日本のバレンタインデーがどういうものなのかを初めて知ったとき、私は驚いた。
1年に1度だけ、女の子から男の子に愛を告白してもいい日…と、いうことは、それ以外の日は、女の子というのは男の子に愛を告白しては「いけない」というわけで。
それ自体が驚きだったけれど、でももっと驚いたのが、それを一年に一度だけ破ることが許されている…ということ。
許されている。
誰が許すのかしら?
そもそも、女の子は男の子に愛を告白しては「いけない」としているのは…誰?
よくわからない。
それは、つまり日本人にとっての神様…なのかもしれない。日本には宗教がない、と聞くけれど。
よくわからないけど、でも、とにかくバレンタインデーがそういう日なのだとしたら。
「普段は許されないことが特別に許される日」なのだとしたら。
……でも、本当にそんなことが、あるのかしら。
私は、よほどぼんやりしていたのだと思う。
いつもより肩を強めに叩かれて、顔を上げると、ジョーがひどく心配そうにのぞきこんでいた。
「どうした?」
「…あ」
思わず彼から目をそらし、そのはずみで、チョコレート売り場の方をまじまじと見てしまった。見るともなく見ていた…つもりだったのに。
彼は小さく笑った。
「もしかして、義理チョコの心配?」
「ギリ…チョ、コ?」
「でも、君はフランス人なんだから、無理に日本の習慣に合わせることもないさ…バレエをやっている人たちなら、日本人でも結構外国通かもしれないし…それぐらいわかってくれるんじゃないかな」
彼が何を言っているのかわからなくて、私は首をかしげた。
やっぱり、日本の習慣は難しい。
「あなたは、女性からチョコレートをもらったことがあるの?」
「うーん。…義理チョコならあるけど」
「そうじゃないのは……ないの?」
「……ないよ」
「……そう」
ジョーは、私を脅かさないように嘘をついたのかもしれないけれど……
でも、「普段は許されないことが特別に許される日」の中で、そのように振る舞う彼を想像することは、どうしてもできそうになかったから……だから、私はとてもほっとした。
でも、彼はすぐ続けてこう言ったのだ。とても、小さい声で。
「……欲しい、と思うことはあるけどね」
「……っ!」
ぎょっとした。
照れくさそうな曖昧な微笑は、いつもの彼……なのに。
でも、すぐに私はああ、そうだわ…と気がついた。
許されないこと。
憧れて、憧れて……胸が痛くなるほどに。でも、絶対に許されないこと。
それが一年に一度だけ、許される。
それでもあなたは、一年に一度だろうと、誰が許そうと、それが「許されないこと」ならできない人だから。
あなたが、そういう人だから、私は……
「それじゃ、私があげるわ、チョコレート。それなら大丈夫よ?」
「…え?」
「あ、もちろん…あなたが受け取ってくれるなら…だけど」
自分の大胆さに…ずるさに、自分でいやになりながら、でも私は笑ってジョーを見つめた。
許されないことが、一年に一度、許される日。
だからといって、そうする勇気は私になかった。
その日が終わったとき、どれだけ傷つくか……手に取るようにわかるから。
でも、あなたも一緒にその傷を負うのだとしたら。
私とは違う傷であっても、痛みはきっと同じ。
私たち、乗り越えられるわ。
だって、私たちは同じモノだから。
許されないことに焦がれ続けて……気が遠くなるほど長い間、そうしてきて。
彼は、どう思ったのだろう。
こわいような目でまじまじと私を見つめて、それから怒った声で言った。
「そんなことを言ってはダメだ、フランソワーズ」
「ダメじゃないわ。だって、そういう日なんでしょう?」
「……本気にするぞ」
「もちろん、そのつもりよ」
私は、止めようとする彼の手を振りきって、チョコレート売り場へ走った。
こわくない。あなただから。
私の願いをかなえることが、あなたの願いをかなえることになるのなら。
それぞれの願いが違うものであっても、それが一日限りのことであったとしても、私はこわくないわ。
それからまた何年かが過ぎて、私は日本のバレンタインデーというのがどういうものかをもっとよく知るようになった。
知ったからといって理解できるわけではないのだけど。
「君の考え方でいいんじゃないかな」
ジョーは考え考え、そう言った。
チョコレートの香りのキスの後で。
「本当なら、今日だけ…今夜限りなのさ、許されているのは。ただ、僕たちが弱いんだ。今日だけ…だなんて、諦めきれないだけで」
「あら…!私は、諦めきるつもりよ。今だって、ちゃんと覚悟しているわ」
「なんだよ、ソレ?」
「それに、あなただって……本当は」
それ以上は言わせない、という意志をあからさまに彼は私の唇を塞いだ。
――本気にするぞって、言っただろう?
君のせいだからな、と。
そう聞こえたような気がした。
日本のバレンタインデーって……私、どういうのものかもう知っているけれど、理解できているわけじゃないのよ、ジョー。
だって、なんだかとてもズルイ、と思うわ。
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