「アフロディーテ…!美の女神は泡から生まれたというけれど…」
「あのアフロディーテは…泡の中に消えた…か」
ややおどけた調子に、フランソワーズは初めて表情を和らげて微笑んだ。
何があったのか…思い出せないけれど。
いつも、こうして彼が助けにきてくれる。
何があっても。こんな…
不意に、フランソワーズは頬を真っ赤に染めた。
そうだったわ。
夢中だったけれど…
急にうつむいたフランソワーズを怪訝そうに見やったジョーも、つられるように赤面していた。
そうだ。
夢中だったけれど…
コックピットに沈黙が流れる。
考えるまいと思っても、ジョーの脳裏に、さっき何人も見た女性たちの姿がよぎっていく。
肌がすけて見える、薄い織物。
肩も脚もすっかり露わで…
申し訳のように結ばれている腰ひもをほどけば、たちまち。
…だめだだめだ、これ以上考えたらっ!!
フランソワーズのことも…見ちゃだめだっ!!
ジョーはひたすら前を睨み、操縦桿を握りしめた。
「あ…!ジョー?!」
「え、え、ええっ???」
微かにかすれた声。
一瞬ドキッとしたジョーは、次の瞬間、慌てて機体を急上昇させた。
乱気流がせまっているのに、警告ランプに気づかなかった。
機体がきしむような音をたてながら揺れる。
フランソワーズが小さく悲鳴を上げた。
「ご…ごめん…!大丈夫か、フランソワーズ?」
機体を安定させ、自動操縦に切り替えてから、ジョーは隣のシートにもたれ、眼を閉じているフランソワーズをそっと揺すった。
やがて。うめき声とともに、睫毛の下から青い瞳がのぞいた。
「大丈夫?…ほんとに…ごめん…」
「……」
「…フランソワーズ…?」
返事がない。
ジョーは首をかしげ、フランソワーズの両肩を抱き、うつろな眼を見つめた。
「フラン…んんんっ???」
突然、唇が柔らかいもので塞がれる。
そのまま、ジョーは床に押し倒された。
「な、な、何するんだよぉっ、フランソワーズ…?!」
反射的に払いのけようとする手を優しくつかみ、フランソワーズは物憂げなまなざしでじっとジョーを見下ろした。
再び…ゆっくりと花びらのような唇が近づく。
「や…やめ…っ…フラン…!」
…なぜか、体に力が入らない。
あっという間に唇が重なった。
同時に。
細い指が優しくマフラーの結び目をほどいていく。
柔らかい感触が首筋をよぎった。
だめだよ…どうしたんだ、フランソワーズ…!
懸命に彼女を引き離そうとしているはずの両手が、なめらかな曲線に誘われるように動いてしまう。いつのまにか、ジョーは仰向けになったままフランソワーズを抱きしめていた。
やがて…フランソワーズがそっと身をおこした。
同時に起きあがったジョーは、夢中で彼女の上半身を引き寄せ、腰ひもを一気にほどいていた。
もう、何がなんだかわからない。
そのとき。
けたたましい警報音が鳴り響いた。
「あ…!」
夢から一気に醒めたような思いで、ジョーは立ち上がり、操縦席に飛び乗った。
また乱気流だ。
「フランソワーズ、シートに戻るんだっ!」
叫んだが、彼女はぼんやり座ったままだった。
助けにいく余裕はない。
ジョーは懸命に機体のバランスをとった。
小さな悲鳴が上がった。
「フランソワーズ!!」
次の瞬間。
膝に、柔らかい感触。
「そう…だ、しっかりつかまって…!」
脚にしがみついているフランソワーズを確かめ、慎重に機体を操る。
何やってるんだ、僕は…
こんな気流に二度も巻かれるなんて…!
自分を烈しく責めながら、ジョーは乱気流をどうにか突破した。
ほっと息をつく。
「もう大丈夫だよ…怖い思いをさせてごめん、フランソワーズ…さあ、座って…?」
首をかしげる。
フランソワーズは脚にしがみついたまま離れない。
やがて。
「な、な、何するんだよっ!フランソワーズ…?!や、やめっ!…やめろってばぁっ!!!」
ジョーは思わず絶叫していた。
白い手が優しく膝のあたりを撫で始める。
愛おしむように…柔らかく。
見てはいけない…と思うのに、見てしまった。
うるんだ青い瞳が、何かをねだるように見上げている。
薄紅に濡れた唇。
腰ひもをほどかれた薄物は、前がほとんど開きかけていて。
だめ…だめだよ、フランソワーズ、どうして…!
くらくらしながら、ジョーは必死で考えをまとめようとした。
…そうだ。
あの女性たち…何かで、あやつられている…とか、聞いたような…聞かなかったような…
撫で回す手は止まらない。
甘い吐息と共に、頬が押しつけられ、柔らかい亜麻色の髪が生き物のように膝の上に流れた。
お、落着かなくちゃ…ええと…そ、そうだ…グレートが…たしか…
フランソワーズを追っていたヤツが…彼女、アタマを打ったとか…ええと…
でも…でも、どうして今頃になって…
第一、ソノ妙な電波の発信源は…壊したはず…なのに……
…って、あぁもぉっ、そんなことより、どうにかしないとっ!!
「フランソワーズ…っ!!」
戦士としての気力の全てを振り絞り、ジョーはフランソワーズを半ば突き飛ばすように膝から引き剥がした。
眼を見ちゃダメだっ!!
今、彼女の切ない悲しげな瞳を見てしまったら…きっとオワリだ。
どうすればいい…?
…ほどなく。
微かな吐息が聞こえた。
彼女が、身を起こす気配…また近づいてくる。
このままでは…マトモに操縦できない…下手をすると墜落するかも…
パラライザー、というコトバがとっさにアタマに浮かんだ…が。
ジョーは唇を噛んだ。
それもダメだ…!
パラライザーを浴びて、床に倒れたフランソワーズの姿を思い浮かべる。
乱れて床に広がる亜麻色の髪。
堅く瞑った瞼を煙るように縁取る長い睫毛……
…だからっ!
考えるな馬鹿っ!島村ジョー!!
ジョーは自分を叱りつけ、めちゃくちゃに首を振った。
そ、そうだ…とにかく…何かショックを与えて…彼女を元に戻せないか?
そうすれば…大丈夫だ、きっと…
いつもの彼女に戻ってくれたら、そしたら…
……大丈夫、なのか?
彼女が、まるで別人のような官能的雰囲気を醸し出していることが…その異様さが、矛盾してはいるが、最後の歯止めになっているのかもしれない。
もし、彼女が元に戻ってしまったら…
いつものように恥じらい、いじらしく頬を染めたりされてしまった日には。
この、崩壊しかけた理性が…どうなってしまうかわからない。
だったら…どうすれば…!
ぐずぐずしている暇はなかった。
フランソワーズはもう息がかかるほど近くまでにじり寄っている。
ジョーはカッと眼を見開き、歯を食いしばってから、立ち上がった。
荒々しくフランソワーズを抱き上げ、後ろのシートに投げ出すように座らせる。
シートベルトをしっかり締めた上に、さっきのマフラーを拾って、彼女の両手両足をぐるぐる縛り付け、そのままシートに固定した。
これで…動けないはず。大丈夫。
いや。大丈夫じゃない。
ジョーは慌てて操縦席に戻った。
見ないように、見ないようにと努力したが…見なかったわけではない。
フランソワーズの…しどけない姿。
思い出しちゃだめだぁっ!!!
ココロで叫び、ジョーは操縦桿を力一杯握った。
とにかく、早く…一刻も早く、研究所に着かなくては…!!
「…ア?」
眼をあけたフランソワーズは瞬きした。
「おお、気がついたかね、フランソワーズ…気分は?」
「だい…じょうぶです…私、いったい…?」
「ふむ…何も覚えとらんか?」
「……」
優しいギルモアのまなざしにうながされるように、記憶をたどってみる。
「みんなに…助けられて…それで、ジョーと小型機に乗って…」
「ふむふむ」
「島が…沈んでいくのを見て…」
フランソワーズはふと眉を寄せた。
「ふむ…そうじゃろう、そこまでしか思い出せんじゃろうな…それでいいんじゃ」
「…博士…?」
首をかしげたフランソワーズが、何となく辺りを見回している。
ギルモアはうなずいた。
「ジョーかね?…ジョーは、たぶん、自分の部屋におるよ…心配しとったが…どれ、意識が戻ったと…教えてやろう」
「あ!博士…」
「ん?」
「あの…私…私が、行きます」
「君は…まだ休んでいた方がいい」
「もう大丈夫です…それに…」
フランソワーズはふとうつむいた。
「それに…きっと私…ジョーに…迷惑を…」
「迷惑…?」
「何も覚えていない…のは…きっと…」
ギルモアはそっと首を振った。
「余計な心配はせんでいい…休んでいなさい」
「いいえ…!謝りたいんです…謝っても…無駄かもしれないけれど…でも」
「何も謝ることなどない…どうしたんじゃ、フランソワーズ…?」
青い眼から大粒の涙がこぼれる。
いたましそうに見つめていたギルモアは小さくため息をつき、そっと彼女の肩をたたいた。
「心配はいらないというのに…それじゃ…行ってやりなさい…あの子も…きっと喜ぶじゃろうて…」
異様な緊張がリビングを包んでいた。
「やっぱり…遅い…よな、フランソワーズ?」
「…ジョーの部屋に向かって…もう3時間…アルか?」
「…うん」
「様子を…見に行った方がいいかのう…?」
何度目になるかわからないギルモアのコトバに、グレートが腰を上げた。
「おい…!おい、やめた方がいいんじゃないか、グレート?」
慌てるピュンマに、グレートは肩をすくめてみせた。
「だってよ…もしかしたらフランソワーズ、冷たくされて、部屋で泣いてるかもしれないじゃないか」
「ジョーに限ってそんなこと……ないと思うよ。僕はむしろ…」
「いや…!あいつはマザコンの気があるからなぁ…第一、フランソワーズが謝らなくちゃならん気になっちまう…ってこと自体がそもそもあいつらの間違ってる所で…!」
「まぁ、たしかに…据え膳食わぬは…っていうわな…フン、だが、ジョーにそんなことができるもんか」
「…研究所に着いたとき、009…ものすごい顔…してたアルからねえ…」
張々湖も心配そうに天井を見上げた。
…やがて。
一同は、そっとリビングを出て…廊下を忍び足で歩いた。
2階への階段にさしかかったとき。
先頭のグレートがぎくっと立ち止まった。
「なんだ…急に止まるな…」
小声で言いかけたアルベルトの言葉が…凍った。
一同は、しばらく階段の下で立ちすくんでいた。
とぎれとぎれに…悲鳴のように聞こえなくもない…が、たぶんそれとは違う…声。
フランソワーズだ。
長い沈黙の後、グレートが苦笑しながら大きくため息をついた。
「さ、さて…と。ま、心配ないってことのようですな…んじゃ、我々も寝ましょうかね」
「…どこで?」
アルベルトが冷ややかに言った。
彼らの寝室も、全て2階にある。
ここにいてもこれだけ聞こえてくるわけだから。
「仕方ないな…張々湖大人のトコロに泊めてもらうしか…」
ピュンマのつぶやきに、張々湖は腕組みした。
「仕方ないアルけど…いったいいつまでになるアルやろか?」
「明日の朝まででよいじゃろうて?」
アルベルトは鼻で笑った。
「…どうだかな」
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