1
「使えるかね?」
「え…?」
振り返ったフランソワーズに、コズミは微笑みかけた。
「使ってもらえるなら…キミにあげよう」
「…コズミ博士…?」
「それは…私の妻が愛用した品での…動くかどうかわからんが…なに、万一動かなくても、キミたちの誰かがなんとか修理できるじゃろうて…」
黙っているフランソワーズを、コズミは気遣わしげに見つめた。
「…いや…気を悪くしたなら、すまない…じゃが…」
「いいえ…そんなこと…でも、博士…奥様の形見なら、博士が大切に…」
「なに…ホッホ、アレが生きておったら、きっと同じコトをキミに言うじゃろうて…何しろ、アレも年をとってからというもの、目がどうもいけなかったで…使わなくなって何十年…かのう?…それではかえって不憫というものじゃ」
フランソワーズはじっとコズミを見つめ…柔らかく微笑んでうなずいた。
2
ノックしなかったのが、とにかくいけなかった。
…と、ジョーは後で思った。
が。
ドアは半開きになっていたし…
ついつい油断していたのだ。
開きかけていたジェロニモの部屋のドアをぱっと開けたジョーは……固まった。
ジェロニモは、ベッドの傍らに立ったまま、驚いたようにわずかに目を見はった。
赤銅色のたくましい筋肉が盛り上がる上半身は裸で…
その彼の胸に、両手を精一杯広げ、身を投げ出すように抱きついている少女…
亜麻色の髪。
呆然と立ちすくむジョーを、彼女はゆっくり振り返った。
蒼い瞳が潤み、僅かに紅潮した頬が美しい。
口を噤んだまま、くるっときびすを返し、立ち去ったジョーに、フランソワーズは首をかしげ、両腕を巻き付けたままジェロニモを見上げた。
「あなたに…用だったんじゃないのかしら?」
「……」
「ダメ…まだ動かないで」
フランソワーズは素早く言い、両腕に更に力を込めた。
3
「…ただいま」
返事がない。
…誰も、いないのかな?
ジョーは首をかしげながら、荷物を床に落とすように置いた。
ニューヨークで不穏な動きがある、とジェットから連絡を受け、駆けつけたのだが…
BGがらみ、というわけではなかった。
「…フランソワーズ?」
やはり返事はない。
…が、耳を澄ますと、何か妙な音が聞こえる。
「フランソワーズ…」
居間のドアは開いていた。
覗き込んで、ジョーは目を丸くした。
軽やかな音を立て、フランソワーズがミシンを踏んでいる。
そう…たぶん、ソレはミシンだ。
学校の家庭科で見たことがあるのは電動ミシンだったけど…
たしか、教会の片隅に、埃を被っておいてあった機械が、こんな感じだった。
子供の頃、この踏み板に乗って遊んでいて、神父様に叱られた。
「あ…お帰りなさい、ジョー…気づかなかったわ」
「003らしくないな」
「まぁ!…意地悪ね…」
ちょっと口を尖らせるが、すぐに微笑む。
「疲れたでしょう?…お茶入れるわ」
「…いいよ…それが終ってからで…どうしたの?そのミシン…」
「コズミ博士にいただいたのよ」
「…コズミ…博士」
なるほど。
博士の家には、なんだか不思議な…古いモノがたくさん置いてあった。
「フランソワーズ、縫い物なんてできるんだ」
「ええ…ずいぶんやらされたもの」
「…お兄さんに…?」
用心深い口調に、フランソワーズはふと顔を上げた。
目が合った途端、しまった…と言わんばかりに、茶色の瞳が心細く揺れる。
「…ご、ごめん…ええと…」
「そうね、兄のモノも時々縫ったけど…ほとんど自分の舞台衣装だったわ…バレエの衣装ってね、自分で作るのよ」
「…そう…なの…?」
「あ…今はどうなのか、知らないけど」
微笑んで、こともなげに言う。
ジョーは思わずうつむいた。
フランソワーズはさりげなく続けた。
「嫌いじゃなかったわ、縫い物って…楽しいのよ…ね、見て、これ…」
「何…?」
あからさまにホッとした様子のジョーに苦笑しながら、フランソワーズは縫いかけの白い布地を持ち上げた。
「…なんだか…わかる?」
「イワンの…じゃないよね…?」
「張々湖大人の仕事着よ」
くすくす笑うフランソワーズに、ジョーは思わず両手を打ち合わせていた。
「そう…か!…そういえば、大人、ぴったり合うサイズの服がない…ってこぼしてたっけ!」
「ええ…ちゃんと採寸して、型紙もとって…きっとうまくいくと思うわ」
「ふうん…すごいなあ…!」
「日本人って、みんな体型が似てるからなのかもしれないけど…ちょっとサイズが違うと、服が見つからなくなっちゃうのよ…だから、ジェロニモにもね…」
「ジェロ…ニモ……あぁっ、そうかあっ!」
不意に頓狂な声を上げたジョーに、フランソワーズは首をかしげた。
「…い…いや、何でもない…んだ、ごめん…そう…そうだね、ジェロニモにも作ってあげたら、きっと喜ぶよね」
「喜んでくれるといいんだけど…コズミ博士に、古いけど、いい布いただいたの…」
フランソワーズが取り出したのは丈夫そうで…でも手になじんでくる柔らかい木綿地だった。
色合いも落着いている。
「すごい…これなら、絶対気に入るよ…『精霊の声が聞こえる』っていうかも、ジェロニモ…!」
「精霊の…声?」
フランソワーズは楽しそうに笑った。
4
「ねえ…ジェロニモ…聞こえる?」
「…何がだ?」
「精霊の声」
ジェロニモは怪訝そうにジョーを見返し、その視線を追い…やがて、微笑んだ。
「精霊…ではないが…温かい」
「…うん」
「いい服だ」
「フランソワーズに…こんなことができるなんて、知らなかった」
「ああ…」
「よく、お兄さんの服を縫ったんだって…リフォームもしたことあるって…僕たちみたいに、モノを粗末にしなかったんだろうなあ…みんな、そのころ」
ジェロニモは黙ったまま、ジョーを見つめた。
帰りたい…よね、きっと。
でも…君は帰れない。
決して。
「帰る場所は…一つではない」
「…ジェロニモ?」
「俺、故郷…なくした」
遠い山々。
ゆったりと流れる川。
生命の息吹。
「あの山も川も…もうない。どこにも…だが…故郷はある」
「…え…どこに?」
ジェロニモは微笑み、フランソワーズが縫い上げたシャツをつまんでみせた。
「たとえば…ここにある。故郷は…どこにでもある」
5
張々湖の仕事着は好評だった。
彼の自慢話とジェロニモのシャツを、他の仲間たちもうらやみ…そして。
フランソワーズはカタカタとミシンを踏み続けた。
つやつや光るなめらかな黒い機械の上を、白い手が素早く動き回る。
ソックスをはいたすんなりした足が絶え間なく踏み板を踏む。
ぼんやり頬杖をつき、ジョーは彼女を見つめていた。
こんな機械も…あるんだな。
君が幸せだったころの…機械。
なんだか…友だちとおしゃべりしてるみたいだ。そうしてると。
こんな機械も…あるのに。
ギルモアが、新しい電動ミシンを買おう…ともちかけても、彼女は笑って首を振った。
今縫っているのは…たぶん、アルベルトのだ。
彼には既製品がどうもしっくりこないみたいだから…って言って。
アルベルトだったら、いくらでも合うサイズがあるはずなのに。
でも。
彼の好みはウルサイらしい。
一度、彼の買い物につきあって、懲りたフランソワーズは、作った方が早い…と決めていた。
結構、みんな…着るモノにはウルサイんだよな。
ピュンマだって、グレートだって、ジェットだって。
イワンまで…あれこれ注文つけてさ。
仲間たちのリクエストに応える合間に、フランソワーズは、ついでだから…と言って、ジョーの寸法も測った。
…が。
巻尺を片手に、忙しく立ったり座ったり両腕を背中に回したり…している彼女の髪や体が微かに触れるたびにドキドキしていたのは…始めだけで。
いつまでたっても終らない細かい採寸に、ジョーはあっけなく音をあげてしまった。
さらに、好みのデザインを聞かれても何も答えられず。
襟の形の一覧を見せられただけで、絶句し…
そんなジョーにフランソワーズはくすくす笑い…ある日、品の良い既製服を買ってきた。
「あなたは何でも似合うから…うらやましいわ」
と微笑んで。
6
研究所に、軽い包みが届いた。
ギルモアが、友人に頼んで作ってもらったモノだという。
ギルモアはフランソワーズを呼び…二人はそのまま研究室にこもった。
数日後。
研究室から出たギルモアはコズミ邸を訪ね…
フランソワーズは、またミシンを踏み始めた。
白い新しい布だった。
「…今度は…誰の?」
フランソワーズは驚いたようにジョーを見上げ…微笑んだ。
「あなたの…よ」
「僕の…?!」
目を丸くするジョーに、フランソワーズは淡々と言う。
「この布は…加速しても燃えない特殊な繊維でできているんですって…防護服ほど強くはないんだけど」
それを縫うには、針も糸も特殊なモノが必要で…
布が届けられてから、ギルモアとフランソワーズは、それらのテストと改良を重ねていたのだという。
「仮縫いができないから一発勝負なの…大丈夫だといいんだけど」
「……」
「…ジョー?」
フランソワーズは怪訝そうにジョーをのぞいた。
やがて、彼女ははっと息を呑んだ。
僅かに、表情が曇る。
「無理に着なくてもいいのよ…そうよね、こんなもの…着ないですめば、それが一番なんだし…」
ごめんね、と微笑む。
「そ…そんなことない…!その…僕は」
うまく言えない。
彼女を傷つけずに言う言葉が見つからない。
博士が、いけないんだ。
彼女にこんなことやらせるから。
張々湖の仕事着とは意味が全然違うのに。
あの小さい古い機械は、彼女と一緒に歌っていたんだ。
幸せだったころの歌を。
そうして…優しい服が生まれていった。
大切な人たちのために。
なのに。
こんなものを作らせるなんて。
どんなに心をこめたって…その心を脱ぎ捨てるしかない戦場でまとう服。
そんなものを…この優しい機械に…優しい人に…!
ジョーはぎゅっと唇をかみしめ、部屋から駆け出した。
6
今度こそ、ヤバいんじゃないかと思う…と、ジェットから電話があった晩。
ニューヨークへ発つ準備をしていたジョーの部屋を、フランソワーズがノックした。
「これ…できたの…着ていって」
薄い紙に包まれた、白いシャツとベージュのズボン。
ありがとう、と言うべきか、ごめん、と言うべきか。
迷っているうちに、彼女は微笑んでドアを閉めてしまった。
思わずため息をつく。
重い気持ちのまま、そっと包みを開き、丁寧にたたまれたシャツを広げ…袖を通してみた。
しっかり縫いつけられたボタンも…普通の素材ではなさそうだった。
生地は軽く、体になじんだ。
ズボンもはく。
…ぴったりだ。
ジョーは目を丸くした。
たしかに、今までだって、服を着ていて窮屈だとか合わない…なんて特に思ったことなかったけど。
でも…これは。
黙って居間に入ってきたジョーに、フランソワーズは微笑んだ。
「よく…似合うわ…あなたは何でも似合うけど…どう…?窮屈じゃない?」
「うん…その…とても…」
口ごもっているうちに、フランソワーズはさっと立ち上がり、近づくと…服をあちこちひっぱったり軽く叩いたりし始めた。
「…大丈夫かしら…ちょっと動いてみて」
「動いて…って?」
「ええと、そう…両手を上げて…回してみて。もっと勢いよく」
言われるままに、手を回したり、体を曲げたり、足を持ち上げたり…
「もう…いいよ、フランソワーズ…!ホントにぴったりなんだ。すごいよ、こんなに着ていて気持ちのいい服って…初めてだ」
「そんなこと言ってもダメ…!はい、こっちの足を持ち上げて…そう、こっちに曲げて…」
「フランソワーズぅ〜!」
「大事なコトなのよ…あなたの命に関わるかもしれないんだから、泣き言はきかないわ」
やっと解放されて、ソファに沈み込むジョーに、フランソワーズは笑った。
「よくがんばりました…ご褒美にココアを入れてあげるわね」
7
「…あら?」
ココアを持って入ってきたフランソワーズの声に、ジョーはちょっと気まずそうに振り返った。
彼は、服を着替えていた。
苦笑しながら、フランソワーズはジョーの前にココアをおき、ソファに置かれているシャツとズボンを丁寧にたたみ始めた。
「気に入らなくても…明日は着ていかなければダメよ…これは…あなたを護る服なんだから」
「……」
僕を、護る。
君が護ってくれる。
わかってる。そのために、君は…
差し出された服を受け取り、ジョーはつぶやくように言った。
「…ありがとう」
わかってる。
君の気持ちはホンモノだって。
これを縫い上げてくれた…ここに込められた君の心は…ホンモノだ。
僕が…一度も手に入れたことがない、これからだって手に入れることはないと思っていた、本当に優しい服。
故郷は…どこにでもある。
たとえ、それが戦場でも。
僕を優しく包んでくれるモノと一緒にいられる場所…そこが、僕の故郷だ。
でも、君は。
じっと見つめていたフランソワーズがふと微笑んだ。
「よかった…私、縫い物できて」
「…フランソワーズ?」
「ううん、ごめんなさい…今ね…ちょっとそう思ったの…ほんとに…よかった」
「……」
「気をつけてね、ジョー…ジェットのペースに呑まれちゃったらダメよ」
「…うん」
おやすみ、と立ち上がったジョーを、フランソワーズが思い出したように引き留めた。
「待って、ジョー…忘れてたわ…これ」
「…え?」
紙袋。
「何、これ?」
「パジャマよ」
「…パジャマ…?」
フランソワーズは笑いをかみ殺しながらジョーを見上げた。
「アルベルトの生地を探しているときに見つけたのよ…あなたに似合うと思って…」
「……」
「ね?可愛いでしょ?」
薄いブルーの柔らかい生地。
一面に小さいテディ・ベアが散らしてある。
「フランソワーズ、あのさ…これって…女の子が着るモノなんじゃ…?」
「男の子用だって…お店の人は言ってたけど」
「だから!男の子、だろっ?…僕はコドモじゃないんだから…!」
「そう言うと思った…じゃ、やっぱりグレートにあげるわね」
「…え?」
「少し大きいけど…パジャマだから大丈夫よ…袖とズボンの丈だけちょっと詰めて…グレートは、テディ・ベア…好きなの」
…知ってた?
と微笑まれ、ぼんやり首を振ると…
フランソワーズはそっと紙袋をジョーから取り上げた。
我に返った。
加速装置を使わんばかりの勢いで、彼女の手から紙袋を奪い返す。
「…や、何?ジョー…返して!」
「返して…って…僕のなんだろ?」
「だって、あなた…気にいらないって…」
「でも、僕の寸法で作ってるんだろう?…グレートならきっと気づくよ…それで、どうしたんだ…って君に聞くよね?…そしたら、君はどうせ、ホントのこと言って、二人でさんざん僕のことを…」
頬を紅潮させ、まくしたてるジョーを、フランソワーズはあっけにとられたように見つめ…笑い出した。
はじめはくすくすと。
やがて、声を上げ、苦しそうに。
8
揺りかごの中で、気持ちよさそうにウトウトしていたイワンがふっと目を開けた。
「あ…おはよう、イワン…ミルク?」
「う…ん、まだ……あ、新しい服だ…また作ってくれたんだね、フランソワーズ」
「ええ…どう?」
「気持ちいいよ…でも、ジョーとおそろいなのは…ちょっとイヤかも」
フランソワーズはくすっと笑った。
「まぁ…さっそくお見通しなのね」
「どっちが『オマケ』だったのかも気になるな」
「さあ…どっちかしら?…それもお見通しのくせに」
「…不愉快なコトは見ないようにする主義なんだ。キミもそうした方がいいよ」
「可愛くないわね…!」
「ありがとう」
ミルクより、抱っこしてよ…とねだられ、フランソワーズは優しくイワンを抱き上げた。
「まだお腹すいていないなら…お散歩でも行きましょうか、ネボスケ王子さま?」
「うん、いいね…ね、教えてあげようか、フランソワーズ?」
「何を…?」
「ジョーがさ…今、何着て寝てるか。ニューヨークで」
「…遠慮しておくわ」
「どうして?」
フランソワーズはイワンをそっと揺すり上げ、バルコニーに出た。
柔らかい日射しと海風を受け、亜麻色の髪がきらきら輝く。
目を細めるイワンに、フランソワーズはそっと囁いた。
「不愉快なコトは聞かないようにする主義…なの」
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