1
昨夜は…すまなかった。
その先は思いつかないが、とりあえずそれだけ言うことにする。
アルベルトはもう一度心で繰り返した。
昨夜は…すまなかった、フランソワーズ。
深呼吸をして、そっと居間のドアを開くと。
若い母親が、愛おしそうに赤ん坊をあやしていた。
甘い声で、幼児語をささやきながら、腕の中の赤ん坊をそっと揺すり上げる。
いたずらっぽく笑いながら、小さな手足をくすぐるように愛撫して。
そのたび、赤ん坊は嬉しげな笑い声を立てる。
身をよじり、手足をばたつかせ、甲高い声をあげ……
〈邪魔しないでくれよ、アルベルト〉
突然、頭の中に冷ややかな声が響いた。
声の主は…
もちろん、その興奮しきった赤ん坊だ。
〈邪魔なんかしてないだろう〉
〈君の存在自体が邪魔なんだ。その醒めた思念波、カンベンしてほしいな。せっかくのリラックス・タイムなんだからさ〉
〈それは…悪かったな〉
アルベルトはフランソワーズを一瞥したが…
彼女は、イワンに夢中だった。
彼がいることに気づきもしない。
アルベルトは、足音をたてないように後ずさり、静かにドアを閉めた。
2
「あ…アルベルト…帰ってきたんだね!」
浜辺には先客がいた。
よかった…と茶色の瞳が嬉しそうに笑う。
「…昨夜は大人げないことをしちまったな…悪かった」
「それ、僕じゃなくて…フランソワーズに言いなよ…彼女、もう気にしてないけど…さ」
アルベルトはジョーに肩をすくめてみせた。
「そのつもりで戻ってきたんだが…追い出されちまったよ」
「…え?そんな…まさか…!」
探るように見ていたジョーは、不意に、ああ、と手を打ち、笑った。
「わかった…!イワンに…かい?」
「…まあな」
「ふふ…じゃ、僕と同じだ…なぁんだ…それじゃ、まだ遊んでるのか…」
「同じって…お前も追い出されたのか?」
「うん…いつもそうだよ…イワンがフランソワーズと遊ぶときは…イワンが嫌がるんだ…僕がいると、遊びに集中できないって」
「遊びに集中?」
「…フランソワーズは、ホンキで遊んでくれるんだって…なんとなく、わかるけどね…僕にも」
「ホンキで…か」
若い母親と赤ん坊。
楽しそうな笑い声。
「フランソワーズはさ…忘れちゃうみたいなんだ…イワンの…力のこと。僕にはとても真似できない…イワンとあんなふうに遊ぶなんて、絶対ムリだと思う」
フランソワーズがあまり楽しそうだったから…一度、こっそり試してみたことがあった。
イワンに向かって、「いないいないばあ」をやってみた。
「楽しかったか?」
「全然」
アルベルトはふん、と鼻で笑った。
ジョーは可笑しそうに目を細めて、彼を見上げた。
「そんなふうに…笑ったよ、イワンも…僕のこと…ヒドイよね」
「お前が悪いと思うが?」
「そう…かなあ…?」
「アイツの力を忘れられないのに…そんなことをするからだ」
ジョーの表情から、すっと笑みが消えた。
「傷つけちゃったかな…イワンのこと」
「…それは…わからんが」
「傷つけたよね…たぶん…やっぱり…僕じゃムリなんだよなあ…」
だから、せめてこうやってジャマしないようにしてるんだけどね…と、ジョーはぼやいた。
「でも…長いよ、今日は…それに、イワンがすんだら、今度は君だし…」
「何言ってやがる」
「あ。言っとくけど、彼女はホンキだよ?…覚悟しといたほうがいいよ」
「…本当か?」
「…うん」
やっぱり、あのまま飛行機に乗っておいたほうがよかったのかもしれない…と眉を寄せるアルベルトに、ジョーは声を上げて笑った。
「ふん、ホンキではやらせないさ…アイツだって、昨夜のことがあるんだから…」
「彼女は気にしてないってば」
「だったら、謝らないぞ、俺は」
「帰ってきたんだから、謝ったのと同じだよ」
「…それは、日本風の考え方だな…ヨーロッパでは、謝罪ってのは…」
「ここは日本だし、フランソワーズは日本人と同じだよ」
「……」
こうあっさりのろけられたら、返す言葉もない。
しかも、ジョーには、のろけているという自覚もないはずで。
「ここんとこずっと…彼女は君のことに夢中だったんだ…手に負えなかったよ」
「それは…どうも」
「イワン、ストレスがたまってたんだ、きっと…僕だってさ」
「ホンキで相手してもらえなかった…ってか?」
「うん……あっ!そういう意味じゃないからねっ!」
「そういう意味って…そういう意味なんだろ?」
「違うよっ!」
「…じゃ、どういう意味なんだ?」
「どういう…って…君が考えてるような意味じゃない」
だから、それがどういう意味かと…
言いかけて、やめた。
こういう会話はジェットならお手のモノなんだろうが…
真っ赤になって反駁するジョーを見ていると、からかいたい気持ちより先に、ため息がでてきてしまう。
これが、俺の性分なんだろう。
3
たしかに…謝る必要などなかった。
というか。
謝っているヒマなどなかったというか。
結構、浜辺で待たされた。
イワンの相手の後は、「準備」があるからとか…
彼女と通信で連絡をとり、ジョーは笑った。
「準備」…ね。
やれやれ。
「お前、手伝わなくていいのか?」
「うん…いいって。もうほとんど出来てるんだよ…僕は、君の見張り…じゃなくて案内係、だってさ」
…そうか。見張りか。
やがて。
ジョーはもう大丈夫、行こう…と、アルベルトをうながした。
家の近くまで来ると、ジョーはぱっと駆け出して、玄関に飛び込んでしまった。
首をかしげながらゆっくり後を追い、ドアを開き…
いきなりシャンパンを浴びた。
「……っ!!」
「お誕生日おめでとう、アルベルト…!」
思い切りむせかえり、声が出ない。
やっとのことで顔を上げ、怒鳴ろうとした瞬間。
ほとんど体当たりのように、華奢な体が飛びつき、首に両腕が巻き付いた。
「お帰りなさい…ずっとずっと待ってたのよ!」
嘘つけ、赤ん坊と遊びまくってただろうがっ!!
…と言いかけた言葉は、唇で塞がれ。
「フランソワーズ!!」
悲鳴のようなジョーの声にもひるまず、フランソワーズはアルベルトの首に両腕を回したまま、そっと唇を離し、微笑んだ。
…お前、正気か?
…もちろんよ、アルベルト…もう逃がさないから。
やっぱり逃げよう。
そう思いかけたとき。
ぐいっと引き寄せられた。
碧の瞳に、強烈な光が閃く。
「…泣くわよ」
「な…に?」
低いささやき。
うっとりするほど愛らしい笑みを浮かべているのに…目は笑っていない。
フランソワーズはアルベルトを見据えたまま、繰り返した。
「今度は、泣くわよ」
「…今度は?」
「ええ…今度あなたが逃げたら、泣きます」
フランソワーズはちらっとジョーに目をやり、再びアルベルトを睨んだ。
「…あの人の前で」
…それはカンベンしてくれ。
実際、お前だけで手一杯だ、俺には。
…悪かったよ。
とうとう言えなかった言葉をかみしめ、アルベルトはぐいぐい腕を引っ張っていく亜麻色の髪の少女に身を委ねた。
居間のドアの向こうには、所狭しと並べられた「誕生日のごちそう」や彼女手製の「バースデーケーキ」や色とりどりのリボンに飾られた「プレゼント」が山積みになっているに違いない。
カンベンしてくれ。
俺が生まれたことを本当に喜ぶヤツなんていやしない。今では。
お前が…お前達が、それは違うと叫んでくれる気持ちも嘘じゃない。
だが、わかるだろう?
それは…俺が望むものとは違うんだ。
俺が望むものは…もう二度と手に入らない。
だから。
それに似たものなど見たくない。欲しくない。
見せないでくれ。
「…駄目だよ、アルベルト」
背中で、穏やかな声がした。
振り返らなくてもわかっている。
彼は、微笑んでいる。
あの、柔らかく澄んだ茶色のマナザシで。
「彼女は…ホンキなんだ」
逃げられないよ。
4
でも…悪くない。
僕はそう思う。
あのイワンだって、陥落するんだ。
君も諦めた方がいい。
心配しないで。
彼女は…ホンキだから。
君は、傷つかない。
僕も、そうやって…手に入らないと思っていたものをもらったんだ。
彼女から。
…そりゃ。
ホンキで君を祝福している彼女を見て、全然平気…ってわけじゃないけど。
でも、僕はホンキになってる彼女を見るのが好きだから。
僕に遠慮することないよ、アルベルト。
見ているのがガマンできなくなったら、ガマンなんかしない。
僕だってホンキだ。
僕はホンキになれば、君になんて余裕で勝てるし。
君だけじゃない。イワンにだって。
誰にも負けない自信はある。
…だから。
いつも彼女の傍にいるのは…いていいのは、僕だけなんだ。
5
ほんとは…不安になるの。
いつも…いつも。
私は…ただ傷つけているだけなんじゃないかしら…って。
みんなのことを。
私は、神さまでも天使でもない。
ただの…愚かな娘で。
だから、きっと間違えている。
ううん…いつも嬉しいのよ。
イワンが笑ってくれると…
アルベルトが笑ってくれると…
ほんとに、嬉しい。
でも。
こうして灯りを消して…一人になったとき。
月の光の下で、あなたたちはこっそり涙を流しているのかもしれない。
誰にも見せられない…重くて苦い涙を。
だったら…こんなこと…してはいけないのに。
なのに、私は…いつも。
「やめてくれ…!!」
昨日、家を飛び出したときの、アルベルトの怒声。
悲鳴のようだった。
わかってる。
あなたの誕生日を祝っていいのは…あの人だけ。
そして、その人はもういない。
わかってるのに…
でも、あなたは、戻ってきてくれた。
そして…笑ってくれて。
嬉しかった。
でも…でも。
「どうしたの…?ため息ついて」
いきなり後ろから抱きしめられた。
…気づかなかった。
「や…だ。脅かさないで、ジョー」
「…疲れた?」
心配そうな声。
私は首を振った。
「よかった…それなら…!」
「…ジョー?」
抱き上げられて、私は慌てた。
ジョーは弾むように楽しそうに言った。
「やっと、僕の番になった」
…なんだか、浮かれた感じの足取り…だわ。踊ってるみたい。
どうしよう。
彼がこういうときって…いつも。
ホントは…少し疲れているのよ、ジョー。
朝までなんて…もたないわ。無理よ。
無駄だと思いながらも、一応言ってみる。
「ジョー…待って…あの、私…」
ベッドに放り出された。
起きあがる間もなく唇を塞がれ、押し倒される。
…駄目だわ。
ホンキになってる…みたい。
6
月の光を浴びる。
夢から醒めて。
…そうだ。夢だった。
俺が望むものは…二度と手に入らない。
…だが。
それをかつて俺はこの腕に抱いた。
その温かい感触が。記憶が。
こうして…この手に蘇るなら。
また…生きていける。
最後に居間を出るとき、ちらっとジョーを振り返った。
穏やかな眼の奥に、強い光が浮かんでいた。
まあ…無理もない。
ジョーの部屋は同じ階の三つ先にある。
さっき、廊下を足音が横切り…ドアの閉まる音がした。
階下で後かたづけをしていたはずのフランソワーズの気配は、いつの間にかない。
夢は、いつか醒める。必ず。
だが…本当に幸せな夢は、醒めても消えることはない。
だから、心配しなくてもいい。
君は…十分すぎるほど、俺を幸せにしているよ。
そう。
たぶん、君にしか…できない。
だから。
俺は…君をあいつに預ける。
あいつなら、君を守り抜く。
ありがとう。
おやすみ、フランソワーズ。
…いや。
あいつに眠らせてもらえればの話だがな。
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