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日常的009

エーゲ海異聞
「アフロディーテ…!美の女神は泡から生まれたというけれど…」
「あのアフロディーテは…泡の中に消えた…か」
 
ややおどけた調子に、フランソワーズは初めて表情を和らげて微笑んだ。
何があったのか…思い出せないけれど。
いつも、こうして彼が助けにきてくれる。
何があっても。こんな…
 
不意に、フランソワーズは頬を真っ赤に染めた。
そうだったわ。
夢中だったけれど…
 
急にうつむいたフランソワーズを怪訝そうに見やったジョーも、つられるように赤面していた。
そうだ。
夢中だったけれど…
 
コックピットに沈黙が流れる。
考えるまいと思っても、ジョーの脳裏に、さっき何人も見た女性たちの姿がよぎっていく。
肌がすけて見える、薄い織物。
肩も脚もすっかり露わで…
申し訳のように結ばれている腰ひもをほどけば、たちまち。
 
…だめだだめだ、これ以上考えたらっ!!
フランソワーズのことも…見ちゃだめだっ!!
 
ジョーはひたすら前を睨み、操縦桿を握りしめた。
 
「あ…!ジョー?!」
「え、え、ええっ???」
 
微かにかすれた声。
一瞬ドキッとしたジョーは、次の瞬間、慌てて機体を急上昇させた。
乱気流がせまっているのに、警告ランプに気づかなかった。
 
機体がきしむような音をたてながら揺れる。
フランソワーズが小さく悲鳴を上げた。
 
「ご…ごめん…!大丈夫か、フランソワーズ?」
 
機体を安定させ、自動操縦に切り替えてから、ジョーは隣のシートにもたれ、眼を閉じているフランソワーズをそっと揺すった。
やがて。うめき声とともに、睫毛の下から青い瞳がのぞいた。
 
「大丈夫?…ほんとに…ごめん…」
「……」
「…フランソワーズ…?」
 
返事がない。
ジョーは首をかしげ、フランソワーズの両肩を抱き、うつろな眼を見つめた。
 
「フラン…んんんっ???」
 
突然、唇が柔らかいもので塞がれる。
そのまま、ジョーは床に押し倒された。
 
「な、な、何するんだよぉっ、フランソワーズ…?!」
 
反射的に払いのけようとする手を優しくつかみ、フランソワーズは物憂げなまなざしでじっとジョーを見下ろした。
再び…ゆっくりと花びらのような唇が近づく。
 
「や…やめ…っ…フラン…!」
 
…なぜか、体に力が入らない。
あっという間に唇が重なった。
同時に。
細い指が優しくマフラーの結び目をほどいていく。
柔らかい感触が首筋をよぎった。
 
だめだよ…どうしたんだ、フランソワーズ…!
 
懸命に彼女を引き離そうとしているはずの両手が、なめらかな曲線に誘われるように動いてしまう。いつのまにか、ジョーは仰向けになったままフランソワーズを抱きしめていた。
 
やがて…フランソワーズがそっと身をおこした。
同時に起きあがったジョーは、夢中で彼女の上半身を引き寄せ、腰ひもを一気にほどいていた。
 
もう、何がなんだかわからない。
 
そのとき。
けたたましい警報音が鳴り響いた。
 
「あ…!」
夢から一気に醒めたような思いで、ジョーは立ち上がり、操縦席に飛び乗った。
また乱気流だ。
 
「フランソワーズ、シートに戻るんだっ!」
 
叫んだが、彼女はぼんやり座ったままだった。
助けにいく余裕はない。
ジョーは懸命に機体のバランスをとった。
小さな悲鳴が上がった。
 
「フランソワーズ!!」
 
次の瞬間。
膝に、柔らかい感触。
 
「そう…だ、しっかりつかまって…!」
 
脚にしがみついているフランソワーズを確かめ、慎重に機体を操る。
 
何やってるんだ、僕は…
こんな気流に二度も巻かれるなんて…!
 
自分を烈しく責めながら、ジョーは乱気流をどうにか突破した。
ほっと息をつく。
 
「もう大丈夫だよ…怖い思いをさせてごめん、フランソワーズ…さあ、座って…?」
 
首をかしげる。
フランソワーズは脚にしがみついたまま離れない。
やがて。
 
「な、な、何するんだよっ!フランソワーズ…?!や、やめっ!…やめろってばぁっ!!!」
 
ジョーは思わず絶叫していた。
白い手が優しく膝のあたりを撫で始める。
愛おしむように…柔らかく。
 
見てはいけない…と思うのに、見てしまった。
うるんだ青い瞳が、何かをねだるように見上げている。
薄紅に濡れた唇。
腰ひもをほどかれた薄物は、前がほとんど開きかけていて。
 
だめ…だめだよ、フランソワーズ、どうして…!
 
くらくらしながら、ジョーは必死で考えをまとめようとした。
 
…そうだ。
あの女性たち…何かで、あやつられている…とか、聞いたような…聞かなかったような…
 
撫で回す手は止まらない。
甘い吐息と共に、頬が押しつけられ、柔らかい亜麻色の髪が生き物のように膝の上に流れた。
 
お、落着かなくちゃ…ええと…そ、そうだ…グレートが…たしか…
フランソワーズを追っていたヤツが…彼女、アタマを打ったとか…ええと…
でも…でも、どうして今頃になって…
第一、ソノ妙な電波の発信源は…壊したはず…なのに……
 
…って、あぁもぉっ、そんなことより、どうにかしないとっ!!
 
「フランソワーズ…っ!!」
 
戦士としての気力の全てを振り絞り、ジョーはフランソワーズを半ば突き飛ばすように膝から引き剥がした。
 
眼を見ちゃダメだっ!!
 
今、彼女の切ない悲しげな瞳を見てしまったら…きっとオワリだ。
どうすればいい…?
 
…ほどなく。
微かな吐息が聞こえた。
彼女が、身を起こす気配…また近づいてくる。
 
このままでは…マトモに操縦できない…下手をすると墜落するかも…
 
パラライザー、というコトバがとっさにアタマに浮かんだ…が。
ジョーは唇を噛んだ。
それもダメだ…!
 
パラライザーを浴びて、床に倒れたフランソワーズの姿を思い浮かべる。
乱れて床に広がる亜麻色の髪。
堅く瞑った瞼を煙るように縁取る長い睫毛……
 
…だからっ!
考えるな馬鹿っ!島村ジョー!!
 
ジョーは自分を叱りつけ、めちゃくちゃに首を振った。
そ、そうだ…とにかく…何かショックを与えて…彼女を元に戻せないか?
そうすれば…大丈夫だ、きっと…
いつもの彼女に戻ってくれたら、そしたら…
 
……大丈夫、なのか?
 
彼女が、まるで別人のような官能的雰囲気を醸し出していることが…その異様さが、矛盾してはいるが、最後の歯止めになっているのかもしれない。
もし、彼女が元に戻ってしまったら…
いつものように恥じらい、いじらしく頬を染めたりされてしまった日には。
この、崩壊しかけた理性が…どうなってしまうかわからない。
 
だったら…どうすれば…!
 
ぐずぐずしている暇はなかった。
フランソワーズはもう息がかかるほど近くまでにじり寄っている。
 
ジョーはカッと眼を見開き、歯を食いしばってから、立ち上がった。
荒々しくフランソワーズを抱き上げ、後ろのシートに投げ出すように座らせる。
シートベルトをしっかり締めた上に、さっきのマフラーを拾って、彼女の両手両足をぐるぐる縛り付け、そのままシートに固定した。
 
これで…動けないはず。大丈夫。
 
いや。大丈夫じゃない。
ジョーは慌てて操縦席に戻った。
 
見ないように、見ないようにと努力したが…見なかったわけではない。
フランソワーズの…しどけない姿。
 
思い出しちゃだめだぁっ!!!
 
ココロで叫び、ジョーは操縦桿を力一杯握った。
とにかく、早く…一刻も早く、研究所に着かなくては…!!
 
 
 
「…ア?」
 
眼をあけたフランソワーズは瞬きした。
「おお、気がついたかね、フランソワーズ…気分は?」
「だい…じょうぶです…私、いったい…?」
「ふむ…何も覚えとらんか?」
「……」
 
優しいギルモアのまなざしにうながされるように、記憶をたどってみる。
 
「みんなに…助けられて…それで、ジョーと小型機に乗って…」
「ふむふむ」
「島が…沈んでいくのを見て…」
 
フランソワーズはふと眉を寄せた。
 
「ふむ…そうじゃろう、そこまでしか思い出せんじゃろうな…それでいいんじゃ」
「…博士…?」
 
首をかしげたフランソワーズが、何となく辺りを見回している。
ギルモアはうなずいた。
 
「ジョーかね?…ジョーは、たぶん、自分の部屋におるよ…心配しとったが…どれ、意識が戻ったと…教えてやろう」
「あ!博士…」
「ん?」
「あの…私…私が、行きます」
「君は…まだ休んでいた方がいい」
「もう大丈夫です…それに…」
 
フランソワーズはふとうつむいた。
 
「それに…きっと私…ジョーに…迷惑を…」
「迷惑…?」
「何も覚えていない…のは…きっと…」
 
ギルモアはそっと首を振った。
「余計な心配はせんでいい…休んでいなさい」
「いいえ…!謝りたいんです…謝っても…無駄かもしれないけれど…でも」
「何も謝ることなどない…どうしたんじゃ、フランソワーズ…?」
 
青い眼から大粒の涙がこぼれる。
いたましそうに見つめていたギルモアは小さくため息をつき、そっと彼女の肩をたたいた。
 
「心配はいらないというのに…それじゃ…行ってやりなさい…あの子も…きっと喜ぶじゃろうて…」
 
 
異様な緊張がリビングを包んでいた。
「やっぱり…遅い…よな、フランソワーズ?」
「…ジョーの部屋に向かって…もう3時間…アルか?」
「…うん」
 
「様子を…見に行った方がいいかのう…?」
何度目になるかわからないギルモアのコトバに、グレートが腰を上げた。
「おい…!おい、やめた方がいいんじゃないか、グレート?」
慌てるピュンマに、グレートは肩をすくめてみせた。
「だってよ…もしかしたらフランソワーズ、冷たくされて、部屋で泣いてるかもしれないじゃないか」
「ジョーに限ってそんなこと……ないと思うよ。僕はむしろ…」
「いや…!あいつはマザコンの気があるからなぁ…第一、フランソワーズが謝らなくちゃならん気になっちまう…ってこと自体がそもそもあいつらの間違ってる所で…!」
「まぁ、たしかに…据え膳食わぬは…っていうわな…フン、だが、ジョーにそんなことができるもんか」
「…研究所に着いたとき、009…ものすごい顔…してたアルからねえ…」
張々湖も心配そうに天井を見上げた。
 
…やがて。
一同は、そっとリビングを出て…廊下を忍び足で歩いた。
2階への階段にさしかかったとき。
先頭のグレートがぎくっと立ち止まった。
 
「なんだ…急に止まるな…」
小声で言いかけたアルベルトの言葉が…凍った。
 
一同は、しばらく階段の下で立ちすくんでいた。
とぎれとぎれに…悲鳴のように聞こえなくもない…が、たぶんそれとは違う…声。
 
フランソワーズだ。
 
長い沈黙の後、グレートが苦笑しながら大きくため息をついた。
「さ、さて…と。ま、心配ないってことのようですな…んじゃ、我々も寝ましょうかね」
「…どこで?」
アルベルトが冷ややかに言った。
 
彼らの寝室も、全て2階にある。
ここにいてもこれだけ聞こえてくるわけだから。
 
「仕方ないな…張々湖大人のトコロに泊めてもらうしか…」
ピュンマのつぶやきに、張々湖は腕組みした。
「仕方ないアルけど…いったいいつまでになるアルやろか?」
「明日の朝まででよいじゃろうて?」
 
アルベルトは鼻で笑った。
「…どうだかな」
 
更新日時:
2002.04.04 Thu.
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Last updated: 2013/10/17