春宵一刻値千金 花有清香月有陰
歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈
(「春夜」 蘇軾)
1
珍しいよな。
君が、こんな…
よっぽど疲れていたんだろう。
そう思った。
…ってことは。
こない方がよかったのかな。
こんなところで居眠りするより、ベッドでゆっくり眠った方がいいのかも。
早く起こしてあげた方がいいよな。
それで、早く…家に帰って。
でも…
ごめんよ、フランソワーズ。
2
「きれいな月…!」
座るなり、辺りをぐるっと見回して、上を見て、君は嬉しそうに言った。
ぼんやり黄色くかすんだ月。
春の、月だね…何ていうんだっけ、こういう月…たしか…
口の中でもごもご言っていると…
花の香りがした。
…何の花だろう?
広い公園の野外ステージ。
桜は終わったけど、いろんな花があちこちで咲いている。
少しずつ濃くなってくる夕闇。
しばらく月を見上げていた君が、
こんどは前に眼をやって…くすっと笑った。
…ブランコだ。
乗っているのは小さい女の子。男の子が後ろから押して揺らしてやっている。
一生懸命に。
「きょうだいだわ、きっと」
君は囁くように言う。
僕は黙ってうなずいた。
君も…ああやって遊んだの?
聞いてみたかったけど、やめた。
君がああやって遊んだことは、知っている。
君は、いつも笑いながらブランコの上にいたんだろう。
優しい人たちに包まれて。
でも、それを思い出したとき。
君は楽しそうに微笑むだろうか。
それとも…寂しそうにうつむくだろうか。
僕には…わからなかったから。
聞いてみるかわりに、君の肩を抱いた。
君は驚いたように僕を見上げて…また笑った。
やがて、音楽が始まった。
君は瞬きもしないでステージに見入っていた。
仄かな月光。
いい匂いのする風。
腕に伝わる、柔らかいぬくもり。
僕は…そっと眼を閉じた。
3
眠ってしまっていた。
眼を開けたとき、辺りはひっそりしていて、僕は慌てた。
フランソワーズ…?
あやうく声を飲み込んだ。
君も…眠っている。
僕の肩にもたれて。
珍しいよな。
君が、こんな…
疲れて…いたのかな。
音楽はとっくにやんで、ステージはしん、としていた。
もちろん、誰もいない。
公園にも…人の気配はない。
あんなに大勢集まっていたのに…
みんな、どこに行ってしまったんだろう?
…というか。
よく寝ちゃったね。
僕たち二人とも。
起こしてあげた方がいいのかな。
そうだよな。
早く帰って、君を寝かせてあげなくちゃ。
…でも。
淡い月の光。
花の匂い。
…何の花だろう…?
君を起こして、聞いてみようか。
そうして、一緒に月を眺めて、風を感じて…
それとも。
もう少し、このままでいようか。
君の髪が優しく僕の頬をくすぐっている。
甘い匂いは…君の匂いかもしれない。
フランソワーズ。
ほんとにきれいな夜だよ。
いつまでも、しまっておきたいような春の夜。
ブランコには…もう誰も乗っていない。
君が目覚めたら、あのブランコに乗せてあげる。
この風のようにそっと…そっと揺らしてあげるから。
黄色い淡い春の月。
こういう月…何ていうんだっけ?
清らかな花の香り。
何の…花だろう?
君を起こして、聞いてみようか。
それとも、もう少しこのままでいようか。
どうしても決められない。
ごめんよ、フランソワーズ。
いつまでも、しまっておきたいような春の夜。
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