのだろう。だから、彼は丁寧に、慎重に手洗いをして、でも干してみたら、皺がよっていて、だから慌ててアイロンをかけようと思って、電器屋さんに走って、ソコにある一番いいアイロンを買って……
思わず溜息がでる。
途端に、心配そうな声が降った。
「直せそうにないかい?」
「……いいえ。たぶん、大丈夫よ。でも……」
霧吹きなんて、あるわけない……わよね。
「もう一度、少しだけ濡らしてもいい?」
「もちろん。どうしたらいいかなんて、僕には見当もつかないよ。君に任せる」
ジョーの目がいつのまにかすがるような色を帯びていることに気づき、また溜息が出そうになった。
皺が一番酷くなっているところに水を垂らしてから、強めのスチームモードにしたアイロンを当ててみる。すると、予想をはるかに超えた力強い蒸気が吹き出した。これなら楽勝だ。
というか、これでどうしてこんなに失敗してしまうのかよくわからない。
みるみる美しい正方形の形になったハンカチから、魔法のようにあっという間に皺が消えていく。
ジョーは思わず唸った。
「スゴイな、君は」
「スゴイのはこのアイロンよ……高かったんじゃない?」
「さあ?…電化製品にしては安いと思ったけど。僕にはそういうの、わからないからなあ。……気に入ったなら、研究所にもっていきなよ」
「そんな、悪いわ。買ったばかりなんでしょう?」
「僕が持っていてもガラクタと一緒だろ?君が使ってくれた方がずっといい」
それはそうかもしれない……が、やはりフランソワーズはただ微笑を返し、何も言わないことにした。
アイロンのスイッチを切り、バスタオルの上からハンカチを取り上げると、それはまるでそよ風のような感触で、また溜息が出そうになる。
「きれい……」
思わずつぶやいてしまった。
こんなハンカチがある、ということを知らないわけではなかったが、ずいぶん長い間忘れていたような気がする。
ふとジョーを見やると、目配せで、畳んでほしい、と訴えている。畳むぐらいはいくらなんでも彼にだってできるだろうが、よほど懲りたのだろう。
この美しいモノを濡らして石けんの泡で包み、すすいで絞って、干して、アイロンをかけて……という過程は、彼にとってほとんど破壊行為のように思えただろうから。
「はい、できたわ。どうぞ」
「…いや。僕は……なんだな、こういうモノに触っちゃいけなかったんだ。本当に助かったよ。ありがとう、フランソワーズ」
「……そんなこと」
フランソワーズは、キレイに畳んだハンカチに、ふと目を落とした。
羽のように柔らかく、繊細で、美しい……
――こういうモノに触っちゃいけない。
「…フランソワーズ?」
「あ。……ごめんなさい。本当にきれいだと思って」
「うん。そうだね」
ジョーは柔らかく微笑すると、大切そうにそれを受け取った。
2
そのことをフランソワーズが思い出したのは、数週間後だった。
彼が、あのハンカチを持ち主にどうやって返したのか、それからどうなったのか……ということについて、気にならないわけではなかったが、気にしてもどうにもならないし、彼にはよくあることでもあったから、とにかく忘れることにつとめたのだ。
……しかし。
今、彼女の手のひらの上に鎮座しているのは、繊細なレースに縁取られ、羽のように軽く、美しい、あのハンカチで。
「…ジョー、これ…一体?」
「ああ。お土産さ」
「……」
それは、わかっている。
彼は昨日、ヨーロッパから帰ってきたばかりだった。
小さなミッションがあったのだ。
グレートが横からのぞき込み、ひゅう、と口笛を吹いてみせた。
「へーえ、兄貴にしちゃいいセンスじゃないの?珍しいねー」
「馬鹿。僕にこういうモノがわかるわけないだろう?たまたま、入った店で見つけたからさ」
……と、いうことは、買ったのだ。わざわざ。
たまたま入った店……というが、包み紙は、フランスの高級婦人小物のブランドだった。
そういう店に彼が好きこのんで入るとはちょっと思えない。
「アンヌさんに付き合わされたのさ。放っておくわけにはいかないから、仕方なかったけれど、僕が入るような店じゃなかったから、正直閉口したよ……でも、おかげでコレを見つけられたってわけさ」
ありがとう、というべきなのだろうけれど。
困惑しながら思わずジョーを見上げると、フランソワーズのその視線を、彼は違う解釈で受け取ったらしく、大いに照れながら赤面するのだった。
「実をいうと、色違いのもいくつかあったんだけどね……そういうことはサッパリだし、ここは君が気に入ったヤツにしておくのが一番安全だと思ってね」
「……」
「あー、そういうこと?ズルイや、003!自分だけ兄貴にお土産ねだってたなんてさ!オイラには、009は仕事で行くんだから、ワガママ言うなって言っておいて……」
…アンヌさんって、誰なのかしら。
…あのハンカチのことをこれだけハッキリ覚えているということは、やっぱり忘れがたいことがあったのかしら。
…ああ、でも。もう、この人って……!
「……フランソワーズ?」
「あ……ごめんなさい。ビックリしてしまって。……嬉しいわ、ジョー。本当にありがとう」
「気に入ってくれたのなら、よかった」
「でも。私には……もったいないわね」
「そんなことはないさ」
急にきっぱりとなった口調に、フランソワーズは思わずまじまじとジョーを見つめた。
その視線をしっかり受け止め、強く返しながら、ジョーはハッキリと繰り返した。
「そんなことはないんだよ、フランソワーズ」
彼はもう、赤面してはいなかった。
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