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009的国文

故郷(魯迅・竹内好訳)
たぶん、誰もが一度は読んだことのある小説なのだった。
というのは、中学校3年の国語の教科書に大概載っているわけで。
それも、最後に載っていることが多い。
 
中3というと、義務教育最後の学年なのだった。
最後に読むべき小説として「故郷」はふさわしい作品である。と、長年、多くの人が思ってきたということなんだろうなーと思う。
 
私も、中3のときに授業で読んだ。
そのときは、どうもピンとこなかった。地味な話だし(しみじみ)
が、一番ピンとこなかったのは、ラストシーンのわかりにくさ…だったんじゃないかと思う。
 
私が読んだことのある教科書では、訳は竹内好さんだった。
他の人の訳だと、このラストがもうほんの少しわかりやすく(?)書かれていたりもした…のだけど。
でも、今読むと、やっぱり竹内さんのがいいなあ…と思う。
 
いまいちピンとこない、地味な話だった…という第一印象しかもっていなかったので、コレを教える立場になったとき、とにかく丁寧に読み返してみることにした。
そうしたら、やっぱりスゴイ小説だったのだった!
 
で。
これのどこが009なのかというと(汗)
 
平ゼロヨミ篇の、ラストシーンだ!
 
…と思うのだった。
 
結論から言うと、その美しさにおいて「故郷」が勝り。
そのわかりやすさにおいて平ゼロが勝る。
…という感じかも。
 
 
とにかく誰でも授業で教わったことのある小説だと思うので、詳細は省くのだった。
時は辛亥革命のころ。
場所は、中国。
 
中国といっても、広い(倒)
場面はある農村。主人公は普段都会で暮らす知識人。
その地域差にはものすごいものがある。
 
主人公「私」は、作者魯迅自身である、と考えてよい。
魯迅は中国の近代化、人々の啓蒙に文学をもって貢献しようと戦った人物である。
 
その魯迅=「私」が没落した生家を故郷に訪れ、家を売った後始末をし、老いた母と幼い甥を自分の住む都会へと連れて行くのだった。
そもそも、背景が暗い(涙)
 
「故郷」というタイトルどおり、場面は「私」の「故郷」なのだが、そのイメージに甘さはまったくない。
人々は疲れ、無気力で、すこし気力のある者も「やけを起こして野放図に走る生活」しかしようとしない。
その遠因として、もちろん当時の中国が抱える問題が見え隠れする。
それこそが、今まさに「私」が戦っている問題でもあるのだった。
 
登場人物の中で、唯一、生きている感じがするのは「私」の「母」だと思う。
旧家の奥様らしい鷹揚さと人格が感じられる…のだけど、彼女も所詮「ご隠居さま」であり弱者であるのだった。救いにはあまりならない。
 
その陰鬱な「故郷」を強烈に輝かせるのが、「私」が大切に抱いていた思い出…少年閏土(ルントー)との友情なのだった。
その閏土が挨拶にきてくれるという。
それを母から聞き、やっと、「私」は「故郷」を感じる。
 
少年閏土の思い出は、本当に美しい。
彼は、「私」の父が雇っていた使用人の息子なのだった。
が、そのことを「私」も閏土も全く意に介していない。二人はただ友達として無邪気に遊ぶのだった。
 
閏土には、勇気があり、行動力があり、「私」の知らない神秘性があった。
が、それだけが彼の魅力ではない。
 
《今は寒いけどな、夏になったらおいらとこに来るといいや。おいら、昼間は海へ貝がら拾いに行くんだ。赤いのも、青いのも、なんでもあるよ。「鬼おどし」もあるし、「観音さまの手」もあるよ。晩には父ちゃんと西瓜の番に行くのさ。おまえも来いよ。》
 
彼は…雇い人の息子である彼は、「私」に「おまえも来いよ」と言うのだ。
自分の家、自分の村、自分の海、自分の西瓜畑、自分の仕事……それらは世界で一番美しく楽しく素晴らしいと心から思うから、彼は「私」に「おまえも来いよ」と言う。
大切な友達だから、自分の幸せを分けてあげたい、と思うのだった。
 
閏土は、「私」の家が主人筋であることを知っている。
町や「私」の家が、立派であることも知っている。
彼は初めて来たときに、「城内へ来ていろいろ珍しいものを見たといって、はしゃいでいた」のだから。
でも、彼はその「いろいろ珍しいもの」と遜色のない素晴らしいものとして、自分の今の暮らしを誇るのだ。
この誇りが、彼の最大の魅力である。
 
よく読めばすぐわかるが、閏土はごく平凡な子供なのだった。
特別利口なわけではない。特別優しいわけでもない。
ただ、彼が身にまとう誇りが、彼をまぶしい少年にしているのだと思う。
 
閏土との思い出は、わずか一月足らず。
それでも、誇り高い少年と交わした友情は「私」の中で美しいものとなっていた。
 
このとき突然、私の脳裡に不思議な画面がくりひろげられたーー紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で、見わたすかぎり緑の西瓜がうわっている。その真ん中に十一、二歳の少年が、銀の首輪をつるし、鉄の刺叉を手にして立っている。そして、一匹の「チャー」をめがけて、ヤッとばかり突く。すると「チャー」は、ひらりと身をかわして、かれの股をくぐって逃げてしまう。
 
この場面は、閏土との交流から生まれ、「私」が心で作り上げた風景だ。「私」は実際に彼の砂地や西瓜畑を見たわけではない。
そして、この風景こそが「美しい故郷」であったのだ、と「私」は嬉しく思う。
「故郷」はやはり美しかったのだと。
 
やがて、「私」は大人になった閏土と再会し、衝撃を受ける。
 
かれは突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔にあらわれた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。
《旦那さま!……》
 
二人を隔てる「旦那さま」という言葉に「私」は衝撃を受ける。
閏土はその枠の中にきちんと収まってしまい、かつてのように心を開こうとはしない。
…が。
 
再会したときの閏土の表情に注目すると、希望はまだあるように思えるのだった。
彼はまず「喜びと寂しさの色」を浮かべる。
何か言おうとするが、声にならない。
 
これは、閏土の心に、まだ少年の頃の気持ちが…「私」への友情が息づいているという証拠にはならないだろうか。しかし、彼はそれを表す術を持たないのだ。
 
彼は、自分が知っている唯一のやり方として「旦那さま!……」とうやうやしく言った…のではないだろうか。
そうだとしたら。
 
「私」が今、戦っていること…やろうとしていることが、まさにその辺りの問題なのだ。
閏土に「喜びと寂しさ」を表現する言葉を与えること。人間としての思いを表現できる言葉を与えること。
それが、文学にできることなのだから。
 
「私」は失望しながら、悲しみながらも、閏土に向き合おうとする。
閏土の過酷な生活を知る。
 
子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんなよってたかってかれをいじめて、デクノボーのような人間にしてしまったのだ。
 
…と、私は思う。
その問題を解決する道のりはあまりに遠い。が、道がないわけではない。今、現に「私」は戦っている。
 
この辺までなら旧ゼロでいけそうな気がする(?)
友情を阻んだ社会悪と戦おう!
人間性を取り戻そう!
道は遙かだが、僕たちは諦めない!
 
もちろん、「故郷」はそこで終わる話ではない。
 
 
「私」と母は、閏土のために真心を尽くそうとする。
母は身分を越え、我が子の幼友達として閏土を厚遇する。
「持っていかぬ品物」という条件付きではあるけれど、売ろうと思えば売れる物を、閏土には「くれてやろう」「好きなように選ばせよう」と言うのだった。
 
しかし、彼はその思いをあっさり裏切る。
彼は、「私」の家にあった碗や皿をこっそり盗みだそうとしていたのだ。
 
碗や皿が、どれだけの価値のあるものなのか、それはわからない。
が、ここでは盗まれそうになったモノの価値がどうであったか、ということは問題にならない。
閏土がその碗や皿をこっそり盗みだそうとしたのは、言うまでもないが「欲しい」と申し出てもどうせもらえないだろうと思ったからだ。
 
実際に申し出ればもらえるようなものだったのかどうか、作品からではわからないが、問題なのは申し出もしなかった、ということだと思う。
つまり、閏土は「私」の厚意、友情を全く信じていなかったのだ。
そこが、痛烈な裏切りとなる。
 
少年の頃、閏土は、西瓜畑の番で追うのは動物だけだ、と当然のように「私」に話した。
 
通りがかりの人が、喉がかわいて西瓜を取って食ったって、そんなの、おいらとこじゃ泥棒なんて思うやしない。
 
彼は誇らかにこう言ったのだ。
この考え方は、一歩間違えると「野放図な生活」につながる。
盗む側の人間が「喉がかわいて西瓜を取って食ったって、そんなのは泥棒じゃない」などと言い出したらかなりややこしい。
で、「私」の故郷は今、そんな人々でいっぱいなのだった。
 
喉がかわいたからといって、他人の畑で西瓜を取って食う人がいる。
それ自体は、美しいことでもなんでもない。
ただ、自分の不利益になることでも、相手を思って許し、また、そうできる自分に誇りを持つ。
それが美しいのだと思う。
 
閏土は誇りを失っていた。
その原因に社会悪があったとしても、とにかく彼は変わってしまった。
そのことを、「私」は思い知るのだった。
 
故郷に、望みはなかった。
閏土も今は自分の友ではない。
 
孤独が「私」を苛む。
 
そもそも、中国の改革・近代化というのが、かなり孤独な戦いのはずで。
普段から「私」は孤独なのだ。
そして、故郷でもやはり、意味は違うかもしれないが、それは変わらなかった。
「私」を理解し、「私」と共に歩いてくれる人はいなかったのだから。
 
…が。
 
「私」は、甥が、閏土の息子と友情を築いていた、ということを知る。
かつての自分たちのように。
 
思えば、私と閏土との距離はまったく遠くなったが、若い世代はいまでも心がかよい合い、げんに宏児(ホンル)は水生(シュイション)のことを慕っている。せめてかれらだけは、私とちがって、たがいに隔絶することのないように……(中略)希望をいえば、かれらは新しい生活をもたなくてはならない。私たちの経験しなかった新しい生活を。
 
未来へ望みをつなぐ。
 
これはどうにか、うまく着地できそうだ!という感じがする。
旧ゼロも新ゼロも、その辺で着地できる。
ここで終わったって、何も問題ないんじゃないかと思う。
 
しかし、「故郷」はまだ終わらない。
この先に、多くの中学3年生にとって経験したことのないはずの闇が口を開けている。
でもって、ここからラストまで残りは400字足らずなのだ!(汗)
 
希望という考えがうかんだので、私はどきっとした。たしか閏土が香炉と燭台を所望したとき、私は相変わらずの偶像崇拝だな、いつになったら忘れるつもりかと、心ひそかにかれのことを笑ったものだが、いま私のいう希望も、やはり手製の偶像に過ぎぬのではないか。ただかれの望むものはすぐ手に入り、私の望むものは手に入りにくいだけだ。
 
ここが、中学生の時はわからなかった。
前後とつじつまがあわないような気がしたのだった。
でも、そのまま読んでいい。つじつまは合っている。
 
偶像崇拝、という言葉は、もちろん無意味なことという意味で使われている。
閏土が偶像を頼みにすることが愚かであるように、幻でしかない次代への希望を頼みにすることも愚かなのだ、と「私」は思う。
 
ここで、原作ヨミ篇になる。
 
戦ってきた相手は…「悪」は守ろうとしてきた人間そのものだった。
だから、いくら戦っても「悪」は滅びない。
お前たちの戦いは無駄だった、むなしいことだった、と黒い幽霊団の首領…三つの脳は009に告げる。
 
彼らに対し、009は言う。
 
僕だって細胞にすぎない。
あとは仲間がなんとかしてくれる!
 
自分にできなくても、同じ志を持った仲間がいる。
旧ゼロしまむーは、もっとはっきりと「地球人類50億がいる」と叫ぶ。
 
今孤独であり、絶望しか見えなくても、自分には後をつなぐ者がいる。
それが「希望」だ、と彼らは言う。
 
しかし。
仲間はもういないぞ、と宣告する黒い幽霊団に、009は一瞬絶句する。
 
自分は一人滅びる。
「希望」も消える。
それなら……?
 
原作ヨミ篇はここで終わりだ。
002が駆けつけるからだ。
009は笑い、黒い幽霊団に告げる。
 
どうやら、仲間は一人残っていたようだよ!
 
実は、これでは問題は解決していないのだ。
自分は無力だった。
今、戦いに敗れ、滅びる。
後を託す仲間もない……。
 
もしそうだったら、どうするつもりなんだシマムラっ???
 
本当の答を出したのが、平ゼロしまむーだった。
彼は言う。
 
人には、何かがある。絶対に信じられる何かが!
 
そのとき、彼をよぎるのは仲間達の幻。
幻であることを、しまむーはもちろん知っている。
彼らの生死をしまむーはしらない。
もちろん、ジェットがここに駆けつけようとしていることも。
 
絶対に信じられる何か。
 
これが、答だ。
絶対に信じられるのだから、それ以上のリクツはいらない。
それが絶対に信じるということ。
 
平ゼロしまむーは微笑する。
そんなものは妄想だと嘲笑されても動揺することはない。
 
ってことは、実はジェットに救われる必要もないのかもしれない。このしまむーの場合。
ただ、しまむー自身はそれでよくても、見ている私たちは凡人だから、可哀相じゃないかもっと何とかしてあげてよ!と思ってしまい、最後はジェットと一緒でよかったね(涙)と思うのかもしれない。
 
原作ヨミ篇では、ジェットの到着がしまむーの勝利に必要だった。
平ゼロではそうではない。むしろ、ジェットはしまむー(というより視聴者)の鎮魂のために必要だったということかもしれない。
で、それはそれとして。
 
「絶対に信じられる何か」とは?
さすがに、平ゼロしまむーも、それを表現することはできなかった。
似たものとして現れたのがお嬢さんを始めとする仲間達のイメージで。
が、その後ろにあるモノを「故郷」は私たちに見せてくれるのだ。
 
前の引用の直後。すぐ続けて、新しい段落が唐突に始まる。
 
まどろみかけた私の眼に、海辺の広い緑の砂地がうかんでくる。その上の紺碧の空には金色の丸い月がかかっている。
 
これが「絶対に信じられる何か」だ。
「私」の中で、消えなかった美しい風景。
 
そこに、閏土はいない。
閏土といっしょに、「チャー」も消えた。西瓜畑も。
でも、この風景は残っているのだ。
 
なぜ残っているのか、残ることができるのか、考えても私たちにはわからない。
 
ここまで裏切られて、絶望して、それでも「私」には海辺の広い緑の砂地が、紺碧の空が、金色の丸い月が残るのだ。
それが、人のはかり知れなさだと思う。
 
この風景を確かめ、「私」は思う。
 
思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない、それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
 
中学生の頃わからなかったのは、この最後のセリフが「希望は偶像にすぎない」と言ったセリフのすぐ後にあり、しかもそう思い直した根拠というか思考の過程みたいなものが全く書かれていなかったからなのだった。
 
希望は偶像だ、というのと、歩く人が多くなればそれが道(希望)になる、という思いは全く正反対のように見える。何の説明もなしになぜこうも「希望」への思いがころっと変わってしまったのか。
 
中学生の私はそう思い、わからなくなってしまったのだ。
 
説明は必要ない。
というより、できなかったのだ。
 
希望はやはり偶像にすぎない。頼りにはならない。
だから、「もともと地上に道はない」でいい。
もし「歩く人が多くなれば」道になるのだけど、そうなるかどうかだって、今はわからない。
それでも、そんな中で歩くことができるのは……
 
心に、海辺の広い緑の砂地があるからだ。
紺碧の空が、金色の丸い月が。
決して消えることのない、「美しい故郷」が。
だから、人は歩くことができる。
 
希望があるから歩くことができるのではない。
希望がなくても、人は歩くことができる。
「絶対に信じられる何か」があるから。
それは、希望ではない。
 
そうした人が多くなれば、何かが生まれる。
それを新たに「希望」と名付けてもよい。
後から来る人なら、それを頼りに歩くことができる。
 
「故郷」は本当の絶望を私たちにみせる。
希望がない、という状態は、本当に希望がないのだ。
 
そして、希望がない状態でも、人は生きることができるということをみせる。
人は、自分の心の奥深くにある消えないもの、絶対に信じられる何かを信じて、生きることができるのだ。
そこから希望が生まれる。
 
 
「故郷」が義務教育の最後に読まれる教材であるということには、意味があると思う。
子供達には希望をもって歩いてほしい。
でも、希望が見えない時だって、あるかもしれない。
希望が見えないとき、私たちはどうすればいいのか?
 
学校は希望はある、と子供に見せ、そう教えてきた。
でも、長い人生の中ではそうではない、どうしてもそうは思えないという場合もあるかもしれない。
そのとき、子供たちはどうすればよいのか。
 
「故郷」はそれを私たちに示してくれる作品なのだった。
 
 
本文は「阿Q正伝・狂人日記」(岩波文庫)より。
「チャー」は漢字だったものをカタカナに直しています。
 
 
更新日時:
2006.08.25 Fri.
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Last updated: 2013/6/10