1
部屋に戻ると、急に硝煙の匂いが鼻につく。
全身にまとわりつく、戦闘の名残。
ミーティングまで、あと30分…早くしなくちゃ…
フランソワーズは、ブーツを脱ぎ、バスルームに入った。
ベルトをはずし、カチューシャを取り、軽く亜麻色の頭を振る。
髪から、埃に混じって、油と…微かに血の匂い。
唇を噛んで、マフラーをほどき、背中のファスナーに手をかけた。
「…あら?」
…まただわ。
フランソワーズは息をついた。
このごろ、ファスナーの調子がよくない。
今日も…ひどい炎の中を走ったから…微妙に歪んじゃったのかしら?
だましだまし下げようとしても、びくともしない。
それどころか、上がりもしなかった。
フランソワーズはバスタブの縁に座り込み、数分間悪戦苦闘を続けた。
どうしよう…
バレリーナだから、体は柔らかい。
常人なら、疲れてしまう姿勢も、苦にはならない…が。
10キロ先が楽勝で見える眼でも、自分の背中は見えない。
仕方なく合わせ鏡に写してみた…が。
何がどうなっているのか、どーしてもわからない。
もうっ!!…どうして動かないのっ!!!
このまま…ミーティングに行くわけには…いかない。
ファスナーは絶妙な位置で止まっている。
もう少しなのに…どうしても脱げない。
髪やマフラーで隠しても…
防護服のまま行ったら、どうしたのかと聞かれるにきまっているし。
乙女心には…かなりつらい問答になる。
イワンは…寝てるし。
ギルモア博士は…傷ついた008と005の手当で忙しい。
10分後、フランソワーズはついに通信を開いた。
「ジョー……私の部屋に来て」
2
急に立ち上がったジョーに、ジェットが首を傾げた。
「どうした?」
「…フランソワーズが、呼んでるんだ」
「…何か…あったのか?」
眉を寄せるアルベルトに、ジョーは曖昧に首を振った。
「よくわからないけど……行ってみる」
「待てよ…俺達も行く」
もうっ!ジョーったら…!!
どうして黙ってごまかすってことが…できないわけ?
「ジョー、ダメ、恥ずかしいわ…!あの…防護服のファスナーが…ファスナーがね…動かなくなっちゃったのよ…だから…」
「え…?」
「何だよ、急に止まるなよ、ジョー?!」
居間から出たところでいきなり立ち止まり、そのまま動かないジョーに、ジェットとアルベルトは顔を見合わせた。
宙の一点を見つめる茶色の瞳の前で、さんざん手をひらひらさせてみると、ジョーはようやく驚いたように振り返った。
「大丈夫か、ジョー?」
「…う…うん…」
「オマエ、疲れてるんだよ、やっぱり…休んでろ…フランのところには俺達が行ってやるから」
「な…!ま、待って…!大丈夫だよ…その…ちょっとぼんやりしてて…ああっ、ジェットぉっ!!」
思い切り腕を引っ張られ、引き戻されて、ジェットは眼を丸くした。
「…どうしたんだ、ジョー…?すげー顔してるぞ」
「う…っ…その…」
「なんだ?…おい、フランソワーズ…ホントはどうかしたのかよ?」
「…ちゃんと説明しろ、ジョー…あいつの…フランの『大丈夫』は、てんでアテにならねえことがあるからな…!まさか、ケガでも…?」
灰青色の眼が、普段よりいっそう鋭くジョーを見据える。
ジョーは勢いよく首を振った。
「違う…違うよ、そんなんじゃないんだ…!と、とにかく…僕一人で大丈夫…大丈夫だからっ!!」
まだ何か言いたそうな2人をぐいぐい居間へ押し戻し、勢いよくドアを閉めると、ジョーはほっと息をついた。
3
「ジョー…」
潤んだ青い瞳が振り返った。
声が出ない。
綺麗に整頓された、少女らしい部屋の中に、フランソワーズが途方に暮れた顔で立っていた。
この部屋の中で見ると…いつもにもまして、彼女にこの防護服はそぐわない…というキモチになる。だって、そうだ、そもそも彼女は僕たちと違って、生身に近い体だし、故郷にお兄さんがいるし、バレエの才能だってあって、それから優しくて…綺麗で、誰からも愛されて…だから僕も…じゃなくて、そうじゃなくて…ええと、彼女は仲間だった、ええと、大切な仲間で、それで………
…などなど、何とか気をそらすために、ジョーはひたすら考え続けた。
カチューシャをはずした亜麻色の髪が、柔らかく肩に乱れかかっている。
ほどきかけたマフラー。
防護服のベルトははずされていて。
桜色の素足が赤いズボンの裾からのぞき、絨毯を踏んでいる。
「あの…ジョー…見て」
フランソワーズはジョーに近づき、くるっと背を向けた。
止める間もなく、両手で髪をかき上げる。
白いうなじの下に…開きかけのファスナー。
真っ赤な防護服に、雪のような肌がまぶしく映る。
「う…うん…」
見ろったって…見ろったって、どーしろっていうんだよ、フランソワーズ…!!
ココロで叫ぶ。
が。
声にはならない。
「どうなってる…?外せそう…?」
「…う…うん…ううん…いや…ええと…」
「下ろしてみて…」
そ、そんなこと言ったって…
手が震えている。
震えているのがフランソワーズにバレたら…まずい。
なんだかわからないが、それはとてもマズイような気がする。
「ジョー…お願い…このままじゃ…」
涙声に、ジョーはハッと我に返った。
そ、そうだった…こんなに彼女が困ってるのに…何やってるんだ、僕は…!!
深呼吸する。
……よし。
あとは…あとは勇気だけだっ!!
4
ファスナーは…動かなかった。
ジョーは黙々とファスナーをいじっている。
かなり真剣らしい。
首筋を、彼の柔らかい前髪がくすぐる。
時折、甘くかかる息づかい。
や…だ…ジョー……何か言ってくれればいいのに…
…恥ずかしい。
頬は既に熱くなっていた。
たぶん…背中も…
もし、気づかれたら…
耐えきれなくなったとき、不意に彼の指先が、首筋を撫でるように軽く触れた。
「あんっ…!」
ジョーの手が…止まった。
…沈黙。
どう…しよう…私ったら…!
恥ずかしさのあまり、彼をふりほどこうとしたとき。
肩を強く押された。
前に倒れかけた上半身を、彼の腕が支えた。
「ア…!」
ジョーは片手で彼女の上半身を前屈みに固定し、もう片方の手でファスナーを押え、
金具を口にくわえた。
「や…いやぁ…っ…!」
胸は容赦なく彼の腕に押しつけられ、首筋には彼の唇が慌ただしく触れる。
思わず烈しく身を捩り、叫び声を上げかけたフランソワーズを、ジョーは強く抱きしめ、素早く耳元に囁いた。
「じっとしているんだ…!僕に…任せて」
ふっ…と全身から力が抜けた。
再び、彼の唇を感じながら、フランソワーズはきゅっと口を結んだ。
大丈夫だよ…
半ば夢の中にいるような気持ちで、彼女は吐息まじりの囁きを聞いた。
次の瞬間、何かを引きちぎるような鋭い音。
金具の外れる小さな音。
するっと肩から防護服が滑り落ちた。
「外れた…わ!」
頓狂な声に、ジョーはぎくっと腕を緩めた。
フランソワーズは、頬を染めたまま振り返ってジョーを見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「…よかった…!」
そっと防護服を引き上げ直し、両肩を隠す。
「……」
「ありがとう、ジョー…」
ジョーは、ぱぁっと顔を赤くして、うつむき、口籠もった。
「い、いや…その…ごめん…」
「え…?」
「その…外したんじゃなくて…壊した…みたいだ…」
フランソワーズはくすっと笑った。
「あ…ほんと…!フフ、そうね、はじめからそうしていればよかったのかも…」
それに…
彼女は、さらに頬を染めた。
「慌ててたのね、ジョーったら…!でも、ほんとにありがとう…」
大きく裂かれた背中に素早く手を回し、ブラジャーの金具を止め直すと、フランソワーズはバスルームに駆け込んだ。
慌ててた…って…そういうこと…だったのかな…?
その場に座り込みそうになりながら、ジョーは深い深いため息をついた。
たしかに夢中だったけど…
ブラの金具まで外しちゃったのは…慌てたための事故…ではなかったような気もしないでもない。
……でも。
フランソワーズが…そう言うんだから…それでいいか。
居間の扉を開けると、視線が一斉に集まった。
「…え?」
一瞬たじろぎ、ジョーはハッと時計を見た。
ミーティングの時間は…とっくに過ぎている。
「ご、ごめん…あ、あの…あの、フランソワーズは、その、まだ…シャワー浴びてて……」
いきなり顔面にクッションをぶつけられ、ジョーは眼を丸くした。
ソファでアタマを抱えているジェット。
苦虫をかみつぶしたような顔で腕組みするアルベルト。
カップを片手に、ひたすら窓の外を見つめるグレート。
クッションを投げた張々胡は、鼻を真っ赤にふくらませ、怒鳴った。
「余計なコト、言わないのアルよ〜〜っ!!!」
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