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日常的009

ファスナー
 
部屋に戻ると、急に硝煙の匂いが鼻につく。
全身にまとわりつく、戦闘の名残。
 
ミーティングまで、あと30分…早くしなくちゃ…
 
フランソワーズは、ブーツを脱ぎ、バスルームに入った。
ベルトをはずし、カチューシャを取り、軽く亜麻色の頭を振る。
髪から、埃に混じって、油と…微かに血の匂い。
唇を噛んで、マフラーをほどき、背中のファスナーに手をかけた。
 
「…あら?」
 
…まただわ。
フランソワーズは息をついた。
このごろ、ファスナーの調子がよくない。
 
今日も…ひどい炎の中を走ったから…微妙に歪んじゃったのかしら?
 
だましだまし下げようとしても、びくともしない。
それどころか、上がりもしなかった。
 
フランソワーズはバスタブの縁に座り込み、数分間悪戦苦闘を続けた。
 
どうしよう…
 
バレリーナだから、体は柔らかい。
常人なら、疲れてしまう姿勢も、苦にはならない…が。
10キロ先が楽勝で見える眼でも、自分の背中は見えない。
仕方なく合わせ鏡に写してみた…が。
何がどうなっているのか、どーしてもわからない。
 
もうっ!!…どうして動かないのっ!!!
 
このまま…ミーティングに行くわけには…いかない。
ファスナーは絶妙な位置で止まっている。
もう少しなのに…どうしても脱げない。
 
髪やマフラーで隠しても…
防護服のまま行ったら、どうしたのかと聞かれるにきまっているし。
 
乙女心には…かなりつらい問答になる。
 
イワンは…寝てるし。
ギルモア博士は…傷ついた008と005の手当で忙しい。
 
10分後、フランソワーズはついに通信を開いた。
 
「ジョー……私の部屋に来て」
 
 
 
急に立ち上がったジョーに、ジェットが首を傾げた。
「どうした?」
「…フランソワーズが、呼んでるんだ」
「…何か…あったのか?」
眉を寄せるアルベルトに、ジョーは曖昧に首を振った。
「よくわからないけど……行ってみる」
「待てよ…俺達も行く」
 
もうっ!ジョーったら…!!
どうして黙ってごまかすってことが…できないわけ?
 
「ジョー、ダメ、恥ずかしいわ…!あの…防護服のファスナーが…ファスナーがね…動かなくなっちゃったのよ…だから…」
 
「え…?」
「何だよ、急に止まるなよ、ジョー?!」
 
居間から出たところでいきなり立ち止まり、そのまま動かないジョーに、ジェットとアルベルトは顔を見合わせた。
宙の一点を見つめる茶色の瞳の前で、さんざん手をひらひらさせてみると、ジョーはようやく驚いたように振り返った。
 
「大丈夫か、ジョー?」
「…う…うん…」
「オマエ、疲れてるんだよ、やっぱり…休んでろ…フランのところには俺達が行ってやるから」
「な…!ま、待って…!大丈夫だよ…その…ちょっとぼんやりしてて…ああっ、ジェットぉっ!!」
思い切り腕を引っ張られ、引き戻されて、ジェットは眼を丸くした。
「…どうしたんだ、ジョー…?すげー顔してるぞ」
「う…っ…その…」
「なんだ?…おい、フランソワーズ…ホントはどうかしたのかよ?」
「…ちゃんと説明しろ、ジョー…あいつの…フランの『大丈夫』は、てんでアテにならねえことがあるからな…!まさか、ケガでも…?」
灰青色の眼が、普段よりいっそう鋭くジョーを見据える。
ジョーは勢いよく首を振った。
「違う…違うよ、そんなんじゃないんだ…!と、とにかく…僕一人で大丈夫…大丈夫だからっ!!」
 
まだ何か言いたそうな2人をぐいぐい居間へ押し戻し、勢いよくドアを閉めると、ジョーはほっと息をついた。
 
 
 
「ジョー…」
潤んだ青い瞳が振り返った。
声が出ない。
 
綺麗に整頓された、少女らしい部屋の中に、フランソワーズが途方に暮れた顔で立っていた。
この部屋の中で見ると…いつもにもまして、彼女にこの防護服はそぐわない…というキモチになる。だって、そうだ、そもそも彼女は僕たちと違って、生身に近い体だし、故郷にお兄さんがいるし、バレエの才能だってあって、それから優しくて…綺麗で、誰からも愛されて…だから僕も…じゃなくて、そうじゃなくて…ええと、彼女は仲間だった、ええと、大切な仲間で、それで………
 
…などなど、何とか気をそらすために、ジョーはひたすら考え続けた。
 
カチューシャをはずした亜麻色の髪が、柔らかく肩に乱れかかっている。
ほどきかけたマフラー。
防護服のベルトははずされていて。
桜色の素足が赤いズボンの裾からのぞき、絨毯を踏んでいる。
 
「あの…ジョー…見て」
 
フランソワーズはジョーに近づき、くるっと背を向けた。
止める間もなく、両手で髪をかき上げる。
 
白いうなじの下に…開きかけのファスナー。
真っ赤な防護服に、雪のような肌がまぶしく映る。
 
「う…うん…」
 
見ろったって…見ろったって、どーしろっていうんだよ、フランソワーズ…!!
 
ココロで叫ぶ。
が。
声にはならない。
 
「どうなってる…?外せそう…?」
「…う…うん…ううん…いや…ええと…」
「下ろしてみて…」
 
そ、そんなこと言ったって…
手が震えている。
震えているのがフランソワーズにバレたら…まずい。
なんだかわからないが、それはとてもマズイような気がする。
 
「ジョー…お願い…このままじゃ…」
 
涙声に、ジョーはハッと我に返った。
そ、そうだった…こんなに彼女が困ってるのに…何やってるんだ、僕は…!!
 
深呼吸する。
……よし。
 
あとは…あとは勇気だけだっ!!
 
 
 
ファスナーは…動かなかった。
 
ジョーは黙々とファスナーをいじっている。
かなり真剣らしい。
 
首筋を、彼の柔らかい前髪がくすぐる。
時折、甘くかかる息づかい。
 
や…だ…ジョー……何か言ってくれればいいのに…
…恥ずかしい。
 
頬は既に熱くなっていた。
たぶん…背中も…
もし、気づかれたら…
 
耐えきれなくなったとき、不意に彼の指先が、首筋を撫でるように軽く触れた。
 
「あんっ…!」
 
ジョーの手が…止まった。
…沈黙。
 
どう…しよう…私ったら…!
 
恥ずかしさのあまり、彼をふりほどこうとしたとき。
肩を強く押された。
前に倒れかけた上半身を、彼の腕が支えた。
 
「ア…!」
 
ジョーは片手で彼女の上半身を前屈みに固定し、もう片方の手でファスナーを押え、
金具を口にくわえた。
 
「や…いやぁ…っ…!」
 
胸は容赦なく彼の腕に押しつけられ、首筋には彼の唇が慌ただしく触れる。
思わず烈しく身を捩り、叫び声を上げかけたフランソワーズを、ジョーは強く抱きしめ、素早く耳元に囁いた。
 
「じっとしているんだ…!僕に…任せて」
 
ふっ…と全身から力が抜けた。
再び、彼の唇を感じながら、フランソワーズはきゅっと口を結んだ。
 
大丈夫だよ…
 
半ば夢の中にいるような気持ちで、彼女は吐息まじりの囁きを聞いた。
 
次の瞬間、何かを引きちぎるような鋭い音。
金具の外れる小さな音。
するっと肩から防護服が滑り落ちた。
 
「外れた…わ!」
頓狂な声に、ジョーはぎくっと腕を緩めた。
フランソワーズは、頬を染めたまま振り返ってジョーを見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「…よかった…!」
そっと防護服を引き上げ直し、両肩を隠す。
 
「……」
「ありがとう、ジョー…」
ジョーは、ぱぁっと顔を赤くして、うつむき、口籠もった。
「い、いや…その…ごめん…」
「え…?」
「その…外したんじゃなくて…壊した…みたいだ…」
 
フランソワーズはくすっと笑った。
「あ…ほんと…!フフ、そうね、はじめからそうしていればよかったのかも…」
 
それに…
彼女は、さらに頬を染めた。
 
「慌ててたのね、ジョーったら…!でも、ほんとにありがとう…」
 
大きく裂かれた背中に素早く手を回し、ブラジャーの金具を止め直すと、フランソワーズはバスルームに駆け込んだ。
 
慌ててた…って…そういうこと…だったのかな…?
その場に座り込みそうになりながら、ジョーは深い深いため息をついた。
たしかに夢中だったけど…
 
ブラの金具まで外しちゃったのは…慌てたための事故…ではなかったような気もしないでもない。
……でも。
 
フランソワーズが…そう言うんだから…それでいいか。
 
 
 
居間の扉を開けると、視線が一斉に集まった。
「…え?」
一瞬たじろぎ、ジョーはハッと時計を見た。
ミーティングの時間は…とっくに過ぎている。
 
「ご、ごめん…あ、あの…あの、フランソワーズは、その、まだ…シャワー浴びてて……」
 
いきなり顔面にクッションをぶつけられ、ジョーは眼を丸くした。
ソファでアタマを抱えているジェット。
苦虫をかみつぶしたような顔で腕組みするアルベルト。
カップを片手に、ひたすら窓の外を見つめるグレート。
クッションを投げた張々胡は、鼻を真っ赤にふくらませ、怒鳴った。
 
「余計なコト、言わないのアルよ〜〜っ!!!」
更新日時:
2001.12.02 Sun.
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Last updated: 2013/10/17