たそがれは森よりわれを追ふごとし君と踏むべき街の灯のため
与謝野晶子
1
夕暮れが怖いと初めて思ったのはいつだったかしら。思い出せない。
そのとき…私の隣には兄さんがいたような気がする。
兄さんが私の手を握って、ぐいぐいひっぱってくれて…
べそをかきながら、私は一生懸命家へと走った。
夕暮れがどうして怖いのか、教えてくれたのはジェロニモだった。
夕暮れはヒトの時間の終わり。
ヒトではないものの時間の始まり。
ヒトが近づいてはならない、近づくことができない世界がすぐ傍らで口を開けている。
それを感じてしまうから…
だから、夕暮れは恐ろしい。
夕暮れが怖くなったら、ヒトの世界を強く感じればいい。
自分を、この世界につないでくれる、大事な人を。
だから、私は…こんなにあなたたちが大切なのね。
わかったような気がした。
ヒトであってヒトではない。
そんな、私たちだから。
2
何度も走り抜けた。
暗い森を。果てない闇を。
私が闇の終わりを見つけ出すのだと。
みんな私を頼りに走っているのだと。
いつもあなたは真面目な目で言うけれど。
でも、それは違うわ、ジョー。
あなたの目がまっすぐに前を見ているから。
何も恐れず見据えているから。
だから、私も見ることができる。
暗い森がどこまでも続くその暗さを。
重く限りない闇のその果てを。
もしあなたの背中が私の前になかったら。
私は…何も見ることができないかもしれない。
顔を上げることさえできないかもしれない。
闇はそれほど暗く、深く…恐ろしい。
3
本当に、いろんな夜を駆け抜けてきたわね、私たち。
ただ暗くて…寒くて、悲しいばかりの夜。
でも、私は知っているわ。
夜は灯りをともしてくれるの。
灯りの下で、ヒトは自分がヒトであることを知るのよ。
大事な人たちと一緒に。
あなたには、それがわからない。
あなたはいつも夜の中で一人だった。
あなたのための灯りはどこにもなかった。
それは…
どれほど悲しいことかしら。
どれほどつらい、恐ろしいことかしら。
私には、それがわからない。
これからもきっと。
あなたのために、あなただけの灯りを用意してあげることは…きっと私にはできないわ。
誰にもできないのかもしれないし。
誰かができるのかもしれないし。
でも、私には…できない。
それはわかってるの。
だから、ジョー。
今日は私と一緒に私の灯りを見てちょうだい。
大丈夫。
私が手を引いてあげるから。
兄さんがそうしてくれたように。
4
急がなくちゃ。
黄昏が濃くなってくる。
私には、もう見える、宝石箱のような街の灯り。
見てちょうだい、ジョー。
これが、パリよ。
これが、私の灯り。
私を優しく包んでくれる故郷。
世界で一番美しい光の都。
夜が街に灯りをともす。
街中があなたを歓迎しているわ。
それなのに…あなたはうつむいて立っているのね。
光の流れる広場で。ひとりぼっちで。
こっそりポケットに手を入れて、まるでお守りに触れるように確かめている。
綺麗なリボンを結んだ小さな包み。
…中は、見ない約束。
顔を上げて、ジョー。
光の洪水があなたを包んでいるのに。
あなたもこんなに輝いているのに。
黄昏が私を急がせる。
早く…早く行かなくちゃ。
夜が生まれる瞬間を。
温かい灯りがあなたを包む瞬間を、見せてあげたいの。
大丈夫。
今夜、この灯りはあなたのもの。
私が手を引いてあげるわ。
一緒に歩きましょう、美しい街を。
眩しい光の中を。
この日のため、遠く海を越えてくれたあなたと。
今夜だけ、無邪気な子供のように。
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