やっぱり何となく気になってしまう複葉機(笑)
というわけで
「共同幻想論」…っていっても…古いし、自分でもわかってないのに〜(汗)って感じだったりするが。
とにかくやってみる…が。
久しぶりに読んだら…うう。
何がなんだか、さっぱりわからないよ〜!(涙)
この年の瀬に何やってるんだ私…(大汗)←年明けました。どっちにしろ、何やってんだか…
一応、テーマは…「なぜジョーくんに複葉機が見えたか」である。(笑)
彼の目に、フランソワーズと同時に、複葉機が見えたことは、事実として間違いない。「あの複葉機が…」って言ってるので。
「複葉機の正体」について考えると、まず大きく二つに分かれる。
1 複葉機は、実際に飛んでいた。
2 複葉機は、実際には飛んでいなかった。
「実際に飛んでいた」というコトはつまりどういうコトなのか…を厳密に言おうとすると、ものすごくややこしくなるのでやめる。
素朴に、「あの場にいたヒトなら、ダレでも、とりあえず『飛行機』が飛んでいるのを確認したはず」ということだと考えることにする。
複葉機は、中空に消えた…ように見える。
このヘンは、不問とする。
ってのは、演出上の問題である可能性…えっと、ホントは二人とも、「複葉機が消えた」とは思ってなくて、「遠ざかって見えなくなった」だけなのを、ドラマティックにするために、ああ表現した、みたいなコト…も否定できないので、考えてたらキリがないし。
で。
1の場合。
ケースは、更に二つに分かれる。
1のa
飛んでいた飛行機は、本当に、あのカタチのあの複葉機だった。
1のb
飛んでいた飛行機は、複葉機ではなかった。たまたま通りかかった(笑)飛行機。
ごちゃごちゃ言ってるが、実は、どれでも結局同じ…なのかもしれない。
というのは、問題は、視聴者…私たちがそのどれを信じるか…というか、どれに納得するか、ということだったりするのである。
1のaが一番受け入れやすいだろう。
クリスマスイベントみたいな目的で、レトロな複葉機が飛んでいた。
それを、フランソワーズが勝手に兄ちゃんだと思いこんだ。
で、ジョーくんは、フランソワーズを何の手がかりもないまま捜しているとき、見慣れない飛行機が飛んでたので、勝手に怪しいかもしれないと思いこんで、それを追っかけた…ら、それがたまたまフランソワーズのいる教会のあたりをアクロバット飛行コースに選んでいた。
ジョーくんには、「あれが兄ちゃんだ」とまではわからなかったはずだ。
彼は彼なりに、フランソワーズの涙を見て、「古い飛行機を見て、何か、昔のことを思い出しているんだろうな〜」と想像している…のがせいぜいだろう。
「あの複葉機がこの場所を教えてくれた」ってのは、ジョーくんの感想として、たいへんまっとうである。ちょっとロマンティックにすぎる言い方だけど、ジョーくんだし、しょうがない。(笑)
それを聞いて、フランソワーズは、勝手に「お兄ちゃんがジョーを連れてきてくれた」と思ったかもしれない。
これが、一番理屈にあう…というより、私たちには理解しやすい。
おかしいコトも何もない。
いや、あるかも。(笑)
そんな「偶然」があるのかっ?
…っていう疑問が生じる。
あるのだ。(断言)
そういうコトが起きたって、私たちに文句をいう筋合いはない。
…って、言われても…なんか納得いかないし、納得したいし…第一、それじゃつまんないじゃないかっ!何よ、それっ???(怒)
難儀だが、私たちって、そうなのかも。
あり得ないコトだけど、起きちゃったんだから、ありのままに受け取ればいいよな(笑)
でも、そうできないヒトは多い。私もだ。(笑)
すると、もともとは、単純に作中人物フランソワーズの個人的な幻想にすぎなかった…はずの幻想が、いつのまにか私たちの幻想とむすびついていくことになる。
でも、そういう現象を引き起こすことに、「物語」の存在意義がある…と私は思う。
ちなみに…1のbとか、2とかは…フランソワーズの幻想と私たちの幻想がどう結びついていくか…というバリエーションにすぎない…って気がする。単に、程度の違いというか。
私の感覚だと、起きたことは1のaだと考えて、それがどのように物語の中で意味づけされていくのか…と解釈していく、くらいのレベルが一番落ち着く。
たとえば…
墓場で写真を撮る。(とるなよ〜)
できた写真を見たら…木の葉の重なり具合の加減が…どう見てもヒトの顔に見えてしまう。
これは、どういうことか。
どういうことか…って。
それは、木の葉がそういう風に写った…って、それだけのことだ。
でも、そう納得できないヒトは多い。
もちろん、たまたま木の葉がそういう風に写ったのである。
でも、なぜ、たまたまそんなことが起きたのか?
たまたま…じゃないんじゃないのか???
…そんなふうに思ってしまうのは…
私の中に、「幽霊」という幻想があるからだ。
ちなみに、私自身はそれを体験したことがない。私のフツウの個人的な体験と、それとは明らかに違う。
「幽霊」は、私たちの所属する集団の中にある、共通した幻想…共同幻想である。
雨の日、傘をささずに外に出た。
ずぶぬれになった。風邪を引いた。
当たり前である。
でも、なぜか?
これを、たとえば古代の日本人なら…
「雨に当たったから、病気になった」というだろう。
それって、今の日本人と同じか?…違うかもしれない。
「雨」は空から…神の場所から降ってきたモノである…だから、それに触れたヒトは病気になる。
もしそうだとすると、私たちは、「雨にさわってはいけない」ってことになる。
あるヒトに、死の呪いをかける。
呪いをかけられたヒトが、翌日交通事故で死んだ。
…で、なぜそのヒトは交通事故にあったのか?
私たちの意見は、分かれるだろう。(笑)
でも、ある時代、ある場所では、「呪いがそのヒトを殺した」という共同幻想が圧倒的だったりするかもしれない。
例えば、そうやって、「ヒトを呪って殺すことができる」という共同幻想があるトコロで、自分が呪われてる現場を見てしまったヒトが、怯えて逃げる途中、崖から足を滑らせて、落ちて死んでしまった…ってコトがあったら。
それはどういうことになるのか?
さてさて。
フランソワーズが幻影を見たのは…怪しい機械のため、「見やすい」状態にされていたからだ。これは、私たちのほとんどが、それなりに納得できる…と思う。
彼女が見た幻影は…バレエにしろ、兄ちゃんにしろ、あくまで、彼女だけのモンダイに関わる個人的な幻影だったりする。
ジョーくんとは関係ないんだよな、ほんと(笑)
どうして、ジョーくんは…彼女を止めようとしたのか。
教会の屋根(?)で踊るのが、なぜいけないのか。
…まず第一に、落ちそうで危なかったから(笑)
同時に、個人の幻想の中だけにいる…そちらしか向こうとしないヒト…は、集団(この場合はサイボーグチーム)の利益を阻害する。009としてのジョーくんにとって、幻影の中で踊るフランソワーズはただ禍々しい、否定すべき存在でしかないのだろう。
これも、比較的納得できる。
納得できることばかりでは面白くない(笑)。アブナイのはどこか。
ここで戻るが、そりゃもお、「複葉機の偶然」である。
この偶然を、必然と考えるためには、2つのステップがいる。
まず、ジョーくんは、フランソワーズにとって、トクベツな人間である…ということを、視聴者の「お約束」とすることができるか。
さらに、トクベツな人間であることは、トクベツな不思議な出来事を可能にする…ということを、視聴者の「お約束」とすることができるか。だと思う。
1のbや2の考え方…ジョーくんにも、フランソワーズの見た幻影が、そのまま同じように見えた…ってのは、実はそれほど不思議なことではない。ミもフタもない言い方をすれば、ジョーくんは作中人物でしかも主人公なんだから、何でもアリだ。
モンダイは、ジョーくんがそれを見た、ということについて、私たちが納得するか否か…というところなのではないかと思う。
みんなが共通してもっている、その集団の共同幻想…というのは、カタチはどうあれ、「伝承」を共有することで伝えられていく。その舞台は、主に非日常的空間である。
当たり前かも。
恋人になる宿命の女の子が、危機に陥ったとき、彼女の兄さんの魂(?)…死霊か生霊かはともかくとして…に導かれ、日本人茶髪18歳の兄ちゃんが彼女のもとに駆けつけるのなんて、当然じゃないか…と、マジメに信じて日常生活を送っているヒトがいたら…とりあえず、避けて通りたい。
しかし、私たちは、そういうことをやる。非日常的時空ではやるのだ。
入試に合格しますように…と、「神社」という場でなら、私たちはかなりマジメに祈る。
いや、オレは神様になんか祈ったことないぞっ!というアメリカ人赤毛18歳(鼻高し)でも、「祈り」というのが非日常的言葉であることは否定しないだろう。
祈るとき、神様にタメ口きくヒトはまずいない。
私たちは、非日常的時空を、いろいろな手段…伝統的手段を使って巧みに作る。
そこでは、父祖から引き継いだ共同幻想が実現される。
それらは、日常生活では考えられない異常な事象である。
もちろん、その非日常的時空で、それらはごく日常的な事象として実現する。
そういうふうにして、ヒトは語られる奇跡を受け入れる。
これを「019」でやるのは…たしかに無理があるのかも。
でも。
理不尽に誘拐され、改造されたフランソワーズの物語を見るとき。
やりきれなさ、救いのなさを解消する方法は、非日常的手段しかない…という気がする。
彼女がそっちに逃げるのは弱い…とか、そういうことではない。
本当に救われたいのは、視聴者…私たちなのである。
彼女がクリスマスイブのパリをさまよい、勝手に兄の幻影を見たところで、それだけでは私たちは何も救われない。
兄の魂がほんの一瞬でも、彼女と交感した…と、信じることができたとき、私たちは「感動」し、救われる。それが物語の醍醐味のひとつ…だと思う。
率直にわかりやすくするなら、コレにジョーくんは必要ない。(笑)
ジャンの生霊なり死霊なりがでてきて、直接フランソワーズを救えばいいのである。
でも…
残念ながら、単純にそれだけでは、私たちの多くは納得(感動)できない。
古事記とかの時代なら、それで納得できたかもしれないんだけど。
それで…手間をかける。
私なら、やはり1のaで、いきたい。
ジョーくんは、フランソワーズの涙の意味を知らない。
ジョーくんは、勘違いしている。(笑)
でも、ともかくも彼女とジョーくんは同じモノを見ている。
この場所にやってきたのは、他の誰でもなく、ジョーくんだったのだ。
…だから(だからって何だ?!)いいのだ。
…だって、ジョーくんはフランソワーズのトクベツなヒトなんだから。
彼なら、フランソワーズを救える。よかった(涙)
…この、(だからって何だ?!)の部分が…共同幻想の残滓が息づいているトコロ…のように、私は思う。
説明はつかないのだ。
説明がつくことでは、どうしても救えないことを救う…それが幻想だと思う。
私のココロに、それはもう微かにしか残っていないような気もするけれど、よくよく覗いてみると、そうやって、フシギに救われてる部分が…私にもあるような気がするのである。
とにかく…この兄妹は…あまりに不憫である。
特に、ジャン兄ちゃん(涙)
何とかしてやりたい…ホントに〜!
生霊だといいんだけどな…とヒソカに思ってるのだが。
21世紀はそれを許さないかもしれない。(涙)
引用してないですが、(できなかった…ムズカシイです〜)『共同幻想論』角川文庫版の、「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「他界論」のあたりを特に参考にしてます…。
でも、やっぱり何か違う…怪しいです(汗)
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