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009的国文

夏の花・鎮魂歌(原民喜)
ジェットが「走れメロス」
ジョーくんが「奉教人の死」
 
…ならば。
 
アルベルトさまわっ????
 
……とか始めると、おちゃらけになってしまいそうだが、大まじめだったりする。ほんとか?
 
 
アルベルトさまは原民喜の作品群…特に「鎮魂歌」…だと思う。
 
 
原民喜は何と言っても「夏の花」をはじめとする原爆文学で知られているが、そこを離れて考えても(考えるのは不可能かもしれないんだけど)その散文の美しさにおいて、戦後日本文学の頂点に位置する作家といって過言ではない…と思う。
 
彼は詩人・小説家で…広島の出身だが、活躍していたのは、ほとんと東京においてだった。
才能は認められていたけれど、戦前(戦中)は有名な人ではなかった。教員なんかもしたりする。
彼の妻が、彼の作品の熱心な読者であり、その才能と成功をココロから信じる第一の人でもあった。
 
が。
戦争の最中、妻は病に倒れる。
結核と糖尿病。
 
物資が乏しい戦争中…インシュリンが手に入らない。
じわじわと死に向かう妻を彼は見つめ、寄り添い、語り合い、描写する。
 
昭和19年9月。
妻は世を去る。
 
放心の彼は、翌昭和20年1月、故郷、広島に帰り、兄の家に身を寄せ…
…そして、8月6日。
 
原民喜は、子供の頃からなぜか「死」に惹かれているようなところのある、繊細な人で…
「死」のイメージ、破滅の予感は常に強く色濃く彼のココロを覆っていた…という。
それが、こうして二つの重すぎる死に直面する。
 
もっとも身近な愛妻の死と。
広島における無数の死と。
 
そして…彼自身は、その死を目撃し、体感しつつ、生き延びることになる。
それによって彼は死者と共感し、死者の声をコトバとし、数々の痛切な美しい作品を編み出していく。
 
一番手軽に原民喜の作品を読むなら、新潮文庫の「夏の花・心願の国」だが…
その解説で、大江健三郎がこう評している。
 
原爆被災のまえに死んだ妻は、天上の星のことごとく墜ちる夢におびえた。原爆被災のあと、ひとり生き延びつづける作家は、かえってその夢と妻の思い出こそを支えのようにしてはじめて、かれの体験した現実の天変地異を、見さだめてゆくことができた。あたかもかれとその妻は、時をこえてつねにひとつの経験のもとにむすばれつづけるようだ……妻への美しく哀切な鎮魂歌のように書かれたひとつづきの作品群が、われわれにあたえる深く現実的な感銘は、そこに由来するだろう。原民喜は、この現実世界でもっとも恐ろしく酷たらしいものを描いたが、この世界でもっとも良く愛すべきものをもまた、それにかさねるようにして描いたのである。それも強大な原爆被災の経験の磁気につねに生身の自分をさらしつつ……
 
ヒルダは、原作にちょびっとしか出てこない。
ほんとにちょびっとだ。
出てすぐ死んでしまうし。
 
それでも、ヒルダなしにアルベルトさまはあり得ない。
全身武器のサイボーグ、死神でありつつ、彼はヒルダへの愛を手放さない。
というよりむしろ…
彼が死神であることと、ヒルダへの愛は常に重なって彼の上にある。
 
ヒルダが死に、彼は死神になった。
ヒルダを愛したがゆえに、彼女は死に、彼は死神になった。
ヒルダを愛さなければ、彼は死神にならなかったのだ。
 
アルベルトさまは、いつもヒルダとともにいる。
その、鋼鉄の体で、死神として生きる限り。
 
被爆を描いた「夏の花」は「壊滅の序曲」「夏の花」「廃虚にて」の三部作になっている。
その二つめ…八月六日を克明に描いた「夏の花」は、被爆の二日前、「私」が妻の墓に花を供える場面から始まる。「夏の花」はその花のこと。
そして、この話は、唐突に出てきたNという人が、被爆後、行方不明になった妻を探し回るエピソードで結ばれる。Nの妻がどうなったかは語られていない。もちろん、生きているとは思われない。
 
なぜ、妻について語るのか…「夏の花」は何も教えない。
作品は、被爆した広島を静かに描き続ける。
 
原民喜が被爆直後の焼け跡を横切るシーンは、あまりに有名だ。
 
ギラギラと炎天の下に横たわっている銀色の虚無のひろがりの中に、路があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上がった屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。(「夏の花」)
 
この印象はカタカナで描きなぐる方がふさわしい…と、原民喜は言う。
 
ヒロシマで、人は新しい地獄を見た。
そこにあったのは針の山でも血の池でもなく。
あれほど恐れられた鬼も悪魔もどこにもなく。
 
しかし、それは古い地獄と絶望的に異なり、この世に出現したのだ。
 
新しい地獄は、この、私たちが生きている現実の地平に出現した。
神を心に持つものの前にも、持たぬものの前にも。
 
ふと思うことがある。
私は、ヒロシマを体験していない。
でも…同時に、ヒロシマを想像だにしなかった世界も知らないのだ。
 
永い間、人は夢の中にしか地獄を持っていなかった。
ほんの…少し前まで。
まだ、それから50年ほどしかたってはいない。
 
もし、私がヒロシマの前に生まれていたら。
私はどんなふうに地獄を想像しただろう。
 
もちろん。
「サイボーグ009」という作品もありえなかった…に違いない。
たとえば…ジョーくんは、新しい地獄に立ち向かう者として生まれた。
 
地獄と戦う勇者は、ファンタジーの世界にしかあり得ない。
だから、ジョーくんも多分にファンタジーの雰囲気を帯びている、と思う。
でも…ジョーくんはファンタジー世界の人ではない。ジョーくんの生きる世界は私たちの現実とぴったり重なるのだから。
その辺りも、ジョーくんの微妙な魅力(?)の一つだと思う。
 
地獄がまごうかたなき現実となる世界に生まれ落ち、その中でジョーくんはそれを食い止めようとする。
生きる者のために。
全ての生きる者が幸せであるために。
 
それは…正しい。
私たちもそう生きるべきだ。
この世を地獄にするモノが現実に存在しているなら…それを作動させてはならない。断じて。
 
でも…と、思う。
生きて、幸せになりたい。
そう願う心とその地獄とがつながっているのだとしたら。
…つながっている。たしかに。
 
新しい地獄は、出現したのだ。
それを作り出したのは…悪の権化ではない。
外つ国の、善良で、心優しい人間たちだった。
 
はっきりわかっているわけではない。
でも…地獄につながる私たちのどうどうめぐりを救うモノがあるとしたら…
それは、ある。
ジョーくんは叫んだ。
 
人の本質は悪でも、人にはそれをこえる何かがある。
絶対に信じられる、何かが。
 
ジョーくんはそれを生者の中に見る。
それが、ジョーくんだ。
 
でも…それでも、人の本質には悪がある。
悪は出現する。
ジョーくんだけで…生者を信じるだけで、私たちはほんとに大丈夫なのか?
…と、私は根拠もなく不安になる。
 
はっきりわかっているわけではない。
でも…ジョーくんだけではないのだ。
アルベルトさまがいる。
 
アルベルトさまは…ヒルダの声を聞く。
ビーナの声を聞く。
 
アルベルトさまは、死者を見つめる。
死者の中に…何かを見る。
 
アルベルトさまも死んだのだ。
愛する者と共に、たしかに死に…しかし、その彼岸から引き戻された。
 
なんのために?
 
「鎮魂歌」で、原民喜は終わりのない問いを繰り返す。
自分は、この世界は本当に存在しているのか。
救いはあるのか、と。
 
隣人よ、隣人よ、黒くふくれ上がり、赤くひき裂かれた隣人たちよ。おんみたちの無数の知られざる死は、おんみたちの無限の嘆きは、天にとどいて行ったのだろうか。わからない、僕にはそれがまだはっきりとわからないのだ。僕にわかるのは僕がおんみたちの無数の死を目の前に見る前に、既に、その一年前に、一つの死をはっきり見ていたことだ。
その一つの死は天にとどいて行ったのだろうか。わからない、わからない、それも僕にはわからないのだ。僕がはっきりわかるのは、僕がその一つの嘆きにつらぬかれていたことだけだ。そして僕は生き残った。お前は僕の声をきくか。(「鎮魂歌」)
 
死者の嘆きが彼をつらぬく。
ただ一人の愛しい人の確かな死と。
無数の人々の眼前の死と。
生に引き戻された彼の手には、嘆きだけが残った。
…だから。
 
救いはない、と断言しつつ、彼は言う。
 
僕にはまだ嘆きがあるのだ。
 
…と。
 
僕は還るところを失った人間。だが、僕の嘆きは透明になっている。何も彼も存在する。僕でないものの存在が僕のなかに透明に映ってくる。それは僕のなかを突抜けて向側へ翻って行く。向側へ、向側へ、無限の彼方へ、……流れてゆく。なにもかも流れてゆく。素直に静かに、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。僕のまわりにある無数の雑音、無数の物象、めまぐるしく、めまぐるしく、動きまわるものたち、それらは静かに、無限のかなたでひびきあい、結びつき、流れてゆくことを気づかないで、いつもいつも流れてゆく。(「鎮魂歌」)
 
ひたすら死者を見つめ、死者の嘆きにつらぬかれ…彼は死者のように生者を見つめる。
彼の中を生者たちがとおりぬけていく。
とおりぬける生者たちの間から、ひとつの、確かな清冽な調べを彼は聞く。
 
それは、生者には聞こえない。
それは無限のかなたでひびきあい、結びつき、ながれてゆく。
彼は死者とともにあって…死者の嘆きとともにあって、そこから、その美しいものを見つめる。
生をつらぬく、本当に良いもの…美しいものを。
 
生の深みに、……僕は死の重みを背負いながら生の深みに……。死者よ、死者よ。僕をこの生の深みに沈め導いて行ってくれるのは、おんみたちの嘆きのせいだ。日が日に重なり時間が時間と隔たってゆき、遙かなるものは、もう、もの音もしないが、ああ、この生の深みより、あおぎ見る、空間の荘厳さ。幻たちはいる。幻たちは幻たちは嘗て最もあざやかに僕を惹きつけた面影となって僕の祈願にいる。父よ、あなたはいる、縁側の安楽椅子に。母よ、あなたはいる、庭さきの柘榴のほとりに。姉よ、あなたはいる、葡萄棚のしたたる朝露のもとに。あんなに美しかった束の間に嘗ての姿をとりもどすかのように、みんな初々しく。
友よ、友よ、君たちはいる、にこやかに書物を抱えながら、涼しい風の電車の吊革にぶらさがりながら、たのしそうに、そんなに爽やかな姿で。
隣人よ、隣人よ、君たちはいる、ゆきずりに僕を一瞬感動させた不動の姿でそんなに悲しく。
そして妻よ、お前はいる、殆ど僕の見わたすところに、最も近く最も遙かなところまで、最も切なる祈りのように。(「鎮魂歌」)
 
原爆に救いはない。
美しいものなど、何一つない。
それは、新しい地獄…明日にでも、出現するかもしれない現実の地獄である。
他に、原爆の意味などない。
 
私たちは生者として、その地獄と戦わねばならない。
それを生みだそうとする自分たちと全てをかけて戦わねばならない。
他に、道はない。
 
戦い続ける私たちに、ジョーくんが微笑む。
僕は、信じている。僕たちは負けない。共に行こう、と。
 
そして、ジョーくんが力尽き、たおれようとするとき…アルベルトさまが祈る。
 
死者の嘆きとともに、アルベルトさまは、たおれようとする生を照らし、その美しさを私たちに見せる。
 
生きていることは、こんなに美しい。
 
死者とともにいるアルベルトさまは、たおれようとするジョーくんと私たちに告げる。
静かに、強く。
 
 
わが愛する者よ請う急ぎはしれ
香わしき山々の上にありてのろの
ごとく子鹿のごとくあれ  
           (「夏の花」扉)
 
 
本文は『夏の花・心願の国』(新潮文庫)より
 
更新日時:
2003.02.22 Sat.
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Last updated: 2013/6/10