1
彼女を思い出すのは、いつも弱気になっているときだ。
彼女の笑顔、何気ない仕草……それから、柔らかい声。
「大丈夫よ、ジョー」
もうどうにもならないような気がして電話に手を伸ばしかけ、時差を思い出して止める。
そうして、深呼吸するのだ。
弱気になっているときに限って彼女を思い出すのは、彼女の前では強くありたいと願う気持ちが、最後に僕を奮い立たせるからなのかもしれない。
僕は、強くなくてはいけない。思い出さなければいけない。
僕は、009だ。
2
マチコさんは、僕のメンタルに敏感だ。
それが彼女の仕事の一つでもあるわけだが、それにしても驚かされることが多い。
ここのところ花粉症なのよーと、目をしばたたかせながら、マチコさんはその赤い目で僕をじーっと睨んだ。
「ジョー、今度は何?」
「え…?」
「何を迷っているのかしら、って聞いているの」
「……」
迷って……いるのかもしれない。
でも。
「レーサーが考えなくてはいけないのは、いつも勝つことだけ…とてもシンプルって気がするのにね。でも、それだけじゃ勝てないのかもしれない。迷いは必要なのかもしれないわ。アナタを見ているとそう思う」
「…そう、かな」
「でも、ほどほどにしておかないと。…どう?今晩付き合わない?」
いいかもしれない、と思った。
マチコさんはいつも楽しい話し相手だし、迷っているときに思いがけない糸口をくれたりもする。
「嬉しいけど、マチコさん、大丈夫なんですか?花粉症にお酒はよくないんじゃないのかな」
「あら。どうかしら…?」
どうなんだろう。
今度、ギルモア博士に聞いてみようか。
3
マチコさんは、僕に付き合うときの飲み代を経費で落とす。
いつもしっかり領収書を切ってもらう。
だから、油断していた。
これは、彼女の仕事の一部なんだって。
でも、飲み代がどこから出ていようと、それがどんな動機から始まったことであろうと、過ごした時間は積もっていく。その重さも心に積もる。
そんな当たり前のことを、僕はいつも忘れてしまう。
それは「ずるい」ことなのかもしれない。
マチコさんは涙ぐんでいた。
アナタはずるいわ、ジョー、と何度も繰り返した。
たぶん、そうだ。
僕はただ、ごめん、としか言えなかった。
「島村くんには気を付けなさいね…って言われていたのになあ…」
「…誰に、ですか?」
「私の前任者…ユカさんよ」
黙っている僕をのぞいて、マチコさんはあきれ顔になった。
「まさか、忘れてるの?」
「え!…そういう、わけじゃ……ただ」
髪の長い、おとなしい……無口な人だったと思う。
マチコさんとは全然感じが違っていて。
直接話したことなんて、ほとんどなかったような……
「どうしてそんなことを言われたのか、わからないから」
「フフ、そうでしょうね」
「…参ったな」
「参るのはこっちよ。困った人ね」
マチコさんは、もう涙をはらって微笑していた。強い人なんだ。
まあいいわ、忘れてちょうだい…明日からまたよろしくね、と笑って言った。
そして、その翌月、彼女は事務所を辞めた。
結婚するとも聞いたけれど、本当のところはわからない。
4
柔らかい声が、僕をもの思いから引き戻した。
「大丈夫よ、ジョー」
……うん。
僕は思い出す。自分が何者であるかを。
そして、彼女の華奢な体をしっかり抱きかかえる。
その動機がなんであろうと、過ごした時間は積もっていくのだろうか。
こんな、血に染まった地獄の底でも。
僕は、それを望まない。
フランソワーズ、君には何も残したくない。
君に覚えていてほしいのは、誰よりも強い男の影だけだ。
サイボーグ009。
どうか、忘れないで。
僕は、大丈夫。
君が僕を信じてくれる。
5
彼女を思い出すときの僕は、いつもいやになるほど弱気になっている。
会いたいなあ、と思うときは彼女しか思い浮かべることができなくなっている。
他の誰でもダメだ。
僕がダメなんじゃなくて、たぶん、向こうがダメなんだ。
それぐらい、弱気になっている僕は醜悪だ。
だから、もちろん、会いたいと思ったときに彼女に会ったことなどない。
それはダメだ、と最後の最後に僕は自分を叱ることができる。
君に時間を積もらせはしない。
僕はただ009で居続ける。
だから、いつまでもそこにいてほしい。
フランソワーズ、と君の名前を呼んでみる。
闇にわずかな光がともる。
それだけでいい。
ただ見つめるだけだから、どうか許してほしい。
僕は、大丈夫。
迷いながら、明日もきっと歩いていける。
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