わたしは何を得ることであらう
わたしは必ず愛を得るであらう
その白いむねをつかんで
わたしは永い間語るであらう
どんなに永い間寂しかつたかといふことを
しづかに物語り感動するであらう
室生犀星「愛あるところに」(『愛の詩集』より)
1
「そういうの、好きだぜ、アイツ」
「…え?」
振り返ると、ジェットが生真面目な目でじっと見ている。
僕は、何気なく手にとった小さいガラスの靴に目を落とした。
アイツって…彼女のことだよな、もちろん。
黙って棚に戻す。
「買わないのか?」
「…お土産なら、もっと使えそうなものがいいよね」
「はぁ…?」
なんなんだオマエ、ちっとも変ってねえな、いいか、女ってのはな。
機関銃のようにまくしたてるジェットにこっそり苦笑し、ぶらぶら店の中を歩いた。
使えそうなもの、といっても、実はよくわからない。
彼女が、今どんな暮らしをしているのか、僕はほとんど知らない。
ジェットが研究所を出てから、約八ヶ月。
フランソワーズが研究所を出てからは、半年になる。
烈しい闘いで、九死に一生を得てから、ほぼ一年たっていた。
長かったような、短かったような。
「オマエ、ホントに大丈夫なのか?」
「…何が?」
「会えるのかよ、アイツに?」
「うん…一日だけね。休暇がうまく合わなかったんだ。でも、会えることは会えるよ。間違いなく。」
「…そうじゃなくて…キモチのことを言ってるんだよ、オレは!」
…キモチ。
「半年もロクに音沙汰なしでよ…第一、どうしてアイツ、パリに帰ったんだ?」
「それは…わからないけど。でも、毎日楽しいって言ってたよ」
「いつ?」
「一昨日電話くれたとき…元気そうな声だった」
「ふゥん…?」
どうして帰りたかったのか…は、わからない。
でも、彼女は帰りたがっていた。それはハッキリわかった。
結構、周囲には心配をかけたらしい。
コズミ博士までが「何かあったのかね?」と聞いてくれた。
何かあったのかどうか、それもわからない。
ただ、彼女がパリに帰りたがっていて…一人で暮らしたがっていることだけはわかったから…
僕たちは離れて暮らすことにした。
…というか。
他に選択肢がなかった。
僕も、新しい仕事が決まっていたし。
2
彼は、変った。
全てを背負って闘い、そして死の淵から帰ってきたのだから…変らない方がおかしいのかもしれない。
長い長い昏睡状態から目覚めた彼は、ひどく不思議そうに私を見つめて…それから微かに笑った。
後で、どうして笑ったのか聞いてみたけれど…覚えていないよ、と困惑していた。
それもそうね。
笑ってくれて、よかったと思うけど。
初めて、おかしいと思ったのは、彼が歩けるようになって、一緒に海岸を散歩したとき。
不意に、彼の手が私の背中に触れた。
驚く私に、彼は微笑んで、ちょっと足元がふらつく気がする、と言って。
慌てて博士のところへ行ってチェックしてもらったのだけど…
そう。
彼なら…今までのジョーなら、少し足元がふらついたぐらいで、不調を口にしたりはしなかった。
辛抱強い…といえばそうなのだけど、それでは困る、とよく博士に叱られていた。
九死に一生を得て、自分を大事にすることを覚えたのかもしれない…と漠然と思った。
それなら、それほど不思議ではないのだけど…でも、それだけではなくて。
何がどう、と説明することはできない。
でも…彼は変った。
笑顔も、何気ない仕草も、眼差しも…前とは違う。
それがイヤだというわけではなくて。
いいえ、むしろ……。
…でも。
何かが変った彼の傍らで、私も少しずつ変ったように思う。
なんだか…肩の荷が下りたような気がした。
肩の荷ってなんだろう、と思うと、それもわからないのだけど。
ある朝、食堂に降りてきた彼が、「おはよう」と微笑んだときだった。
明るい赤褐色の目に、思わず釘付けになった、そのとき。
私の中に、さっと眩しい光が差し込んだ。
突然思った。
パリに、帰ろう。
帰りたい。
…と。
3
…どこに、落ちたい?
遠い囁きに、僕はぼんやり目を開いた。
腕時計に目を落とす。
…パリ到着まで、あと、3時間。
どこに落ちたい、なんて。
こんなところで、縁起でもないよな。
そう思うと、なんだかおかしくなった。
僕は、どこに落ちたかったのだろう。
時々考える。
あのときは、わからなかった。
ただ、全てをやり遂げたという不思議な開放感だけがあった。
ジェットが僕のために命を落とそうとしている…という痛みも、体が溶け始めたあのとき、どこかに消えた。
これでいい。
僕は、それだけ思って目を閉じた。
後で、ジェットにからかわれた。
オマエ、ほんとはアイツのところに落ちたい、と思っていただろう?
あのとき、返事をしなかったのが何よりの証拠だ、と。
例によって、わかるようなわからないような理屈を言い、彼は笑った。
でも、本当のところ、最後に彼女を想って目を閉じたのは…僕よりジェットの方だったんじゃないかと思う。
彼はそう言われるのを望んでいないけど。
きっと、死ぬまで。
僕は、どこに落ちてもいいと思った。
全てをやり遂げ、何も望むものはなかった。
僕は、ジェットの体をもう一度抱きしめ、静かに目を閉じた。
次に目を開けたとき。
きれいな碧の瞳が僕を一心に見つめていた。
この人は、だれだろう…とぼんやり思った。
そして、だれでもいい、とも思った。
それは、どうでもいいことだと思ったんだ。
僕は、その透明な碧をただ見つめていた。
そうしていれば、大丈夫だという気がして。
…やがて。
空気が微かに震えた。
「ジョー」とよぶ声が聞こえた。
…僕は、僕を思い出した。
結局、僕が選んだ「お土産」はそれほど実用的なものではなかった。
僕がそれを手に取り、店員に渡すのを見て、ジェットは何か言おうとした。
口を開き…すぐ噤んで。
いきなり僕の背中を思い切り叩いた。
かなり、痛かった。
4
彼は、不意に跳ね起きると、ガウンをひっかけて…さっき脱ぎ捨てた服を拾い、何か探り始めた。
「…どうしたの、ジョー?」
「うん…キミに、渡す物があったんだ…ええと…これだ!」
体を起こした私にふわっともう一つのガウンを投げてから、彼はベッドに腰掛け、小さい包みを差し出した。
「…はい。開けてみて。」
「なあに…?」
「いいから、早く…!あ。ちょっと待って、目は…」
「使わないわよ…いやね、ジョーったら。」
「…ごめん。」
細いリボンをほどいて、包み紙をといて、箱を開けて…そのまま黙っている私に、彼は心配そうに言った。
「あの…」
「…え?」
「それ…ホンモノじゃ、なくて…」
「…ホンモノ?」
「クリスタルガラスなんだって…だから、その…」
「…ジョー?」
「ダイヤじゃ、ないんだけど…」
私はあっけにとられて、うつむく彼を見つめた。
…笑いがこみ上げてきた。
「な、なんだよ…何がおかしいんだ、フランソワーズ?」
「…う、ううん…ごめんなさい…だって…当り前じゃない、これが全部ダイヤモンドだったら…スゴイ値段のはずよ。」
「…やっぱり…おかしかったかな。」
「そんなことないわ…嬉しい…ありがとう、ジョー。」
「…フランソワーズ。」
「ホントよ…ごめんなさい…なんだか、びっくりしてしまったの…きれいね…とっても。」
本当に…私は、ただ驚いていた。
小さなクリスタルガラスをちりばめたイヤリング。
星を集めたようにきらきら光って。
手の中で踊る光に見入っていた私を、彼の声が引き戻した。
「つけてみてよ…似合うと、いいけど。」
「…ええ……あら?」
「…どうした?」
「あら…?やだ…ええ、と…」
留め金のネジをくるくる回して、緩めて…なのに、イヤリングは台から外れない。
彼がひょいっと私の手元を覗き込んだ。
「おかしいわ…これ以上緩めたら…」
「こう、するんじゃないの?」
彼がぐい、と金具を押し広げたので、私は危うく声を上げそうになった。
「ほら。ここで、はさむんだよ…バネみたいになってる。」
「…ホント。」
私は、ぼんやり彼からイヤリングを受け取った。
「よくできてるのねえ…」
ちょっと恥ずかしくなって、笑った。
不思議そうに見ている彼に説明する。
「こういうの見たの…初めて。昔はね、こんな具合のいい金具、なかったのよ。」
「…フランソワーズ?」
そうだわ。そうよ。
…と、いうことは…つまり。
彼は少し戸惑うような目をしている。
なるべく明るく聞こえるようにと、心に願いながら言った。
「あれから、イヤリングを買ったことなんてなかったのね、私…本当に嬉しいわ、ジョー…ありがとう。」
彼は黙って私を抱きしめた。
5
君に、話したいことがあった。
いっぱい、あったと思う。
日本で、僕は君の夢ばかり見ていたような気がする。
君に…君だけに話したいことを数えていたような気がする。
僕は、寂しかった。
会えないのは仕方がないことだとわかっていても、寂しかった。
…でも。
こうして望みどおり君を抱いているのに。
君は全てを受け入れる眼差しで、僕を見つめてくれるのに。
君に話したいと思っていたことを、僕は忘れてしまった。
ほんとに、忘れてしまった。
全部、夢のようだ。
今君と抱き合っていることも。
明日、また離ればなれになることも。
「…やっぱり、思い出せない。」
つぶやくと、君はくすくす笑った。
「おかしなジョー…ね、もう…休みましょう…だって、明日は…」
「もう少し…もう少し待ってよ…思い出すから…!」
「忘れるってことは、重要な話じゃない…ってことでしょう…?」
「そんなことない…大事なことだよ…すごく、大事な…」
君は僕を軽く抑えて…言った。
「それじゃ…ね。あなたが、思い出したときに聞いてあげる…だから…」
「だめだよ…!明日は、もう…帰らなくちゃいけないのに…」
「大丈夫…いつでも、聞いてあげるわ…どこにいても。」
「…フランソワーズ…?」
「本当よ、ジョー…」
優しい、優しい声だった。
やがて、君の細い指が僕の髪に静かに入り込み、僕を甘い眠りへと誘う。
逆らうことなんて、できはしない。
わかっていて、僕はもう一度だけ抵抗してみる。
「ずるいよ…君は、早起きしたいだけなんだ…僕は…パリ見物なんて…いいのに……」
「…ダメ。明日は、お買い物に付き合ってもらうんだから」
「…え?」
「このイヤリングに合う服を探さなくちゃ…」
もう、君の声は遠ざかり始めている。
楽しそうにくすくす笑う声が僕の耳を微かにくすぐった。
眠りに落ちる瞬間。
君の手を握りしめた。
離れてしまわないように。
目が覚めて…思い出したら。
君に話したかったことを思い出したら。
すぐ、君をつかまえて…全部話すことができるように。
6
本当は、私も彼と同じ。言えなかった。
言いたいことがあんなに心に溢れていたのに。
口にしようとする片端から、言葉は泡のように消えてしまって。
私たちは、結局朝寝坊して…買い物はできなかった。
彼の飛行機が見えなくなるまで見送ってから、私は空港を後にした。
それから、夕暮れまで…
泣きたいくらい優しい故郷の街で、彼が集めてくれた星の光を頼りに、私は私を探して歩いた。
もう、とっくに失われていたはずの私を。
失われていたことにさえ気づかなかった、私を。
君は、なんでも似合うよ…どんな服だって素敵だよ、と彼は真面目に言ってくれた。
でも…でもね、違うのよ、ジョー。
なんて長い間、忘れていたんだろう。
私は、003ではなくて。フランソワーズ・アルヌールでもなくて。
ただ、私だったのに。
あの頃、私はいつも私に話しかけていた。
レッスン室の鏡の前で。
お気に入りのショーウィンドウの前で。
あのとき…私から全てを奪った悪魔は、私から私も奪っていった。
私は、003になった。
フランソワーズ・アルヌールになった。
そうならなければいけなかった。
戦士になり、仲間になり、友人になり、妹になり、娘になり、母になった。
望まれるまま…それを望んでくれる人の心のまま。
望まれることは…嬉しいことだったから。
私は私を亡くしたままで、亡くしたことにも気づかずに、闇の中に座っていたんだわ。
そこが闇であることにさえ気づかずに。
彼がくれた星の光は、ささやかで…でも、強い。
この光が私の中で消えることは、きっとない。
私は私を探しにいくの。
あなたがくれた星の光をかざして。
本当は、もう私なんてどこにもいないのかもしれないけれど。
あのとき、奪われて…消えてしまったのかもしれないけれど。
でも。
それなら、私はもう一度生まれよう。
あなたがくれた、星の光を浴びて。
私がただ私であることだけを望んでくれた、世界でたった一人のあなた。
ああ、ほら…
やっぱり、言葉は消えてしまう。
あなたに話したいことがこんなにあるのに。
こんなに、心に溢れているのに。
いつか…いつか聞いてくれるわね、ジョー。
そのときがきたら。
あなたは、いつでも、私の言葉を受け止めてくれるわね。
7
僕は、どうして生まれたんだろう?
なぜ、生まれてしまったんだろう?
いつも、そのことを考えていた。
考えていた…ということを微かに覚えている。
一度だけ、彼女の前でそれを口にしたことがあった。
彼女は、黙って僕を抱き寄せて…そのまま僕の背中を撫で続けた。
僕は、いつも探していた。
僕が、この世に生まれたわけを。
理由が、あるはずだと思った。
僕には、なすべきことがあって、それをなすために生まれてきたのだと、いつも思っていた。
あのとき。
僕は、それを果たした。
全てやり終えた。なすべきことを。
…そう思った。
僕は僕の役目の全てを果たし、落ちていった。
だから、どこに落ちてもよかったんだ。
そして、僕は目覚めた。
僕は、どうして生まれたんだろう?
なぜ、生まれてしまったんだろう?
そう自分に問わなくなったことに気づいたのは、ずいぶんたってからだった。
いつのまにか僕の心から、その問いが消えていた。
答がわかったから…ではない。
どうして生まれたかなんて、きっと誰にもわからない。
わからないけど、みんな生きているんだ。
ただそれだけのことに、不意に気づいた。
気づいたとき。
たった一人で広い荒野に立っているような、そんな気がした。
誰も、僕に何も望まない。
誰も、僕を支えない。
僕が支えるべき人も、どこにもいない。
僕には、この世でやるべきことなんて、何一つなかったんだ。
でも、僕はこうして立っている。
たった一人で、それでも歩いている。
君がくれた、あの星を目印にして。
あの日、目覚めたとき。
僕が僕であることを教えてくれた、碧の星。
フランソワーズ。
僕は、どうしようもないくらい一人だよ。
あんなに怖がっていた一人きりの世界に、僕はこうやって立っている。
当り前のようにして。
だって、当り前なんだ。それだけのことだったんだから。
いつか、君に話したい。
君を思いきり抱きしめて、そして全部話してしまおう。
君はいつでも聞いてくれる、と言ったね。
どんなに遠く離れていても。
僕が思い出したら、すぐに聞いてくれると。
本当に、君はそうしてくれると思う。
だから、いつかきっと、話すよ。
君にしか話せない、ただ一度きりの話を。
帰り着いた僕を迎えるように、電話が鳴った。
あのイヤリングにぴったりの服を見つけた、と君が弾む声で告げる。
それなら、また、会えるね。
今度は、きっと話すよ。
全部思い出して、そうして話してしまうんだ。
全部思い出して、全部話し終わるまで、君を抱いていたい。
どれだけ時間がかかっても、ずっと離さない。
そのときはくる。きっとくる。
それまで、僕はここから君を見つめ続けよう。
君がくれたあの星を目指して、一人で歩き続けよう。
いつか、きっと。
そのときがくるまで。
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