ホーム 009的日常 更新記録 案内板 日常的009 非日常的009 日本昔話的009 009的国文 009的小話 学級経営日記
玉づと 記念品など Link 過去の日常 もっと過去の日常 かなり過去の日常 009的催事

009的国文

乙女の港(川端康成)
そんなわけで(?)怪しい清純百合小説なのだった。
川端康成「乙女の港」。
 
昭和12年、川端38歳のとき、「少女の友」で連載された作品で、中里恒子の原作を書き直したもの…だという。
要するに、絵に描いたような少女小説なのだった。
全集には入っていると思うのだけど、フツウの(?)選集や文庫などにコレが入っていることはまずないのではないか。
 
…が。
私は、コレを小学校高学年のとき、読んだのだった。
というのは、
 
偕成社ジュニア版日本文学名作選12 伊豆の踊子
 
の中に、コレが入っていたからなのだった!!!!
 
この本は、昭和50年代からある図書館児童書コーナーでなら、簡単に探すことができると思う。
私も、たしかそういうトコロか、もしくは小学校の図書室で読んだはずで。
 
しかし、何か変だなーと、今になると思う。
というのは、この小説はかなり長編なのだった。
 
偕成社の本でも、「伊豆の踊子」が40ページ弱なのに対し、「乙女の港」は堂々190ページ以上を占めている(倒)
ちなみに、他には「十六歳の日記」「油」「たまゆら」が収められているだけの、300ページ足らずの本で。
 
言うまでもないが、川端康成はたーーくさんの名作を書いている。
小中学生に読ませる、ということを考えると、ちょっと選ぶのが難しい…としても、たとえば「掌の小説」もある。
とっつきにくいかもしれないけど「古都」だって悪くない。たしか山口百恵の映画もあったし!
 
それに、この偕成社のシリーズ(60巻)で、川端康成はコレ一冊のみなのだ。
その貴重な一冊の半分以上のページ数を、この小説に割くというのが、どーも納得いくようないかないような…(悩)
もしかしたら、ページ数の関係で、どーしてもコレしかなかった…ってことのなのかもしれないけど(悩)
 
巻末の「解説」で、村松定孝氏がこのように書いている。
 
ここにおさめたほかの小説に比べて少女向きに書かれたものなので読者のなかにはいくぶんものたりなく思う人もあるかもしれません。しかし女学生の心理や情愛の深さがたくみにとらえられていて、男女共学以前の女学校物語として歴史的に回顧してもおもしろい作品です。こういう作品から川端文学に親しんでいくのもひとつの方法でしょう。
 
…ええと(悩)
もしかして、解説者の趣味だったとかっ????(え)
 
ちょっとわかりにくいのだけど、この「解説」の作者紹介は、昭和43年のノーベル文学賞受賞で終わっていて、川端の死については何も語っていない。
で、巻末年表は昭和47年の死去で終わっている。
そして、この本の初版は昭和40年。
#実際に私が見ているコレは33刷で昭和57年に出版。
 
??????
 
えーと(悩)
 
少なくとも、ノーベル文学賞受賞の記事を初版に書くことはできないし、初版にも解説はあったのだとすれば、コレは昭和43年以降に加筆されていると考えなければならない。
川端の死についての記述がないことから、この加筆が昭和47より前のモノで、以後加筆修正されていなかったと考えることもできるが、この本が出版されたのは昭和57年だから、ちょっと不自然かも。
 
むしろ、川端の自殺というのはどうにも複雑でまだ生々しく、少年少女に語りにくい話だから、あえて言及していないのかもしれない。年表も「仕事部屋にて死去」という書き方になっている。
 
えーとえーとえーとーと(更悩)かなりどうでもいい話だったかも(汗)
 
とにかく、どうでもいいことをついいろいろ考えてしまうくらい、この長編がわざわざこの本に収められていることは不思議…という気がするのだった。
そして、同時に、コレをジュニア向けの川端作品としてわざわざこの本に収めた選者(たぶん村上氏)はスゴイ!とも思う。
 
…というのは。
この本の中で、当時ローティーンだった私のココロをがっしりつかんだのは、他ならぬこの小説だったのだ!!!!!
 
思春期というのは、どこかオカシイものなのだと思う。
…なんて思いながら、どーしても思い出すのは、この小説にがっしりココロつかまれた私が、ほどなく新ゼロとか「SFロマン」にココロをつかまれていった……ということで(涙)
 
はい。
こういう風につながります(しみじみ)<殴
…ということで、ここまでが前置きなのでした(しみじみじみ)
 
 
 
そういうわけで、場面は昭和初期の横浜。
物語は、とあるミッションスクールの入学式から始まる。
 
清純な美少女の新入生、三千子が一応主人公。
旧制の女学校で1年生だから、今でいうなら中学1年生だと思ってほぼよい。
で、この話を読んだ時、私は11才ぐらいだったと思うから、かなり感情移入しやすかっただろう。
 
三千子はとにかく無邪気で清らかな美少女なのだった。
たちまち、二人の超美少女上級生から思いを寄せられ、お手紙をもらっちゃったりする♪
「エス」の関係になりましょう、というお誘いなのだった。
 
エス、とはシスターの頭文字。
ただのお友達ではなく、特別な「姉妹」としてステディな関係になりましょう、ということで。
ってことは同性愛?……なのだけど。
でも、ちょっと(かなり)違う。
そこに性愛はほとんどない……と思う。だって「姉妹」だし。
 
お手紙にも、色気のようなモノはあまりない。
 
三千子に手紙を寄せた上級生は、5年生(最上級生)の洋子と4年生の克子。
洋子は「花束」と称して、3つの花にまつわる詩を手紙に書き、三千子に贈る。
そのひとつ「沙羅の木」はたとえばこんな詩。
 
褐色の根府川石に
白き花はたと落ちたり
ありとしも青葉がくれに
見えざりし沙羅の木の花
 
ちなみに、コレを読んだ三千子の方は、
 
その手紙はむずかしくて、一年に入学したばかりの三千子の首をかしげさせたが、
 
…なのだった(しみじみ)
が、同時に素直で心優しく感受性の鋭い(たぶん)彼女はこうも思う。
 
ことばがすくなかったけれど、その手紙のゆかしさ。はでやかな草花でなく、年をへた樹木の花が好きという、その人の心の深さ。
 
「沙羅の花って、どんな花かしら」
三千子は見たことがない。こんなむずかしい花を愛するあのひとは、おとぎばなしにでてくるあの森の精のように、ふしぎに美しく思えるのだった。
 
…えーと(悩)
 
三千子は、ちょっと内気でおとなしい少女なので、洋子に惹かれていく。
ちなみに、克子は濃いむらさきのスミレの花束にそえて、
 
あなたを「わたしのすみれ」とおよびしてよろしいでしょうか。
 
みたいな、かなり率直な言葉を並べた手紙を書いていた。
 
署名も、洋子は「木蓮」とペンネームを使い、克子はそのまま自分の名を書いている。
つまり、奥ゆかしくてしとやかな洋子、明るく活発な克子…という、タイプのまったく違う「おねえさま」たちなのだった。
で、軍配は洋子に上がり、三千子は洋子を「おねえさま」として慕うようになる。
 
二人の清い交際・語り合いを通じて、次第に明らかになっていくのは、主人公三千子ではなく、洋子の内面なのだった。
 
洋子は、豊かな牧場主の娘なのだけれど、家運は傾いている。
きょうだいもない。
母は精神を病み、入院しているのだが、ごく最近まで洋子にそれは教えられておらず、三千子と出会うより少し前に、洋子はそれを「じいやのむすめ」から聞かされたのだった。
 
学校には、優等生で美しく非の打ち所のない洋子をねたむ少女もそれなりにいて、やがてその噂が面白おかしく語られるようになり、三千子の耳にもそれが入ったりする。
三千子は憤慨し、それらを「いじわる」と切り捨てるのだが、ほどなく洋子本人から真実を聞かされ、動揺する。
 
が、そうした不幸を受け入れようとする洋子のけなげな強さが、また三千子を感動させ、二人の絆はいっそう強まるのだった。
 
…えーと(涙)
 
さすが少女小説なのだった(しみじみ)
としか言いようのない展開なのだけど、とにかく洋子は美しく優しいだけでなく、芯の強い心正しい少女で、ほんっとに非の打ち所がない。
そんな洋子を三千子はひたすら崇拝する……のだけど。
 
そこに!
克子が現れるのだった!!!!
 
克子は、負けず嫌いで、気が強く、意地悪だってしちゃう。
特に三千子をめぐる競争相手である洋子にはキツイ。
あからさまな憎まれ役なのだった。
 
その克子が三千子に近づくのが、夏休み。
避暑地、軽井沢で二人は偶然出会ってしまう。
 
洋子は、家のごたごたで避暑どころではなく、一人横浜で孤独に耐えている。
不運と闘っている…というトコロなのだけど、なにぶん少女小説なので、具体的に何かをしている、というわけではない。
 
洋子のいない軽井沢は、克子の天下。
明るい陽光とさわやかな風は克子の美しさを輝かせ、三千子は次第に彼女に惹かれていく。
 
克子は青葉のかがやきのなかで、花のように笑っている。スポーツできりりとした姿は、まばゆくはでだ。その強いものに、三千子はふらふらとひきよせられるような気がする。
 
どーしても、克子は美しいのだ。
この辺りの克子の描写は、ホントに魅力的な筆致だと思う。
そして、なんといっても克子は憎まれ役なので、自分が三千子と親しくしていることを洋子に知らせようと、三千子が書いている手紙に無理矢理一筆加えたりと、嫌がらせも忘れない(倒)
 
ちなみに、その手紙に対して、洋子はこんな返事を書いてくる。
 
お便りありがとう。お楽しい日々のようで、わたしもうれしい。
克子さんともお会いになったそうね。お友だちのいらっしゃるほうが、さびしくなくていいわ。なかよくしておあげなさい。わたしにいうようなわがままを、克子さまになさってはいけませんよ。
それから、おばさまにあまりおねだりなさらないで、もしわたしのおみやげなら、高原の花を押し花にしてちょうだい。わたしは元気、悲しいことはなにも考えません。運命がわたしをつれてってくれるところへ、ついていきます。けっしてご心配なくね。
またお便りちょうだい。
 
言葉遣いが昔風なので、つかみにくいのだけど、この手紙の書き方に険は全くない。
嫌味などもない、と考えて読むべきだろう。
三千子もこう思う。
 
うらみがましいことばもなく、克子とのまじわりを認めてくれたのは、洋子のいかにもきれいな、大きな愛情を、いまさら知らされたようで、三千子は胸いっぱいになった。
 
素直すぎるような気もするけれど、仕方ないのかも(悩)
とりあえず、正しい受け取り方だと思う。
 
でも、同時に、三千子は克子にもますます惹かれていく。
克子と親しくすることは洋子を裏切ることになる……ので、煩悶も深くなる。
が、やがて、三千子は一つの抜け道を見つける。
 
「あたし、だれともなかよくしたいの。ーー克子さんも、八木さんと、お友だちになってくださればいいのよ」
 
八木さん、とは洋子のこと。
が、克子は「まア!そんなおとぎ話みたいなことで、すめばいいけれど……」と一蹴する。
克子はあくまで洋子から三千子を「奪う」つもりなのだった。
 
 
夏休みが終わると、三人の関係は微妙なものになっていた。
克子は三千子にあからさまに近づき、三千子もそれをはっきり拒むことをしない。
克子を嫌いではないのだから、仕方がない。
洋子は、そんな二人を静かに遠くから見つめるが、もちろん心中は波立っている。
 
いくども字を書きちがえた。
さっきの克子と三千子の姿が、頭にやきついていて、じぶんの書く字がじぶんで見えなくなる。
 
…でも。
夏の間に住み慣れた古い屋敷を手放し、牧場の片隅に新しく建てられた小さい家にうつり、そこで前向きに生きていこうと思い定めていた洋子はこう思い直す。
 
洋子は、家の事情がどんなになっても、うろたえたり、めそめそしたりすることなく、いつからでも働ける、心の用意をしておきたいと、かくごをきめるようになった。
たとえ小さいものでも、じぶんのしごとをもつということは、どんなに強い力だろう。
「三千子さんと克子さんのことくらいで、弱ったりしちゃ、だめだわ」と、自分をしかりつけて、
 
そして、洋子は、克子のことで「ごめんなさい」と泣く三千子に、優しく言うのだった。
 
「いいのよ。いいの。なんとも思ってないの。三千子さんが、わたしばかりじゃなく、ほかのひとにもすかれるのは、うれしいのよ。じぶんの誇りのように思うの」
「私は三千子さんの気持ち、ちゃんとわかってるんですもの。おこるなんて、そんな……気にしないでいいのよ。さあ、洗面所にいきましょう」
 
そうして三千子を慰める洋子なのだが、折悪しく、先生に呼ばれてしまう。
そこに克子が現れ……(倒)
 
お約束なのだった(しみじみ)
洋子はいきりたつ克子に、静かに三千子を託して立ち去り、三千子は勝ち誇る克子をふりはらい、一人走ってその場を駆け出したりなんかして(しみじみじみ)
 
えーと。
 
そろそろなんとかしなくてはならないのだった(汗)<?
 
この小説を再読したのは、仕事で偶然コレを見つけて、懐かしさのあまり…という感じでだった。
が、読んでいて、だんだんだんだん妙な気分になってきたのだった。
この、洋子って、つまり……。
 
お嬢さんっ??????(汗)
 
お嬢さん、というか。
新ゼロお嬢さん…というか。
…いや。
 
新ゼロお嬢さんの向こうに頭のおかしい思春期の私が見ていた理想の少女……なのかもしれないのだった。
 
実を言うと、私はこの小説を「面白い!」と思った…ことは覚えているのだけど、何がどう面白かったのかとか、ストーリーとかについてはほとんど何も覚えていなかった。
ちなみに、ココは覚えている!というのは、洋子と三千子が楽しくお昼ご飯を食べているシーンで。
 
中央の大ばちに、ささの新葉でまいた五目ずし、剖鳥(さきとり)ときゅうりの酢のもの、白身のおさしみ、パセリとアスパラガスをそえたガランデンビーフ、ハムとセロリのポタージューー。
 
がすごくおいしそう!と思ったことだけなのだった。(しみじみじみ)
 
でも。
でも、たぶん、それだけではなかったのだ。
 
主人公であるはずの三千子はとにかく頼りなく、ふらふらしていて、受け身で、成長もなにもない。
本当の主人公は洋子だ、といってよい。
 
ちなみに、克子の方も、運動会で大けがをして、そのとき洋子に優しくされ、あらためて自分の心を見つめ直したりする。
ほんっとーに少女小説なのだけど、それはそれで成長だといってよい。
今までの自分を反省する克子を見て、三千子はこう思う。
 
つよい克子は、こんなときにもりりしくりっぱに、じぶんの悪いところをすっかりあばいて見せようとする。
強いというのは、じぶんをむち打つのも強く、これこそ真実の強さといえるのだろう。
 
そして克子は洋子にわびたい、と三千子に告げ、こう言う。
 
「わたしだっておねえさまとよびたいくらいよ。もし洋子さんが、よばせてくださるのなら」
 
…ってことで、大団円(倒)
 
これに比べると、三千子は本当に、最後の最後まで受け身なのだった。
最終章は洋子の卒業で、克子は登場しない。
が、洋子は三千子にこう言う。
 
「克子さんは強いから、三千子さんのことをおねがいしておくわ。三千子さんがやさしくしてあげないと、あのかた、また意地っぱりになってよ。わかる?」
 
三千子は強くうなずく。
…うなずいてる場合なのかっ?????(汗)
 
不幸に見舞われながらも、静かにけなげにそれらに立ち向かい、自分の道を見つけようとするしとやかな美少女、洋子。
彼女は深い信仰と愛を心に持ちつつ、当時としては新しい生き方である職業婦人を目指そうとする。
ホントに絵に描いたような少女小説の(以下略)
 
そして、コレが、私にとっての新ゼロお嬢さん原点…なのかもしれない。
たぶん、そうなのだった。
 
今なら、克子さんもかなり好き。
平ゼロお嬢さんだなっ!(踊)<やめれ(涙)
 
で、残った問題は…ってか、もしかしたらこれからが本題なのだけど(汗)え(大汗)
 
三千子さんって……ナニ?(悩)
 
なのだった。
 
洋子=お嬢さん…とするなら。
三千子さんの立場にいるのは…。
えーと。
 
 
さすがにためらっています(しみじみ)
 
 
しまむらだよなっ!!!(踊)踊ってごまかすなっ!
 
 
つまり、そういうことなのかもしれない。
私にとって、少なくとも79年新ゼロ(そしてたぶん81年超銀も)は、そういう物語だったにちがいない。
 
この小説において、三千子さんはそもそも一体何なのか…というと、これは言うまでもなく、読者である少女の投影だと思う。
三千子さんは、読者を代表して洋子&克子を見つめ、憧れたり戸惑ったり感動したりしているのだった。
だから、彼女は登場人物としての存在感がない。そういうことだと思う。
 
そして、しまむらも、たぶん私にとってそういう存在でしかなかった。
しまむらは、お嬢さんの賛美者としての恋人であり、私自身であるから、私の目に入らなかったのではないか(しみじみ)
 
が、残念なことに(ってか当然ながら)しまむらは少女ではないので(倒)ってか、そもそもそういう物語の中にいるヒトではないので、私の望む役割を全然果たしてくれない(涙)
 
新ゼロや超銀のしまむらが「浮気者」として責められるのも、その辺にあるのかもしれない。
お嬢さんの賛美者としての恋人役を、彼はぜーんぜん果たしてくれていないのだった。
 
繰り返すが、当然のことだ。
そもそも「サイボーグ009」は003主人公の少女小説ではなく、009主人公の少年漫画なのだから(倒)
 
だったら、お嬢さんも、ちゃーんと少年漫画のヒロインでいてくれればよかったのだ(しみじみ)
でも、なぜかお嬢さんには洋子さんのニオイが漂い…ってのは、もしかしたらほんの少ししか漂ってなかったのかもしれないけど、頭のオカシイ思春期アンテナがそれをかぎつけてしまい…(汗)
 
…ということなのだろうか(しみじみ)<自信がなくなってきたかも(涙)
 
ちなみに、思春期の私がしまむらに期待した役割は重く、果たすのは果てしなく困難だ。
だって…しまむらは、三千子さんのように
 
お嬢さんを絶対崇拝。
ときにお嬢さんと対立するライバルにも心惹かれるけど、どんなに惹かれても最後はお嬢さんに軍配を挙げる。
 
…そして。
 
清純な美少女でなければならないのだっ!!!!!(倒)
 
つ、つまり(汗)
性愛を匂わせてはいけない…ということで(しみじみ)
 
新ゼロが私にとってヤバかったのは、そこにもある、と思う。
新ゼロ93に、当時の私はたぶん、性愛のニオイを全く感じていなかった…と思うのだった。
#匂っててもそれはそれでまずいですが(しみじみじみ)
 
それに、新ゼロしまむらは、たしかに清純な美少女ではないけれど、視聴者の無意識下でコイツは清純な美少女♪と思われても文句はいえないようなヤツだったようにも思うし(悩)待て(涙)
 
今、オバさんになって、あらためて、あの頃胸をときめかせた93を再現しようとしても、無理なのだった。
だって、オバさんの前で、しまむらはどーみても009であり、三千子さんではない。
一方で、お嬢さんは洋子さんのままなのだ。
三千子さんではないしまむらを、洋子さんの相手にはできない。
だから、私は、私の好きだった新ゼロに出会うことはもうできないんだろうなーと思う。
自分で二次創作をすることすら、きっともうできない。
 
洋子&三千子の関係である「エス」というのは、本当に微妙なのだった。
おそらく…なのだけど、少女、というか女性特有の愛情のあり方かもしれない。
性愛にかぎりなく近く、性愛とは絶望的に遠い。
 
で、これって、もしかするといわゆる「女性向け同人」のあり方でもあるかもしれない……のだけど、それはそれとして。
 
あの頃好きだった93のようなものを書こうとすると、しまむらは果てしなく情けないヤツになっていく。三千子さんのように。
しかも、しまむらは清純な美少女ですらなく、読者の投影にもならないのだから、ますます行き場がない。これではつまらないのだった。
 
オバさんになった私は、洋子さんの世界に「性愛」を加え、その上でしまむらを配するしかない。
世界が変質する。
それが、私にとっては平ゼロなのかもしれない。
 
そして、取り残された世界である新ゼロと超銀の中で、しまむらは原則として無視され、たまに注目されたときも十分役割を果たすことのできない登場人物として軽蔑されてしまう。
 
マユミさんもキャサリンさんもタマラさまも、三千子さんではないしまむらの前で、本当の克子さんになれない。
中途半端な憎まれ役にしかなれないのだった(涙)
でも、もちろん、それを望む私の方が、大きく間違っている(しみじみ)
 
それでも、彼女たちにはまだ救いがある。
オバさんになった私は、意識的にはっきりと自分を三千子さんの立場において、彼女たちを見つめることができるからだ。
が、そうすると、しまむらの居場所は完全になくなるのだった(倒)
 
フツウに(?)素直に少年漫画として、009に出会っていたら、どうだったのかなーと思う。
たぶん、旧ゼロから入っていれば、そうできたのではないかと思う。
もちろんそのためには私が少年漫画を素直に受け入れることのできる子供であることが必要だったのだけど。
 
もし、そうだったら、たぶん私は二次創作をしていないのではないか…と思う。
でもって、二次創作している今も、それでナニかが満たされるわけでは到底ないのだけど、だからこそいつまでも止められない…ってことなのかもしれない。
 
 
本文は偕成社『ジュニア版日本文学名作選12伊豆の踊子』より
更新日時:
2006.09.25 Mon.
prev. index next

ホーム 009的日常 更新記録 案内板 日常的009 非日常的009 日本昔話的009 009的国文 009的小話 学級経営日記
玉づと 記念品など Link 過去の日常 もっと過去の日常 かなり過去の日常 009的催事


Last updated: 2013/6/10