幾夜経て後か忘れむ散りぬべき野辺の秋萩みがく月夜を
清原深養父
1
彼女が、きれいな女の子だということは知っていた。
そんなことは、一目見ればわかることだ。
彼女は、芯の強いしっかり者で。
心優しく、明朗で賢明だ。
一緒にいれば、誰だってそう思うだろう。
003。
優しく賢くうるわしい、かけがえのない仲間。
もし、僕がごくフツウの男として、大勢の女の子の中にいる彼女を見つけていたら、きっと、息がつまるような憧れに1秒たりとも平静ではいられなかっただろう。
もちろん、自分が近づくことができるなんて夢にも思わず。
でも、彼女は003で、僕の…僕たちの仲間であることをあらかじめ運命づけられていて。
だから、僕は彼女に心を乱されることがない。
どんなに美しくても、月が月であるように。
どんなに慕わしくても、花が花であるように。
僕は、彼女の美しさが僕の体の隅々までに行き渡るのを感じながら、それにおぼれることはない。
彼女は、朝の空であり、輝く陽光であり、新鮮な風であって。
僕は、彼女を眺め、感じ、呼吸する。
そこには、静かな感謝がある。
祈りに近い気持ちがある。
でも、激情はない。
僕の003。
ひそかにそうつぶやくとき、僕は恋の苦しさや切ない喜びから最も離れた場所にいて、そして幸福なのだ。
もし彼女がサイボーグでなかったら、僕のこんな幸福は儚く吹き消されただろう。
誰かが火のような烈しさで僕を斥け、すみやかに彼女を奪っていったはずだから。
でも、そんな風に彼女をさらっていく男はいない。
たぶん、いない。
もしいるなら、そいつもきっとサイボーグだ。
それなら、僕は戦える。
戦えるなら、負けはしない。
003。
君を感じるとき、僕の心はいつも凪いでいる。
静かな安らぎに満たされて、僕はいつもまどろんでいるようだ。
あの夜さえ、思い出さなければ。
冴え冴えと月は照り、風は澄み、君は僕の腕にいた。
つめたく白い宝玉のように。
2
「私、忘れないわ」
僕の腕の中で、彼女は小さな小さな声で言った。
「…何を?」
とにかく、しゃべれるなら、しゃべってくれた方がいい。
会話は苦手だとか言っている場合ではない。
僕は一生懸命に彼女をのぞき込んだ。
「すごく、きれいだった」
「…何が?」
「ジョーは…見なかったの?」
不意に名前を呼ばれて、僕は鋭い痛みに胸を貫かれた。
戦いは、まだ終わっていないのに。
落ち着いた声を出すために、僕は全身全霊を傾けなければならなかった。
「きれいなものなんか…あったかな。君は何を見たの、003?」
空気が柔らかく震える気配があった。
彼女が、笑ったのだ。
なんだかたまらなくなって、僕は彼女を抱き寄せた。
なるべく、そうっと。
「教えて、あげない」
「ずるいよ」
「ずるくないわ」
「…003」
「あのね、それならヒントだけ」
「うん」
「さっき…」
「うん」
彼女はちょっと息を整えるようにコトバを切った。
しゃべりすぎるのもいけないのだろうか。
ふと迷ったとき。
「さっき、あなたに呼ばれて…振り返ったとき」
「003…?」
「花が…たくさん咲いていたの」
「……」
「白い、小さい花よ…」
僕はぎゅっと彼女の手を握った。
それ以上聞くのがなんだか恐ろしかった。
彼女は、そんな僕をいたわるように見た。
でも、話をやめようとしなかった。
「今日は…満月だったのね…月の光が…星…みたいに…小さい、花を照らし…て」
「フランソワーズ!」
叫んでから、僕はハッと息を呑んだ。
呼んでしまった。
後悔が押し寄せてくる。
それなのに、彼女は嬉しそうに微笑するのだ。
「名前…呼んでくれた…」
「しっかり…!しっかりしてくれ、003!」
もう、なりふりかまってはいられなかった。
僕は取り乱し、それきりものを言わなくなった彼女をむやみに抱きしめ、喚いた。
月の光には気付いていた。
白く白く彼女の頬を照らすのがイヤだった。
見ないようにしていたのに。
気付かないようにしていたのに。
花、なんて。
見たわけないだろう。
僕が見たのは、月の光の中で撃ち抜かれ、倒れる君の姿。
それだけが、僕の現実。
はらってもはらっても逃れられない。
それなのに君はそんな僕の腕の中で、月が美しかったと、花が咲いていたと、星のようだったと微笑むのだ。
君の心は、既にその清浄な地にあるかのように。
僕一人をこの戦場に置き去りにして。
そんなことは、させない!
いくらそう叫ぼうが泣こうが、何の役にも立ちはしないのだ。
けれど、僕にはそのとき、運があった。
傷つき、動けずにいた僕たちを、敵より前に仲間が発見してくれた。
瀕死の状態だった彼女は速やかにギルモア博士と001の治療を受け、奇跡的に命をとりとめたのだった。
3
彼女が見たというその風景を、時々想像してみる。
僕に、それを見ることはきっとできないだろうと思いながら。
もちろん、想像はできない。
でも…
ほんの時折、彼女の奥に、それを見ることがある…ような気もするのだ。
柔らかないつもの笑顔に。
風にそよぐ髪に。
僕を呼ぶ声に。
どこまでも清浄な銀の光が、小さい花につめたく宿る、美しい月夜。
でも、それは一瞬の幻にすぎない。
君は忘れないと言ったけれど、僕は忘れる。
きっと忘れるだろう。
戦いに明け暮れ血に染まる日々の中で、いつか跡形もなく。
いいかい、フランソワーズ。
僕たちはそうやって生きていくんだ。
ああ、でも、君はなんて美しかったろう…!
月の光に沈んだ、小さくてつめたくてどこまでも白い宝玉の君。
狂おしいまでに切なく愛しい君。
それでも…
それでも、僕は忘れるだろう。
フランソワーズ、僕は、忘れる。
僕は優しく賢くうるわしい003の手を取り、戦場を駆ける。
戦い続ける。いつまでも。
いつまでも君とともにいるために、僕は忘れる。
忘れようと、するだろう。
儚く美しいフランソワーズを。
決して僕のものにならないフランソワーズを。
僕の心を乱し、絶望に突き落とすフランソワーズを。
でも。
忘れても、忘れても…君はきっとそこにいる。
僕の優しい003。
その一番奥に、君はいる。
今も、つめたく美しくたたずんでいる。
月の光を集め、銀の雫のようにひそやかに。
|