脅かさないで……と、震える声で彼女が言うから、つい悪いことをしてしまった気がして、ごめん、と謝ってしまったけれど。 
もし、彼女の声が震えていなかったら、それはこっちのセリフだ、と言っていただろう。 
だって、ピュンマだとばかり思っていたのだ。 
こんな、真夜中に泳いでいるなんて。 
  
この海中の研究所に移ってからというもの、僕たちのてっとりばやい気晴らしは、なんといっても泳ぐことだった。 
これまでの研究所もたいてい海岸にあったが、今度は海の美しさが桁外れに違う。 
もちろん、他にはどうしようもない……周囲に何もない、という事情もあったけれど。 
  
そういえば、彼女が泳いでいたところは見たことがなかった。 
いつもこんな夜中に一人で泳いでいたのか……とそれにも驚き、そう尋ねると、彼女は小声でそうよ、と答えた。 
どうして、と尋ねると、それには答えない。 
マズイことをしている、という自覚はあるのだろう。ないと困る。 
  
戦闘能力が低い……というか、もし突然の敵襲を仮定するのならほとんどゼロに等しい003が、仲間の誰も知らないトコロでふらふら泳いでいるなんて、あってはならないことだ。 
それがわからない彼女ではないということはもちろん十分わかっていたが、こうして見つけてしまったのだから、苦言を呈さないわけにはいかない。 
もちろん、彼女は僕の小言をうつむいたままでおとなしく聞いていた。 
  
彼女はいつもこういうときには従順で、聞き分けがいい。悪くても困るのだが。 
でも、なんだかその従順さが妙に引っかかった。 
僕は、苛立ちはじめていたのだと思う。 
  
だから、小言を言い終えて、それじゃ、帰ろう……と、なにげなく伸ばした手を烈しくはねのけられたとき、僕はつい逆上した……というか。 
逆上、というほどではなかったとしても、ちょっと頭にきてしまったのだ。 
  
僕は、ほとんど反射的に彼女の腕をつかんで、強引に引き寄せた。 
彼女が何か叫びながら暴れるので、押さえ込むように抱きかかえた。 
そこで、初めて気付いた……のだ。 
彼女が、何も身につけていない……ということを。 
  
ぎょっとした。 
もちろん、うろたえもした。 
が、それを見せてしまったらマズイ、と、僕は咄嗟に判断した。 
  
どうしたらいいのか、なんてわからないし、彼女にわかるはずもない。 
彼女が泳いでいることに気付き、追いかけて声をかけ、驚かせ、波間に浮かびながら小言を言い、帰ろうと手を伸ばし……その間、彼女が何を身につけているか(というか、何も身につけていなかった)ということに全く頓着しなかったなんて、我ながらオドロキだが、そんなことは言い訳にもならない。 
  
とにかく、知らんぷりをすることに決め、僕は彼女をぴったり抱きしめたまま、平静を装って泳ぎ始めた。 
もちろん、無言で。 
  
彼女も無言だった。それはそうだろう。 
可哀相なことをしてしまった、と後悔したが、今さらどうにもならない。 
そうしているうちに、なぜ彼女が一人で、こんな夜中に泳いでいるのかも、わかった気がした。 
  
彼女だって、僕たちと同じなのだ。 
時には気晴らしをしたいことだってあるだろう。 
でも、彼女は僕たちのように気軽に昼間の美しい海に飛び込むわけにいかなかったのだ。 
  
僕たちは、いつでも最小限の持ち物しか身の回りに置かない。 
もちろん、必要なものはその都度買い出しに行くが、この研究所ではそれもままならない。 
めったにないその機会に、水着を買いたい、と言うことなど、彼女はできなかった……というより、そういう発想自体にならなかったのだろう。 
彼女は、そういうひとだ。 
  
今だって、そうだ。 
フツウの女の子なら、こんな扱いを受けたら激怒するだろう。 
でも、彼女はじっと我慢している。自分が003であり、僕が009であることをわかっているから。 
彼女は、自分が女の子であることを忘れようとしている。そうでなければ、003でいられない。 
それはひどく残酷なことだ。彼女にふさわしくないことだ。 
でも、僕がそう思っていることを彼女に伝えるわけにはいかない。 
  
彼女が必死で鋼鉄の仮面をかぶっているのなら。 
僕も冷酷なサイボーグであるべきだ。 
そもそも、この状況について言えば、そう仕掛けたのは僕の方なのだ。 
  
003なら、防護服を着て泳げばいい。が、彼女はそうしたくなかったのだ。 
彼女にとって、これはそういう時間だった。 
自分がフツウの女の子であることを確かめるための……ひそやかな、僅かな……そういう、時間だ。 
  
僕は、それを無造作にぶちこわした。 
他の仲間だったら、こんな無様なことはしない。彼女を黙って見守り、大切な時間を守ってやっただろう。 
もしかしたら、彼女も、僕たちがそうすることを心のどこかで信じていて……だからこそ、こうしていたのだ。 
その信頼をここまで裏切られた以上、彼女は、二度とこうして泳ぎはしないだろう。 
  
謝ろうにも、謝ることさえできない。それは、彼女を余計に傷つけることになる。 
  
彼女が、こんな僕をどれほど残酷で冷たい男だと思うか……想像するのも恐ろしかったが、彼女がそれ以上に傷ついていることを思えば、そんなことを気にしていてはいけないのだと思った。 
そうだ、そんなことを……。 
  
不意に目がくらむような衝撃を受けた。 
どうせ、彼女を傷つけ、恨まれ、軽蔑されるのなら……それなら、いっそ。 
  
サイボーグとして、機械のような男に心を蹂躙されるよりも。 
女性として、獣のような男に体を蹂躙される方が、もしかしたら……? 
  
その一瞬、僕は思わず彼女を抱きしめる腕に力を込め、全身で彼女の魅惑的な肌を味わっていた。 
同時に、浅瀬まで泳ぎ着いていた足が砂をとらえ、踏みしめた。 
そのまま、波打ち際に彼女を押し倒し、唇を奪い……そして。 
  
その、燃えるような欲望をどう抑えつけたのか、僕は覚えていない。 
とにかく、僕は彼女を押し倒しはしなかったのだ。 
僕はあくまで落ち着いた足取りで研究所へと戻り、彼女の部屋のドアを開け、突き飛ばすようにして彼女をそこに入れた。 
  
堅く閉ざしたドアの向こうで、彼女が声を押し殺して泣いているのがわかった。 
だから、僕も歯を食いしばり、こみ上げてくる悲しみとみじめさを押し殺すしかなかった。 
そして僕は、これほど彼女を傷つけながら、許してくれと言うこともできず、明日は何も覚えていない顔で、彼女に「おはよう」と笑うのだ。 
  
だから、「そのとき」が来たら君は躊躇するな、フランソワーズ。 
  
今の悲しみと、屈辱と、憎しみを忘れるな。 
君は、いつでも僕を殺すことができる。その権利を持っているんだ。 
「そのとき」が来たら……君自身を守るために、それを迷わず行使するがいい。 
  
  
もちろん、それも、結局は君を苦しめるだろう。 
いつだって、僕の苦しみなど、君の苦しみに及びはしないのだ。 
  
それがどんなに……苦しかろうとも。 
  
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