あほか、というほどしまむら映画を観たのだった(しみじみ)
どうしてこんなに観ているのか、と不思議に思う。
こーいってはなんだが、よく考えると大した話ではない<え(汗)
しまむらを中心に要約すると
しまむら、ジェロさんに殴られ、逃げ、加速装置を思い出す。
しまむら、お嬢さんが落下してきたので009としての記憶を取り戻す。
しまむら、ジェったんがテロに関係していないことを確かめる。
しまむら、核爆発から走って逃げる。
しまむら、戦う意味を悟る。
しまむら、核ミサイルを壊しにいく。失敗しかけるがジェッたんに助けてもらって成功。
しまむら、お嬢さんのところに戻る。
…………。
もっとも、こういう風に要約してしまったら、ジブリ映画の傑作と言われるあの作品とかこの作品だって結局は(略)<殴
……と、いうことになるとは思う(しみじみ)
それにしても、戦わない男なのだった。
今回、彼の必殺技(?)加速装置を何に使ったかというと。
ジェロさんから逃げる・お嬢さんを助ける・ミサイルを壊す・核爆発から逃げる・研究所に侵入していたラザロを倒す・イージス艦のみなさんを気絶させる・ミサイルを壊す
…………。
しまむらが殺したのはラザロだけ。
ちなみに、ラザロは「死体兵器」らしい。
もっとも、ソレを言うなら、この映画における戦闘で人を殺したのはジェったんだけなのだった(しみじみ)ジェッたん、お疲れさまです!!!!!(切実)
ジェッたんとしまむらの「確執」の本質はこの辺りにあるんじゃないかと思う。
私がジェったんなら、ムカつく。
ずぇーーーーったい、ムカつくと思う!!!!
「専守防衛をよしとするちっぽけなオマエ(怒)」
そのとおりです、ジェったん!!!!!
だって、最後の核ミサイル破壊も、ジェったんは力を使い果たして分解しつつ(涙)微笑……だったけど、しまむらはケガひとつなく、悠々と爆弾セットして、泣いて、「神よ!」って叫んだだけ<「だけ」言うな(汗)
私がジェったんなら、ずぇーーーーーったい<もういい(嘆)
……が。
たぶん……たぶん、なんだけど。
だから、しまむららしい、のだった。
その証拠に(?)結構マジメに戦っていた平ゼロしまむらは、ファンの皆さんにあまり褒めてもらえない。
よーーーく考えるとかなりマトモな戦闘指揮官をやっていた超銀しまむらにいたっては(しみじみ)<やめれ(汗)
なんというか、やっぱりしまむらは高貴な王子さまなのだった。
汗かいて血にまみれて戦うのが、こんなに似合わない男はいない。
映画しまむらは、フザけろよ、と言いたいくらいソレが徹底している。
4、5、6の皆さんを、あんなにぜーぜー言わせたラザロだって、しまむらにとっては、ちょいちょい♪と倒せる敵なのだ!
あの数秒(と言いたい)の戦闘シーンは、残りのラザロが少なかったから成立したのではない。
攻撃開始のときからしまむらが研究所にいたとしても、その数秒が数十秒になっただけのことだろう。
おそらく、ギルモア研究所で働くみなさんも無傷でいられたと思う(合掌)
映画を観てしみじみ思うのは、しまむらの、この無敵っぷりなのだった。
それは、戦士として、というより、王子さまとしての無敵だ。
だから、最後に核ミサイルを破壊するのはしまむらでなければならない。
王子さまだけが「神」と対話できるのだ。
それにしても、変なヒーローなのだった。
それなのに、なんだか妙に馴染みがあるというか、見覚えがあるというか、日本人としての私のココロの奥底に流れる何かにひっかかるようなヒーローでもあり……
……と、考えたのは、もちろん、初めてではない。
新ゼロ以来、しまむらっぽい日本の英雄が絶対いるはずだ、と考えて、それらしいモノに思い至ったのは、かなり昔……大学生くらいの頃だと思う。
その英雄は二人いる。
源義経と、倭健命なのだった。
この二人としまむらの共通点わ。
・おうじさま(倒)
・常識を越えた強さ
・中性的美少年
・勝ってもほめられない
・印象的な恋愛エピソード
・世を救い変革するが、新しい世にはとどまらない。
・死んだ……の?(あれ?)
似てるなあ……としみじみしながら、ってことは、お嬢さんは?(汗)と思うのが、3至上主義者としてのサガというものなのだった。
ところが。
たとえば、義経には静御前がいる。
お嬢さんと彼女との共通点はある。
・舞姫
・彼の子どもを宿す女性だが、子どもは確認できない(倒)
倭健命には弟橘姫がいる。
お嬢さんと彼女との共通点もある。
・彼とともに戦場にいる女性
ところが、お嬢さんと彼女たちとの決定的な違いがあるのだ。
それが「別れ」なのだった。
二人の女性たちは、物語半ばで彼と別れる。
が、お嬢さんはそうではない。
お嬢さんとしまむら、先に死ぬのはどっちなのか……と考えると。
それが描かれているのはヨミ篇で。
もちろん、しまむらが先に死ぬ。
お嬢さんは空を見上げる。
でも、しまむらが死んだのかどうかはわからない(いやわかるけど!)
やっぱり倭健命の最期がかぶる。
白鳥となって飛び去った彼を妃たちと子どもたちが見送った……というけれど。
でも、お嬢さんを思うとき、私が思い出すのは彼女たちではない。
倭姫だ!!!!!!
…………。
誰それ(汗)と言われてしまいそうなのだった(しみじみ)前置き終わり!<え(汗)
倭姫は、倭健のおばにあたる。
彼との絡みとは別に、伊勢神宮の創建者として知られている。
天皇が祀る神(というのは要するに天照大神と考えてほぼよいのだけど)を宮中ではなく、別の場所で祀る、ということになったため、それにふさわしい場所を探して彼女は諸国を巡り、伊勢にたどり着いたのだった。
なぜそういうことになったのか……についてひと言で説明するのは難しい。
ただ、結果として、伊勢神宮には天皇の霊的な妻にあたる未婚の皇女である斎宮が倭姫を継ぐ、という形で入るようになった。
雑に言うと、この世を治める天皇に対して、その治世を神が認め、守護していることを象徴する存在が斎宮なのだった。
倭健と倭姫の接点は、「戦い」にある。
倭健は西征のとき女装して敵地に忍び込み、熊襲健を倒したが、そのときの着物は倭姫から授かったものだった。
また、西征の後すぐに天皇から今度は東征を命じられ、悲しむ彼を倭姫は慰め、宝剣と守り袋を与える。
それらはともに、戦場で彼の絶体絶命の窮地を救い、宝剣は三種の神器の一つ「草薙剣」となるだった。
ちなみに、倭健はその草薙剣を妃の一人に預けて素手で戦いに向かった結果、伊吹山の神の返り討ちに遭い、それが致命傷となってしまう。
倭姫は倭健の戦いを支え、彼を守護する存在といえるが、彼とともに戦場に赴くことはない。
そして、もちろん彼女自身は神に仕える巫女であり、彼の妃とはならない。
そして、倭姫も倭健も、新しい国……世界を作るために「放浪」したという点で共通している。その新しい国の中央にいるのはもちろん天皇だ。
天皇から見ると、倭姫は欠かせない存在であるものの、都におくべき存在ではないし、倭健も、彼自身が嘆いたように、都におくべき存在ではないのだ。
だからこそ、二人とも放浪する運命にあったし、都に生身の姿で戻ることはない。
それでも二人とも都を愛し続ける。
倭姫は都のために神に奉仕し続けるし、倭健は命の終わりに都を慕い、都を目指す。
祈りと戦いとは、いずれもこの世をこの世の外から支えるものだ。
支えだから外になければならない。そして、それは無償の行為でなければならない。
その象徴、始祖にあたるのが倭健と倭姫なのだった。
古代の文学作品を見るとき、用字にあまりこだわるのは危険なのだけど、どちらも「ヤマト」と呼ばれていることにも意味があるような気がしてしまう。
…………。
で、「009」に戻ってみる(ぜいぜい)
しまむらとお嬢さんの関係はわかりにくいものだった(倒)
彼らは「恋人」なのか「仲間」なのか。
いろいろな立場からの意見があるとは思うが、彼らが「仲間」であることの安定感に比べたとき、「恋人」の方はいかにも心細い。
というのは、数々の(倒)しまむらと女性ゲストキャラのエピソードが「存在する」からだ。
実際には(?)しまむらがそうした女性たちと恋愛に陥った、ということはない。少なくとも原作ではない。
徹底的だ、と思えるほどない。
それはもちろん、009には003が「いる」からだ。
しかし、それならなぜしまむらには女性ゲストキャラがたびたび絡むのか。
それは、主にしまむらの男性としての魅力を描写するためであると思われる。ついでに言うなら、その役割はお嬢さんに絶対に果たせないものだからだ。
009には003という唯一無二の女性が「いる」。
そのことは009こそが神の選んだ特別な戦士であることを保証する。
が、003と009が「恋愛」によって性的・身体的に結ばれることはない。
これは倭健と倭姫の関係だと思う。
完結篇小説で、しまむらが翡翠さんと恋をした……というエピソードは、少なからぬファンを怒らせたが、たぶん……なのだけど、それはしまむらファンとしての怒りだったのだと思う。
倭姫に背を向ければ、倭健は草薙剣をもらえないし、守り袋ももらえない。
ただのケンカが強いお兄ちゃんになってしまう(倒)
実際、草薙剣を手放した彼は、あっさりと敗北し、破滅する。
つまり、003を離れた瞬間、009の神秘性も選ばれた戦士としての特性もキレイに消えてしまう、と考えてよい。
お嬢さんをさしおいて(倒)他の女性と恋愛に走るというのは、しまむらにとってこれ以上ない破滅的行為・自己否定となるのだった。
すごーく個人的なコトを言うなら、3至上主義者としての私にとって、完結篇におけるしまむらの粗相は踏みネタとして非常にオモシロイ(え)だけであって、何の問題もないことだった。
倭姫の場合は倭健との関係がなくても、ちょっと物足りないかも、というぐらいにしかならないからだと思う。
身も蓋もないことを言ってしまえば、紅一点のお嬢さんの方が、そういう意味では圧倒的にゆとりがある。
しまむらが背を向けるなら、さくっと抹殺して他のメンバーを祝福し、新たな主人公戦士とすればよい。それだけのことだ!(踊)ピュンマさまとか♪<やめれ(汗)
が、一方で、二人の関係を完全に倭健と倭姫に置き換えてしまうと、やはりずれてしまう。
彼らが未来永劫恋人としては結ばれない存在同士だ、ということを明言するのがちょっと難しいし、してしまったらしてしまったで、それは009と003ではない……ような気がするのだった。
どうしてずれるのか、どうずれているのか……きっとシンプルなことなんだろうなと予感しつつも、うまく説明できない……と思っていたのだった。
それが、今回のしまむら映画で結構スッキリした……のかもしれない。
「ずれ」は、やはり二人が「仲間」であるところにあったのだ。
仲間であるがゆえに、そして003が「紅一点」であるがゆえに、性的・身体的な関係についてはトボけたままで、男女が特別な一対となる、ということを歴代の「009」は描くことができた。
が、仲間であるがゆえに、二人は常に「ともに戦う」存在でなければならない。
そこが、問題だった。
つまり、もし倭姫なら、003は、倭健である009が戦う場所に「いてはならない」のだ。
もっと言えば、普段一緒にいる、ということもしてはならない。
そこさえクリアすれば(え)009と003の選ばれた特別な男女としての強い結びつきも、彼らが互いに世界を守護する存在としての唯一無二の男女であるということも、論理を超えた神秘的な説得力で(倒)表現される。
それが、今回のしまむら映画だと思うのだった。
しまむら映画には彼らの「恋愛」など描かれていない。
恋愛の過程の全ては省かれ、描かれているのは結果だけだ。
だからこそ二人の結びつきは「運命」に見える。
その辺りが、あざといほど(踊)徹底して描かれていると思う。
映画の中では、しまむらが009という「戦士」になるとき、彼に力を与えるのがお嬢さんだ。
そして、戦士として戦うとき、しまむらはいつもお嬢さんのもとから離れる。
お嬢さんは戦場の外でしまむらを見守る。
それは彼の戦いの正しさ・勝利を信じるという行為であり、具体的には「祈る」という行為となる。
お嬢さんがそうしている限り、しまむらの戦いはどのような結果となろうとも(汗)正しいモノであり、ついでにいうと、しまむらが死んだりもしないのだった(しみじみ)
しまむら映画はすごーく巧妙だと思う。
まず、お嬢さんを本当の「戦場」から完全に排除しつつ、表面上はしまむらと共闘しているかのような表現をやり遂げた。
これを超銀と比べると(え)その巧妙さがわかる。
超銀のしまむらは、「戦場に来ないでほしい」とお嬢さんに告げてしまう。勿論、お嬢さんは拒絶する。
しかも、それを地球を離れるときと、カデッツに向かうときと、2回もやってしまうのだ。
拒絶する、ということは、お嬢さん自身が戦場に赴くことを「選ぶ」ということであり、これによって、お嬢さんの立ち位置は非常に不安定になる。
ただの「仲間」となってしまうのだった。
超銀のお嬢さんとしまむら映画のお嬢さんと、どっちがより「仲間」として戦いに貢献しているかというと、遜色ない……か、もしかするとしまむら映画の方が上かもしれない。
にも関わらず、しまむら映画ではお嬢さんは「仲間」と一線を画している。
あくまで「待ち・信じ・祈る」スタンスを不動のモノとしている。
終始その姿勢でいる。
また、しまむら映画のお嬢さんは、一人だけユニフォームの色が違う。それはもう、微妙に違っている。
映画本編では暗い所にしかいないので(笑)その違いがよくわからないぐらい微妙だが、違うのだった。
映画しまむら自身、お嬢さんを「共に戦う者」と考えない。彼はお嬢さんによって「戦うべき時」「戦う意味」を教えられるのだった。
もちろん、009にとって003は常に「守るべき者」であり、それはこの映画でも変わらない。が、「戦う意味」をしまむらに授ける者として明確にお嬢さんを描いたのはこれがほとんど初めてだと思う。
そうなると、やはりしまむらとお嬢さんは、平時に一緒にいることはできないのだ。
戦いというのはどう考えても非日常の中にある。
その戦いをせよ、と告げる役割を果たすお嬢さんがしまむらの日常の中にいることはできない。
映画で、しまむらの記憶リセットがなぜ必要だったのかを明快に説明することは難しい。
が、少なくとも、その設定がなければ、お嬢さんとしまむらの関係は描けなかった。
もちろん、他の設定でもよいことはよいのだけど、いずれにしても、お嬢さんはしまむらの日常から徹底的に排除しなければならない。
ちなみに、倭健に戻ると、彼とともに戦場にあり、彼と愛し合う女性というのが、いないことはない。
その代表が弟橘姫だ。
お嬢さんはその立場にあるのでは?とも考えられる。
が、それはやはり難しい。
弟橘姫は、倭健にとって実は異界のモノ……要するに「敵」の立場にいるモノなのだった。
それがわかるのは、彼女の最期のシーンだ。
彼女は、海神の怒りを鎮めるために荒れ狂う海に身を投げる。
それは生け贄としての死であり、愛する倭健を救うための犠牲でもある。
が、忘れてはならないのは、彼女がそれを「できる」モノ……海神に意志を伝えることができるモノであったということだ。そうでなければ、そもそも身を投げる意味がない。
雑な言い方をすれば、異国……旅先で出会う女性というのは、すべてこうした「異界」の側にあるモノだと考えてよい。本来は「敵」の立場にいる女性なのだ。
だからこそ、放浪する戦士が彼女たちを引きつけ、取り込むことに意味がある。
しまむらにおいて、ソレにあたるのは、非常に馴染んだシチュエーションであるが、敵方の女性を味方につける、ということだ。
ヘレナ・ヘレンは言うに及ばないし、あのタマラさまだって、敵ではなかったが、明かに異界のモノだった。
何より、彼女は「子孫」にこだわった。これは、異界の神と結婚し、新たな世界の創始者を生む、という発想といえる。
お嬢さんに、それはムリだ。お嬢さんはしまむらと「同郷」の女性だからだ。
何より、異界の女性というのは、結局は消えなければならない。
死別であっても生別であってもよいのだが、異界のモノであるがゆえに、しまむらと添い遂げることは許されない。
お嬢さんの場合、それではマズイのだった。
もちろん、「003」がキレンジャーのように(え)死んでは交替する(倒)という設定だったら別かもしれないが、ちょっと考えにくい。
めんどくさいなー、ややこしいこと言ってないで、結婚しちゃえばいいじゃないか!
たいていの人間はそーやって結婚して、夫婦になって、幸せになってるし!
と考えることも、当然できる。
が、その場合、彼らは「普通の人」となってしまう。
それがおそらく後期原作なのだった。
とはいえ、彼らが本当に普通の人では話にならないので(倒)、彼らは私たちの世界とは次元の違うステージにおいての「普通の夫婦」となっている。ちょうど、ギリシャ神話におけるゼウスとヘラのような関係というか(悩)
そう考えていくと、倭健と倭姫の本質的な関係を9&3の上に、よりシンプルに表現している……というか、しようとした……かもしれないのが、あの「58才のフランソワーズ」設定なのだった!
日常を生きる、でもなんかちょっと違う(倒)孤独な少年しまむらは、自分の戦士としての使命を知らないのだった。
が、彼が戦士であるということをお嬢さんは知っていて、彼にそれを「留守番電話」で伝え続ける。
そして、時が来たとき、お嬢さんはしまむらを迎えに行き、目ざめさせるのだ!
…………。
完璧です、O井監督っ!!!(汗)
ただ、それをやるなら、フツーに(?)古事記のアレンジでやればいいのかも、と思うのだった(しみじみ)
「009」のオモシロイところは、いろんなモノが混ざっている……んだけど、どの色にも染まりきっていない、なんだかごちゃごちゃと整理ができていないトコロにあるような気がしているからだ。
そういう意味でも、しまむら映画はよくやったなーと思う。
お嬢さんの特殊性としまむらの特殊性が対であることを見抜き、そこを強調するために、いろいろな犠牲を払い……更に、たとえばお嬢さんが58才だと「009」の003ではなくなる……みたいなこともどうにかクリアしようとし、調整を続けた結果としてああいう形ができたわけで。
しまむらの記憶リセットも、その記憶がお嬢さんが空から落ちてこないと戻らない、ということも、「93ラブシーン」が飛行機の中で突然前触れも余韻もなく、ぽこ、とあるのも、ついでに言うなら、あのラストシーンだって……とにかく、無茶苦茶といえば無茶苦茶なのだった。
が、そのどれが欠けても、しまむらとお嬢さんの関係を説得力のある表現で描くことはできなかったと思う。
そして、それができたからこそ、しまむらはどんなに不思議であろうと、理不尽であろうと、完璧な「正義のおうじさま」として最強の存在となる。
あらゆる理屈を蹴散らして、それが「009らしさ」として圧倒的かつ神秘的に輝くのだった。
ただし。
それゆえ、問題は(?)「続編」なのだった。
しまむら映画は、結局のところ、しまむらが倭健であり、お嬢さんが倭姫である、ということを定義した……ところで終わっている。
言うまでもないが、物語はまだ入口、なのだった。
たとえば超銀だって、原作ヨミ篇だって、お嬢さんとしまむらのラブシーンは物語の入口にあった。途中にはない(倒)
当然、だと思う。
K山監督も「最初だから」ゲストキャラクターを出さなかった、と言っていた……ような気がする。
もし、映画に続編があるのなら、間違いなく弟橘姫も出てくるんだろうなーと思う(しみじみ)
倭健は倭姫なしでは存在できない。
倭姫は倭健なんかいなくても存在しうる。
……と考えると、たしかに倭姫無敵!圧勝!(?)なのだけど。
が、多くの人々が主人公として仰ぎ見たいと思っているのは倭健の方なのだった(涙)
だから、お嬢さんはやっぱりしまむらから離れられない。
ホントはしまむらなんかいなくたって、お嬢さんはふれあう男を誰でも神のヒーローにできちゃう人なのだ!
それなのに、お客さんが、アランくんよりしまむらが見たい、とか、フィリップくんよりしまむらが見たい、とか、ユウジくんよりしまむらが見たい、とか、カール・エッカーマンよりしまむらが見たい、とか、ヴァルドールくんより<もういい(涙)
……とか要求するから、どーしてもしまむらと一緒にいるしかない。
しまむらは続編がいろいろできると、どーしてもあちこち放浪することになるだろう。
そうしたら、ずぇったい、異国の女性と絡むのだ。
現実としてはただ絡むだけだけど、神話だったらしっかり結婚して子どもを作る、という構造での絡みだから、お嬢さんファンとしてはやっぱりムカつくのだった!!!!!
……とか思いつつ、3至上主義者は「完結篇」を繰り返し読みながら、いーかしまむら、オマエがホントに他の女の子とフツーの恋愛をしたらこーなるんだからな、うっかり調子に乗るんじゃねーぞこの野郎(怒)と、踏み練習を続けていたりするのだった(踊)
すみません、今回は全然引用してません<古事記(倒)
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